二度、殺された男

眼鏡Q一郎

二度、殺された男

DAY 0 1994/5/9 Monday


 そこは暗闇だった。

 息が出来ない。顔を覆う帳を必死に解き剥がす。

 何も見えない。何も聞こえない。ただ自分の荒い呼吸音と体をよじった時に地面と擦れる音だけがそこにある。誰かが大きな鐘を突いているかのような轟音が頭の中で脈打ち、目の裏に熱い拍動を感じる。はっはっはっはっ。呼吸は荒く早い。早鐘を打つ鼓動、間違いない、死はすぐそこにある。

 どれくらい時間が経っただろう。

鈍い音が突然響き渡り、深い漆黒の暗闇に一筋の光がぱっと差し込む。光の方に必死に顔を上げる。はっはっはっはっ。そこに、そこに、そこに連れていってくれ。はっはっはっはっ。光の中に一人の人影が浮かび上がる。はっはっはっはっ。その人物に向かって声にならない声を上げる。

助けて、く、れ。

 だが光の中の人物の右手に握られた棒状の影に、その言葉が届かないことを悟る。

そうか、そのつもりはないんだな。

最後の力を振り絞ってもう一度顔を見ようとする。目が合うとその人物は右手を振り上げ、そして、世界は暗転する。

もう二度と、目を覚まさない。


DAY1 1994/5/10 Tuesday

7:15 a.m.


 はっと目を覚ますとそこはいつもの取調室で、どうやらまたいつの間にか眠ってしまっていたらしい。東方日明は両手で顔をこするとぎっとイスに背もたれる。机の上の缶コーヒーの空き缶にねじ込まれたタバコの吸い殻からはまだうっすらと煙の匂いが漂っている。朝か。東方は立ち上がると取調室を出る。

シャワーを浴びて着替える。ロッカーの中には汚れたシャツや下着を押し込んだ紙袋があるが、そろそろ一度家に帰らないと着替えがない。がちゃんとロッカーを閉じると取調室に戻る。扉を開けると、席に着いている一人の男の背中が見える。東方はタオルで頭を拭きながらその背中に無遠慮に言う。

「濡れた服で俺のイスに座るなよ」

 振り向いた笹井は呆れたような表情を浮かべて言う。

「どこから突っ込んでいいか迷うな」

「当てようか。署内は禁煙。お袋かよ。告げ口するなよ」

 東方はそう言うと、机の上の資料を手早くまとめ、吸い殻を押し込んだコーヒーの空き缶と一緒に抱え上げる。

「まあ何だな。シャワーは浴びているようだな」

「外は雨か?」

 ああ、と答えた笹井に、東方は扉の所で言う。

「雨は嫌いだ」


7:32 a.m.


 水沼桐子は地下鉄の改札を通り抜け、たったと階段を駆け上がる。

地上に出るとあいにくの雨で、傘をさす人々が目の前の歩道を行き交っている。真っ黒いおかっぱ頭にリュックサックを背負ったパンツスーツの小柄な彼女は、雨の中を小走りで近くのカフェに駆け込む。店は通勤途中のビジネスマン達でごった返しており、扉を開けると雨に濡れた客達の体温が作り出すむっとした空気に、彼女の小さな顔には不釣り合いな大きな黒縁眼鏡が曇る。メニューを見ながら列に並んでいると突然背後から名前を呼ばれて振り返る。捜査一課の先輩刑事の姿が見え、彼女は列から抜けると刑事の方へと小走りで行く。

「お早うございます」「わざわざ並び直さなくてもいいのに」「鈴下警部補も朝はここに?」「刑事部屋のコーヒーで一日を始めたくはないからね」それは同感だ。「研修はいつまでだっけ?」「あと二カ月です」「あのチームでよく続くね」鈴下の脳裏にはきっと天敵であるあの男の顔が浮かんでいるのだろう。鈴下の直属の上司である大島班の大島刑事とは、前世からの因縁でもあるんじゃないかと思うくらい普段からいがみ合っている二人だ。とばっちりとは言え、あの男の鈴下への当たりは正直、度が過ぎている。

 二人は自分の番になるとそれぞれコーヒーを注文する。ランプの下でコーヒーが出来上がるのを待ちながら彼女は言う。

「ここの捜査一課は本当にすごいですよ。殺人事件の件数と担当刑事数の割合は首都警察以上です。あの人数でこれだけの件数の事件を担当していると首都警察の皆さんが知ったら、きっと腰を抜かします」「ただの野戦病院さ。褒められることじゃない」「でもほんと、勉強になります」彼女は力強く言い、鈴下は呆れたように笑う。「君は前向きだね」

二人はコーヒーを受け取ると、店を出て軒先の雨よけの下に並んで立つ。雨の帳の先、大通りを挟んで向かい側には古いレンガ造りの建物が見える。未未市の市章が刺繍された大きな旗がはためく未未市警察本部の建物を眺めながら、二人は並んでコーヒーをすする。

「研修が終わったら首都警察に戻るんだろう。配属希望をどこに出すかは決めているの?」

「実はまだ決めていないんです。鈴下警部補も首都警察出身ですよね。いつ、こちらに正式に異動になったんですか?」

「僕は首都警察と自治体警察の交換研修の一期生だったんだ。まだいろいろとルールが整備されていなかったからね。研修を終えて首都警察に戻るはずが、人事のごだごだに巻き込まれて結局ここから抜け出せなくなった。本意じゃないよ」

 そう言うと、鈴下は忌々し気に灰色の空を見上げる。

「知ってるかい? この街はね、犯罪件数がただ多いだけじゃない。全犯罪数における凶悪犯罪の割合が突出して高いという統計があるんだ」

 彼女は研修前に読んだ未未市犯罪白書を思い出す。たしかに鈴下の言葉は正しく、未未市は連続殺人や猟奇殺人などの凶悪犯罪の発生割合が極めて高い。その異様さはこの街での研修を始めて一カ月、すでに十分肌で感じている。

「本来、自治体警察の捜査一課長は首都警上がりかキャリア組が担うのが通例だけど、ここの課長は制服警官からの叩き上げだろう? 現場上がりを幹部に据えているのは、それだけ過酷な現場ってことだよ。僕達みたいなエリートには向かない場所だね」

「首都警察に戻りたいですか?」

「僕は元々経済犯が専門だからね。首都警察に戻れば少なくとも靴が血で汚れることはない。君もよく考えて選んだ方がいいよ。先輩と職場はね」

 鈴下は自嘲的に笑うがその真意はわからない。本当にそうしたければ異動願いを出せばいい。そうしていないのはここを辞めれない理由があるのか、ここでやるべきことやり残したことがあるのか、あるいは。彼女は両手でカップを持ったまま、目の前のレンガ造りの建物を見つめる。未未市警察本部。この街の守護天使達が住む処。


7:48 a.m.


 刑事部屋の一画のソファに座り笹井は新聞を広げている。すぐ側で東方は窓ガラスに写る姿を見ながらネクタイを締めている。朝からの雨は激しさを増し、窓ガラスを強く叩いている。

「俺の昨日のネクタイは?」 

 唐突な質問に、笹井は新聞から顔を上げる。

「俺がお前のお袋でも知るかよ」

「二、三日シャツを変えなくても文句を言わない相棒で良かったよ」

 そりゃどうも、笹井は再び新聞に視線を落とす。何の話かわからないが想像はつく。笹井はふと聞いてみたくなる。

「意外だな」「何が?」「気になるのか、あのお嬢ちゃんが」「何の話だ?」「たった三カ月間の研修生の言葉を気にするなんて」「気にしていない」「気にしてるからネクタイを変えたんだろう?」「昨日と同じだ。ちなみに一昨日もな。観察力が鈍ったな」あっそ。笹井は東方の背中に向かってふんと鼻を鳴らす。「家に帰れよ」「勘ぐるな。別に夫婦喧嘩をしているわけじゃない」「それは何よりだ」

 背広に袖を通し、東方は窓ガラスに写る自分の顔を改めて見る。目の下の隈はいつもよりも黒々と分厚い。

「お前、まだ先月の水沼の評価表を出していないだろう? 親父からつつかれてる。さっさと出せよ」

「評価することがない」

「思っててもそういうことを言うなよ。これまでの研修生と違って彼女は優秀だ」

「お前はすぐにそうやって甘やかす」

「評価が高いのは俺だけじゃない。そろそろ取り調べをさせろと親父に言われている」

 笹井の言葉に、窓ガラスに写る東方の肩眉がぴくりと動く。

「冗談はよせ。取り調べは捜査で最も重要な部分だ。学生の思い出作りでやることじゃない」

「彼女は学生じゃない。俺達と同じ刑事だ」

「誰が信じるんだ?」

 東方が振り返ったところ、おかっぱ頭に黒縁眼鏡の少女が視界に飛び込んでくる。

「お早うございます」

 場違いなくらい明るい声に二人は顔を見合わせる。背筋を正してにっこりと笑う少女の背後から、足早に制服警官がやってくる。

「失礼します。死体が出ました。殺しです」

 いつだって物語は唐突に始まるものだ。

 

8:21 a.m.


 水に沈んだ道路に轍の帯が伸びる。

三人を乗せた2CVは激しく水しぶきを上げながら、中央高速を走り抜けると湾岸桜坂ICでおり、埠頭に続く道に入る。運転席の笹井は無言でハンドルを握り、助手席の東方は窓を打ち付ける雨の粒をじっと眺めている。

「よく降りますね」

 水沼が後部座席でつぶやくと、お前の分の傘はないぞと東方がぶっきらぼうに言う。左手に流れる巨大な河川沿いの工業地帯を彼女は窓ガラスに顔を押し付けるようにして眺めている。湾岸地帯が近付きコンテナ埠頭に並ぶガントリークレーンが見えてくると、ふいに大学生の時に一歳年下の恋人と別れる直前の最後の旅行のことを思い出す。無言の気まずい車内の助手席の窓から同じような巨大なクレーンが並ぶのを見て、思わず興奮して、うわ恐竜みたいと一瞬だけはしゃいだんだっけ、なんていうとりとめもない思い出。どうでもいい。

 しばらく走ると車は湾岸開発当時の倉庫地帯に差し掛かる。

「華やかなりし再開発の夢の跡、か。死体を隠すなら絶好の場所だな」

 笹井の言葉に水沼も窓の外を眺めたまま同意する。雨の帳にくすんだ色のコンテナがいくつも壁のように立ち並んでいる。

「こんな場所の死体なんてよく発見されましたね」

水沼の言葉に、東方がふんと鼻を鳴らす。「湾岸開発以降、現在は稼働していない倉庫がこの辺りにいくつもある。再開発当時は住所のない出稼ぎの若者や不法就労者も現場に駆り出されていたと聞くからな。誰にも気付かれずに事故を起こせば、そのまま放置されて死んでも不思議はない」

ゴムが古くなったワイパーが車内に不快な音を立てるのを聞きながら笹井が言う。

「今頃になってそいつが見つかったのなら、十年は経っている死体だぞ」

「十年前の殺人事件の捜査、」彼女がそうつぶやき、目の前の窓ガラスがふっと白く曇る。「最高」

 不謹慎な笑顔を浮かべた彼女に、助手席の東方が釘を刺す。「聞こえてるぞ」


8:50 a.m.


 倉庫群をしばらく進むと、プレハブ小屋の前でレインコートを着た制服警官が立っているのが見えてくる。作業服の男と何やら警官は話し込んでいる。雨の当たらない軒先に立っているのに作業服の男はずぶ濡れになっている。

 こちらの車に気付いた制服警官が左手の方を指差し笹井はハンドルを切る。「あれだな」指差された先では、大きな青い倉庫の前に何台ものパトカーが停まっている。雨に赤いパトランプが滲んで見える。2CVをパトカーの後ろに停めると三人は、強い雨に打たれながら足早に倉庫の入り口に駆け寄る。

 水色の塗装がところどころ剥げている倉庫の入り口の扉は大きく開け放たれ、すぐ側には制服警官と共に背広姿の男が立っている。駆け込んできた三人に、制服警官がタオルを手渡す。

「お疲れ様です」「雨なのに呼び出すなよ」「天気は関係ありません」「低気圧のせいで眩暈がするんだ」「眩暈も関係ありません」「優しい職場だな」東方が馴染みの警官と軽口を叩くのを背広の男が怪訝そうに見る。視線に気付いた東方が第一発見者か、と警官にたずねる。「ああ、ご紹介が遅れました。未未市都市整備局の五島係長です」警官が紹介すると、背広姿の男が会釈し名刺を三人に手渡す。「ご苦労様です。市当局の五島です」

「都市整備局のお役人がどうしてここに?」笹井が名刺を見ながらたずねる。

「この倉庫は市の私有物なんです」市の役人に代わって警官が答えると、お互い貧乏くじを引きましたね、と東方の口から白い息が漏れる。東方の言葉に市の役人は曖昧にうなずく。もう春だというのに土砂降りの湾岸地域の倉庫内の空気は冷え切っている。開け放たれた扉の外は強い風が吹きつけ、レインコートを来て外に立っている警官達は横殴りの雨に顔をしかめている。

「ここは第二次湾岸開発当時、大澤工業が重機や資材を管理する倉庫として使用していましたが、再開発が中断し大澤工業が倒産してから現在は廃倉庫になっています」

 役人の言葉に、どおりでと水沼は思う。倉庫の中はかび臭い空気がただよい、入口付近に置かれた大きな発電機がごんごんと轟音を立てて振動している。そこから延びた太いコード類の束が倉庫の中央に延び、持ち込まれた照明器具に照らされる中、鑑識作業が行われている様子を見るにこの倉庫、電気はすでに通っていないらしい。

「この辺りの倉庫群は、数年前からホームレスのたまり場になっていましたが、半年前に出火し倉庫一棟が半焼する事件が起きてからは、市の依頼を受けた管理会社がすべての倉庫に鍵をかけ管理しています」

 市の役人の説明にふうんと刑事達はうなずく。

「今朝、倉庫の管理人が見回り中に死体を発見しました」

 警官の言葉に、それじゃあ先程のプレハブ小屋の前にいたずぶ濡れの作業服の男が管理人なのだろうか、と彼女は思う。

「再開発後に放棄された倉庫だろう。何年も前から眠っているミイラを発見したのなら、警察よりもテレビ局を呼ぶべきじゃないのか?」そう言いながら東方は手袋と足袋を着け、白い息を吐きながら水沼の方を見る。「朝飯は?」「コーヒーだけですけど」「それじゃあ死体の検分はお前にまかせる。胃もたれが酷いんだ。大昔の腐乱死体なんて見たら朝食にご対面だ」東方の言葉に笹井が呆れたように鼻を鳴らす。「だからよせと言ったんだ」「どうして刑事部屋のドーナツはいつも賞味期限が切れているんだ?」「知ってて手を出す方が悪い」

 出番ですよ、と警官が三人に言う。鑑識作業が終わったらしい。三人は市の役人に会釈をすると、警官に案内され死体の方へと歩いていく。「一度でいいから生きている死体に会いたいね」東方が言うと前を歩く笹井が言う。「きっとその殺人犯は、人なんて殺したことがないんだろうな」

 永遠に叶うことのない殺人課刑事の願望を口にしたあと、刑事達は照明に照らされた地面に横たわる死体の前に立つ。鑑識官と挨拶を交わして死体を見下ろした三人はすぐに異変に気付く。えっと声を上げて彼女が言う。「この死体、いつ殺されたんですか?」

 三人の目の前にいるのは血だまりの中にうつ伏せに倒れている死体で、その姿は何年も放置されていたものなどではなく、つい最近殺されたような様相を呈している。

「死亡して約二十四時間が経過していると思われます」

 警官の言葉に東方は唇を鳴らす。どうなっているんだ。死体は後ろ手で縛られうつ伏せに倒れている。頭部がぱっくりと割れ、周囲に血液が飛び散っている。再開発事業の負の遺産ではないらしいことを突き付けられた東方はああ、と声を漏らす。「テレビ局はキャンセルだな」

 それから三人は地面の血痕に気をつけながらしゃがみ込み、死体の検分を始める。

「後ろ手に縛って頭部を一撃、処刑スタイルだな」

 笹井の言葉に、彼女は眉をひそめる。

「酷いですね。無抵抗な状態で。即死でしょうか?」

「いいえ」警官が首を振る。「あちらにも血痕が。地面に這ったような跡がありますが、十メートルほど向こうから続いています。最初に襲われたのはあちらで、それからここまで這って逃げたところ、とどめを刺されたように見えます」

惨いな。笹井がつぶやく。「なぶり殺し、か」

「あっちを見てくる」

東方は立ち上がると、警官を引き連れ被害者が這って出来た地面の跡に沿って歩いていく。たしかに十メートルほど離れたところの地面には血痕が広がり、血にまみれた布の塊のような物が落ちている。そのわきには鑑識用の標識番号札が置かれている。

「麻袋、みたいだな」

 被害者はこれを被せられていたのだろうか。東方は懐中電灯で照らしながら慎重にあたりを回す。血痕から少し離れたところにふと光が反射してきらりと光る物を見つける。番号札は置かれていない。証拠品とは判断されなかったのだろうか。

 しゃがみ込むと手袋を着けた手で拾い上げる。「タバコの空き箱か」黒字に金色の文字が書かれた外国産の蓋つきのタバコの空箱は、古い物なのかいくつものしわが寄って印刷は擦り切れている。

「ただのゴミ、でしょうか」警官も後ろから懐中電灯で照らす。

「血痕がついている」蓋の所に血液のような汚れがあり、東方は鑑識官を呼ぶように言う。呼び出された鑑識官に状況を説明すると、すぐにタバコの箱は元の場所に置かれ、番号札と共に写真が何枚か撮られる。

 いったんその場から離れた東方は二人の刑事の元に戻ってくる。「何かあったか?」と笹井が問う。「被害者に被せられていたらしい麻袋が地面に落ちていた。あとはタバコの空箱があったが、」「被害者は麻袋を被せられていたのか。その状態で暴行を受けたのなら、まさに処刑だな」ふうむ、と東方は険しい表情を浮かべると、それから被害者の遺留品は、と警官にたずねる。

 しばらくして警官が遺留品の入った箱を持ってくる。「被害者の所持品はこれだけです。腕時計にタバコにマッチ、小銭が少しとミント味のタブレット菓子ですね。財布や免許証、携帯など身元につながる物は残されていませんでした」

「タバコ?」

 東方は箱の中からタバコの箱を取り出す。「さっきの空箱と同じメーカーだな」ぐしゃりとつぶれたタバコのパッケージを開けると、中にはまだタバコが三本ほど入っている。おかしいな、と東方はつぶやく。「何が、」とたずねる笹井に、東方は警官に先程の空箱をもらってきてくれと告げる。

「あっちに被害者と同じ銘柄のタバコの空き箱が捨ててあった。喫煙者が吸い終わった空箱を持っていても不思議はないが、こっちの箱にもタバコは三本しか残っていない。それだけ吸うまでの間に、いらなくなった空き箱を捨てるチャンスはいくらでもあったはずだ」

 偶然か? 

「被害者は這ってここまで逃げてきている。途中、何か助けになる物はないかと必死にポケットをまさぐりゴミが出てきてその場に捨てたってだけだろう」

笹井の言葉に、まあ、そうかもなと東方がつぶやいたところで、警官が証拠品袋に入った先程の空箱を手に戻ってくる。「なあ、このタバコが残っている箱はどこにあった?」「と、言いますと?」「ポケットだ。上着のポケットか」「いいえ。たしかズボンのポケットですね。だからこんなに潰れてしまっていますが」たしかにタバコの箱はひしゃげ、中に残っているタバコも端の方が押し潰されている。だがこの空き箱の方は、「捨ててあったこの空き箱はつぶれていない。とすると上着のポケットに入っていたのか。ゴミは上着のポケットで吸っているタバコの箱はズボンのポケットに無造作に入れていたのか」東方はそうつぶやくが、単なる習慣だろ、と笹井はあまり意に介さない。たしかに自分もタバコはいつも同じポケットに入れている。いらなくなった空箱はすぐに捨てられるように上着のポケットに入れていた、それもわかる。だが、そうだとしてもこの空箱は、まだタバコが残っていた時は、同じようにズボンのポケットに入っていたはずなのだ。実際空箱にも一度潰れたようなしわが残っている。とすると吸い終わった時点であの空箱は潰れていたはずだ。そのまま上着のポケットに移したのなら、どうして今この空箱は、潰れていないのだろうか。

「被害者の遺留品は、身元につながるものだけなくなっているな。用心深い奴だ」

笹井の言葉を聞き流しながら、東方は遺留品箱の中から古めかしい二つ折りのブックマッチを手に取る。今時こんな物を使っている奴がいたのか。「ラ、レトレ、」マッチの表面に書かれている文字を口にすると、「ラ・レットル。語末のeは発音しません」東方の手元をいつの間にか覗き込んでいた水沼が言う。「どうしてわかる。振り仮名はないぞ」「はい。でもeは発音しません」「読み方が書いてないのにどうしてお前の方が正しいってわかるんだ?」「有名なレストランですよ」「どうして読み方が書かれていないんだ。店の名前を正しく発音してほしければ書くべきだろう」「テーブルサービスのマッチは店に来た人がもらえる物ですから、店に来たのなら当然店名は知っていると思います」「お前はどうしてこの店を知っているんだ。また例のガイドブックか?」「家族と行ったことがあるんです」「ラ、レトレ、」「ラ・レットル。語末のeは発音しません。手紙という意味です」「どっちでもいい」そう言うと、東方はマッチを遺留品箱に投げ入れる。

「マッチは手掛かりにはならないだろうな。いつもらったかもわからないマッチじゃ身元は絞り込めない」

 笹井が言うと、「そうでもないかもしれません」と彼女はマッチを手に取る。「もしかしたらこの人、レストランの従業員かもしれません」

「どうしてそう思う?」肩眉を吊り上げ笹井は彼女に聞き返す。

「被害者の着ているジャケットは肩幅が合っていない既製品ですし、腕時計も量販店で買った物です。革靴もあれしか持っていないのか、靴底を何度か変えた跡があります。高級レストランの常連客には見えません」

「偏見だな。洋服に無頓着な金持ちだっているだろう」東方が呆れたように言う。

「加えて彩楼区のアッパーストリートにあるレストランは、今はどこも店内禁煙です。テーブルにマッチは置いていないはずです」

「店に残っていた古い在庫を店員が使っているか。たしかにあり得るな」と笹井がうなずく。

「実際に使用していますし、高級レストランに行った記念を後生大事に持ち歩いているわけじゃなさそうです」

 彼女の推理に笹井は満足そうにうなずくと東方を見る。「悪くない」

 東方はふんと鼻を鳴らすと、俺を見るなと視線を逸らす。

それから東方は制服警官の方に向き直る。「死体は管理人が発見したんだよな」

「はい。今朝の見回りの際に鍵が開いていることに気付き、不審に思って倉庫の中に入り死体を発見したそうです」

「倉庫の数は?」

笹井の問いに警官が手帳を確認する。

「この区画内には全部で二十二の廃倉庫があります」

「見回りは毎日行われているのか?」

「朝、夕の二回、毎日行っているそうです」

「鍵が開いていることに気付いたと言ったな。見回りの際には一々、すべての倉庫の鍵が施錠されているか確認して回っているのか?」

「倉庫の鍵は南京錠です。かなり大きい物ですから、遠くからでも十分視認出来ます。見回りの際に扉に鍵がついているか目視で確認するだけのようです。今朝、この倉庫の扉から南京錠がなくなっていたため、不審に思って中に入ったそうです」

「鍵がなくなっていた?」

 東方はちらりと笹井を見る。目が合うと笹井も、おかしいよなと首をかしげる。

「犯人は現場を立ち去る時に鍵をかけていかなかったのか」

「侵入する際に鍵を壊したので、鍵をかけられなかったんじゃないですか?」

 彼女の言葉に、笹井はいいや、と首を振る。「普通、殺害現場にこんな廃倉庫を選ぶのは、死体が発見されないようにするためだ。鍵を壊して入るのはいいが、俺なら殺したあとに必ず倉庫に鍵をかける。簡単なことだ。似たような鍵を用意しておけばいい」

 笹井の言葉に、彼女はそうか、とつぶやく。倉庫の鍵は南京錠。南京錠なら、鍵をかけかえることが出来るのか。

彼女は大きく開け放たれている扉の方を見る。黄色い規制線とその先にパトランプの点滅が雨に滲んでいるのが見える。でも、倉庫に鍵がかかっていなかったのだとすると。はっとした顔で彼女は二人を見る。「だとすると、管理人が死体を発見した時、犯人はまだこの倉庫の中にいたんじゃありませんか?」

 大きなため息が聞こえる。東方は眉間にしわを寄せ、小さく首を振っている。

「却下だ」

「何故です?」

「死亡推定時刻は約二十四時間前。こんな埃臭く薄暗い倉庫に、死体と丸一日犯人がとどまっていたと言うのか?」

「えっと、ああ、でも、死亡推定時刻が二十四時間前でも死体をここに遺棄するために運び込んだところにちょうど管理人がやってきたのだとしたら、」

「却下だ」

「またですか?」

「死体は地面を這ったりしない」

 たしかにそうだ。「ですね」と彼女はつぶやく。

「付け加えますと、管理人は警察に通報後、われわれが到着するまでずっと扉のところで待機していました。この倉庫には他に出入り口はありませんし、窓や排気口も確認しましたが出入りした痕跡はありませんでした」と制服警官が言う。

「でも、」と彼女は食い下がる。「この倉庫は扉を全開にしていてもかなり薄暗いですよね。死体を確認するためにこの近くまで寄ってきた隙に、扉近くに隠れていた犯人が出ていった可能性はありませんか?」

「水沼刑事、実は管理人は死体に近付いていないんです」警官が申し訳なさそうな顔をして告げる。「死体は扉の方を向いて倒れていました。割れた頭が扉の方を向いていたため、懐中電灯を持った管理人は倉庫に数歩入っただけで死体に気付いたようです。そのまま倉庫の外に出て警察に通報し、それ以後はずっと扉の外でパトカーが到着するまで待っていたそうです。管理人の目を盗んで倉庫の外に出ることは出来ません。付近で逃げる人影も見ていませんし、車やバイクのエンジン音も聞いていないそうです」そう言うと警官は小声で彼女に言う。「すいません」

「気にしてません」彼女が答えると東方がすぐに言い返す。

「気にしろ。そして次からは頭をつけてこい」

 たしかに今のは勇み足だった。だけど未熟な自分に出来ることは考えて考えて考えることだ。失敗はつきもの、いちいち落ち込んでいる暇はない。

 さて。犯人が倉庫にいたのでなければやはり、犯人は鍵をかけずに倉庫を立ち去ったことになる。だがそんなことがあり得るのだろうか。笹井さんの言う通り、この場所を犯行現場に選んだ以上、犯人は死体を隠したかったはずだ。被害者の所持品の処分の手際から見ても、行き当たりばったりの犯行とは思えない。とすると、当然犯人はこの場所の下調べをしていたはずだ。あの作業服姿の男が管理人で、あのプレハブ小屋が管理人の事務所で、あそこで倉庫の鍵が管理されているのなら、忍び込んで鍵を盗んで合鍵を作るのは、それほどハードルが高いとは思えない。少なくとも、管理人の見回り方法を知っていれば、鍵を壊して新しい南京錠にかけかえても、管理人はきっと異変に気付かない。鍵さえかかっていれば、この死体はそれこそテレビ局が必要になるほど、この先何年も倉庫の中に眠り続けていたはずだ。わかっているはずなのに、犯人は何故、犯行現場に鍵をかけていかなかったのだろうか。

「傘を持っていなかったのか?」

 唐突な言葉に、ふと顔を上げる。東方が警官にたずねている。

「と、言いますと?」警官が聞き返す。

「あのプレハブ小屋の前にいたのが管理人だろう? 軒下にいたのに彼はずぶ濡れだった。ということは警察が到着するまで待っている間に濡れたんだろうが、彼は傘を持っていなかったのか?」

 ええっと、警官が慌てて手帳をめくる。管理人がずぶ濡れかどうかは気にもしていなかった。「市警察の指示で、入口の所で待つようにと」

「倉庫の中で待てばいいだろう?」

「死体とは一緒にいたくなかったんだろ」笹井が代わりに答える。たしかに、気持ちはわからなくはない。

「ああ、違いますね」警官がメモ帳を見ながら言う。「この辺りは入り組んでいますから、携帯電話で通信指令室と話し、現場にパトカーが到着するまで道案内をしていたようです」

「答えになっていない」東方が呆れたように言い返す。「携帯をかけるならなおさら雨に打たれない方がいいだろうが」

「ああ、すいません。つまり、倉庫の中では携帯電話が通じないんです」

 え、と小さく声を上げ、彼女は鞄の中から携帯電話を取り出す。「本当だ。圏外ですね」分厚い金属の壁に囲まれていれば無理もない。コンテナや倉庫が立ち並び、この辺り一帯が通信には向かないだろう。

「倉庫から少し離れたところでずっと通話していたようです」

「だが雨は夜中から振っていた。傘も持たずに見回りをしていたのか」

それから東方は何か、ぶつぶつとつぶやきながら歩き始める。その様子を彼女は怪訝そうに目で追う。何がそんなに気になるのだろうか。

「傘の件はともかく、」笹井の声に彼女は振り返る。「倉庫に鍵がかかっていなかったのはたしかに気になるな」

「はい。犯人は壊した鍵の代わりを用意していなかったのか、あるいはせっかく合鍵まで作ったのに鍵をかけ忘れたのか」そう言うと、彼女は警官を見る。「もちろん現場に鍵なんて残っていませんでしたよね」

 彼女の問いに警官は、はい、と答える。「管理人に確認しましたが、他の倉庫につけられている物と同様、かなり大きな南京錠です。現場には残されていませんでしたし、犯人がうっかり持って帰るというのも考えにくいと思います」

とするとやはり、鍵を壊して倉庫の中に入ったけど代わりの鍵を用意していなかったということだろうか。そんな杜撰な犯人とは思えないけど。

 考え込む彼女に、「問題はそこじゃない」と笹井が言う。と、言いますと、聞き返した彼女に笹井は肩眉を吊り上げて答える。「たしかに倉庫に鍵はかかっていなかった。問題はどうして鍵がなかったのかではない。いつから鍵がなくなっていたのかだ」

 いつから? 怪訝そうな表情を浮かべた彼女に笹井は説明する。

「現場の血痕からここが殺害現場であることは間違いないが死亡推定時刻は二十四時間前。少なくとも昨日の朝以降はここに死体はあったことになる。管理人が朝、夕の二回の見回りをするのなら、昨日の夕方の時点では死体は確実にここにあったはずだ。言い換えればその時点で鍵はなくなっていたはずなのに、何故、管理人は気が付かなかったのか」

 管理人の見回りがいい加減で見落としたのか、あるいは、昨日の夕方の時点では倉庫の扉に鍵がついていたが、今朝の時点では鍵がなくなっていた、そんな事態があり得るだろうか。

「雨が降り始めたのは昨夜遅くだ。晴れている夕方に見逃した物を、土砂降りの朝には気付くというのも違和感があるよな」

 彼女が神妙にうなずくと、いつの間にか二人の背後に来ていた東方が言う。

「管理人は俺が当たる。ちょっとたしかめたいこともあるしな。お前はお嬢ちゃんを連れてレストランに行ってくれ」

 そう言うと東方は返事も聞かずに出入り口に向かって歩いていく。

「何だよ。まだ傘のこと気にしているのかよ」

 さっさと歩いて行ってしまう東方の背中に、笹井はやれやれと首を振り彼女に言う。

「処刑スタイルの殺人なら、犯人は被害者に相当の恨みを持っている。被害者周辺を洗うのは重要だ。それにはまず被害者の身元を突き止めないとな。お前が言い出したんだ。レストランでの事情聴取はお前にやってもらうぜ」

 はい。彼女はぴんと背筋を伸ばすと大きな声で返事をする。


9:21 a.m.


 管理人の常駐するプレハブ小屋に向かって東方は歩いていく。制服警官から奪った黒い傘を叩く雨の音を聞きながら、まだ肌寒い埠頭を歩く。管理人事務所の入り口まで来ると傘を閉じ扉の脇に立てかける。ふと、同じように立てかけてあるもう一本の傘が視界に入る。「あるじゃねえか」おもむろに手を伸ばし管理人の傘を開く。東方は傘に触れしばらく観察したあと、再び元のように傘を畳んで入口の脇に立てかける。傘のすぐ横には水を張ったバケツが地面に置かれており、茶色い水面にタバコの吸い殻が何本も浮いている。真っすぐな物や折れ曲がったものなど様々だが、吸い殻はいずれも根元近くまで吸われている。地面に落ちていたバケツに投げ入れ損ねただろう吸い殻を拾い上げると、東方はおもむろに臭いを嗅ぐ。「安物だな」東方はバケツの中に拾った吸い殻を投げ入れると、平手でばんばんと扉を叩く。返事を待たずに事務所の引き戸を開くと、何やら忙しそうに電話をかけている管理人が怪訝そうな視線を寄こす。着替えを持っていないのか濡れた上着を脱ぎ捨て肩からタオルをかけている。部屋は季節を無視したストーブがたかれ、上に乗せたやかんから湯気が立ち上っている。東方が警察手帳を見せるとそこで待つようにと手で合図をして電話を続ける。

 東方は肩の雨粒を払い事務所の中を見回す。殺風景なプレハブ小屋には小さな古いブラウン管テレビとソファが置かれている。壁には倉庫の番号らしき数字が刻まれた鍵の束が下げられている。不用心なことだな。入口付近の棚には使い古された工具箱が置かれ、東方が手を伸ばしたところで受話器を持ったままの管理人が鋭い声を放つ。「ちょっとあんた、勝手に触らないでくれる」東方は黙って一歩下がると、電話が終わるのを大人しく待つことにする。

「はい、わかりました。いえそんな、はい、ちゃんと見回りはしています。これまでも何のトラブルもなかったんですよ。はい、わかりました。失礼します」

 管理人は受話器を置くと盛大に舌打ちをする。入口のところで立ち尽くしている東方は白々しく、お察ししますと声をかける。

「首になったらどうしてくれる。この不景気に次の仕事を探すのがどんなに大変か。いや、あんたに言っても仕方ないんだが」東方は黙って肩をすくめる。「それで、何の用です? まだ二、三電話をかけないといけないんですがね」

 東方は管理人の方へいくと、用はすぐに終わりますからと告げる。

「さっき別のおまわりさんに知っていることは全部話しましたよ」「二、三、確認したいだけです。倉庫の鍵はこの事務所で管理を?」ええ、と管理人はうなずく。東方は壁にかけられた鍵の束をちらりと見る。「物騒じゃありません?」「こんな古い廃倉庫の鍵なんて、誰が盗むの?」たしかに、と東方は苦笑する。「見回りでは鍵がかかっているか確認すると聞きました。鍵を持ち歩いて一本一本鍵がかかっているか、たしかめているわけではないんですよね」「南京錠だからね。きちんとはまっていれば当然鍵がかかっているよ」「とするとあの鍵の束は普段は使わない」「そうだね」「一本くらい鍵が消えていても気付かない」「おまわりさんに言われてたしかめたけど、全部揃ってましたよ」管理人の言葉は、どこか我関せずという響きがある。「鍵がすべて揃っているか、毎日確認しているわけではないんですよね」しつこくたずねる東方に、管理人は迷惑そうな表情を浮かべる。「関係あります? 犯人は鍵を壊して入ったんでしょう?」ほお、と東方は肩眉を吊り上げてたずねる。「どうしてそう思うんです?」「どうしてって、鍵がなくなっているんだから、壊して入ったってことじゃありません?」まあ、それはそうだな。

「話を変えましょう。今朝の見回りの際に、鍵がないことに気付いたんですよね」「だからそうだって、何度もおまわりさんには話しましたよ」「鍵はいつからなくなっていたんですか?」ええ、と管理人が眉をひそめる。「どういう意味です?」「昨日の夕方の見回りの際にはいかがです? 鍵はかかっていましたか?」「知らないねえ」「知らない? 知らないとはどういう意味です? 毎日朝夕の二回、すべての倉庫を見回りしているんですよね」「俺は偶数日の担当だから」「偶数日?」「ここの管理人は二人いるの。一日おきに出てきているんで、昨日のことは昨日の担当に聞いてもらえます?」

なるほど。東方はぐしゃぐしゃと頭をかく。

「それで、もう一人の管理人は昨日のことで何か言っていませんでした?」「何かって、別に顔を合わせることもないからねえ。朝の八時に出てきて、夕方の見回りを終えて六時には帰ってしまうから。一応問題があれば管理会社に報告してそこの連絡ノートに記載することになっているけど、昨日は何も書いてなかったよ」「もう一人の管理人の連絡先はわかります?」「管理会社に聞いて下さいよ。顔も合わせないって言ったでしょう? 俺は何も知りませんよ」

 ぶおおおおとストーブの上のやかんが音を立てる。共鳴するように古いガラス窓がびりびりと音を立てる。これ以上聞いても収穫はなさそうだな。「なるほど、参考になりました」東方は引き下がることにする。踵を返した東方に、やかんを手にしながら管理人が言う。

「もう一人の奴に会ったら伝えてもらえます。いい加減、外のタバコの吸い殻を片付けろって」管理人はティーバッグを入れたマグカップにお湯を注ぐと、他に電話をかける必要があるのか、カップ片手に受話器に手を伸ばす。お忙しいことで。東方は扉に手をかけるが、そういえばとしつこく管理人にたずねる。

「ちなみにこの管理人事務所自体は鍵、かかりますよね?」今、手をかけている扉には一応、鍵は存在するみたいだが。管理人はちゃんと質問を聞いていないのか曖昧にうなずくだけで受話器を耳に当てて背中を向けてしまう。「一応、指紋は採らせてもらいますよ」管理人の背中にそう告げると扉を開ける。地面に置かれた灰皿がいっぱい浮かんだバケツが視界に入り東方は振り返る。「あなた自身はタバコを?」

 受話器を押さえて管理人がうんざりした表情で東方に言う。

「吸うわけありませんよ。早死にする気はないんでね。タバコを吸う奴なんて、前科者か頭が悪いかのどちらかでしょう? あ、もしもし、はい、すいません、連絡が遅れまして」

「酷い言われようだな」

 東方は苦笑すると外に出て扉を閉じるとポケットからタバコを取り出す。ざあざあと雨がプレハブ小屋の屋根を叩く音を聞きながらくわえたタバコに火をつける。軒下でしばらく煙を吐いていると、クラクションが鳴り東方は顔を上げる。小さなパトカーがやってきており、中から制服警官がおりてくる。小走りで軒先まで来てから言う。

「笹井刑事が車を使われるので、市警察にお送りするようにと」

「悪いな」東方はそう言うと、タバコを二本の指で挟んで警官に見せる。まだ半分ほどしか減っていない。

「吸い終わるまで待ちますよ」

「悪いな」もう一度言い、東方は大きく煙を吸い込む。

 タバコを吸い終わると東方は携帯灰皿にタバコをねじ入れ、扉の脇に立てかけてあった傘を手に取る。

「あれ、その傘、」警官がもう一本、傘が立てかけてあることに気付く。

「管理人は傘を持っていたんですか。では何故、ずぶ濡れだったんでしょうか」

「開いてみたら?」

 東方に言われ、警官は傘に手を伸ばす。傘を開くがどこも壊れている様子はない。

「壊れてませんね」

「外側は濡れている。あの管理人はちゃんと傘をさしていた」

「でもずぶ濡れでした」

「傘の外側は濡れている。そして内側も濡れている」

 えっ、と警官は傘の内側を手で触る。一目見てわかるくらい、水滴が傘の内側にもついている。

「傘はさしていた。開いたままの状態で傘を落としたんだ。だから傘は雨に打たれて内側が濡れた。だがおかしいよな。管理人は倉庫に鍵がついていなくて不審に思って近付き、扉を開けて中の死体に気付いた。管理人が傘を落とすなら当然死体を見つけた時だろうが、入口のところで傘を落としたのなら、警察を待つ間何故拾って傘をささなかったのか」

「どうしてでしょう。管理人は何かを隠しているんでしょうか」

「違う」

 東方はそう言うなり自分の傘を開くとさっさとパトカーの方へと歩いていく。助手席に乗り込むと、慌ててついてきた警官は運転席に着くなり東方にたずねる。

「違うってどういう意味ですか?」

「別に管理人は何も隠していないし嘘もついていない。この辺りは開けた埠頭で常に強い風が吹いている。開いたまま傘を落としてしまったが、風にあおられて傘は転がっていったんだ。追いかけに行きたいが警察からは電話で、入口から動くなと言われた。馬鹿正直にそれを守ってずぶ濡れになった。融通の利かない真面目な性格。口は悪そうだが悪人じゃない。あの管理人は嘘をついていない。もう一人の管理人もそうだといいがな」

 早口で一気にそう言うと、東方は警官に車を出してくれ、と告げる。


11:31 a.m.


 雨が上がった彩楼区のアッパーストリートの歩道を人々が行き交い、そろそろ昼食時のレストラン『ラ・レットル』は客達で賑わっている。笹井と水沼の二人は受付で警察手帳を示し、しばらくして店の奥にある支配人の部屋に案内される。

「素晴らしいお店ですね。私達の給料ではとても手が出せそうにありませんが」

笹井が勧められたソファに座りながら言う。「ランチメニューは比較的お手頃な値段になっています。ビュッフェもありますので是非一度足をお運び下さい」覚えておきます、と笹井はにっこり笑うと横に座る水沼を見る。はい、と緊張気味に彼女はうなずき早速本題に入る。

「お忙しいと思いますので手短におたずねします。このマッチに見覚えはありませんか?」彼女は携帯電話で撮影した遺留品のマッチの写真を支配人に見せる。「拝見します」画面を覗き込んだ支配人は、ああ、とうなずく。「これでしたら以前、うちの店で作ったものです。かつては各テーブルの上に置いていたのですが、時代の流れですね。市の条例で公共施設での喫煙が禁じられてから、この辺りの高級店はどこも店内全席禁煙となっています。オープンテラスは一部、喫煙席も設けていますが、マッチはもう何年も置いていません」やはりそうか、二人の刑事は顔を見合わせると姿勢を正す。とするとマッチを持っているのはこの店の従業員である可能性が高くなる。

「今朝、埠頭の倉庫で身元不明の死体が発見されました。現在、殺人事件として捜査を行っていますが、被害者がこのマッチを所持していました」

「この店のお客様でしょうか。ですがこのマッチを手に取られたお客様の名前を控えているわけではありませんので」

「お客様ではないかもしれません」

 話の意図が見えないのか、支配人は不思議そうな顔で彼女を見る。

「当時のマッチはすべて廃棄されているのですか?」

 笹井の問いにいいえと支配人は首を振る。「店の事務所にはまだ在庫がたくさんあります。スタッフなら自由に、」そう答えてはっとしたように支配人は笹井を見る。「まさか、うちの従業員が」

 彼女は声を落として冷静な口調で支配人にたずねる。

「この二日間、無断欠勤している従業員はいませんか?」

 支配人は青ざめた顔で、すぐに確認しますと壁にかけられた電話に手を伸ばす。何やらしゃべり受話器を置いてしばらくすると、扉をノックする音がして一人の男が部屋に入ってくる。ベストにネクタイを締めた男を支配人は、フロアマネージャーの溝口ですと紹介する。

「市警察の水沼と笹井です」

 二人は警察手帳を見せ、はあ、と溝口は訝しげに二人を見る。

「市警察ですか。一体何のご用でしょうか」

「溝口君。キッチンとフロアで、最近無断欠勤をしている者はいませんか?」

 支配人は説明を省いてたずねる。溝口はええたしか、と記憶を巡らせる。「昨日の欠勤者は二名。一名は事前連絡があり本日は出勤しています。もう一名は昨日に続いて本日も無断欠勤です。何度か電話はかけているのですがまだ連絡はとれていません。それが何か?」

 溝口は困惑した様子でたずねる。警察が来ている以上、嫌な予感は当然しているだろう。

「うちの従業員が亡くなった可能性があります」

 渋い顔をして支配人が言い、溝口は驚きの表情を浮かべる。

「欠勤しているのは誰ですか?」支配人のその問いには答えず、溝口は逆に聞き返す。

「ちょっと待って下さい。亡くなったって、市警察が何故、事故か何かですか?」

「殺人事件の捜査だそうです」支配人の言葉に溝口はさっと顔色が変わる。

「殺されたってことですか。そんな、まさか、」

 溝口のあまりに取り乱した様子に、彼女は何か、とたずねる。

「休んでいるのはフロアの米田です」

 今度は支配人が青ざめた表情を浮かべ、そんな、とつぶやく。

「米田が、まさか、そんな」

溝口は信じられないとうろたえる。

「その、米田さんという方の写真をお持ちではありませんか?」

 彼女の問いに、たしか履歴書の写しがと支配人は机に向かうが、それよりも早く溝口が携帯に写真がありますとポケットを探る。

「拝見します」彼女は溝口の携帯の画面を覗き込む。画面には溝口が男と並んで写っている写真が表示されている。二人の刑事は顔を見合わせてうなずく。

「この写真に写っている方の連絡先を教えていただけますか?」

彼女の言葉に、支配人と溝口は目を見開いたあと、言葉を失い立ち尽くす。


『ラ・レットル』従業員事情聴取記録


店員1 「米田さんですか? あまり明るい人じゃなかったねえ。仕事は真面目にやっていましたけどどこか暗いというか、みんなで飲みに行く時も付き合いは悪かったよ」

店員2 「俺はそんなに親しかったわけじゃないし、そんなに目立つ人じゃなかったから」店員1 「あそこはかみさんがうるさいらしいから。仕事が終わればすぐに帰っていたよ」

店員3 「ああ、そういえば二カ月ほど前に米田さんを訪ねてきた人がいましたよ。何か柄が悪そうな人でしたけど」

店員4 「いや、お客さんや他のスタッフとトラブルを起こしたような話は聞いていません」

店員2 「二カ月前? ちょっと覚えていませんね」

店員3 「噂ですけど以前、事業に失敗していろいろ苦労したって聞きましたよ。何でも株に手を出して大損を出したとか」

支配人 「ええ、彼は溝口君と大学時代からの友人だったようです。ここも溝口君からの紹介です。普段はそういった雇い方はしないんですが、溝口君は長年の功労者ですし彼の推薦でしたので。半年間の見習いから初めて、最近正式なスタッフに昇格させました」

店員4 「株ですか? いいえ、プライベートな付き合いはなかったのでよく知りません」

支配人 「仕事ぶりに不満はありませんでした。自分よりも若い従業員と比べて給料が低くても、文句を言うようなこともありませんでした。給料の前借を申し出ることもありませんでしたし、真面目な人でしたよ」


**********


水沼 「米田さんとは長い付き合いなんですか?」

溝口 「あいつとは大学が同じで、一緒に地元から出てきたんです」

水沼 「そうでしたか。最後に米田さんと話をしたのはいつでしたか?」

溝口 「先週の土曜日は一緒の勤務でした。職場でもいつもと変わった様子はなくて。昨日は無断欠勤で、これまで一度もそんなことはなかったんですが、携帯電話にも連絡が取れず心配していました」

水沼 「ご自宅には連絡されたのですか?」

溝口 「いいえ。店側でも自宅の番号は控えていなかったものですから」

水沼 「誰かと揉めたという話は聞いたことがありませんか? あるいは、彼に恨みを抱いているような人物に心当たりは」

溝口 「あいつは誰かに恨みをかうような人間ではありませんよ」

水沼 「そうですか。参考になりました。ありがとうございました」

溝口 「あの、米田は、あいつはどうやって死んだんですか? 教えてもらえませんか?」

水沼 「すいません。捜査に関わることはお話出来ないんです」


3:21 p.m.


 合流した三人の刑事は、ぼろぼろの2CVに揺られていた。

 家族を訪ね、米田真人の死亡を告げた帰りの車内は重い空気に包まれている。

「いたたまれませんでしたね」

 水沼が後部座席から言うが、ハンドルを握る笹井はまあなと曖昧に返す。

「たとえあれだけ迷惑をかけられたとしても、家族だからな、そう簡単には受け入れられないよな」

「二年も前の話ですし、最近は妻と二人の子供、家族仲は悪くなかったようですから」

「だが日曜日に家を出た時は、仕事だと言っていたんだろう」

「はい。職場の話では週末日曜日は休日だったみたいですね」

「家族に嘘をついて家を出て、一体米田は何をしていたのかな」

「女性、とか?」彼女の言葉を笹井は即座に否定する。

「携帯電話もカードも妻に抑えられているんだぞ。普段は家にも真っすぐ帰っていたみたいだしな。浮気の線はないだろう」

 ですよね、と彼女は唇を尖らせる。

「米田の携帯電話の通話記録やカードの使用歴は調べる必要があるがな。ただ、家族に嘘をついて家を出た以上、何か後ろめたいことがあったことはたしかだな。その前日、たしか溝口とか言ったな、」「フロアマネージャーの、」「ああ。土曜日に職場で話したと言っていたな。溝口なら日曜日の米田の足取りを知っているかもな。また改めて話を聞くか」「ですが自由に使えるお金がないのなら、どこかに宿泊するのも難しいでしょうし、殺害は月曜日の朝でも日曜日にはすでに犯人と接触していたんじゃないでしょうか」「その可能性が高いだろうな」

 助手席の東方は会話には加わらず。何やら熱心に書類をめくっている。運転席からちらりと見て、笹井が東方にたずねる。

「鑑識は何て?」

「最初に殴られたと思われる場所に落ちていた麻袋の内側から、被害者の物と思われる毛髪が検出されている。どうやらあれを被らされた状態で殴られたらしいな」

「麻袋を被せたのは、顔を見られないためでしょうか」水沼が後部座席から身を乗り出して言う。

「あんな犯行現場を選んでいる以上、これは計画的な犯行だ。後ろ手に縛り殺害するつもりで殴ったなら、自分の顔を隠す必要はない。隠すだけなら自分が変装すれば済むしな」

「では、返り血を浴びないためでしょうか?」

「普通に考えればそうだな」東方は資料をめくりながら言う。「頭部を強く殴ると、想像以上に返り血を浴びるからな」

「あるいは犯人自身が被害者の顔を見られなかったのかもしれないな」笹井がつけ加える。

「そんな繊細な奴が、処刑スタイルで殺すかね」東方はふんと鼻を鳴らす。「いずれにせよ、とどめを指した時には被害者は麻袋を被っていなかった。地面の血液飛沫を見る限り、犯人は盛大に返り血を浴びただろうな」

 東方は資料をめくる。他にめぼしい報告はまだない。遺留品から被害者以外のはっきりとした指紋は検出されていない。犯人は被害者の持ち物を一部持ち去っているが、ズボンの後ろの右側ポケットに被害者の物と思われる血痕が付着している以外、はっきりとした犯人の痕跡も残っていない。

「次はどうする?」

 ハンドルを握る笹井がたずねると、東方は資料を閉じ、ふうと息を吐く。

「セオリー通りに行くさ。被害者本人に会いに行こう」


5:12 p.m.


三人の刑事は、未未市警察監察医務医院の地下の遺体安置室に向かう。

 解剖台の前で三人は白い息を吐く。黒いビニール製のエプロンを着けた監察医が、三人をぎろりと一瞥する。

「お前達が持ち込むのは、いつもおかしな死体ばかりだな」

「何か出ましたか、先生?」笹井がたずねると監察医は無言で遺体にかけられてたシートをめくる。冷たい解剖台に横たわる遺体には前胸部から腹部にかけて解剖で出来た大きな縫合跡が残っている。

「四十八歳男性、栄養状態良好、軽度の肥満、外表上に解剖学的異常は認めず。脂肪肝以外、肉眼的に明らかな内臓疾患はなし。死因は頭部打撲による脳挫傷、脳出血。死亡推定時刻は昨日月曜日の午前八時前後」

「遺体発見の大体二十四時間前か」と笹井が言う。

「体の腹側には、這った時に出来たと思われる擦過傷が多数。頭部以外に致命傷になった外傷はなし。頭蓋骨は大きく陥没し、多発骨折を起こしている。頭部の打撲痕は二カ所、これを見ろ」監察医が頭蓋骨のCT画像をプリントアウトしたものを手渡す。立体的に構築された頭蓋骨の画像には頭部に二カ所の放射状のひびが映し出されている。

「ひびの広がり方から見て、後頭部のこっちが第一打。そして頭頂部にあるこっちが第二打だ。現場を見ると、一打目がふるわれた部分には地面に血だまりがあった。頭部をかなり強く殴られ大量出血をきたした。地面の血だまりの量からみて普通なら死んでもおかしくない。だが被害者は息を吹き返した。地面には被害者が這った跡が残されている。這っていき、その先で犯人に再び殴られた。つまり、被害者は二度殺されたことになるな」

「二度殺された死体」水沼がつぶやく。

「二打目もかなり強い力で殴っている。すでに頭蓋骨は骨折状態だったため、二打目で即死に近かったはずだ」

「犯人が単に二度殴っただけにしか聞こえないが、それのどこがおかしな死体なんだ?」

 東方が退屈げに言うと、監察医は不機嫌そうに言い返す。

「相変わらず結論を急ぐ奴だな。人の話を最後まで聞かないから女に相手にされんのだ」

「あいにく既婚者だ」

 既婚者だったのかよ、と彼女は思う。口には出さないけど。

「言っただろう。被害者は二度殺されたと。いいか、被害者が殴られた二カ所は距離にして約十メートル。両手を縛られて後ろ手に縛られていればそれだけの距離を這うにはそれなりに時間がかかる。一打目の血だまりの量から見て気を失っていた時間も短くはないだろう。つまり最初に殴られ二度目に殴られる間、かなりの時間が空いているということだ」

「苦しむ姿を眺めて楽しんでいたんだろう。別にめずらしい話じゃない」

「犯人は二度目に頭を殴るまで、二時間待っていた」

 えっ、と彼女が声を上げ、東方も思わず監察医に聞き返す。「二時間、だって?」

「最初の血だまりから採取した血液検査の結果がなかなか興味深い」

 そう言うと、監察医は三人に資料を手渡す。

「被害者は薬を投与されていた」笹井は資料をめくりながら唸る。

「検出されたのはデートドラッグの一種だ。鎮静作用が強くこれで体の自由を奪って犯行に及んだんだろう。記憶障害も引き起こす、最近よく出回っている物だな。そしてこちらは遺体から検出された血液検査の結果だ」

「代謝産物の割合が違いますね」彼女が資料を見てすぐにそうつぶやく。その言葉に監察医がほおと声を上げる。「この数年間で初めてまともな頭脳を持った刑事が来たようだな」

 監察医は資料の数字を指差しながら説明する。

「この薬はほぼすべてが肝臓で代謝される。被害者の肝機能が正常だったとすると、半減期は約二時間、死亡してからもある程度の代謝は進むが死後は大きく血液濃度は変わらない。最初の血だまりの血液濃度と遺体から検出された血液濃度を比較すると、被害者は最初に殴られた時から這っていき死亡するまで最低二時間は経過していたことになる」

 二時間? 一度死ぬほど殴られ、その二時間後にもう一度殴られた。だがそうなると、「いくら犯人に加虐趣味があるとはいえ、二時間も被害者が苦しんで這って行くのを見て楽しみ、それからとどめをさすなんて、まともな奴のすることじゃないな」

 監察医の言葉に、笹井は嫌悪感を隠さず舌打ちをする。

「少なくとも犯人が被害者に対して好意的な感情を抱いていないことはたしかだな。だがそれほど恨みがあるのなら、二年前の一件について無視は出来ないだろうな。米田真人自身と周囲の人間関係をもっと調べてみる必要があるな」


DAY2 1994/5/11 Wednesday

8:08 a.m.


呼びましたか。

 東方がノックもせずに扉を開く。課長室にはすでに笹井と水沼が揃っており、だらしなくネクタイを緩めた東方の姿に課長は不快そうに眉間にしわを寄せる。

「遅いぞ。何をしていた」

「何かありましたか?」

 質問に質問で返した東方に対し、課長がちらりと笹井を見る。

「遅刻してきたお前に優しい俺が教えてやるとだな、例の埠頭の事件が昨夜のニュースで流れてから、市当局に苦情の電話が殺到しているらしい。半年前の放火事件を引き合いに、市の管理が悪いと今朝の新聞でも一部マスコミが書き立てている。市長選挙も近いからな。市当局が事件の早急な解決をと市警察に圧力をかけてきている」

 なるほどねと東方は大げさに息を吐く。事件現場には市の役人も来ていた。市長には悩みの種らしい。

課長は三人の刑事を見回すと捜査状況を説明するよう促す。

「被害者は米田真人四十八歳。彩楼区のレストランに勤務していました。米田は日曜日に仕事だと言って家を出たあと夕方になっても帰宅せず、携帯電話にも応答がありませんでした。レストランに確認したところ、日曜日は勤務ではなかったようです。以後連絡がとれなくなり、その時点で犯人と接触していたと思われます」

「失踪後の足取りは?」課長の問いに、水沼がはい、と答える。「被害者の通話記録を調べましたが、失踪後に携帯電話を使用した形跡はありません。カードの使用履歴も当たりましたが、買い物や金を引き出した形跡もありませんでした」

「家族にまで嘘をついて、一体被害者は何をしようとしていたんだ?」

「わかりません。ただ家族の話では、米田は勤務に電車を使っており、メトロカードを所持していたようです。被害者の遺留品にメトロカードはありませんでしたが、鉄道会社に米田真人の名前で登録されているメトロカードの使用履歴を問い合わせています。同姓同名がいても、普段の使用履歴から被害者のカードを特定するのは難しくないと思います。もし日曜日にも電車を使っていれば、ある程度足取りが追えるかもしれません」

 彼女の言葉に笹井が続く。

「検死結果と鑑識結果を合わせますと、犯人は二時間以上かけて被害者をなぶり殺しにしています。被害者が自ら家族に嘘をつき家を出たあとで犯人と接触していることから、犯人は被害者の行動を熟知していたか、あるいは被害者と示し合わせて会っていたと思われます。関係性が深いのであれば、犯行には個人的な感情が反映されていると考えるべきでしょう。とすると、犯人は被害者に対して恨みを抱いている人物と思われます」

「該当人物がいるのか?」

 笹井はええ、とうなずく。「米田はS県出身です。学生時代からギャンブルに入れ込み、金遣いは相当荒かったようです。大学を卒業後、未未市に出てきてからは親戚の経営する建設会社に就職しました。運も味方しギャンブルで作った資本金を元に、三十歳で会社を独立、ちょうど再開発の時期とも重なり業績は上々、結婚し順風満帆の生活を送っていました。ただし、二年前、株に手を出してから転落が始まりました」

 笹井はそれから手にしていた資料を課長の机に広げる。

「二年前、株の信用取引に手を出し大損害を出しました。挽回するために友人、知人を巻き込み泥沼になりました。妻から離婚を切り出されますが、会社を手放し、親戚からも金をかき集め何とか返済のめどを立てました。大学時代の友人に頭を下げ、現在のレストランに就職、昨年からは正社員として働き、半年ほど前にようやく借金は完済し、夫婦仲も改善したようです。ただし妻の実家からもかなりの額の資金援助を受けたらしく、それ以来、妻には頭が上がらないようです。下手なことをしないように、米田のカードや携帯電話は妻が管理しています」ただし、と笹井が渋い顔をする。「米田自身は何とか生活を立て直すことが出来ましたが、当時、彼に巻き込まれて借金を背負わされた友人達の状況は悲惨です」

 笹井が水沼の方を見る。はい、と彼女は別の資料を課長の机の上に置く。

「米田の口車に乗って損失を出したのは、香取和彦、斎藤健次郎、大野美由紀の三人。香取は米田の建設会社の取引先小売店の店主でしたが、借金で閉店を余儀なくされ、現在は実家のあるN県に戻りタクシー運転手として働いています。斎藤健次郎は当時印刷会社を経営していましたが同様に倒産。自己破産をしてからは住むところを転々とし、一年前の引っ越しを最後に現在の所在は不明です。そして最後、大野美由紀ですが、」そこで彼女は一瞬言いよどむ。ふっと小さく息を吐くと改めて口を開く。「大野美由紀の状況はさらに深刻です。二年前、彼女は大学生でした」

「大学生?」課長が聞き返す。「香取と齋藤は被害者の仕事上の付き合いだろう? どうして彼女だけ学生なんだ?」

「大野美由紀は大学を卒業後、一度は地元で就職していますが、元々の夢だった広告デザイナーを目指して未未市立美術大学に進学しています。彼女の通っていた美術大学は学費が高く、授業料を払うためにバイトをいくつか掛け持ちする生徒はめずらしくないようです。様々なコンペの出品料なども合わせるとかなり苦しい生活を強いられるようで、中には学費が払えず退学せざるを得ない学生もいるそうです。大野美由紀がホームページのデザインの仕事で知り合ったのが、当時建設会社を経営していた米田でした。偶然にも二人は同郷ということもあり、彼女は米田の建設会社でバイトをするようになりました」

「それだけで終わっていれば面倒見のいい地元の先輩だったのにな」と笹井が言う。

「株の話を持ちかけられたのは、丁度体調を崩し、バイトを辞めようとしていた時期だったそうです。背に腹は代えられない経済状況から、米田の株の話にのってしまった大野は借金を背負うことになり、学費が払えなくなり大学を自主退学、その後は借金の返済のために金融業者に手を出し借金が雪だるま状に膨らみ、風俗業を斡旋され、精神状態が不安定となり半年前に自殺未遂をして精神病院に入院になっています」彼女は小さく息を吐いて、ほんと、最悪と小さくつぶやく。

「三人の事件当日のアリバイは?」

「連絡が取れたのは一人目の香取だけ。事件当日はN県でタクシーの運転手として客を乗せており、アリバイがあります。斉藤と大野についてはまだ連絡が取れていません」

 そうかと課長はうなずく。

「事件現場から何かわかったことはあるのか?」

 そうですねと東方は壁に背もたれて言う。

「聞き込みは続けていますが、目撃証言は今の所ありません。半年前の火災で市当局が介入して以降、今ではホームレスも寄り付きませんからね。一番近くのコンビニやガソリンスタンドの監視カメラも当たらせましたが、有用な情報は得られませんでした。犯人もそれがわかっていて、あんな場所を犯行現場に選んでいるのでしょうが」

「現場に残されていた足跡から何かわかったのか?」

「いいえ。現場に残されていた足跡は被害者の物、第一発見者の管理人の物以外にもう一種類、判別不能な物が多数。足跡から靴の種類の割り出しを進めていますが、候補はいずれも普通の量販店で売っている物ばかりです。例の麻袋と両手を縛っていたロープもどこでも手に入る代物で、犯人につながる手がかりにはなりませんね」そう言うと東方は小さく首を振る。「昨日はあの雨でしたからね。犯人が車を使ったとしてもタイヤ痕も残っていないでしょうね」

「被害者と事件現場に接点はあるのか?」

 東方は、どうでしょうかねと曖昧に返答する。「米田がかつて経営していた建設会社は再開発事業には噛んでいましたが、湾岸開発には直接は関わっていませんし、あの倉庫の元の所有者である大澤工業とも接点はなさそうです」ただまあ、と東方は顎を触る。「人を殺すなら悪くない場所です。管理人がいる廃工場、余程のことがない限り扉が開かれることはありません。たった二十四時間で死体が見つかったことが異常なんです。普通なら何年もあの倉庫に置き去りにされることになっても不思議はありません」

 課長同意はするようにうなずくと、「凶器からは何かわかったのか」とたずねる。

「鑑識結果によると凶器は直径三センチ程度の金属製の棒状の鈍器と思われます。傷跡と一致する工具類を現在検索中です」

 笹井の言葉に、東方はふと、管理人事務所にあった工具箱を思い出す。

「結局今の所、被害者に株で大損させられた人物以外、これといった手がかりはないということか」

 不満げな課長の言葉に、東方が捜査はまだ始まったばかりですよと答える。「悠長なことを言っている場合ではない。今日中に何か、本部長にいい報告が出来る材料を見つけてこい。質問はあるか? あっても聞くな。捜査に行け」

 了解、と三人の刑事はうなずく。ああ、そうだと東方が課長にたずねる。「そう言えば、刑事部屋の食べ物は、いつになったら賞味期限が守られるようになるんです?」

 課長は東方の言葉が終わるよりも先に、鋭い口調で三人に告げる。

「さっさとこの部屋から出ていけ」


8:38 a.m.


 刑事部屋に戻った三人の元に制服警官がやってくる。

「現場の捜索隊が、面白い物を見つけましたよ」

 三人は警官に連れられて鑑識課へと向かう。扉を開けると、待ち構えていた鑑識官が証拠品袋に入った南京錠を差し出す。

「現場近くのゴミ箱に投げ込まれていました」

「まさか。犯行現場の倉庫の鍵なのか?」

「管理会社のシールが貼ってあるでしょう? 管理人に確認が取れました」

 それから鑑識官が鍵についての説明を始める。

「鍵にはいくつかの指紋と血痕が残っていました。指紋は管理人を含めて複数あり前歴者と照合中。血痕は現在被害者の物と照合中。血液型はもう少しで結果が出ますが、DNAの照合には時間がかかりそうですね」

「大きいな」東方が袋ごと南京錠を手に取り、それからもう一度机の上に戻す。ごとり、と鈍い音がする。

「指紋の中に犯人の物がありますかね」彼女の言葉に笹井はどうかな、と鍵を手にする。

「さすがに手袋くらいはしていたはずだろう」

「ですよね」

「それにしても傷だらけだな。鍵を壊すのに随分と苦労したらしい。鍵を壊した器具は特定出来ないのか?」

「鍵は壊れていませんよ」

 鑑識官が言うと、三人の刑事はえ、っと同時に声を上げる。

「壊れてませんでした」

「どう見てもこじ開けられた跡があるぞ」

「まあ、正確にはこじ開けようとした跡です。派手にやられていますが、どうやら途中で断念したようですね。管理人から預かった鍵で、施錠と開錠が問題なく出来ることを確認しました。鍵が使えたからこれがあの倉庫の鍵だと確定出来たんですよ」

「鍵は、壊れていないのか」

 東方はそうつぶやき、何かを考え込む。

「ピッキングをした可能性はありませんか?」

 彼女の問いに鑑識官はいいえ、と再び首を振る。「鍵穴にピッキングを試みた形跡はありません。傷はあくまでも鍵の外側にしかついていません。傷自体は新しいように見えますが、ついた時期は不明です。事件より以前につけられた可能性も否定出来ません」

「鍵が壊されたわけでもピッキングしたわけでもないのなら、犯人はどうにかして鍵を手に入れたことになります。管理人室から盗み出して合鍵でも作ったのでしょうか」

水沼の言葉に笹井がうなずく。「まあ、そうだろうな」

「あの管理人事務所なら、鍵を盗み出して合鍵を作るのは容易いだろうな。夜間には管理人も在駐していないしな」東方が言う。

「今、管理人事務所に窃盗が入った形跡がないか、鑑識作業に向かわせていますよ」

「合鍵を作るなら、忍び込んだのは事件よりも大分前の可能性もある。あるいは誰かから合鍵を手に入れたためあの場所を犯行現場に選んだ可能性もある。今更盗難なんて調べても、無駄足じゃないのか?」

 東方が意地悪く言うが、それでもやるのが俺達の仕事ですよと鑑識官は淡々と答える。

「だがおかしなことになったな。鍵が使えるのなら、どうして犯人は犯行現場を立ち去る時に鍵をかけていかなかったんだ?」

 笹井の言葉に、彼女はどうだろう、と考え込む。犯人があんな辺鄙な場所を犯行現場に選んだのはもちろん死体を隠すためだろう。意図的に選んだ以上、当然下調べをしていたはずだ。つまり、倉庫には鍵がかかっていることも、鍵を管理人が管理していることも、管理人が見回りの際に一々鍵が開くかをたしかめたりしないことも、鍵さえかかっていれば死体が発見されることがまずないだろうことも、犯人はわかっていたと考えるべきだろう。

問題は鍵についている血痕だ。飛沫痕というよりは擦りつけられた血痕。これが被害者の血痕であるならば、犯人が血液のついた手で触ってしまったということになる。何日間も被害者をあの場所に監禁、拷問していたのなら、血液がいつ付着したのかわからないが、頭部以外に明らかな外傷はない。とすると被害者を殺害後に犯人が鍵を触ったので間違いないだろう。だとしたら、犯人は手元にあった鍵をかけ忘れたことになる。そんなことがあり得るだろうか?

 あの、と彼女が言い、笹井がどうしたとたずねる。

「合鍵まで作って下準備をしたのなら、どうして犯人は、最後の最後で鍵をかけ忘れたのでしょうか?」

「お前の見解は?」笹井が逆に問い返す。

ううん。彼女は眉間にしわを寄せて思い付いたことを口にする。

「犯人はせっかく作った合鍵を紛失した?」

「却下」東方が一蹴する。「犯行現場に入る時に使用した鍵を出る時にはなくすとは考えにくい。それにこの鍵は南京錠だ。開ける時には鍵は必要でも、閉じる時には鍵は必要ない」

 たしかにそうだ。それじゃあ、

「鍵が傷だらけだと見回りの際に不審がられると思ったのでしょうか?」

「却下。事件以前から傷がついていた場合なら気にする必要がないし、犯人がつけた傷だとしても、傷が気になるのなら別の鍵を用意すればいい」

「管理人が犯人である可能性はありませんか? 鍵がかかっていれば鍵を持つ自分が最初に疑われる。鍵が壊れていれば外部犯に見せかけることが出来ます」

「却下。自分に容疑がかかるのを避けたいなら別の場所で殺せばいいし、どう考えても死体を隠すために用意された犯行現場で殺害しておいて、自分で第一発見者になってどうする」

「第一発見者じゃない方の管理人が犯人とか」

「却下。どうしてめげないんだ?」東方が呆れたように彼女を見る。

「管理人のどちらかが犯人だとしても、彼等には鍵をこじ開けようとする理由がない。鍵は自由に使えるんだ」笹井が言うと、彼女はですよね、とようやく引き下がる。

「まあ、水沼の言う通り、犯人は合鍵を持っていたにも関わらず鍵をかけていかなかった、そのことには重要な意味があるはずだ。しかも現場近くに鍵を捨てたなんて普通じゃない。こんな大きな鍵、うっかりかけ忘れたとも思えないしな。とすると、犯人は意図的に鍵をかけなかったことになる」

 犯人が犯行現場に意図的に鍵をかけなかった理由。不可解な謎が彼女の頭の中をぐるぐると回る。

「とりあえず、もう一度倉庫を見に行く必要があるな。管理人にも会うんだろう?」

 笹井の言葉に東方はうなずく。「事件当日の管理人とはまだ連絡がついていないからな。管理会社に提出されていた履歴書にあった電話番号にはつながらず、住所も引っ越したあとなのかでたらめ。名前だって本名かどうかわかったものじゃない」

東方の言葉に彼女は神妙な面持ちでつぶやく。

「やっぱり犯人かも」

 付き合い切れん。東方はそう言うと、さっさと鑑識課から出て行く。


9:51 a.m.


 ようやく雨が上がった不機嫌な空を分厚い灰色の雲が覆っている。真っ黒いアスファルトの地面はまだ濡れており、あちこちに水溜まりが広がっている。倉庫の前には厳重に黄色い規制線が張られている。連絡を受けていた制服警官が扉の前で刑事達が到着するのを待っている。

 三人を乗せた2CVは倉庫の前に停まる。警官が倉庫の扉に手をかける。重い扉がゆっくりと開き、光源のない真っ暗な倉庫の中に外からの明かりが差し込む。昨日とは違い、扉を全開にすれば倉庫の中はそれなりに光が入るものの、捜査をするには心もとない。

「照明器具を残しています」そう言うと制服警官は入口付近に置いてあったスイッチを入れる。犯行現場を中心に、倉庫内に残されていた照明器具が煌々と倉庫内を照らす。

「今日は特に風が強いんで閉めますよ」

 警官が言い、三人は倉庫の中に入る。ごんごんと鈍い音を立てて背後で重い扉が閉じられる。外からの明かりが入らなくなると、倉庫の中は一段と暗くなり、照明が当たる場所だけが暗闇に浮かび上がっている。三人は死体が横たわっていた場所まで歩いていく。笹井と水沼は死体をかたどったテープの脇にしゃがみ込み、東方は照明が当たる光の淵をゆっくりと歩く。

「被害者は最初に殴られてから少なくとも二時間生きていた。犯人が二時間もかけて殺害した理由は何だろうな」

笹井が横に並んでしゃがみ込んでいる水沼にたずねる。

「怨恨、苦しめたかった」

「だが頭部以外には明らかな外傷はない。しかも最初の一撃で頭蓋骨骨折を起こしている。その一撃で死んでいてもおかしくない。なぶり殺しにしたかったのなら、どうして致命的になるような損傷を与えたのか?」

 たしかにそうだ。そして最初の血だまりの血液の量。あの出血ならほおっておけばいずれ死ぬ。二時間、這って苦しむ様子を楽しんでいたとしても、わざわざとどめを刺したことに意味はあるのだろうか?

 その時、まるで彼女の問いに答えるように、東方が歩きながらつぶやくのが聞える。

「時間、時間、問題は時間だ」

 問題は、時間。時間か。被害者の死亡推定時刻、月曜日の朝八時前後だった。えっ、ちょっと待って。はっとしたように彼女は顔を上げる。「被害者の死亡推定時刻、八時と言えば管理人の朝の見回りの時刻です。犯人にとってデッドラインは管理人が出勤してくる時刻だったのではないでしょうか」彼女は興奮気味に笹井に言う。「犯人は最初の一撃で被害者が死ぬと踏んでいた。そして死んでいく様子を眺めて楽しんでいましたが、被害者は予想に反してなかなか死ななかった。八時が近付き、仕方なくとどめを刺して現場を立ち去ったんじゃないでしょうか」

「違う」

 暗闇の向こうから東方の声が飛んでくる。

「お前の推理はもっともらしく聞こえるがな、」笹井が彼女に言う。「それは考えにくい」

「どうしてですか?」

「犯人は合鍵を作っている。とすると当然管理人の行動は把握済みだったはずだ。見回りが八時でも管理人がもっと早く出勤してくる可能性もある。犯人は車で現場に来ているんだ。現場を立ち去るには管理人事務所の前を通る必要がある。目撃される危険性を考えれば、俺なら少なくとも七時前にここを立ち去る」

 それはそうだろうが。でも、「でも、どうして犯人が車を使っているって、」

「何を言っているんだ? この倉庫は照明がなければ朝でも真っ暗だぞ。犯人は頭部を一撃で致命傷を与えている。暗闇の中そんな芸当が出来たはずがない。犯人は当然照明を持ち込んでいたはずだ。被害者には鎮静剤も打たれているしな。照明機材に朦朧とした被害者。連れ込むには車が必要だ。扉をあけ放って殴ったのなら別だが」

 犯人が八時まで現場にいたこと自体、危険過ぎるということか。では一体、何故。

 考え込んだ彼女をよそに、東方は被害者が這って出来た地面の跡に沿って歩いている。まるで大きなS時のようなその這跡は、最初に殴られたところから蛇行して進み、最終的には倉庫の出入り口に向かって真っすぐに延びている。東方は被害者が這ったのと逆向きに、最初に殴られたと思しき血だまりに向かって歩く。そして最初の血だまりの場所で立ち止まる。被害者の血だまりはかなり大きく広がっている。普通なら致命傷であっても不思議はない。よく死ななかったな。

普通なら致命傷であっても不思議はない?

東方は自分の言葉に引っかかる。そう、犯人は殺すつもりで殴ったはずだ。被害者は身動き一つせず、大量の出血が広がった。そんな光景が頭の中に広がり、思わず東方はつぶやく。「死んだと思い込んでも不思議はない」

時間。問題は時間だ。犯人が八時までこの現場に居続けるなんて通常あり得ない。そして通常あり得ないことはやっぱりあり得ないということを、殺人課刑事東方日明は知っている。犯人がここに居続けたはずがない。だとすると答えは一つしかない。

「犯人は最初の一撃からとどめをさすまでの二時間、ここにはいなかった」

 二人も元に戻ってきた東方の言葉に、思わず二人は同時にえっ、と聞き返す。 

「最初の一撃は頭蓋骨が骨折するほど強烈だ。少なくとも被害者は意識を失っただろうし、大量の出血があり犯人は被害者が死亡したと思い込んだ。照明器具も片付け、一度犯行現場を立ち去った。死亡推定時刻が八時前後なら最初の一撃は朝の六時前後。納得の時間帯だ。そこで犯行は終わったはずだった。だが被害者は息を吹き返した。そして、それを何らかの方法で犯人は知り、慌てて現場に戻り被害者にとどめをさした」

 東方にはこの事件の本質に触れたような確信がある。

「あるいは何かトラブルがあったのか」笹井が言う。「例えば現場に忘れ物をして、それに気付いて慌てて倉庫に引き返したところ、偶然まだ生きている被害者に遭遇し、慌ててとどめをさしたのかもしれない」

「いや。犯人が戻ってきたのが管理人に目撃されるリスクの高い時間帯だということを考えると、余程の理由が必要だ。やはり何らかの方法で、被害者がまだ生きていると知って戻ってきたと考えるべきだぜ」

 ふうむ、と笹井は唸り、「そんな方法があればな」と答える。

それから東方は顔の前で祈るように両手を合わせ黙り込む。両方の人差し指で唇をノックしながらゆっくりと歩き出す。その姿を眺めながら彼女はたずねる。

「あの、一ついいですか?」「駄目だ」東方は一蹴する。「何だ?」笹井がたずねる。「被害者が目を覚ました時、犯人が倉庫にいなかったのならどうして被害者は残さなかったのでしょうか?」「何を?」笹井がたずねると、彼女は強い口調で答える。「ダイイングメッセージです」

 突然、倉庫内に東方の甲高い下品な笑い声が響き渡る。明らかに馬鹿にした笑い声も意に介さず、彼女は真剣な表情で笹井に話し続ける。

「これだけ這って動く体力があったのなら、ダイイングメッセージを残せたはずですが、現場にはありません。メッセージを残したくても残せなかったと考えると、やはり犯人は倉庫内にずっといたんじゃないでしょうか?」

 笑うのを通り越して呆れたような表情で、東方は首を振る。

「それともわたし達が見落としているだけで、どこかにメッセージが残されているのでしょうか」

笹井があのなあ、とたしなめるように彼女を見る。「ミステリーの読み過ぎだ。被害者は後ろ手で縛られていた」「縛られていても血文字くらい書けませんか?」「真っ暗な倉庫で、どうやって文字を書くんだ?」「ですが、」彼女がまだ話を続けようとしたところで笹井が人差し指を立てて制す。もうやめておけ。東方の姿をちらりと見たあと、はい、と彼女は引き下がる。

東方はそんな二人の会話を無視して歩いている。だが被害者が最初に殴られた場所に再びやって来た時、ぱちんと頭の中で何かが弾ける音を聞く。床に広がる血だまり。そして血だまりの近くに落ちていた麻袋。

「最初に殴られた場所に血液飛沫痕はなかった。一方で二度目に殴られた場所には毛髪の混じった血液が飛び散っていた。被害者は二度目に殴られた時、麻袋を被っていなかった。何故だ?」

 東方の言葉に、笹井が何故って、と怪訝そうに言い返す。「犯人が脱がせたんだろ」だがその言葉に東方は、違う、違うと首を振る。

「あり得ない。最初に殴ったあとに犯人が麻袋を脱がせたはずがない」

そう言い切った東方に、彼女は思わず、どうしてそんなことがと聞き返す。だが笹井は東方の言葉に、まあそうだなとうなずく。「犯人が被害者の死を誤認したのならそういうことになるな」

「犯人が、被害者が死んだと誤認したのは麻袋を脱がせなかったからだ。単に返り血を防ぐためだけなら殴ったあと脱がせたはずだし、そうすればまだ息があることはわかったはずだ。とすると麻袋を脱がせなかったのは単に返り血を防ぐためだけでないことになる。まさかとは思っていたが、どうやら犯人は、被害者の顔が見られなかったと考えるべきだろうな」

「とすると、犯人は被害者とよほど近しい関係なのかもな」

 笹井の言葉に東方は神妙な面持ちでうなずく。「犯人は二度目に殴った時には被害者に麻袋を被せていない。地面には広範囲に血液が飛び散っている。当然犯人も返り血を浴びたはずだ。こんな犯行現場を選び、合鍵まで準備した用意周到な犯人にしてはあまりにお粗末な殺し方だ。きっと想定外のことに焦ってとどめをさしたのだろう」東方の推理は続く。「だが、犯人が脱がせたのでなければ一体誰が麻袋を脱がせたのか。決まっている。被害者本人だ。監察医務医院で見た被害者の左頬にはいくつも擦り傷があった。這った時に出来たと可能性もあるが、後ろ手に縛られている状態で目を覚まして顔の前を何かが覆っていれば、パニックになってそれを脱ごうと必死に顔面を地面に擦りつけたとしても不思議はない」東方はとんとんと再び合わせた人差し指で唇をノックする。「被害者が息を吹き返す。麻袋を被せられていれば真っ暗で息も苦しかったはずだ。必死の思いで麻袋を脱ぎ捨てる。そして、そして被害者は、」

 そこでぴたりと言葉を止めると同時に倉庫の扉の方を向く。東方の視線に気付き、扉脇の壁に腕組みをしてもたれかかっていた警官が慌てて姿勢を正す。東方は倉庫の扉の方へと歩き出す。

「この倉庫は何年もまともに使用されていない。電気も通っていないし、扉が閉じれば昼間でも光はほとんど入ってこない。被害者が照明器具を撤去したあと、被害者が息を吹き返した時、この倉庫は暗かった。麻袋を脱いでも状況は変わらない」扉の前まで来た東方は警官に鋭い声で言う。「明かりを切れ」え、と警官が聞き返す。「切れ」警官が慌てて照明のスイッチを切ると倉庫の中を暗闇が包み込む。自分がどこに立っているのかもわからなくなり、彼女は思わず体が固まり動けなくなる。暗闇の中、どこからか東方の声が響いてくる。

「息を吹き返した被害者には混乱が押し寄せたはずだ。強烈な頭痛に大量の出血、自分の命が危険にさらされている恐怖、だが半狂乱になってその場にのたうち回ったのではなく、被害者は十メートルも這って進んでいる。そこには明確な意思があったはずだ。暗闇で目を覚ませば、お前ならどこに向かって這っていく?」

「どこって、」笹井は暗闇の中、辺りを見回す。そして東方が立っているだろう方向を見た途端、笹井は気付く。「そうか、光、」

 東方の背後にあるだろう倉庫の扉。その扉の下の隙間から、外の光が薄っすらと漏れている。扉の淵に沿って出来たほんの一筋の光の線が、暗闇の中浮かび上がっている。

「俺が被害者なら光に向かって這って行く」そう言うと、東方は扉を開く。東方のシルエットが開かれた入口に浮かび上がる。

「月曜日。事件当日、この辺りの天気は晴れていた。この季節、早朝でも扉の隙間から漏れる光の線は見えていたはずだ。倉庫が真っ暗であればなおさらな。被害者は扉の方を向いて倒れていた。被害者は必死に光に向かって這っていた」

 東方が警官に明かりをつけるように言う。

 照らされた倉庫の中、笹井が東方の方へと歩いてくる。そこから死体があった方を振り返る。被害者は出口に向かって倒れていた。

「犯人が現場に戻ってきて扉を開けた時、犯人と被害者は顔を突き合わせたはずだ。犯人がどんな感情を抱いたかはわからない。だが犯人は激情に駆られ、冷静さを失い、そのまま被害者にとどめを刺した」

 ふうと大きく息を吐いて東方は倉庫を見回す。

「これが月曜日の朝に起きたことのはずだ。わからないことは二つ。犯人はどうやって被害者がまだ生存していることを知ったのか。そしてもう一つ。もし被害者が光に向かって這っていたのなら、どうしてあんなにも大きく蛇行して這ったのか」

 そう言うと東方は水沼に釘を刺す。

「這ってダイイングメッセージを書いたなんて言ったら、明日からお前は首都警察に叩き返すからな」

 それはどうも。


10:41 a.m.


 二年前、被害者に誘われて株に手を出した三人のうち、アリバイの確認が出来ていなかった人物の情報が入り、笹井と水沼の二人はいったん現場から離れることになる。倉庫に残された東方は制服警官と共に管理人事務所に向かって歩いていく。

 制服警官は管理人の見回りルートが記載された埠頭一帯の地図を見ながら東方を案内して歩いていく。分厚い雲の隙間から太陽の光が差し込む中、ばしゃばしゃと水溜まりを踏み抜きながら二人は歩を進める。

「鍵が発見されたのはあのゴミ捨て場です」

 警官が指差した先に、廃材などが投げ入れられているコンテナボックスがある。

「犯人は鍵をかけなかっただけでなく、現場からすぐ近くに捨てていったのか」

 東方は怪訝そうに眉をひそめる。一度、ゴミ捨て場を覗き込んだあと、二人は再び管理人事務所へと歩いていく。周囲を見回すと、立ち並ぶ倉庫の扉には同じような大きな南京錠がかけられている。たしかにわざわざ倉庫の前まで行かなくとも、鍵がかかっているかどうかは確認出来る。しばらく歩いているとふと東方は足を止める。しゃがみ込んだ東方に、どうかしましたかと警官がたずねる。東方はハンカチを取り出すと、地面に落ちているタバコの吸い殻を拾い上げる。

「タバコの吸い殻、ですか?」

「半分も吸われていない」

 地面は濡れておりタバコもまだ湿っている。東方は吸い殻を一嗅ぎすると、安物だなとつぶやく。吸い殻を警官の持つ証拠品袋に入れると、東方は振り返る。犯行現場となった青い倉庫はまだ半分ほど姿が見えている。ふうんとつぶやいたあと踵を返し、東方は管理事務所に向かって歩いていく。

管理人事務所のプレハブ小屋に着くと、東方は入口にあるバケツを覗き込む。昨日同様、タバコの吸い殻がいくつも水に浮いている。バケツの側に入れ損ねた吸い殻が一本落ちている。片付ける気はないらしい。

東方は平手で乱暴にドアを叩くと返事を待たずに扉を開ける。

「すいません、今、ちょっとよろしいですか?」

 プレハブの中から昨日とは違う男がこちらを怪訝そうに見ている。

「誰だ、あんたは? 言っておくが取材なら管理会社を通してくれ」

 痩せて目つきの悪い男は敵意をむき出しに東方を見る。東方の後ろに立つ制服警官の姿に、ああ、警察の人、と突然声のトーンが変る。

「ここの管理人だね?」

「俺は何もしてねえぜ」

「そんなことは言っていませんよ。ただ話を聞きたいだけです」

「話すことなんて何もないぜ。俺は何も知らねえ」

「そう邪険にしなさんなよ。先日の倉庫の不審死についてなんですが」

「死体を見つけたのは俺じゃない、人違いだぜ」

「もう一人の管理人にはもう会いましたよ」

「だったらそれで十分だろう? 俺はいなかったんだから」

 東方はため息を一つつくと、相手の警戒心を解くように穏やかな口調でたずねる。

「被害者の死亡推定時刻が、遺体発見の前日、つまりあなたが勤務していた日だとわかったんですよ。一昨日のことです。何か気付いたことはありませんか?」

「俺は何も見ていないし何も聞いていない。きっと俺の勤務前に殺したんじゃないのか?」

 なかなか鋭いね。ふむ、と東方は一度視線を管理人から外すと、ぐるりと室内を見回してから再び管理人を見る。

「日中はずっとここに?」

「それが仕事だ」

「ここで何を?」

「何って、ホームレスがうろついていないか見張っていたり、いろいろさ」

「大変な仕事ですね」

「おい、俺のことを侮辱する気か?」

「そんなつもりはありませんよ。質問を続けても?」

ああ、と不服そうに管理人は言う。

「被害者が亡くなったのは一昨日の午前中です。少なくとも夕方の見回りの時には、あの倉庫の中に死体があったはずなんです。知りたいのは一昨日の夕方、倉庫の見回りをしたかどうかです」

「したさ。俺が仕事をさぼっていると言いたいのか?」

「そう、突っかかりなさんなって。あなたの相棒は昨日の朝、倉庫の扉に鍵がついていないことに気付いて不審に思い倉庫に入って死体を発見しました。とすると、一昨日の夕方の時点でも倉庫の扉に鍵はついていなかったはずなんです。夕方の見回りをしたのであれば、その時に倉庫に鍵がついていたかどうか、覚えていませんかね?」

 その質問にあからさまに管理人は焦った顔をする。「いや、どうだろうな、」

「倉庫の見回りはしたんですよね?」

「したさ」

「倉庫の鍵をちゃんとチェックするよう言われているんですよね?」

「俺がいい加減な仕事ぶりだと言いたいのか?」

 東方は大きくため息をつくと首を振る。

「なあ、俺はおたくを侮辱なんてしないし、見下したりもしない。おたくの勤務態度がどうだろうがそれを管理会社に告げ口するつもりもなければ咎めるつもりもない。ただ、一昨日の夕方、倉庫に鍵がついていたかどうか知りたいだけだ」

 管理人はしばらく考え込むが、それからいいや、と首を振る。「覚えていない」

「見逃した可能性もある?」

「ああそうだ。これで満足か?」

 居直るような声を上げる管理人に、そうですか、と答えると東方はポケットから一枚の写真を取り出す。

「誰だこれ?」

「被害者です。見覚えがありませんか?」

「いや、ないな」

「そうですか」

東方はポケットに写真をしまうと、参考になりました、と答える。制服警官と目配せをして立ち去ろうとした時、ふと机の上の買い物袋にたくさんのチョコレートが入っていることに気付く。机の上にも食べかけの銀紙が散乱している。

「随分甘党ですね」「俺が何を食おうが関係ないだろう」管理人は不機嫌そうに中身が見えないように袋の向きを変える。「タバコの趣味もお世辞にもいいとは思えません。低タールにした方がいい、命取りになりますよ」「余計なお世話だ」「灰皿がありませんが、室内では吸わないんですか?」「ああ? それこそもう一人の奴と揉めてな」「もう一人の管理人?」「ああ」「非喫煙者はほんの少しの匂いでも気にしますからね。それでいつも外で吸っているんですか?」「ああ」「そこの扉の外、バケツのところで?」「ああ」「それ以外の場所では?」「吸わねぇよ。管理会社からも言われている」「見回りの時は?」「よせよ。咥えタバコで見回りをしているなんて会社に告げ口されたら俺は首になる。あんた、変なこと言うなよ」「言いませんよ」「もう一人の奴にも言うな。あいつは俺が首になるのを待っているからな」「何故です?」「あんた馬鹿なのか。俺がいなくなれば管理人の仕事に毎日入ることが出来る。給料も倍になるだろうが」

 なるほど、東方はそう言うと、そうだ忘れていたとポケットからペンと手帳を取り出す。

「管理会社に確認したんですが、登録してあった住所と電話番号が現在は使われていないようなんですよ。ここに、連絡先を書いていただけますか?」

 管理人はあからさまに嫌そうな表情を浮かべるが、渋々東方のペンを受け取り手帳に殴り書きをする。

「ありがとうございました」

 東方はにっこりと笑うとメモ帳をしまい、プレハブ小屋から出る。

警官は扉を閉じると鼻を鳴らしながら言う。「随分がらの悪い男でしたね」

東方はああ、と答えたあとバケツに入れ損ねて地面に落ちている吸い殻を拾い上げる。

「さっき道で拾った吸い殻とこの吸い殻。吸った人物が同じかどうか調べるように鑑識に伝えてくれ」

「それが重要なんですか?」

「あとこのペン。俺以外の指紋を照合してくれ」

「管理人の指紋を照合しろ、ということですか?」

 警官の言葉に東方はにいっと唇の端を吊り上げる。

「結果にきっと驚く」


11:36 a.m.


 笹井の運転する2CVは体を不規則に震わしながら走っている。助手席の水沼は携帯電話で何やらしゃべっている。しばらくして、はい、わかりました、ありがとうございますと携帯を切り、小さくため息をつく。

「斉藤の方はやっぱり駄目ですね。自己破産後にカードの作成歴はなく、携帯電話も解約済み。実家も連絡が取れないようですし、足取りを追うのは時間がかかりそうです」

「だとすると、残りは大野美由紀か」笹井の言葉に水沼は表情を引き締める。

「彼女が現在入院している精神病院がわかりました」

 それから二人を乗せた2CVは東洲区の小さな精神病院の駐車場に入る。受付で警察手帳を示ししばらく待っていると、腹の出た分厚い眼鏡の白衣の男が息を切らせてやってくる。

「お待たせしました。主治医の安藤です」

 額の汗をぬぐうと医者は二人を病棟に案内する。二人部屋だが片方のベッドは空いている。奥の窓際のベッドにやせ細った一人の女性が横たわっている。水沼がこんにちはと声をかけるが視線は合わない。

「何とか一命はとりとめましたがねえ、脳に障害が。損傷がひどくてまともな会話をかわすことは難しい状態です」

 まだ二十代前半のはずだが頭には白い物も目立つ。こけた頬に窪んだ眼窩のせいで四十代、五十代に見える。宙を泳ぐ視線にいたたまれなくなり、水沼は思わず目を逸らす。ベッドサイドには花瓶に花が飾られている。病院に生花とはめずらしいが精神病棟は違うのだろうか。もうここで治療出来ることはありません、と医者は言う。施設に入所するための転院待ちだという。

「アリバイを調べるまでもない。彼女には殺せない」

 笹井の言葉に、水沼は静かにうなずく。


1:05 p.m.


 東方は市警察鑑識課の扉を叩く。

「大当たりだ。指紋がデータベースと一致したぜ」

 鑑識官が東方に資料を手渡しながら言う。

「二年ほど前に暴行及び窃盗で逮捕、実刑になっている。三カ月ほど前に仮釈放となり、現在は保護観察中だ」

「仮釈放違反はなしか?」

「それを調べるのはそちらの仕事でしょう?」

「鍵の方はどうなった? あの血痕から何かわかったか?」

「血液型は被害者の物と一致した。DNA鑑定を待たないと確定は出来ないが、被害者の血痕でまず間違いないだろうね」

「落ちていたタバコからは何かわかりそうか?」

「地面に落ちていた方は雨の中、地面に放置されていたから唾液の検出は難しいかもしれない。ただ、不完全ながら指紋は検出出来たからね。もう一本のタバコと現在照合中」

「まあ、誰の吸い殻かは検討がついているが、問題はそこじゃない」

「というと?」

「問題は、どうしてタバコは半分も吸われていないのか、ということだ」

 そう言うと、東方は小さく唇を鳴らし、わけがわからないという表情を浮かべる鑑識官を残して、部屋から出る。


2:31 p.m.


二人の刑事はオープンテラスの席に着く。水沼の皿に山盛りになった料理を見て笹井は本当に全部食べるのか、とたずねる。「勤務中にこんないい食事をとれるチャンスは滅多にありませんから」あっと、と笹井はナイフとフォークを手にする。

黙々と料理を口に運びながら二人は午前中の一件について話し合う。

「もし二年前の株の一件の関係者が犯人だとすると、可能性があるのは行方知れずになっている斎藤だけか」

「ですが、すでに二年が経過していますし、そもそも今頃になって復讐するというのもなかなか無理がある話です。株の一件以降、米田はマネーゲームからは完全に手を切っていると家族も言っていますし別のトラブルというのも」

「携帯電話さえあればいくらでもネットギャンブルも出来るが、実際問題、携帯電話も妻に握られているからな」

「はい。金融業者からつまんでいる様子もありませんし、金銭問題はこの事件とは関係ないのかもしれませんね」

そうだなと言うなり、笹井が会釈をする。振り返ると、店側からオープンテラスに向かって立っているこの店のフロアマネージャーの溝口の姿が見える。彼に挨拶をしたのだろう。

「彼が被害者をこの店に紹介したんですよね」

「余程の仲だったんだろうな。金銭問題でトラブルを抱えていた人間を自分の職場に紹介するなんて普通なら遠慮したいだろうからな」

「持つべきものはいい友達ですね」

 それには答えず、笹井はごくりと水を喉に流し込む。

 それからしばらく二人は無言で食事に専念する。日差しは強くない。心地よい風が通り抜けるオープンテラスには、多くのビジネスマンの姿が見える。緑や赤や黄色が皿の上で踊り、彼女は普段の激務を忘れてついつい食べることに夢中になってしまう。

「こんな姿、東方さんが見たら怒りませんか?」ふと思い出したように彼女は言うが、笹井はもちろん内緒だと答える。それからおもむろに手を上げてウェイターを呼ぶと、「俺は食後のコーヒーを飲むからな。飲み終わるまでは絶対にここから動かない。あいつからの電話にも出ない」

 それ、いいですね。

 彼女は立ち上がって手を上げると、すいませーんと大声で店員を呼ぶ。


2:45 p.m.


 東方は市警察取調室に籠って一人で考え込んでいる。机の上には犯行現場の資料が並べられ、証拠品袋に入った傷だらけの南京錠が置かれている。 

 東方は考える。最初に被害者を殴った時、被害者は麻袋を被せられていた。犯人が返り血を浴びた可能性は低い。だとしたら南京錠に血液が付着したのは一度倉庫から出て、とどめをさすたびに再び倉庫に戻って来た時だろう。被害者にとどめをさした時、犯人はかなりの量の返り血を浴びたはずだ。その際に血液が付着したのであれば、やはりどう考えてもおかしい。

 とどめを刺したのは管理人の出勤時間前後だ。返り血を浴びた犯人は慌てたはずだし、一目散に現場から立ち去りたかったはずだ。何らかの理由があり、倉庫に鍵をかけなかったとしても、その鍵を血まみれの姿でわざわざ倉庫の外にあるゴミ捨て場に捨てに行くだろうか。パニックになっていたからと片付けられる話じゃない。やはりおかしい。どうして鍵はあんな場所に捨てられていたんだ?

 東方は指先で、鍵をとんとんとノックする。この犯人は秩序的な人間だ。犯行現場を選び、鍵を盗み出し合鍵を作り被害者を処刑した。きちんと下準備をして実行している。そんな人物が、いくらパニックになっていたとしても、このような無意味な行動を取るだろうか? 一致しない。犯人像が一致しない。何かがおかしい。何かを見落としている。


2:55 p.m.


首都警察にいた時も刑事部屋のコーヒーを美味しいと思ったことなんて一度もない。別にコーヒーにこだわりがあるわけでもないが、少なくとも今、目の前に置かれている美しい飲み物が、普段口にするあの苦いだけの液体とはまったく別物であることはたしかだ。水沼はずずとコーヒーの香りを口いっぱいに広げて堪能する。最高に幸せな時間、などと現実逃避をしている場合ではない。

「犯人が現場に戻ってきた理由ですけど、被害者が生きていることを知ったということから一度離れてみたらどうでしょうか?」

「聞こう」

「もっと単純に、被害者が死んでいるか心配になって戻ってきたんじゃないでしょうか。犯人は最初に現場を離れた時、麻袋を被害者に被せたままで、死んでいるのをたしかめませんでした。そのことがあとから急に不安になり、そして倉庫に戻ってきたんじゃないでしょうか? そして不安が的中し、本当に被害者は生きていた」

「わざわざ凶器を手にしてか?」

 笹井の反論に、えっと彼女は一瞬言いよどむ。

「検死記録によると一撃目と二撃目は同じ形状、同じサイズの物で殴られたと考えられている。現場に凶器が残されていないということは、犯人が持ち去ったということだ。二度目に殴った時に持ち帰ったのなら、最初の時もそうしたはずだ。つまり犯人は一度持ち去った凶器を手にして倉庫に戻ってきたことになる。殺すつもりで帰ってきたと考えるのが自然だ」

 なるほど。でも。「でも、」彼女の言葉を先回りして笹井が言う。「たしかにお前の言う通り、生きているかもしれないと疑っていたから凶器を手に戻ってきた、そして本当に被害者が生きていたらとどめをさしたというのは一見理屈が通っている。だがそもそもそんな心配性な人間なら、もっと早く現場に戻るだろう。どうして最初の一撃から二時間も経ってから不安になるんだ?」

「たしかに、」彼女は唇を尖らせたまま、つつとカップの淵を指でなぞる。

 しばらくして水沼はたずねる。

「そういえば、本当になかったのでしょうか?」

「何の話だ?」

「ダイイングメッセージです」

「まだ言っているのか」笹井は呆れた表情を浮かべる。「這った跡がアルファベットのSに見えるから、現在行方不明の斉藤のSとでも言いたいのか?」

「笹井さんもダイイングメッセージは却下、ですか?」

「事件をややこしくするな。フィクションならともかく、実際の事件でダイイングメッセージの血文字を残したなんて事例はほとんどない。そしてそもそも、今回の事件で被害者がダイイングメッセージを残したなんてことはあり得ない」

「何故ですか?」

「被害者が目を覚ました時、辺りは真っ暗だ。頭を強く殴られ命の危険を感じている被害者にとっては、第一にするのは退避行動なはずで、ダイイングメッセージじゃない。ダイイングメッセージはそもそも死ぬことを覚悟した時に、最後の力をふり絞って残すものだが、被害者は二時間生存し、途中の蛇行はともかく最終的に扉に向かって這っているんだ。死ぬつもりなんてなかったはずだ」

笹井の言葉に彼女は黙り込む。たしかにそうだ。被害者は必死に生きようとしていた。だとしたらあの蛇行にも何か意味があるはずだ。ダイイングメッセージはともかく、何か意図をもってああしたはずなんだ。

第一にするのは退避行動なはずで、ダイイングメッセージじゃない。 

 えっ、と彼女は思う。笹井の言葉が頭の中でがんがん響きながら反芻される。わたしはいつの間にかあの倉庫の冷たい床に横たわっている。後ろ手に縛られ、うめき声を上げるが助けは誰も来ない。頭が割れるように痛い。頭痛に吐き気、死の恐怖が包み込む。わたしは必死に地面を這う。死にたくない。死にたくない。ならどうする。わたしなら、あの状況で、助かりたければ何をする?

 ああ、そうか。

 彼女は理解する。被害者の意思と意図、そして訪れる確信。

「もう一度、倉庫を見れませんか?」

 大きく目を見開いて彼女は言う。

「わたし、わかったような気がします」


3:41 p.m.


 市警察の捜査一課取調室をノックする音がする。顔を上げるとがちゃりと扉が開き、制服警官が顔を覗かせる。

「東方さん。被害者の失踪当日の足取りがわかりました」

 ああ、と怪訝そうな表情を浮かべる東方に警官は興奮気味に言う。

「鉄道会社の記録によりますと、被害者と同姓同名の登録は三名。普段の通勤で使用されている最寄り駅と勤務日とを照らし合わせて被害者のカードが判明しました。記録によりますと、被害者は日曜日の午前中、自宅近くの駅から最乗寺三丁目駅まで地下鉄を使用しています」

「最乗寺三丁目、現場からはずいぶん離れているな。そこで犯人と接触したのか」

「それはわかりませんが、」

「最乗寺三丁目、か」

 東方はそうつぶやくとおもむろに立ち上がり刑事部屋に戻る。壁に貼られている未未市の地図を睨みつける。どうかしたんですか、と追いかけてきた制服警官がたずねる。

「最乗寺三丁目。再開発以前の街が残っている地区だな。すぐ北は大規模な宅地開発がされた地域だ。ここに昔あったのは何だと思う?」

「たしか歓楽街、呑み屋街でしたよね」

「治安の悪い地域を再開発で一掃。居場所をなくした連中がどこに流れ込んだのか」

 そう言うと、東方は最乗寺三丁目駅を指差す。

「たしかに最乗寺三丁目付近は、お世辞にも治安のいい場所ではありませんが」

「保安課に行ってくる」

 東方はそう言うと、足早に刑事部屋を出ていく。五階まで階段を駆け上がると生活安全部の保安課を訪れる。対応してくれたのは赤毛の女性刑事で東方の唐突な質問にも嫌な顔をせず丁寧に答えてくれる。

「ええ、たしかに最乗寺三丁目付近には違法賭博場があります」

 案内された会議室で女性刑事が地図を広げながら説明する。

「この遠藤ビルの一室に違法カジノがあるの。最乗寺三丁目駅から徒歩圏内で、私達がマークしているような違法カジノはここだけね」

 ビンゴ。今日の俺は冴えている。


4:22 p.m.


 ぼろぼろの2CVが再び倉庫の前に停まる。

 笹井と水沼の二人は黄色い規制線をくぐると、ドアを完全に開け放ち、入り口近くのバッテリーの電源を入れる。倉庫の中が照明器具で煌々と照らされる中、二人は被害者が最初に殴られた血だまりのところに歩いていく。そこから水沼は、被害者が残した這って出来た巨大なS字に沿ってゆっくりと歩いていく。

「おい、何を始めようっていうんだ?」

 血だまりのところに立ち尽くしたまま笹井が言うが、彼女はそれには答えず背を向けたまま歩いていく。そして被害者が最後に倒れていた場所までくると立ち止まり、それから再び二歩、三歩と後ろ歩きで戻ってくる。背中を向けたまま大きくうなずくと、ようやく彼女は笹井を振り返る。

「笹井さん。やはりそうです。これが、被害者がこんな風に這った理由です」

 そう言うと、彼女は手にしていた自分の携帯電話の画面を笹井に向かって掲げてみせる。

「見えない」

「こっちに来て下さい」

 面倒くさそうに歩いてくる笹井に、彼女はぐいっと携帯の画面を近付ける。

「近い」

「見て下さい。ここなら電波が入ります。倉庫の中は携帯電話が基本的に通じません。管理人もずぶ濡れになって外で市警察と通話していたんですよね。でも、被害者が這って出来たS字の最後のカーブの部分。ここで微弱ながらアンテナが一本だけ立っているんです」

 笹井は信じられないという表情を浮かべる。

「この辺りは金属製の壁を持つ倉庫が立ち並び、海も広がっています。電波の通りはかなり限定されるはずです。笹井さんのおっしゃる通りでした。被害者は必死に生きようとして、助かろうとして、携帯電話がつながる場所を探したんです」

 待て、待て、と笹井は首を振る。

「あり得ないだろう。被害者が携帯電話を持っていたというのか? 犯人が見逃したと」

「ですが、この場所で携帯がつながるというのは単なる偶然とは思えません。そして被害者が携帯電話のつながる場所を探して這いまわったというのならすべてに説明がつきます。被害者が死んだと知っただけなら、やはりあんな危険な時間帯に犯人がここに戻ってきたはずがないんです。ここは大きな倉庫で大声を上げてもよほど近くを通らない限り聞こえないでしょうし、後ろ手に縛られた被害者は扉を叩くことも出来ません。もし被害者が生きていたとしても、外に知らせることは出来ません。自分が目撃される危険性と被害者を管理人が発見する危険性を天秤にかければ、普通なら管理人のいない時間に倉庫に戻るはずなんです。ですがもし、被害者が携帯電話を持っていると知ったのならどうでしょうか? いつ警察に通報されるかわからない。とても放置は出来ません」

「待て、待て。つまりお前はこう言うのか。犯人は被害者がただ生きているだけじゃない。携帯電話を持っていることを知り、急いで現場に戻ったと」

「はい。被害者は犯人に電話をかけたんです」


5:55 p.m.


 課長室には張り詰めた空気が充満していた。

「被害者が犯人に電話をかけたとはどういうことだ。わかるように言え」

 課長の問い詰めるような口調に、水沼は神妙な面持ちではいと答える。

「検死結果によると被害者が最初に殴られてから二度目に殴られるまで、二時間の空白の時間があります。その間に他の外傷は受けておらず、また二度目に殴られる時間帯が犯行を目撃される危険性がある時間帯だったことから、犯人が現場に居続けた可能性は低い。犯人は一度現場を離れ、止むを得ない事情から二時間後に現場に戻り被害者にとどめを刺したと思われます。では何故犯人は二時間後に現場に戻ってきたのか。そして戻ってきた時に被害者が生きていたのは偶然か。これがこの事件の最も重要な問題です。結論から言います。被害者は携帯電話を持っていました。犯人が立ち去ったあと、あの倉庫の中で携帯電話が使える場所まで這って移動し、そして助けを求める電話をかけました。そしてその相手は、犯人だったんです。ただ被害者が生きていただけではない。携帯電話を使える状況だと知り、犯人は大急ぎで現場に戻り、そして被害者にとどめを刺したんです」

 課長はちらりと東方を見る。東方は部屋の隅で壁にもたれかかり、両手で顔を覆ったまま無言を貫いている。

「そう考える根拠は?」

「被害者は犯人が現場を立ち去ったあと意識を取り戻しました。自力で麻袋を脱ぎ捨て、大きくS字を描くように地面を這っています。最終的には扉に向かって真っすぐ向かっていますが、どうして最初から真っすぐ出口に向かわなかったのでしょうか。被害者の這った跡に沿ってたしかめましたが、扉に向かう直前、その周辺だけで携帯電話がつながるんです。あの倉庫内で電波が届くのは非常に限定された場所だけです。その場所から扉に真っすぐ向かっているところからみて、携帯電話がつながるところを探し当て何らかの連絡を取ったあと出口に向かったのだと思います。現在、報道では被害者の名前も出ています。被害者が助けを求めた相手がそれを知れば当然通報してくるはずですが、今の所その報告はありません。犯人が現場に慌てて戻ってきたことを考え合わせますと、被害者が電話をかけた相手が犯人だったというのは十分あり得る話です」

 ふうむ。課長はイスにぎっと背もたれると眉間にしわを寄せたまま笹井と水沼を見る。「話としては面白いが無理がある。犯人は被害者の身元につながるような持ち物を現場から持ち去っている。だが二度目に現場に戻って来た時であれば、そんな悠長なことはせずにすべての持ち物を持ち去ったはずだ。とすれば犯人が被害者の持ち物を持ち去ったのは、当然、一度目に現場から立ち去った時ということになる。問題は持ち去る物を選んでいるということだ。そのためにはすべてのポケットをたしかめたはずだ。携帯電話を見逃したとは思えない。そして何よりも、被害者の携帯電話の通話記録には、失踪してから使用された形跡はなかったはずだ」

はい。水沼はうなずく。「当然、犯人は携帯電話を持ち去ったはずです。だからこそこんな奇妙な事態が起こったんです。一台携帯電話を見つけた犯人は、それで安心してしまったんです」

「二台目を持っていたと言うのか?」

 課長の問いに、笹井は大きくうなずくと東方を見る。

「失踪当日の被害者の足取りが割れたんだろう?」

 課長が見ると東方は顔を両手で覆ったままぶっきらぼうに答える。

「被害者は地下鉄を自宅最寄り駅から最乗寺三丁目まで乗っています。生活安全部に確認したところ、最乗寺三丁目駅付近には市警察にマークされている違法カジノがあります」

「違法カジノ?」

「米田は学生時代からギャンブルに明け暮れていたマネーゲームの依存症です。そう簡単に足を洗えるもんじゃありませんよ。株で大損を出してからはカードも携帯電話も妻に管理されていますが、ギャンブルのための携帯電話をもう一台隠し持っていたとしても不思議はありません」

 笹井の言葉に課長はそうかと一度うなずきはするものの、やはりまだ納得し切れない様子で再度口を開く。

「だがそれにしても、二台目の携帯電話を見逃すというのはやはり都合が良過ぎるだろう。余程巧妙に隠していたというのか。被害者の衣類に隠しポケットでもあったのか?」

 それは、と笹井が言い淀む。「たしかに隠しポケットの類はありませんが、」

「先程も言ったが犯人はすべてのポケットを確認しているはずだ。それでもなお見逃したというのなら、二台目の携帯電話がどこにあったのか納得のいく説明が必要だ」

 課長の指摘はもっともだ。笹井と水沼は同時に押し黙る。二人にしてもその答えはまだ手にしていない。たしかに犯人が携帯電話を見逃したとすると、状況証拠から考えて被害者が携帯電話をかけた可能性は高くなる。だが、何故犯人が携帯電話を見逃したのか、それは大きな問題として今刑事達の前に立ちはだかっている。

 しばらくの沈黙のあと、両手で顔を覆ったままの東方がぶつぶつと何かつぶやくのが聞える。課長は眉をひそめ、「何だ、」と東方に問う。再び東方が何かつぶやくがはっきりとは聞き取れない。「聞こえない。何だ、はっきりと言え」

 だから。「だから、タバコの空箱だって言っているんです」

 東方の言葉に水沼がはっとして思わず彼を見る。

「タバコの空箱ですよ。現場に落ちていたんです」東方はそれから手を下ろすと、もたれかかった壁に両手をつけ大きく息を吐く。「鑑識によると、被害者のポケットに血痕がついていたのはズボンの後ろ、右側のポケットだけです。被害者は最初に殴られた時は麻袋を被せられており、犯人は返り血を浴びていませんが、二度目に殴った時は周囲の血痕から見て犯人は返り血を浴びています。もし犯人が二度目に殴ってから被害者の所持品を持ち去ったのならすべてのポケットに血痕がついていても不思議はありません。とすると課長の言う通り、犯人は最初に殴った時に所持品を持ち去ったのでしょう。そして一度目に殴った時に所持品を持ち去ったのなら、被害者のポケットに血痕を残したのは犯人でありません」

 東方は小さく唇を鳴らすと首を振る。

「被害者が最初に殴られた場所の周囲に落ちていたタバコの空箱には血痕が付いていました。そして右側の後ろポケットにも。とすると被害者のポケットの中から空箱を取り出したとのは、返り血を浴びていない犯人ではなく、被害者自身と考えるのが妥当です。他のポケットがきれいということは、最初からそのポケットだけをまさぐり、意図的にタバコの空箱を取り出したことになります。そしてタバコの空箱は潰れていない状態で落ちていました。ズボンの後ろポケットに入っていたにも関わらずです。とすると空箱の中に何かが入っていたことは明白です。折り畳み式の携帯電話ならちょうどいいサイズです」

「タバコの空箱に携帯電話を隠していたから犯人が見逃したのか」課長は唸るように言う。

「被害者の家に行った時、応接室には灰皿がありました。家の中でタバコを吸うこと自体は許容されていたのでしょう。妻からタバコのニオイはしませんでしたし彼女は非喫煙者です。タバコの箱の中なら、携帯電話が妻に見つかる可能性はまずありません」

「そこまで言うなら、お前も被害者が現場から犯人に電話をかけてきたという水沼の推理に賛成か?」

「気に入りませんがね」

 東方はそう短く言うと口を閉ざし、再び両手で顔を覆う。

 課長は笹井と水沼の二人を見る。

「被害者が犯人に電話をかけたのは偶然か? あるいは犯人に何かを伝えようとしたのか?」

「わかりません」笹井は首を振る。「ですが、犯人が被害者の顔を見られないという理由で麻袋を被せたのなら、犯人は被害者と顔見知り、あるいはかなり深い仲でもおかしくありません。被害者には記憶障害をきたす鎮静剤も投与されていましたし麻袋も被せられていました。犯人が誰かということを認識しておらず、純粋に助けを求めて電話をかけた相手が、偶然犯人だった可能性は十分あります」

 水沼も笹井に続く。

「殺したはずの相手から電話がかかってきたんです。犯人はパニックだったはずです。倉庫に戻った犯人は被害者を殺害しましたが動揺していたのでしょう。そして、倉庫に鍵をかけ忘れたんです」

 ふうむと喉の奥を鳴らし、課長は深々と革張りのイスに背もたれる。しばらく考え込んだあと笹井に問う。

「もし被害者が本当に二台目の携帯電話を持っていたとして、支払いはどうしていた。今時、携帯電話の契約には口座が必要だろうが、カードは妻に管理されていたのだろう?」

「被害者は筋金入りのギャンブル依存症です。当然、学生時代から複数の口座を持っていたと思います。株の一件で口座はすべて整理したのでしょうが、妻も把握していない口座がまだ二、三残っていても不思議はありません」

「では、まずは被害者の口座を見つけ、そしてそこから契約している携帯会社を探し出せ。本当に二台目の携帯電話があっても、事件当日にどこにもかけていなければここでの話はすべて無意味になる」

「見つけますよ」笹井はそう言うと水沼を見る。彼女も力強くうなずくと課長に言う。

「見つけ出します」


DAY3 1994/5/12 Thursday

8:31 a.m.


 東方が眠い目をこすりながら刑事部屋に入ると、刑事達が集まっているのが見える。「誰か死んだのか?」東方が不謹慎な物言いでたずねると、刑事達に混じって集まっていた水沼が、お早うございますと頭を下げる。横に立っていた笹井がくいっと顎で課長室の扉を指す。「本部長が来ている」「本部長が?」東方が言うと、途端に全員の視線が東方に集まる。東方はため息をつくと、それから刑事達に言う。「何の悪さがばれたんだ?」

 呆れたように笹井が首を振ったところで課長室の扉が開き、分厚い眼鏡をかけたスーツ姿の男が部屋から出てくる。未未市警察本部長は集まっている刑事達を一瞥すると、「何を雁首揃えて突っ立っているんだ。仕事をしたまえ」と甲高い声で言い、刑事部屋から出て行く。ほどなくして課長室の扉が再び開き、課長が東方達三人を部屋の中に招き入れる。

「単刀直入に言おう。市長からのお達しだ。事件発覚からすでに四十八時間が経過、いまだに容疑者の一人も挙げられていない状況に市民は大変な不安を覚えている。本日の夕方のニュースまでに、少なくとも容疑者を取り調べていると報道されることを市長はお望みだ」

「簡単に言ってくれる」東方は他人事のように鼻で笑う。

「被害者の口座について何かわかったのか?」

 ええ、と笹井はうなずく。

「妻に隠している口座が見つかりました。社会人になってからの口座は株で大損した時にすべて返済に充てられていますが、未未市に出てくる前、学生時代に地元の地方銀行で作った口座が残っていました。その口座は今も稼働しており、携帯電話の契約も確認出来ました」

「迷いごとでも現実となれば認めるしかないな」

 課長はそれから刑事達を見る。

「携帯会社に通話記録の開示請求は?」

「すでにしています。月曜日の朝六時から八時までの間に通話記録があれば、その相手を第一容疑者として取調室に引っ張ってきますよ」

 そうか、と課長はうなずく。だが東方がそれに難色を示す。「駄目だ」

「駄目とはどういう意味だ?」

「仮に犯行時刻に被害者が通話した相手がいたとしても、それが犯人であることの証明にはなりません。犯人が自滅して自白してくれればいいですが、もし言い逃れられたらどうします? 課長だって最初に聞いた時は荒唐無稽な推理だと思ったはずです。通話相手が本当に犯人だとしても、取り調べを乗り切ったあと、市警察はこんな妄想まがいの言いがかりで自分を犯人だと決めつけた、不当な取り調べを受けた、マスコミにそう訴えたらどうします? 世間の注目の事件です。下手をすれば二度とそいつを追及出来なくなりますよ」

「いつからそんな弱腰になった? 携帯電話の一件もお前が思い付いたなら、とっくに容疑者をあそこに引きずり込んでいただろう」

「誰が思い付いたかは関係ありません。この犯人は馬鹿じゃない。決め手に欠けると言っているんです」

 東方が課長に言い返すと同時に、扉がノックされる。入れ、という課長の声のあと扉が開き、制服警官が入ってくる。

「笹井刑事。至急でこれを届けるようにと言われました」

 書類を手渡すと警官は部屋から出ていく。笹井は書類を一瞥したあと、ポケットの中から取り出した手帳にメモしてあったリストの電話番号と見比べる。

「電話会社からです。月曜日の午前七時三十八分。米田は件の携帯電話から通話しています。通話時間は約三十秒。相手の番号は控えてあった事件関係者の一人の物と一致しています」

 笹井の言葉に課長は改めて東方に言う。

「連れてこい」

 有無を言わせぬ口調に、東方は観念したのか了解、と低い声で一言答えると部屋から出ていこうとする。その背中に課長は言う。

「主尋問は水沼がやれ。二人はサポートしろ、いいな」

 課長のその言葉にぴたりと足を止めると、東方は両目を見開き憤怒の形相で振り返る。「何ですって?」

「聞こえただろう」

「これは俺の事件ですよ」

「二台目の携帯電話の存在に気付いたの水沼だ。彼女にやらせる」

「あそこは俺の部屋だ」東方はそう言うなり水沼に詰め寄る。怒りと屈辱に歪み、今にも食い殺さんばかりの東方の表情に水沼は思わず気圧され後ずさる。「勘違いするな。お前は幸運だっただけだ。携帯の存在に気付いた、ただそれだけだ。実力じゃない」

「東方、言い過ぎだ」笹井が責めるような視線を向ける。

「お前が言い出したのか? 研修生が取り調べだと、本気でさせるつもりか?」

「彼女に先を越されて気に入らないのはわかるが、俺に当たるなよ」

 そこまでだ、と課長が大声を上げる。「全員黙って私の話を聞け。水沼。東方の言う通り今回は幸運だっただけだ。勘違いはするな。それから東方。これは私が決めたことだ。私が水沼に取り調べをさせると言ったら、その通りにするんだ。わかったか」

 東方はぎりっと奥歯を噛みしめ立ち尽くす。

「水沼、やれるか?」課長が問うと、水沼は一度東方の横顔を見たあと笹井を見る。笹井がうなずくと、一度大きく息を吐き、それから答える。

「やります」

 課長は三人を見回すと、鋭い口調で言う。

「始めろ」


9:12 a.m.


 東方の怒鳴り声は課長室の外まで聞こえていたのか、三人が刑事部屋に出てくるとずっと様子をうかがっていたらしい刑事達は慌てて視線を逸らす。

「くそったれ親父。本部長の言いなりかよ」

 東方はそう言うなり側にあったゴミ箱を蹴りつける。

「落ち着けよ。決まったことは仕方ないだろう」

 笹井が声をかけるが東方は意に介さない。

「通話記録があったからといってそれが何だ」

「あの、すいません」

 水沼が声をかけるがまったく聞こえていないのか、東方は怒りが収まらない様子であたりを歩き回っている。

「犯人がこいつなら動機は見当がつく。裏はすぐに取れるはずだ。確認出来次第、取調室に引っ張る」

「動機が何だ。結局のところ決め手にはならない」

「これだけ状況証拠が揃っていれば、十分自白を引き出せるさ」

「こいつは馬鹿じゃない。そんなミスをするはずがない」

 突然、東方の足が止まる。

「ミスをするはずがない」

 そうつぶやくと東方は眉をひそめたまま固まってしまう。

たしかにこいつはこれまでもミスをしている。被害者の死を誤認した。だが被害者との関係性を考えれば被害者の顔を見られなかったのはある意味仕方がないことだ。携帯電話を見逃した。タバコを吸わない人間にとって、タバコの空箱の中に何か入っているなんて想像も出来なかっただろう。これらはミスだが理解は出来る。だが、だが、

「どうした?」

 笹井の声は届かない。東方はまるで気配を殺すようにその場に立ち尽くしていたが、頭の中では何かがうごめいている。何だ、何かに引っかかっている。自分の足元の床が波打ちずぶずぶと沈んでいくのがわかる。深く、深く、潜っていく。思考の海に潜っていく。きん、と両耳を貫くような音がして東方は両目を大きく見開く。そう、

「犯人があんなミスをするはずがない」

 そうか。そういうことか。

 一人うなずいたあと、東方はゆらりと刑事部屋の出口に向かって歩き出す。

「おい、どこに行くんだ?」

「ちょっと用事が出来た」

「用事? ふざけるな。これから容疑者のことを調べるんだろう?」

「あの。東方さん。やっぱりこの取り調べは東方さんがやった方が、」

「取り調べ?」東方は怪訝そうに彼女を見る。「ああ、そうだな。いや、どうでもいい。この取り調べはどうせ失敗するんだ。お前がやればいい」

「そんな言い方はよせ。別に彼女が取り調べをしたいと言い出したわけじゃないんだぞ」

「え? ああ、そうか、そうだな」

 心ここにあらずといった様子の東方は両手を水沼の肩に置くと、頑張れ、とだけ一言いい、刑事部屋の出口に向かって歩いていく。

「東方、」

 笹井が大声で呼ぶが、東方はさっさと一人で刑事部屋から出ていってしまう。

「あいつ、一体何なんだ」

「あの、本当にわたしでいいんでしょうか?」

 水沼が笹井にたずねる。

「あいつは自分がこの事件の担当だと言ったが、お前だってこの事件を担当する殺人課刑事だろう?」

「はい」水沼は力強くうなずく。

「だったらやるべきことをやるだけだ」


10:24 a.m.


 水沼桐子は取調室の机の上に資料を順番に並べる。

 笹井は扉脇の壁に寄りかかりその様子を眺めている。

「何か聞いておいた方がいいことありますか?」

「お前に上手な取り調べは誰も期待していない。上手くやろうと思うな。しゃべり続けろ、ひたすらな。相手がうんざりして自白するまで、とにかくしゃべり続けるんだ」

 彼女は黙ってうなずく。

「手の内を悟られるな。奥の手がいくつもあるように思わせるんだ」

「具体的にはどうすれば」

「しゃべり続けろ」

 はい、ともう一度うなずき彼女は両手で顔を叩く。

「始めましょう」


**********


 東方の運転する古い2CVは全身をきしませながら高速道路を走っている。助手席に座る制服警官が乱暴な運転に文句を言う。

「安心しろ。俺は交通法規を遵守すると誓っている」

「今年、結婚したばかりなんですよ」

「それは災難だな」

「本当にこの車、大丈夫ですか? さっきから座席の下から変な音がしていますよ」

「さあな。このポンコツに聞けよ」

 車は高速をおりると、低所得者向けのアパートが立ち並ぶ地区に入る。制服警官の手にしている地図には、東方の手帳からやぶったメモが添えられている。

古い団地の駐車場で車は停まる。二人は車をおりると二階の一番端の部屋に向かう。小豆色の古い金属製の扉を東方が平手でばんばんと叩く。しばらくして部屋の中から人の気配がして、こちらにやってくるのがわかる。東方がさらに大きな音で扉を叩くと、乱暴に扉が開かれ、住人が何だ、と声を荒げながら顔をのぞかせる。東方とその背後の制服警官に住人は怪訝そうな表情を浮かべる。「あんたは、」

「まったく。やってくれたな」

 東方の第一声に、犯行現場の倉庫地帯の管理人の一人である男は困惑して顔を歪める。

「あんた、市警察の。一体何の用なんだ?」

「お前のせいで、こっちは随分遠回りさせられたぜ」


**********


 取調室のイスに一人座って、水沼桐子はじっと机の上を見つめている。笹井は水沼の後ろで、壁に寄りかかり腕組みをして目を閉じている。しばらくすると扉がノックされ、警官に連れられ一人の男が取調室に入ってくる。顔を上げ、前を向き、ふっと小さく息を吐いた彼女は男の方に振り返る。

「お待ちしていました。溝口毅さん」


**********


 刑事達の突然の訪問に、管理人は迷惑そうな声を上げる。

「急にやって来て一体何なんだ? また事件の話か。何度も言っただろう。俺は何もしていないぞ」

「最初に会った時もそう言った。俺は何もしていないってな。だがいいか、やましいことがない人間は、自分からそんなふうには言わないんだ」

「何を、あんた」

「もう全部わかっているんだ。あんたはただの仕事がいい加減な管理人じゃない。あの日、何があったのか。こっちはもう全部わかっているんだ」

「俺は何もしていない」

「何もしなかったことが問題なんだろうが」

 東方は声を荒げて言う。昨日会った時とはあきらかに違う態度に管理人は動揺する。

「管理人事務所にあった工具箱。あの中にあった物じゃあ、壊せなかっただろう」

「あんた、何を言っているんだ」

「いいか、おたくに選択肢なんてないんだ。捜査妨害をしたとなると仮釈放違反、刑務所に逆戻りだ。だが俺に協力すれば捜査妨害については目をつぶってやる」

「何の話かわからない」

「一目瞭然だろう。履歴書は出鱈目、タバコは刑務所の中で出回っている安物で、根元まで吸うのが習慣になっている。そして甘いものがやめられない。刑務所では嗜好品、特に食べ物については極端に制限されるからな。刑期が長い奴ほど出所後に甘い物に依存する。言い逃れようと思うな。お前の指紋はすでに確認済みだ」

 そう言うと、東方はポケットから証拠品袋に入った吸い殻を取り出す。倉庫近くに落ちていた半分ほど吸われたタバコの吸い殻。

「さて、俺には時間がないんだがな」


**********


「お忙しいところにお呼び立てして申し訳ありません」

彼女は努めて明るい口調で言うが、取調室に呼び出された溝口は警戒心を隠そうとしない。「それはかまいませんが、今日は一体何の用ですか?」

「はい。実は事件に進展がありましたのでご報告を」

「電話では駄目だったんですか?」

「捜査上の秘密もありますので電話ではちょっと。すいません」

「ランチの準備もありますし、支配人の許可は得ましたが、なるべく早く仕事に戻りたいんですが」

「用件はすぐに終わります。二、三、確認したいことがあるだけですから」

「そうですか、」

「座って下さい」

 溝口はちらりと笹井を見る。笹井は無言でじっと溝口を見ている。居心地悪そうに二人の刑事を見ながら、溝口はゆっくりと部屋の奥にあるイスに座る。

 ありがとうございます。丁寧に頭を下げたあと、彼女は質問を始める。

「米田さんとは親しい仲だったんですよね」「はい」「親友と言ってもいい間柄だった」「はい」「よく一緒に食事に行かれたりもした」「はい」「電話で話すこともしょっちゅうあった」「はい」「最後に彼と電話で話したのがいつだったか覚えていますか?」「さぁ、どうでしょう。よく覚えていませんが。先週、だったと思います」「なるほど。携帯電話を使われるのはご自分だけですか?」「どういう意味ですか?」「家族と共用とか」「一人暮らしですし、家族が勝手に使うということは」「友人に貸すなんてこともありませんか?」「そんなことする人います?」「それが聞けて安心しました」彼女はにっこりと笑う。

「では、本題に入ります。溝口さん。以前、お会いした時に、米田さんがどのように亡くなったのかとわたしにたずねましたよね。覚えていらっしゃいますか?」

「新聞では頭部を強く殴られたと」

「はい。金属製の工具みたいな物で殴られたと思われます」

「ひどい話ですね」溝口は心痛な面持ちで言う。

「これはマスコミに報道規制がかかっている事実ですが、米田さんは犯人に二度殴られています。そして不思議なことに犯人は米田さんを二時間かけて二度殴っているんです」

「どういう意味ですか?」

「犯人は米田さんを殴ったあと、一度現場を離れ、二時間後に戻ってきて、もう一度殴って殺害しています」

「そんな捜査の秘密を話してもいいんですか?」

 溝口の言葉に、彼女は一瞬きょとんとした表情を浮かべたあと、内緒ですよと声をひそめる。「とにかく、この犯人はですね、殺害の途中に何故か一度、犯行現場を離れているんです。何か用事があったのでしょうか? ですが人を殺している最中に殺人よりも優先する用時があるとは思えません。犯人は被害者が死んだと思い現場を立ち去ったんです。ですが、何らかの理由で現場に戻ってきて、まだ生きていた被害者にとどめをさした」

 一気にそう言うと、彼女はじっと溝口の顔を覗き込む。

「何か用事があって現場に戻ってきたところ、偶然、まだ生きていた被害者に遭遇したのでしょうか? あるいは、犯人は被害者が死んだと思い現場を離れたが、そのあとでまだ被害者が生きていることを知り慌てて現場に戻ってきた。どう思われます?」

「どうって言われましても、」

「ですがそうだとすると、一体どうやって犯人はまだ米田さんが生きていることを知ったのでしょうか?」

「そんなこと、わかるはずありませんよ」

「ずっとそのことで頭を悩ませているんです。もし何か意見があればお聞かせいただけませんか?」

「すいません。あの、お話の途中で大変申し訳ないんですが、話がそれだけならもうよろしいですか。店を他の者に任せていますので」

 溝口は立ち上がるが、その時、携帯電話の音が取調室の中で鳴り響く。溝口は立ち上がったまま固まってしまう。

「携帯、鳴っていますよ。出ないんですか?」彼女は冷静な口調でたずねるが、溝口は何も答えない。「あの時も、電話がかかってきた」取調室には携帯電話の音が鳴り続けている。「そうですよね、溝口さん?」

 溝口は何も答えない。携帯電話の音は鳴りやまない。

「どうぞ、電話に出て下さい」

 彼女はもう一度言い、溝口は震える手でポケットから携帯電話を取り出すと通話ボタンを押す。

「もしもし、」

「座っていろ」

 その声に、溝口ははっと顔を上げる。取調室の扉脇に立っている笹井が携帯電話で自分に話しかけている。

「何の、つもりですか?」

 笹井は携帯電話を切ると、溝口の方へと歩いていく。

「まだ、話は終わっていないんです。座って下さい」

「これは、これは一体何ですか? ただの事情聴取のはずでしょう」

溝口の顔面は蒼白になり、声は上ずっている。

「話が聞きたければ店に来て下さい。私の手が空いている時であればいつでもお付き合いします」

「座って下さい」

 彼女は溝口をじっと見上げたまま言う。

「任意でしょう?」

 ええ、と笹井はうなずく。「たしかに任意の事情聴取です。今ここで取調室を出て行くのを止める権利はこちらにはありませんが、そうすれば今夜、あなたの店に警官達が押しかけることになりますよ。高級レストランの店員が、市の管理する倉庫で殺害された世間でも注目されている事件です。営業時間中に警官達が店に押しかけあなたが取り調べを拒んでいるとニュースに流れたら、何もなくても世間はこう思います。本当は何かあるのかも」

 笹井は溝口の耳元でそう言うと、唇を鳴らす。

「脅すんですか?」溝口の言葉は震えている。

「まさか。ただもう少し話がしたいだけですよ。話が終われば友好的に握手をしてこの部屋を出て行けます」

笹井の言葉に、意を決したように溝口は再びイスに座る。「さっさと終わらせて下さい」溝口の言葉に笹井は水沼に言う。「続けろ」

 はい。彼女は机の上の最初の資料を開く。

「携帯電話、」そう言うと彼女は溝口に見えるように資料をつっと前に押し出す。「あなたの携帯電話の話をしましょう。これは米田さんとあなたの携帯電話の通話記録です。これによりますと、米田さんは亡くなる直前の七時三十八分、あなたに電話をかけています」

 えっと溝口は声を上げる。「覚えていませんか?」彼女が静かにたずねるが、溝口は何も答えない。

「単純な質問です。月曜日の朝、米田さんからかかってきた電話のことを覚えていますか?」

「朝の七時半なら寝ていたと思います」

「いいえ、あなたは電話に出ています。通話時間は三十二秒。あなたは米田さんと会話をしているんです」

「覚えていません」

「最初にお会いした時、こうおっしゃいましたよね。最後に会ったのは週末に職場だと。こうもおっしゃいました。月曜日、米田さんが無断欠勤をして心配していたと。当日の朝、電話があったことを何故、言わなかったんですか?」

「電話のことを忘れていただけです」

「米田さんの死亡推定時刻は八時前後、最初に殴られたのはその二時間前です。つまり、あなたに電話をかけてきた時点で、米田さんは一度犯人に殴られ瀕死の状態だったんです。米田さんはあなたに必死に助けを求めていた。そんな電話を、あなたは覚えていないとおっしゃるんですか?」

「もう答えました。覚えていません」

「わかりました。ですが、あなたが覚えていようがいまいが、米田さんが事件当日、あなたに電話をかけたことは紛れもない事実です。そして米田さんが最初に殴られ死亡するまでの間にかけた唯一の電話があなたへの電話です。通話記録がそれを示しています」

 彼女は淡々と、それでいて一気呵成に言葉を続ける。

「犯行現場は誰も近寄らない辺鄙な倉庫の暗闇の中です。最初の一撃から犯人が倉庫に戻って来るまでの間に、米田さんがまだ生きていると確信出来るのは米田さんからの電話を受けとった人物だけなんです。違いますか? ですからわたしからの質問はたった一つ、きわめて単純な質問です。溝口毅さん。あなたは、米田さんを殺しましたか?」


**********


 刑事部屋の電話が鳴り、制服警官が受話器を取る。

「未未市警察捜査一課です。あ、東方刑事、お疲れ様です。どうしました? え、はい、取り調べはもう始まっていますが。え、はい、わかりました。至急ですね」

 受話器を置くと、警官は刑事部屋から飛び出していく。


**********


 取調室の中、溝口はイスに座ったまま、無言を貫いている。

「沈黙は自白と受け取ってもよろしいですか?」

 水沼が静かにたずねるが、溝口は答えない。彼女はちらりと笹井を一瞥したあと、机の上で両手を握り合わせ、背筋を正して言う。

「もう一度おたずねします。溝口毅さん。あなたは米田真人さんを殺害しましたか?」

 取調室の扉が小さくノックされる。

 笹井は腕時計をちらりと見たあと、扉を小さく開ける。外に課長が立っているのが見え、笹井は彼女の背中に、ちょっと席を外すと言い、部屋から出る。

「時間がかかっているようだな」

「核心に触れてからはだんまり。膠着状態に入りましたね。物的証拠があるわけではありませんからね」

「やり遂げられそうか」

「俺に聞かないで下さい。課長がやらせたんじゃないですか」

「反対しなかっただろう?」

「東方はしましたよ」

「あいつが私の意に背くのはいつものことだ」

「もう戻りますよ」

 笹井はそう言うと取調室へと戻る。部屋では机を挟んで対峙する水沼と溝口の無言の視殺戦は続いている。

「お答えいただけませんか。あなたは米田真人さんを殺害したんですか?」

 何度目かの問いに、変わらず溝口は無言で返す。静止した時間の中、ふいに溝口が動く。

「携帯電話、」

 つぶやいたような小さな声だったが、静寂の取調室に響き彼女は思わずえっと反応する。

「携帯電話、米田から私への通話記録があった、そうおっしゃいましたね」

「はい」

「現場に米田の携帯電話が残されていたんですか?」

「いいえ」

「では何故、電話をかけてきたのが米田だと言いきれるんです? どこかで米田が落とした携帯電話を拾った人間が、あの朝、かけてきたのかもしれない」

「あり得ません」

「何故です?」

「普段使っている携帯電話ではないからです。米田さんは携帯電話を二台持っていました。普段使っているのとは別に、もう一台持っていたんです。それは家族でも知らない事実です」

「何故、二台も」

「ネットギャンブルです。彼は賭け事をしていたんです。その二台目の携帯電話はギャンブル専用で、通話はほとんどされていません。電話会社に確認しましたが、通話記録はほとんどありません。契約時まで遡っても、通話はほんの数回です。そしてあなたの携帯電話の番号を鳴らしたのはあの朝が最初です。とすると電話を拾った人間が偶然リダイヤルボタンを押してあなたにかけてしまう、なんてことは起き得ません。あなたの番号を直接押すか、アドレス帳を開いてあなたの番号を選ぶしか、あなたの携帯電話が鳴ることはありません。意図的にあなたにかけようとしない限りあなたにつながらないのであれば、あなたが電話に出た時点で、電話口で用件を伝えたはずなんです。そうであるならば何故、あなたはあの日の朝の電話を覚えていないのか。そろそろ教えてもらえませんか? あの朝、あなたは誰とどんな会話をしたんですか?」

 そう言うと彼女は溝口の顔を覗き見る。だが溝口は眉をひそめたまま何かを考え込んでいる。突然口を開いたかと思うと再びの沈黙。その異様な展開に、彼女を嫌な予感がよぎる。何だ、どうかしたのか?

「あなたは今、米田はその携帯電話で過去、私にかけてきたことがない、そうおっしゃいましたね」

 唐突に溝口が言う。

「はい」

 何だ、それがどうしたというのか。

「米田は二台目の携帯電話を持っていた。二台目の電話で私にかけたんですね」

「はい」

「それでわかりましたよ」そう言うと、溝口は自分の携帯を机に置き、彼女に画面が見えるようにする。事件当日の朝、七時三十八分の着信履歴。

「これがあの朝の着信履歴です。誰からの電話になっていますか?」

 そこには番号だけが表示されている。そしてその瞬間、彼女は理解する。溝口の主張、そして自分の計画の破綻。

「米田は二台目の携帯電話で過去に、一度も私にかけてきていないんですよね。その携帯電話のアドレス帳には私の番号が入っているのかもしれませんが、私の携帯電話にはその二台目の携帯電話の番号は登録されていません。だから、電話がかかってきても、それが米田からの物かは知りようがありません」

 そう、見落としていた。わたしが描いた事件の構造は正しいはずだ。だが理屈が通っているということと、それ以外に理屈が存在しないということは同義ではない。

「どうもおかしいと思いました。どんなに考えても米田と話した記憶なんてないんです。でもこれでわかりました。そう、思い出しましたよ。たしか月曜日の朝です。知らない番号から電話がかかってきたんですが、相手からは唸り声のようなものが聞こえるだけで、いたずらだと思って切ったんです。今、思い出しました」

 笹井は目を伏せる。頭がいい奴だ。この土壇場で言い訳を思い付いたのか。侮っていたな。

「そうか、あれは米田からの電話だったんですね。きっと殴られていてしゃべれなかったんでしょうね。私にはあれが米田だとわかりませんでした。あの時、米田だと気付いていれば助けてやれたかもしれない。なんてことだ。あいつは私に助けを求めていたんです。そう言う意味では、刑事さん、たしかに私が米田を殺したのかもしれません」

「あなたは米田さんと電話で話したとお認めになるんですね」彼女の声はうわずっている。

「私は米田を見殺しにしました。それは認めます。そうやって私を責めるためにここに呼んだんですか?」

「いえ、そうではなくて、」

「私はあの朝、米田と電話で話した。でも米田だとわからなかったんです。私は、助けることが出来たんですね。あの時、あの時に気付いていれば」

 溝口は狼狽し、涙をこぼさんばかりで声を震わせる。

「そういう話ではありません。いいですか、犯人が、米田さんがまだ生きていると知るには、米田さんからの電話を受ける以外に方法は、」

 あれ、でも。そう言うと溝口は冷たい目つきで静かな口調で彼女に告げる。

「あなた、おっしゃいましたよね。犯人は何か用事があって現場に戻り、偶然、米田がまだ生きていることに気付いたのかもしれない、と」

「でもその可能性は、」

「あり得る、そうですよね。犯人が何か現場に忘れ物をして、それに気付いて取りに戻っただけかもしれない。何故そうじゃないと言い切れるんです?」

「それは、」

 溝口は芝居がかったように言う。

「私はたしかに米田を助けるチャンスを逃しました。それは認めます。その責めは追うつもりですが、あなたが、私が米田を殺したと責め立てることには我慢出来ません。米田は私の親友です。私が米田を殺すはずがありません」

「わたしはあなたが殺したと思っています」

「刑事さん。私だって犯人には捕まってほしい。いえ、誰よりも米田を殺した犯人を憎く思っているのは私です。私は米田を助けられたはずなのにそれが出来なかった。この後悔は一生背負っていくつもりです。ですがあなたに犯人呼ばわりされる筋合いはありません。それだけは、絶対に許せない」

「わたしは、」

「あなたは今、根拠のない言いがかりで私を殺人犯だと糾弾しています。ですが証拠はあるんですか? 証拠もないのに、親友を失った私を殺人犯呼ばわりして責め立てるんですか? それが警察のすることですか?」

「わたしは、」

「だったら、」そう言うと溝口は机の上の資料をいきなり手でまき散らし大声で叫ぶ。突然のことにイスに座ったままの彼女が思わず小さな悲鳴を上げる。おい、と笹井が一歩近付くと、溝口は大きく息を吐き、それから彼女を睨みつけ、低い唸り声を上げる。「証拠を見せてみろよ」

 ばさばさと音を立てて証拠書類が床に散らばる中、がちゃりと取調室の扉が開く。


**********


「みんなそう言うんだ。証拠を見せろって」

 その声に、水沼が振り返る。扉のところに一人の男が立っている。両目の下に真っ黒な隈をたたえる目つきの悪い性格はもっと悪い男。知恵の宮殿に住む、この鉄方体の本当の住人。

「東方さん」

 思わず彼女から声が漏れる。

「遅かったな」

 笹井が言うと、東方はやれやれとネクタイをゆるめる。

「誰だ、あんたは?」

 突然の新たな登場人物に、溝口は困惑した声で言う。だがその言葉に、東方は心底呆れたような表情を浮かべる。

「おいおい、この街で人を殺しておいて俺のことを知らないのか?」ふんと鼻を鳴らして東方は言う。「もぐりだな」

 それから東方はつかつかと机の方へと歩いてくると、水沼の横に立ちじっと見下す。慌てて彼女が席を立つと東方はどっかりと席に着き、それから笹井にたずねる。

「コーヒーはないのか?」

 笹井は扉を小さく開け、顔だけ外に出すと警官に声をかける。

「おたくは?」東方は溝口にたずねるが、困惑した顔で無言のままでいる。「言っておくがミルクはやめておいた方がいい。賞味期限が切れている。いつか食中毒で人が死ぬな。刑事を殺したコーヒーの捜査を俺がするはめになったら迷惑な話だ。それで、おたくはどうする? 刑事部屋のコーヒーがまずいのは伝統だが、砂糖を三本入れれば飲めなくもない」いいやと溝口は首を振る。「結構だ」「本当に? もしかして時間がかかったことを怒っているのか? 言い訳じゃないがこの時間は道が混んでいるんだ。これでも急いで帰って来たんだ」そう言うと東方は、それじゃあ、と顔の前で祈るように両手を合わせ、両肘を机につく。「取り調べを始めようか」

「待って、」溝口が小さく声を漏らす。「待てよ、あんた、誰なんだ?」溝口の言葉には不安が滲み出ている。目の前の男、こいつは、普通じゃない。溝口の背中にどっと冷たい汗が湧き出る。「話をしましょう」東方はじっと溝口の顔を覗き込んで言う。「駄目だ、話は終わりだ。弁護士を呼んでくれ」「賢い選択だが、その前に話を」「駄目だ。あいつは私を人殺し呼ばわりした。人権侵害だ、これ以上はもう話さない」

 溝口が立ち上がると同時に扉がノックされ、コーヒーを持った警官が入ってくる。机の上にコーヒーを置くと警官は部屋から出て行く。東方はコーヒーには手をつけず、手を合わせたまま、立ち上がった溝口をじっと見ている。

「どうして死体が見つかったと思います?」

 唐突に東方が言い、溝口は思わずえっ、と聞き返す。

「顔色が変わりましたね。ずっと知りたかったんじゃありませんか? ですが、あなたに弁護士がついたらもう自由に会話は出来なくなります。知りたくはありませんか? そうであれば、まずは話を」

 東方は唇を鳴らすと、溝口に言う。「座ったら?」

 溝口はしばらく考え込んだあと、探るように東方を見ながらゆっくりと座る。

「どうして死体が見つかったと思うかって、どうしてそんなことを聞くんです?」

「新聞に載っていたでしょう? 事件現場は誰も近付かないような廃倉庫です。そんな中で人が殺されても、普通なら何カ月、いや何年もの間、死体が発見されなくても不思議はありません。それなのに殺害からわずか二十四時間で死体は発見されました。普通は思います。どうして死体が発見されたのか、」

 たしかに。溝口は東方の言葉にうなずく。「そういえばそうですね。米田が死んで混乱していましたが、たしかに不思議ですね」

 東方はふんと満面の笑みを浮かべると唇を鳴らす。合わせた両手の人差し指で唇をノックすると、理由は簡単です、と口にする。「犯人はミスをしたんです」

「ミス?」溝口がぴくりと眉を震わせる。

「現場の倉庫の扉には、大きな南京錠で鍵がかけられていたんです。ですが、この犯人、倉庫の扉に鍵をかけ忘れたんです。倉庫に鍵をかけて行かなかったんですよ」

 ぴくりと溝口の右頬が痙攣する。

「あの辺り一帯の倉庫には管理人がいましてね。彼は見回りに来た時、倉庫の扉に鍵がついていないことに気付いて死体を発見したんです。まぁ、幸運でしたよ」

「鍵が、なかった?」

「ずいぶんと間抜けな犯人です。あんな大きな鍵をかけ忘れるなんて」

「本当に、間抜けな話、ですね」

溝口はどこか混乱の表情を浮かべながら言う。

「そうでしょう?」

 東方はそう言うと、コーヒーに手を伸ばす。口をつけ、それから顔をしかめて言う。「まったく、どうやったらこんなに不味く淹れることが出来るんだ」

 カップを置くと、さてと、そうつぶやき、ぱんと手を叩く。

「証拠を見せろ、そうおっしゃいましたね?」

「え? ああ、ええ」

 東方はじっと溝口の顔を覗き込む。

「え? ああ、それであるんですか? 私が犯人だという証拠が」

「ありません」

「ない?」

「はい。今はまだ」

「今は、まだ、というのはどういう意味です?」

 実はね。そう言うと東方は首を何度か鳴らす。「隣の取調室で今、面白いことが起きているんですよ。中にいるのは実はこの事件の情報提供者なんです」

「情報提供者?」

「捜査の秘密で何者かはお教え出来ませんが、実はその人物はあなたが犯人だと名指ししているんです。その上であなたが犯人であるという証拠を持っていると言っているんです」

「何ですか、それは、」

「どうやら謝礼を期待しているようで、なかなかはっきりとしたことを教えてくれないんです」東方は唇を鳴らすと、カップの淵を指でなぞる。「今、上層部とも相談して謝礼金について話し合っているんですが、それにしても、どんな証拠を持っているんですかね。あなたの指紋がついている凶器を持っているとかだと、助かるんですがね」

「何ですかそれは。あなたはそんな男の言葉を信じるんですか?」

「普通なら情報屋など相手にしないんですが、何しろ携帯電話の件で私達があなたを疑っていることはどこにも出ていない話ですから。それなのにあなたを名指しで犯人だと言っているとなると無視は出来ません」

「何を言っているんですか? 警察に金を要求するなんてまともじゃありませんよ。そんな男の言うことを本気で真に受けるつまりなんですか?」

「もしこの情報提供者が出鱈目を言っているのなら、どうしてあなたの名前が出たんでしょうね」

「いいですか。米田の名前や職場はすでに報道されています。アッパーストリートのあの場所はレストランの激戦区です。うちの店の信用を傷つけようとしている輩はいくらでもいます。嫌がらせですよ、単なる」

「やはり無視すべきですかね?」

「当たり前ですよ。そんな胡散臭い男のことなんて、」

 東方はふっと笑うと小さく頭を振る。

「また、言いましたね。もう三度言いました」

「え、何?」

「胡散臭い、男、と言いましたね。何故、情報提供者が男だと思ったんです?」

「さっきあなたが、」

「捜査の秘密で身元は明かせない、私はそう言いましたよ。その人物、としか私は言っていません」

「いや、単なる言葉のあやですよ。何となく男と思ったんでしょう。別に意味はありません」

「それで逃げるのはどうでしょうか。店の嫌がらせというなら男とは決まっていないでしょう。もしかして、情報提供者とあなたはすでに接触していたんですか? 情報提供者は警察よりも先に、あなた自身に取引を持ちかけたんですか? だから男と知っているんじゃありませんか」

「呆れたものですね。またしても決めつけですか。あなた達はどうあっても私を犯人にしたいようですね」

「あなたは怪し過ぎるんですよ。米田さんが死の間際にかけた電話。情報提供者が名指しであなたを指名し、あなたは情報提供者の性別を知っている。二つまでなら偶然でも、三つ揃えば疑うなという方が、無理があります」

「馬鹿馬鹿しい。大体、その情報提供者が男かどうかは明白じゃないですか。あなたがそう言ったんです」

「え、ですから私は情報提供者の性別は、」

「いいや、言いましたよ。だってその情報提供者は管理人でしょう? あなたはさっき、管理人のことを彼と呼んでいたじゃないですか」

「いや、覚えていませんが、まあたしかに管理人は男性ですが、」

「だからそう言ったに過ぎませんよ」

「ちょっと待って下さい。わかりませんね。たしかに隣の取調室にいるのはあの倉庫の管理人です。ですが、どうしてあなたはそのことを知っているんですか?」

「決まっているじゃありませんか。犯人を見たんでしょう? 誰も近寄らないような辺鄙な倉庫で犯人を目撃する可能性があるのは、管理人くらいしかいないじゃないですか」

 え、っと彼女は思わず顔を上げる。

「ですが管理人が情報提供者ならそもそも信用には値しませんね」

「すいません。話についていけないんですが。どういう意味ですか?」

「死体を発見したのは管理人だとあなたは言ったじゃないですか。第一発見者でしょう? もし犯人を見ていたのなら、何故その時に言わないんです。その時には隠しておいて、あとから警察に取引を持ちかけるなんて。賭けてもいいですよ。彼は金目当てに適当なことをでっち上げているに過ぎません。そんな男の言うことを真に受けるなんて、市警察も地に落ちたものですね」

 東方が呆気に取られたような表情を浮かべる。

「ご理解いただけましたか?」

「はい。あなたが、頭が良く機転が利くことはたしかなようですね。ですが、気付いていますか? あなたは今、自白したんですよ」

 溝口が一瞬きょとんとした表情を浮かべる。「何を言っているんだ?」

「確認します。どうして情報提供者が管理人だと思ったんですか?」

「だから、説明したでしょう。あんな辺鄙な場所で、犯行を目撃する可能性があるのは、」

「だから、どうして情報提供者は犯行を目撃したと思ったんですか、と聞いているんですよ」

 溝口が固まる。東方の言葉をすぐには理解出来ないでいる。

「私は情報提供者が、あなたが犯人だという証拠を持っていると言ったんですよ。あなたの指紋のついた凶器を持っていればいいと言ったんです。それなのにどうしてあなたは、情報提供者は犯人を目撃したと思ったんですか?」

 溝口は混乱の渦にいる。いつの間にか東方の仕掛けていた罠に捕らえられ、身動きが取れなくなっていることにようやく気付く。

「あなた、話をちゃんと聞いていなかったでしょう? 無理もありません。あなたは自分の犯行が目撃されたという疑念で頭がいっぱいだったはずです。私がそう教えたからです」

 東方はじりっじりっと追い詰めていく。

「私はあなたに倉庫の鍵が開いていたことを教えました。でもね、事件に関係ない普通の人間ならそれを聞いても、単に犯人が鍵をかけ忘れた、間抜けな犯人だ、そう思うだけなんですよ。ですがあなたは違った。あなたは倉庫の鍵が開いていたと知り、自分の犯行が目撃されたと思い込んでしまった。何故ならあなたは、実際には倉庫に鍵をかけたからです」

 水沼はぶるりと体を震わす。今、何て言った?

「あなたは倉庫に鍵をかけた。当たり前です。いくら想定外の出来事にパニックになっていたとしても犯行現場に鍵をかけ忘れるはずがない。そんなミスを犯すはずがない。あり得ません。あなたは倉庫に鍵をかけたんです。だからこそ鍵が開いていたと聞いた時、自分以外の誰かがそこに死体があることを知っていた、誰かに犯行を目撃されたと思い込んだんです。犯人以外にあの倉庫の鍵を開けることが出来るのは管理人だけです。だからあなたは、管理人に犯行を目撃されたと思い込んだ」

 溝口は両目を見開き、身動き一つしない。

「倉庫の鍵が開いていたことから犯行を目撃されたと思い込むことが出来るのは、倉庫に鍵をかけた人物だけです。そしてここからが重要なんですが、犯行から死体が発見されるまでの間で倉庫に鍵をかけた人物は、犯人でしかあり得ません」

 東方はそれからぎっとイスに背もたれると唇を鳴らす。

「やっぱりおたく、もぐりだな。詰めが甘過ぎる」

 溝口は必死に何かを考えているのが、目を見開いたまま固まっている。

「実際、倉庫の鍵を開けたのは管理人でした。問い詰めたら自白しましたよ。たしかに最初、倉庫には鍵がかかっていたと」

 溝口は握った手を小さく震わせながら言う。

「それで、その男は私が米田を殺すのを目撃したと?」

「いいえ。ですが、あなたが現場から立ち去るところを見たそうです」

 溝口が顔を上げる。

「現場から? 犯行を目撃してはいないのか?」

「同じことです。管理人は倉庫から出てきた男が、車に乗って現場から立ち去るのを見ています。車の車種と色を覚えていました。あなたの車と一致しています」

「ちょっと待って。車を確認しただけ。顔を確認したのではなく、」

「同じことです」

「私と同じ車なんていくらでも走っていますよ。そんな証言だけで証拠になるんですか?」

「管理人はたしかにあなたの顔をはっきりとは見ていません。ですが二度目に殴った時、あなたは返り血を浴びていました。管理人はこう証言しています。血まみれの男が車で走り去るのを見たと」

「だから、顔を確認出来ないのなら、」

「月曜日の八時ですよ。あなたは勤務日でした。出勤時間まで間もない時間帯です。十分に掃除する時間はなかったはずです。もちろん仕事のあとで、漂白剤で隅々まで拭いたと思いますが、固まってしまった血液はきれいに掃除したつもりでも完全には消せないものです。シートベルトの外したあとに見えなくなってしまう部分とかね」

 そう言うと、東方は腕時計を見る。

「今頃は警官達があなたの車を押さえているところです。管理人の証言と、あなたの車から被害者の血痕が出てくれば決まりです。いいですか、これをね、証拠と言うんですよ」


DAY 0 1994/5/9 Monday

8:04 a.m.


 咥えタバコで見回りをしていた管理人は、倉庫の前に一台の車が停まっていることに気付く。怪訝そうにしばらくその場から見ていると、開いていた扉から血まみれの男が出てくる。管理人は思わず近くのゴミ箱の影に身を隠す。血まみれの男は扉を閉め、鍵をかけると車に乗り込み走り去る。物陰に隠れていた管理人は咥えていたタバコをその場に吐き捨て、管理人事務所に走る。鍵の束を手に取り倉庫に戻った管理人は鍵を開ける。懐中電灯を手にした管理人は倉庫の中に入り、死体を見つけそして、悲鳴を上げる。


DAY3 1994/5/12 Thursday

11:42 a.m.


「さてと、」東方は立ち上がると溝口を見る。「私からの話は以上です」

 そう言うなり東方はさっさと取調室を出ていってしまう。その背中に、水沼は狼狽したように笹井を見るが、やれやれと首を振ると彼女に席に着くよう促す。水沼は意を決したようにうなずくと、再び取調室の席に着き、溝口に対峙する。

「溝口毅さん。米田真人殺害事件について、あなたを殺人の容疑で逮捕します。すべてお話いただけますね?」

 溝口は両肘をつき、両手で顔を覆ったまま自分に言い聞かせるように言う。

「私は殺していない。私には動機がない。米田は親友なんだ」

「動機は、大野美由紀さんですね」

 彼女の言葉に、溝口はびくっと体を震わせる。

「地元で就職後も夢をあきらめ切れなかった大野さんは、ご両親の反対を押し切り未未市に出てきました。やがて彼女は大きなチャンスを掴みます。市主導の広告プロジェクトが彼女の大学に持ち込まれ、彼女も参加することになりました。家族からの援助を受けられなかった彼女は当時、アルバイトをしながら学費を工面していました。その彼女のバイト先というのが米田さんの建設会社でした。しかし彼女は大きな広告プロジェクトに参加したことで眠れない日々に体調を崩し、アルバイトも続けられなくなりました。学費を払い続けるのが難しくなった彼女は、米田さんから持ちかけられた株の話に乗ってしまい、結果的にすべてを失い、夢を諦めざるを得なくなりました」

 携帯電話がすべてを教えてくれる。

「溝口さん。あなたの通話記録を調べた時、かつて頻繁に連絡を取っている番号を見つけました。そしてそれは彼女の携帯の番号でした。大野さんの友人に確認したところ、あなたと大野さんが交際をされていたと確認出来ました」

 溝口は両手で顔を覆ったまま、違う、と小さく頭を振る。

「ほんの一時期、昔の話ですよ」

笹井が一枚の資料を机の上に置く。

「お前の口座記録だ。毎月、定期的にあるところに入金しているな。彼女の入院先の病院だ。彼女を見舞っているお前の姿も看護師に確認出来た。毎月花を飾りにくるお前のことを覚えていたよ」

「株で借金を作ったあと、大野さんはあなたと別れたそうですね。彼女から一方的に別れを切り出され、そして彼女とは音信不通になった。きっと大野さんはあなたを面倒ごとに巻き込まないように、あなたと関係を切ったのでしょう。あなたのことを本当に大事に思っていたんだと思います」

 溝口の呼吸が荒くなる。

「大野さんは借金が出来てからすぐに学校をやめ、住むところも変えています。連絡がとれなくなったあなたは大野さんの身の上に起きたことを何も知らなかった。同じ頃、親友の米田さんが破産寸前まで追い込まれ、何も知らないあなたは彼のサポートに必死だった。あなたは何も知らなかった。彼女が自殺未遂の挙句、昏睡状態になるまで」

 それから彼女は静かに溝口にたずねる。

「大野さんの復讐で、米田さんを殺害したんですか?」

「あいつは、米田は親友なんだ」

「でも、彼はあなたから大事な人を奪いました」

水沼が静かに言う。

「あいつは、親友、」

「だが、お前は彼を殺した」

笹井が静かに言う。


12:08 a.m.


 取調室横の観察室に入ると、課長は腕組みをして仁王立ちのまま、じっと取り調べの様子を見ている。東方はその横に立ち、窓枠に両手をつくとガラス越しに取調室を覗き込む。

「あの態度は何だ。大人げない真似は二度とするな」

 課長の言葉に、東方は眉をひそめて抗議する。

「たしかに隣の取調室に管理人はいませんがね、事件を解決したからいいでしょう?」

「私の部屋での一件だ」

 ああ、と東方は首肯する。

「お前の苛つきの原因は、彼女が誰かに似ているからか?」

 東方が課長の方を見る。

「冗談はよして下さい」

「大人になれ。それが誰にとっても一番だ」

 東方は再び取調室を見ると、唇を鳴らす。

「先程鑑識から、米田の車から血痕が見つかったと連絡がありました」

「そうか」

「確証はありました。最初のきっかけは倉庫付近に落ちていたタバコの吸い殻でした。タバコは輸入物の安物で、あの現場付近でそんなタバコを吸っているのは事件当日の管理人だけです。ですが、あの管理人はタバコを根元まで吸う習慣がありましたが、落ちていた吸い殻は途中までしか吸われていませんでした。彼は見回りの途中でタバコは吸わないなんて嘯いていましたがね、事務所入口の灰皿代わりの水をはったバケツにはまっすぐの吸い殻と折れ曲がった吸い殻が混ざっていました。吸い殻が折れるのは携帯灰皿にねじ込むからです。携帯灰皿を持っていたのなら、咥えタバコで見回りをしていたはずです。さすがに見回りの途中で吸い殻を捨てていれば、もう一人の管理人にばれますからね。とすると、咥えタバコで見回りをしていた彼が、何かがあってタバコをそこで落としてしまった。そう考えるのが自然です。そして、見つかった鍵に残されていた傷、」

「ゴミ箱に捨てられていた鍵か」

「血痕がついていたことから二度目に殴った時、返り血を浴びた犯人が触ったはずです。殴って一目散に逃げる時に手にしていたのなら鍵をかけ忘れたはずがありません。犯人が鍵をかけたのなら、そのあとに誰かが鍵を開けたことになります。そしてあのタバコ。管理人が何かを目撃し、誰かが鍵を開けたとなると、答えは一つしかありません」

「管理人は犯人の顔は目撃していないのか?」

「その点は期待外れでしたね。車のナンバーも覚えていませんでした。その証言がとれればもっと簡単だったんですが」

「管理人がすぐに通報しなかった理由は?」

 そう、事件発覚は犯行の翌日。本当の第一発見者は通報していない。

「警察に関わりたくない人間というのはどこの世界にもいるものです。彼は仮釈放中です。鍵のかかる倉庫で人が殺されたら、管理人であり前科のある自分が疑われるかもしれない。そうでなくとも、管理人室から鍵が盗まれ合鍵が作られたのなら、管理会社に責任を取らされる可能性が高い。二人いる管理人のうち、首になるなら前科のある自分だ。だから彼は、自分が関係のない外部犯だとアピールするために鍵を壊そうとしましたが、頑丈過ぎて壊すことが出来なかった。だから鍵を外して現場から持ち去ることにしたんです。鍵がなくなれば、いずれ相棒が気付いて通報しますからね。まったく。それにしても、その鍵を現場近くのゴミ箱に捨てるなんて、何を考えているんだか」

「自分で通報するのは憚られるが、死体を見て見ぬふり、だんまりを決め込む度胸はなかったのか」

「単純にもう一人の管理人への嫌がらせだったのかもしれません。良好な関係ではなかったようですから。ま、わかりません」

「勝手なものだな」

「ええ、どいつも、こいつも」

 東方の視線の先には、取調室の溝口の姿がある。


12:16 a.m.


 溝口はやがて重い口を開き、ぽつりぽつりと恋人のことを語り出す。

「美由紀は遺書を残していました。そこに書いてあったんです。こうなったのはすべて自分のせいだと。米田が悪いんじゃない。私のせいで大事な友情を壊さないでと。米田を問い詰めましたよ。そして、二年前のことをようやく知った。私は何も知らなかった。知らずに、自分を捨てた美由紀を恨みさえしていた。あいつは、あいつは。あいつは泣いて私に謝りました。二度とギャンブルには手を出さないと。だから、許したんです。あいつは親友だから。それなのに。あいつは、私に隠れて、みんなをだまして、またギャンブルに手を出していたんです。ネットギャンブルに始まり、違法カジノに出入りしていると知ったのは二カ月ほど前です。美由紀をあんな目に合わせたというのに、あいつは、結局、また私の心を裏切った。それがどうしても許せなかったんです。どうしても」

 沈痛な面持ちの溝口の言葉に、水沼も苦しそうに目を伏せる。

何だかな。笹井は冷ややかな目で溝口を見る。同情は出来ない、理解も出来ない、するつもりもない。笹井は扉を開けると制服警官を呼び入れる。警官達は溝口を立ち上がらせると連行していく。部屋を出るところで溝口は彼女に振り返る。

「あの日、電話口であいつはこう言ったんです。助けてくれって。私は思わず倉庫に引き返しました。殺すためじゃない、本当に助けるつもりだったんです。親友を、本当に。それなのにあいつの顔を見たら、あいつは私を見て、すまなかったって、そう言ったんです。そうしたら、頭が真っ白になってわけがわからなくなって、気付いたらあいつは動かなくなっていました」

 行くぞ、と警官に促され、溝口は部屋から出て行く。

 彼女はイスに座ったまま動けずにいる。

 笹井は床に散らばった資料を拾い集めながら彼女に聞く。

「さっきのを信じるか?」

 どうでしょうか。彼女は答える。「溝口は凶器を手に倉庫に戻っています」

「そうだな」

 でも、と水沼は顔を上げる。「米田は何故、溝口に電話をかけたのでしょうか?」

「と、言うと?」

「助けを求めるなら警察にかければいい。アドレス帳に記録していたのが、あるいは番号を覚えていたのが溝口だけだったのでしょうか。米田は犯人が誰か、本当にわかっていなかったのでしょうか。あるいはわかっていてあえて溝口を呼び出したのでしょうか。許しを請うために」

「別に涙を誘う物語が必要なわけじゃないだろう」

「そうですね」

 でも、と彼女はつけくわえる。「本当にあったんですね。ダイイングメッセージ」

 えっ、と笹井が聞き返す。

「溝口は死の間際でメッセージを伝えた。でもそれは警察じゃなく、犯人に当てたメッセージだったんです」


6:18 p.m.


 忙しい一日が終わる。

 窓の外はすっかり暗くなり、にぎやかさが翳りを見せる刑事部屋で、笹井は机でまだ書類仕事を続けている水沼に向かって言う。

「今日はよくやったな」

「何も出来ませんでした」

「携帯電話に気付いたのはお前だ」そう言うと笹井は彼女の肩を叩く。「いい経験になっただろう?」

「東方さんの言葉通りでした。あの取り調べは失敗するという」

「いや、勝算はあったさ。相手の方が一枚上手だっただけだ」

 それじゃあなと笹井は刑事部屋を出ていく。その背中に彼女は深々と一礼する。嘘つき。彼もこの取り調べが見切り発車であることはわかっていたはずだ。その上で、刑事部屋を出ていった東方さんの背中に、彼が必ず証拠を見つけて帰ってくると信じたのだろう。だからこそ、安心してわたしに取り調べをまかせたのだろう。結局わたしは、あの二人の刑事達の掌の上で一人踊っていたのだ。

 仕事を終えると彼女は大きく伸びをして刑事部屋を見回す。まばらに残っている刑事達がまだまだ終わらない仕事に奮闘している。彼女は刑事部屋から出ると取調室の方へと歩いていく。一番奥の部屋、一つだけ灯りがついている部屋を見つけ、そっと扉を開けて中を覗く。部屋にはタバコの煙が漂い、書類に埋もれるようにイスに座っている男の背中が見える。

「仕事が終わったのならさっさと帰れよ」

 東方が振り返らずに言う。彼女は扉に寄りかかると、東方にたずねてみる。

「大丈夫ですか?」

 書類をめくる東方の手が止まる。

「何のことだ?」

「ずっと家に帰っていませんよね。今日のネクタイ、四日目です」

「五日目だ。もっとちゃんと観察しろ」

「今日は、ありがとうございました」

 東方はそれを無視するかのように、再び資料をめくる。しばらく東方の背中を見たあと、彼女は部屋を出て行こうとするが、ふいに東方が口を開く。

「誰にでも最初はある。だが最初から何でも出来る奴とそうでない奴がいる。お前は後者だったってだけだ。気にするな。大抵はそうだ。だが昔な、そうじゃなかった奴がいた。先輩刑事が止めるのを無視して無鉄砲な取り調べを行った。運よく犯人は自白、親父はそれを覚えていてお前にもチャンスをくれたのかもな」

「その人は、今、」

「その跳ねっ返りはな、十年前に取り返しのつかないミスを犯して、今でもその亡霊に取りつかれている」

 東方は振り返ると水沼に言う。

「お前はそいつとは違うよな?」

「わかりません」

 顔を見合わせたあと、東方はふんと小さく笑い再び手元の資料に視線を移す。

「さっさと帰れよ研修生。二度と俺の前で密室だのダイイングメッセージだの、くだらないことをわめくな」

「本当に、ありがとうございました」

 彼女は一礼すると部屋を出る。扉が静かに閉まる音を背中で聞き、東方は顔の前で祈るように両手を合わせる。しばらく目をつぶったあと、東方はぼそりとつぶやく。

「亡霊、か」

 やがて、意を決したように机の上に置かれた封筒に手を伸ばす。まだ封が開けられていない封筒を破り、中から書類を取り出す。書類には検査結果が書かれている。

『指紋照合結果:不一致』

 薄暗い取調室で、東方は一人息をひそめる。


20240513

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