最終話
勤は苦笑いする。アモーの店内で勤はなぜか体でTの字を作らされていた。横に伸ばした手がプルプルと震えてくる。
「もう手、下ろして良いよ」
愛がそう言いながらも、勤の背後に回り込んでシャツを伸ばしてくれる。
「うん。悪くないんじゃない」
冬美も正面から勤の事を見回して、納得のいったように頷く。
「そうですね」
やがて愛も冬美の横に並んで、勤の全体像を確認した。
「ちょっと、一周回ってみてよ」
愛が面白そうに言う。確認というよりも、勤が回る姿を見たいだけのような気がした。勤は苦笑いを浮かべつつ、指示通りその場でくるりと回転してみせる。
「上出来だね」
冬美がそういうと、勤の肩を叩いた。
「がんばってね、勤」
愛も楽しそうにエールを送ってくれる。勤も店内にある鏡で姿を確認したが、確かに悪くなさそうだった。
昨日、裕介が森田さんに連れていかれた後、勤は冬美と愛に対して遥香にきちんと想いを伝えたいと打ち明けた。AIではなく本物の遥香に正直な気持ちを伝えたかった。そして今ならそれが出来る気がしていたのである。
すると二人の中でどんどん話は進んでいき、翌日気づけば家にある服を全部持ってアモーに来させられたのだった。どうやら服装を選んでくれるつもりだったらしく、それがたった今終わった所だ。
もともと持っている服が少ないせいか、シンプルでいつもと変わらない装いな気もするが、二人に選んでもらうとそれに自信が加わる。
「ありがとうございます」
勤は二人に対して、礼を告げた。そして時刻を確認し、約束の場所へと向かおうとする。
「じゃあね」
冬美がいつも通り、素っ気なく言った。
「もしフラれたら、いつでも戻ってきて良いよ」
そして愛が悪戯っぽい笑みを浮かべ、勤も自然と二人に対して笑みを浮かべるとアモーを後にした。
跨線橋に上ると、遥香は先についていた。正午過ぎ。この時間帯にここへ来るのは珍しい気がする。夜のようにロマンチックではないけれど、爽やかな風と突き抜けるような空がとても心地よかった。
遥香は見覚えのある黒いコートを着て、欄干に寄りかかり遠くを眺めている。勤はそっとその隣に並んだ。
「そのコート」
勤が言う。
「あぁ、これ?私、急いでこっち来たから服とか持ってきてなくて、愛ちゃんに貸してもらったの」
「愛とは仲直りしたのか?」
「仲直りも何も、もとからずっと仲良しだよ。しばらくの間、話せなかっただけで」
遥香は昔と変わらない様子であり、弾けるような声が勤の耳に染み渡る。
「そうか」
そこで少しの間、沈黙が降りた。心臓が急かすように早鐘を打つ。
遥香は街の中を縫うように続く線路を、ずっと眺めている。その横顔はいつ見ても可愛らしかった。何を考えているのだろうか。その澄んだ瞳は何を捉えているのか。勤はとても気になってしまう。やっぱり不安だった。自分でも無意識のうちに、足が震え始める。
失敗したらどうしようか。その先の事は想像できない。
でも。勤は、頭の中にある思考を振り払うかのように頭を振った。
「どうしたの?」
前を向いていた遥香が振り向いて、不思議そうに尋ねる。
「ちょっと、怖いことを考えてしまった」
「何を考えていたの?」
「死ぬことよりも怖いことだ」
「そんなことってあるの?」
「どうやら、あるみたいだ」
「へぇ。でも、もし死ぬことよりも怖いことを経験したら、もう死を怖がらなくて良いってことでしょ?それってすごいことじゃない?」
「そんな縁起の悪いことを言うな」
そう言うと、遥香は訳が分からないと言いたげな顔で首を傾げた。
勤はその横顔を盗み見る。よく見ると、少し見ない間に大人っぽさが出ているような気がした。
自分もこの期間に少しでも変わることが出来たのだろうか。そうであったら良いなと思う。
「遥香」
勤が名前を呼ぶ。
「何?」
遥香がいつもの弾けるような笑顔を浮かべた。
そして勤は口にする。何も難しいことは無かった。ただそのとき胸の中にあった想いを言葉にしただけである。いざ決意を固めると、息を吸う事すら煩わしく感じた。
「好きだ」
そう言うと、遥香はすこし驚いたように目を見開いた。しかし、すぐにまた口角を上げる。目尻に寄った皺でさえこれ以上魅力的なものなど存在しないと思われた。
「知ってる」
遥香はからかうようにそう言うと、ゆっくりと近づいて来た。やがて勤のたった数センチ先で立ち止まると、もう一度勤の顔を見上げてくる。
勤はもう何も考えなかった。ただ心が思うままに、手を広げる。
すると遥香は何か納得したように笑って、勤の胸に体を預けた。
勤は自分の心拍音が聞こえてしまうのではないかと心配したが、それならそれでいい気がする。
このときが永遠に続けばいいのにと思って、勤はそれを口にしてみた。
「勤って意外とロマンチストだよね」
遥香が勤の腕の中で返す。
自分で意識したことはないが、遥香が言うのならそうなのかもしれない。ただロマンチストだろうがリアリストだろうが今はどうでも良かった。どのように分類しようと、勤は勤であり、その腕の中にいるのは世界にたった一人の遥香なのである。
そう思うと、勤の頬が緩んだ。遥香に回した手に力が入る。
遥香は驚いて、
「苦しいよ」
と笑っていたが、勤はしばらくそのままにした。
「遥香………好きだ」
もう一度呟いた。
そのときである。どこからか冬の乾いた風が吹きつけてきた。そしてその風が、鳴り始めた踏切の音を運んで来たのだった。
二両編成の電車が、跨線橋の二人の下を通り過ぎていく。
愛した相手はアイだった。 譜久村 火山 @kazan-hukumura
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