第40話

 膝をついたまま、呆然と頬を濡らす勤。それをフェンス際で嗤う裕介。空に蔓延る灰色の雲たち。

 時折吹き付ける冷たい風だけが、勤に現実を知らせてくれる。十二月も中旬となり、今年もまた終わりを迎えようとしていた。

 視界には色を失ったかのようなくすんだ灰の世界が広がっている。さらに勤の耳はあらゆる音を拒絶し、無音の世界を作り出していた。

 風が吹く。吹き付ける風はどんどん強さを増していた。勤は抗う気力すらなくて、風に吹かれるまま体を前後に揺らす。

 そのときだった。遠くの方からガサゴソと、何かが擦れ合うような音が聞こえてくる。

 数秒後。屋上の扉が勢いよく内側から開いた。その瞬間、冷たい冬の風に交じって春がやって来たかのような温かさが、屋上に訪れる。それと同時に、雲間から一筋の光が差し込んで来た。

 春の風は屋上に舞い降りると、一直線に勤の下へと進み、脱力しきった勤の体を包み込む。

「ありがとう、勤」

 遥香は勤に抱き着いたまま、そう言った。

「えっ」

 理解の追いつかない勤は、ぼやける視線で宙を眺める。

「全部聞いてたよ」

 遥香の声が、勤の頭の中で反響した。

 そんな遥香に続いて、屋上に二つの影が入り込んで来るのが分かった。眼鏡が無いせいで顔が見えないが、雰囲気から冬美と愛であることが分かる。

「何だよ、お前ら」

 裕介が笑顔から一転し、尖った声を出す。それに対して、冬美が言葉を返した。

「悪いけど、勤君と君の会話は全部聞かせてもらった」

 そう言うと冬美は勤の下へと寄って来る。

「ちょっとごめんね」

 冬美が言うと、遥香が勤から離れる。

「いつまでも泣いてないで、立ちなよ」

 勤は訳の分からないまま立ち上がる。すると、冬美が徐に勤のポケットへと手を突っ込んだ。そして中をガサゴソと漁った後、何かを取り出す。

 それは冬美が使っていたワイヤレスのイヤホンだった。

 いつのまにそんなものが入っていたのか。勤は目を見開く。

 冬美が近づいてきた裕介に、イヤホンとスマホの画面を示した。

「念のためと思って勤君にこれを仕掛けておいたの。君と勤君の会話を聞くためにね。もちろん録音もしていた。つまり、君がさっき勤君に話したあらゆる犯行は全て記録したってこと」

「は?」

 裕介が威圧的に返す。その目が左右に泳いでいた。

「愛ちゃん、警察を呼んできてくれる?」

「分かりました」

 愛はそう言うと、携帯を取り出して再び屋上を出ていく。

「勤、ごめんね。今まで連絡出来なくて」

 久しぶりに会った遥香のいい匂いが、空っぽだった心を満たしていく。

「どうして、ここにいるんだ」

 勤は気になったことを聞いた。すると、それに冬美が答える。

「私が呼んだの」

「先輩が?」

「そう。私は遥香が引っ越して、連絡先を変えてからもやり取りをしていた。だから君が話している遥香が本物じゃないことに気が付いてた。本当はすぐに教えるつもりだったけど、直感がそうするべきじゃないと言った」

 冬美が申し訳なさそうに眉根を寄せる。

「遥香は君に連絡したがっていた。でも私がそれを止めていたの。その代わり、いつか必ず勤と会わせるからって。それで今日、ちょうどタイミングも良かったし、遥香には弾丸で帰ってきてもらったの」

「急すぎて、母に連絡も出来なくて大変だったんですから」

 遥香が冬美に対して、わざとらしく頬を膨らませる。

「ごめんごめん」

 その横顔を、ふいに可愛らしいと思ってしまった。そこにいるのはAIじゃない。本物の遥香であるのだと実感する。手を伸ばせば触れることが出来る、生身の人間なんだ。

 透き通った肌、明るい笑顔、温かい声。そのすべてが、勤の欠けていた心にピタッとはまった。どうして、気づかなかったのだろうか。本物の遥香はこれほどまでに美しくて、愛らしいのに。

「勤」

 温かい声が、勤の名前を呼ぶ。

「なんだ」

 勤の涙はいつの間にか止まっていて、心はとても安らかだった。自然といつも通りの声が出る。

「私も、勤の事が好きだよ」

 遥香の大きな瞳が目の前にあった。どうやら遥香も、勤とAI遥香との会話を聞いていたようである。全く、盗み聞きとは趣味の悪い………。

 勤は途端に首筋が熱くなってきて、自分でも赤面していることが分かった。

「私ね、本当は勤の事を忘れようとしていた。でも、出来なかった」

 遥香の言葉で、勤の心臓が跳ねる。

「私、転校してからクラスメイトに告白されたの。付き合ってくださいって手を差し出された。でも頭の中にはやっぱり勤がいて、私はその手をそっと押し返した」

「待て。遥香ちゃん、引っ越したら勤以外に連絡取るような人はいないって言っていたじゃないか。どうして、この人と」

 裕介が大声を上げて、冬美を指差した。その顔は明らかに狼狽していて、まるで駄々をこねる子供のような態度を取っている。

 遥香は勤から裕介の方へと向き直る。

「確かに私は人見知りだから友達も少ない。でも全くいない訳じゃない。それに、あんなにつき纏われてたんだから、嘘の一つや二つくらい吐くよ」

 それは決して勤に向けられたことのない、冷たい声だった。

 裕介もその声で、すべてを察したようである。

「結局、遥香ちゃんも俺を馬鹿にするってことか」

 裕介が自嘲気味に笑った。

「そうじゃない」

 遥香が言う。

 しかし裕介は聞く耳を持たなかった。

「いいさ。どうせ俺は誰にも認められない。なんの取柄もないただのデブだ。ポッチャマなんて呼ばれて、一生いじられ続けて、尊厳なんてないんだろうね」

 裕介が吐き捨てる。裕介は、太い足を上げると思いっきり地面を踏んだ。鈍い音が屋上に鳴り響き、みな言葉を失う。

 そこで裕介が発狂した。言葉にならない叫びが、高い空へと響き渡っていく。その震えるような声は、圧倒的で悍ましくもあった。叫び声が厚い雲に反響しているかのようである。

 冬美と遥香は突然の爆音に思わず耳を塞ぎ、顔を背けた。勤もただ茫然と裕介を眺める。

 理由は分からないけれど、悲しさが胸に込み上げてきた。

 裕介はやがて体内の空気を全て吐き出したかのように雄叫びを止め、空気を思いっきり吸った。その直後、大きな体をくるりと反転させる。

 裕介がその体型からは想像も出来ないほど軽快な動きで、フェンス際まで走っていった。冬美も遥香も勤も、咄嗟に状況を理解できず固まったままである。

 そんな中裕介は手すりを両手で掴むと、これまた軽い身のこなしでフェンスを跨いだ。

「あっ」

 いち早く裕介の意図を理解した冬美が、力の抜けた声を発した。

「だめっ」

 次に遥香が裕介の背中に向かって必死に言葉を届ける。

 そして勤は自分でも気が付かないうちに、走り始めていた。考えるよりも先に足が動いていたのである。

 体が風を切るような感覚があった。

 こんなに全力で走ったのはいつぶりだろうか。

 勤は裕介だけを見ていた。屋上の淵に立つ、裕介の足。手すりを掴む、太い指。そして下を覗き込む、裕介の顔。一つ一つの動きがスローモーションのように見えて、勤の周りから音が消えた。古い校舎の錆びたような匂いが、ふっと鼻をかすめる。

 そのときだった。裕介が手すりから手を離し、体を前に傾ける。その場にいた全員が落ちると思ったそのとき………、勤の手が裕介の肩に届いた。

 そこで裕介の体は止まり、バランスを取り戻す。裕介が顔中の皺という皺を寄せて、勤の事を睨んだ。

 だが次の瞬間、勤は裕介さえも予想だにしなかった行動に出る。

 勤は一度裕介の肩から手を離した。それから手すりを掴んで自身もフェンスを飛び越える。冬美と遥香が驚きのあまり言葉を失っているのが空気感で伝わって来た。

 冷たい風が火照っていた首筋を冷やしていく。目の前には防球ネットがあって、眼下を見下ろせば校舎裏に敷き詰められたコンクリートの地面がある。

「何してるんだ、お前」

 隣に並んだ裕介が驚いた表情で勤の横顔を凝視していた。その手はまた手すりを掴んでいる。

 それに対して勤の手は、まだ何も掴んではいなかった。

「俺にも分からない」

 勤が答える。

「体が勝手に動いていた。だから俺はそれを制限しなかっただけだ。やりたいようにやったら、気づけばこんなところに来ていた」

 勤は感じたことを、胸の中にある感覚を、そのまま言葉にして伝えた。

「死ぬのか?お前も」

 裕介が問いかけてくる。その目は怯えたように小さくなっていた。そこで勤は裕介の体が小刻みに震えていたことに気が付く。

「死にたくはないけど、お前がいくなら仕方ないなって気がしている」

 勤は考えることを止めて、思うままに言葉を吐く。

「は?何言ってるんだよ、お前」

「さぁな、自分でも分からない。でも俺はお前が一連の事件の犯人だと知っても、不思議とお前を憎もうとは思わなかった。なぜだと思う?」

「知るかよっ、そんなこと」

 裕介が再び身を乗り出して、下を覗き込む。一度勇気を振り絞ったせいで、二度目はなかなか踏ん切りがつかないようである。

 そんな様子の裕介に対して、勤は言った。

「たぶん、俺は今でもお前の事を友達だと思っているからだ」

 そう言った瞬間、数メートル下を覗き込んでいた裕介が驚いたように、勤を見た。

 勤も裕介に視線を向ける。目が合った。裕介の顔をこんなにまじまじと見たのは初めてかも知れない。よく見ると裕介は可愛らしいつぶらな瞳をしている。

 勤はやっと素直になれた気がした。今まで友達なんて必要ないと思って来た。自分が賢くあればそれで良いと。でもそれは自分に嘘をついていただけなのだとようやく気が付いた。

 愛も冬美も、そして裕介も自分にとっては大切な友達だったのである。大事なことはそれを自分自身が認知し受け入れることだった。

 そのことに気が付くと勤の頬が綻んだ。

 そのときである。

 屋上に突風が吹いた。もう冷たさを感じさせないほどの風圧に、その場にいた全員が踏ん張ることに必死だった。裕介もグラウンドに背を向けて、必死に手すりを掴んでいる。

 そんな中、勤の体は突然の事にバランスを崩した。体が背後へと傾いていく。まるで時がコマ送りのように進んでいた。それに伴い視界が徐々に傾いていき、灰色の占める割合が増えていく。最後に心配そうな冬美と遥香の顔が見えた。

 何か声が聞こえたような気がするけれど、はっきりとしない。

 勤はずっと考えてきた。もし高い所から落ちれば、死ぬことができるのだろうかと。やっと答え合わせかと思うと、少しだけ気分が軽くなる。

 やがて体が四十五度を超えた。かろうじて屋上の淵に残っている足が、今にも滑り落ちそうになる。時間がゆっくりと進んでいた。

 不思議と恐怖や絶望などは感じない。あぁ、全て終わったのか。その程度の感想がぼんやり浮かび上がっただけだった。

 そうやって勤は目を閉じる。あまりに呆気ない最後に、笑いが込み上げてきそうだった。

 そのとき、分厚い手が勤の手首をガッチリと掴んだ。

 勤が驚いて目を開ける。するとそこには、歪んだ顔で勤の手を掴む裕介の顔があった。やがて勤は裕介に引き上げられ、手すりを掴む。

 遥香と冬美が慌てて駆け寄って来るのが見えた。

「どうして」

 勤は裕介に対して問いかける。

 すると裕介は勤から顔を逸らして、何かぶつぶつと口籠っていた。全てを聞き取ることは出来なかったが、「友達なんだろ」と言っていたような気がする。

 そこに遥香と冬美が近寄ってきて、心配と安堵の入り混じったような声でお叱りを受けた。やがて勤がフェンスを跨ぐと、裕介もそれに続く。

 今の突風が厚い雲を押し出してくれたのか、空には青が広がり始めていて明るい日光が地上のいたるところに降り注いでいた。

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