「私は、今年で二十二になるのですが、数ヶ月ほど前に、両親から、とある縁談を持ちかけられたんです。



 お相手は、以前両親が大変お世話になって、私も何度かお会いしたことのある方の息子さんでして、今は貿易会社に勤めているとかで、私より四つ年上なのですが、その恩人の方が、『うちの末息子、二十五を過ぎたというのに、一向に嫁をもらおうとしないのですよ。そういえば、お二人の娘さんも未婚でいらっしゃるとか……。なので、どうでしょう、ぜひ一度、息子と見合いでもしてみませんか』と言って、両親に紹介してきたそうなんです。



 他の誰かと結婚する、なんてことを、その頃の私は少しも考えていなくて、それをもとから心配していたのか、恩人の厚意を無下にしたくなかったのかは分かりませんが、両親は、その息子さんを私に強く薦めてきたんです。でも、私は、余りに突然のことでしたから、困惑したり、興味なさげにしたり、曖昧な答え方をしたりして、出来る限り返事を保留にして、あちらのほうから辞退の知らせが来ることを、心から願っていました。



 ですが、私がそうしていた何よりの理由として、実は、私は、両親には内緒で、密かに恋人を持っていたんです。



 もともとは、私が女高師にいた頃の学校の先生で、教え子だった私は、今では理由なんてあまり憶えていませんが、気付いた時には、先生のことを恋い慕っていました。それで、今年の春に、先生に正直に想いを打ち明けてみたんです。そしたら、先生は、私の気持ちを受け入れてくれて、その時から、私たちは恋人になりました。



 丁度いい機会が来たら、私の両親に全て話そうと決めて、私たちは幸福な日々を過ごしました。やって来た一日一日を正確に憶えていられたほど、私は喜びに満ちていて、先生といるだけで、目の前の色んなことが燦々と輝き始めて、少し苦しいぐらいに体が火照るのを、毎日感じていました。



 けど、その幸せに浸っていたのが良くなかったんでしょう。二人の間柄を告白する前に、こうして縁談が舞い込んできてしまったのですから。私は至極困りましたし、なおさら、縁談のことを先生には話せませんでした」




 語っている女の顔つきが次第に曇っていくのが、黄吉には見て取れた。




「それから、私の態度によって縁談がちっとも進まないことに焦り出した両親は、『一度、二人で時間を過ごしてみなさい。きっといい人に違いないから』と、無責任なことを言って、数日後、私と息子さんに逢い引きみたいなことをさせました。



 一緒に食事したり、映画を見たり、散歩したりと、沢山の恋人らしいことをさせられました。相手の人は、どうやら私に気があったみたいで、かなり頑張っていましたが、私にとって、それは、大して面白くもない時間でした。



 これが終わったら、この人には申し訳ないけれど、縁談はきっぱり断って、やっぱり先生と一緒になろう。あゝ、早く、先生の声が聴きたい。先生の手に触れたい。



 そう思っていた矢先でした。



 二人で喋りながら歩いていたら、離れたところでしたが、偶然同じ道に先生がいて、二人でいるところを先生に見られてしまったんです。



 先生と目が合った瞬間、私は、地面がいきなり崩れ落ちるような感覚に襲われました。気分としては、末男の人なんか蹴り飛ばして、今すぐにでもこの場から逃げ出したかったですが、体は少しも動こうとしませんでした。けど、私よりも先に、先生のほうが、顔を怒りと悲しみが混ざった色に染めて、風のようにそこから立ち去ってしまいました」




 そこで、突如、女の言葉が途切れると、彼女は、黄吉のほうを振り向いて、



「私は失敗しました。私は、大切な人を傷付けてしまったんです……」



 と、寂しげな表情をしながら、言い放った。



 言葉に詰まる黄吉を横目に、彼女は続けた。




「逢い引きが終わると、不安と苦しさで涙が零れそうになりながら、早足で家に帰りました。私の気持ちなんか知らないで、両親は、『どうだった? やっぱりいい人だっただろう?』と、その日の所感を矢継ぎ早に聞いてきました。二人に怒りをぶつけそうになるのを必死に堪えて、適当な返事をしてから、私は自分の部屋に駆け込みました。



 ですが、部屋に入ったら入ったで、何かに押し潰されているみたいに、身動きが出来ませんでした。見慣れているはずの部屋の風景は、全く別のものに見えてきて、私は、先生に相談もせず、やすやすと逢い引きに出掛けたことをひどく後悔して、先生への釈明の内容を必死に考えました。



 明日、そうだ、明日、先生に会いに行こう。会いに行って、誤解を解かないと……。こんな形で、お別れなんてしたくない。嫌だ、嫌だ、嫌だ。今まであんなに愛し合ってきたのに。私は先生のことをずっと想ってきたのに……。違う、違うんです、先生! あの人とは何もないんです! 私には、先生だけなんです!————そうやって、心の中で足掻いていました。



 結局、一睡も出来ないまま、朝を迎えてしまいました。風邪を引いた時に似てる、気だるい感じでした。そこから何とか起き上がって、急いで先生のもとへ行く準備をしていたところに、郵便配達人の方がやって来ました。一番近くにいた私が、母の代わりに郵便物を受け取りました。ですが、それらに目をやった時、差出人として先生の名前が書かれてある封筒を見つけたんです。私は、封筒を持って、慌てて自分の部屋に戻り、恐る恐る封を切りました。



 中の便箋には、『僕たちはお別れしよう。僕は、今、とても悲しい。顔を思いっきり殴られたような、裏切られた心地だ。君にも色々と言いたいことがあるのかも知れないが、僕は今じゃ君を信じられない。信じたくもない。もうお目にかかることはないだろうね。さようなら』とだけ書かれてありました。



 私は、一日中、泣きました。お布団がびっしょり濡れるぐらい、泣きました。私は、失恋したんです。自分の手で、自分にとって大切な存在を、消し去ってしまったんです。もう取り返しがつきません。あの日の努力も、喜びも、そうした幸せな日々も、全部全部、無駄にしてしまいました。私が思い描いていた先生との未来は、予告もなく、一瞬にして、こんなにも簡単に失くなってしまいました。



 でも、そのあと、いつかの週末に浅草にある劇場で映画を見ようって、約束していたのを思い出したんです。その日からですね、あの劇場に通うようになったのは……。



 あの劇場は、何回か一緒に映画を見に行った場所で、先生も、よく一人で行くお気に入りの場所だと言っていたんです。だから、そこに行けば、もしかしたら、先生に会えるんじゃないかと思って、毎晩劇場の前に立って、先生を待つようになったんです。けど、先生は、一向に私の前には現れてくれません。それなのに、毎日あそこに行かずにはいられないんです……。



 今日は、勇気を振り絞って、久しぶりに劇場の中に入って、週末に二人で見るはずだった映画を見ていたんです。でも、上映中、不意に映画の場面と昔の私たちが重なってしまって、それで、あの時、うっかり……。



 結局、今は、例の息子さんとの縁談が進みに進んで、もうじき結婚するんです。先生が知ったら、一体どう思うんでしょうね……」




 再び静寂が訪れた。だが、黄吉は、何も言えなかった。

 


 沈黙を破ったのは、彼女自身だった。




「ごめんなさい、こんな下らない話に付き合ってもらって。分かってはいたんです。こんなことしたって、先生と絶対に会える訳じゃないし、会ったところで、縒りを戻せるかどうか、先生が私を許してくれるかどうかなんて分からないってことは。そもそも、今の私には、もう先生のことを好きでいる資格なんてないのに……。



 今までずっとこんなことを続けてきましたけど、あの人に会いたいって気持ちの裏では、こうしている自分が馬鹿馬鹿しいって思っていたんです。あなたが言って下さったおかげで、自分のしていたことが本当に情けないって、改めて気付けました。もうあの劇場には行きません。あの人のことは、諦めようと思います。女の思うがままにいかない時代ですから、仕方ないですわ……。恋って、どうしようもなくて、残酷なものですね……。



 私の長ったらしい話を、最後まで聞いて下さって、本当にありがとうございます。こんな恥ずかしい話は、どうか、あなたのほうでも、忘れてしまって下さい。では、失礼いたします」




 そう言って、女は、行儀良く頭を下げると、静かに立ち去っていった。




 黄吉は、終始黙っていた。そして、博識な老人のように高らかに笑い始めた。

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