　月日が流れ、街には爽籟が響き、弥が上にも、肌寒くなってきた時期のことであった。

　その日、彼の仕事は休みだった。だが、部屋でぐうたらするのも良くないから、彼は、映画を観に行くことに決めた。場所は、芝居小屋の向かいにある、例の劇場である。黄吉は、特段、映画好きという訳ではない。また、物語の部類にこだわる質でもない。なので、劇場に足を踏み入れてからは、まもなく上映が始まろうとしていたものの中から、適当に一つを選んで、入場料を支払った。

　それは、男女の恋愛を主題とした、西洋映画であった。将来を約束したはずの青年と娘が、様々な困難や障害によって妨げられ、最後には結ばれることなく終わってしまう、という悲恋の物語であった。しかし、互いに心を通じ合わせようとする、二人の愛や人間性が、当時の風俗や時代背景と共に、見事に描かれており、黄吉は大いに感激した。だが、これは後の話であって、それだけのことであるならば、わざわざ、ここに書き記しておく必要もないのだ。

　室内に入ると、既に多くの観客が席に着いていて、雑談や世間話などを語らい、上映までの時間を過ごしている様子であった。そして、彼も、指定された座席に座ろうとした。だが、その瞬間、彼は、不意に、数十秒もの間、硬直してしまった。空席を一つ飛ばして、彼の座席の左隣に、あの女――横顔だけでも、充分に分かった――が座っていたのである。その時の彼の、衝撃と当惑と動悸は、尋常ならざるものであった。状況を呑み込めずにいるまま、彼は、何とか平静を保とうと努めて、席に着くところまでは出来た。しかし、彼女が横に居るという事実に、やはり気が気でなく、彼は、身体を縮こめ、手汗をダラダラと流していた。

　上映が開始され、部屋は、暗闇の中に投下された。上映中、彼は、犯罪者のような目つきで、彼女の様子をこっそりと見ていた。その彼女は、銅像のように一寸も動かず、スクリーンを眺めていた。それは、恐らく、作品に没入しているからだろうと思われた。その一方で、何処か、作品を懐かしんでいるようにも見えた。これらと同時に、彼女が美しい、ということに変わりはなかったが、時間が経つにつれ、長い間彼女を見つめるのにも疲れてきて、黄吉は、スクリーンへと視線を移した。

　映画が終わりへと差し掛かった頃、黄吉は、再び、彼女の様子が気になって、その横顔を覗いてみた。しかし、その時、彼は、先程とはまた違う衝撃を受けた。

　透明な粒が、女の頬を伝いながら、流れていくのを、彼は目にしたのである。その粒は、彼女の頬を離れて落下し、人々が洋靴や履き物で散々汚した床面を、憐れむように、ほんの僅かに濡らした。そして、スクリーンの光が、彼女の顔に綺麗に差し込んで、彼女の目尻から溢れる「それら」を、鮮やかに照らした。周りに存在する音も人々も情景も、遥か彼方に忘却されて、そこには、一人の娘と、気弱な少年だけが、取り残されていた。

　上映後も、彼女は、顔を伏せながら、雫を静かに流していた。一方、観客たちは、感想などを言い合って騒ぎながら、帰っていった。彼らの視界の中には、彼女がはっきり映り込んでいるにも関わらず、黄吉以外の誰も、彼女の涙に気付いていなかった。斯く言う黄吉も、茫然と、その様子を眺めていることしか出来なかった。それ故、彼女がようやく顔を上げた時、必然的に、黄吉は、彼女と目が合った。

「あ、あ、す、すみません……！」

　戸惑った黄吉は、言うべきことが思い浮かばす、咄嗟に顔を背けて、謝り出した。彼女も、見られていたということに気が付いて、赤面し、顔を下へと向けた。観客のほとんどが去っていった室内には、妙にぎこちない雰囲気が流れ始めた。様々な言い分が、今になって、黄吉の脳裏をよぎった。だが、それらは、全て言い訳にしか変換されず、公共の場で、赤の他人である女性をジロジロと見つめる、などという倒錯的な行為を肯定し得るものは、何一つなかった。結果として、正直に事情を話すということしか、彼には手段がなかった。

「あ、ぼ、僕は、む、向かいの芝居小屋で、店番を勤めている者でして、ここの劇場の前に、あなたがいらっしゃるのを、よく見掛けていて、あなたの毎晩の行動がとても気になっていたんです。あ、そ、それで、今日は仕事が休みで、この劇場に映画を見に来たんです。そ、そしたら、偶然、隣の席にあなたがいらして、とても驚いたんですが、上映中に、な、泣いている様子でしたから、更に驚いてしまったんです……」

　そうやって、彼は、吃りながら、早口で、端的かつ素直に、己の事情を語った。しかし、流石に、自分の抱える恋心を、本人に打ち明けるほどの勇気は、彼にはなかった。

　しばしの沈黙を破って、

「そ、そうなんでしたか……」

　と、彼女は口を開いた。想像の通り、可愛らしい、澄んだ声色であった。

　だが、しばらくすると、今度は、遠慮がちに、

「あ、あの、何処かに、場所を移して頂けませんか……？　他の誰かに気付かれていたなんて、思ってもみなかったんですが、逆に、今、このことを誰かにお話してみたくなりました。そうしたら、少しは、気持ちが落ち着くのかなぁと思いまして……。も、もし、この後、時間がおありで、構いませんのでしたら、毎晩の私のことについても、さっき泣いていたことについても、お話致します。ど、どう、されますか……？」

　と、黄吉に提案してきた。

　これは、彼にとって、全く想像していなかった提案であった。しかし、彼は、胸が高鳴っているのを密かに抑えながら、何の迷いもなく、

「は、はい……。お、お願いします……」

　と返答した。

　二人は、劇場を出ると、Ａ街の大通りを抜けて、少しばかり歩き、人が少ない割に広い敷地を有している、近くの公園の中へと入っていった。彼女は、園内を流れる小川のそばにある、一つのベンチを指差して、「あそこにしましょう」と言った。無論、それに反対することもなく、彼は、そこに腰を下ろした。彼から見て、左側であった。そして、その余った右側に、彼女が座った。

　秋の肌寒さすら忘れられて、川を流れる水の音だけが、二人の世界に響いていた。その音に耳を澄ませながら、世界の終末を語るような口調で、彼女は語り始めた。