二
ようやく帰路につき、部屋に戻ってみると、乱暴に片付けた蒲団は、今朝とは全く違う色彩を生み出していた。いつもなら、すぐにでも就寝の準備に取り掛かるのだが、今はどうにも、一切、手をつける気になれない。未だに、あの女が、彼の脳裏から離れないのである。
彼は、今日まで、恋をした事がなかった。恋愛事に興味がなかった訳ではない。だが、彼が恋するに値するような人物は、彼の人生には、今まで一人も現れていなかった(しかし、興味深いことに、前述した彼の飽き性は、彼の恋愛感情には結び付いていなかった。つまり、彼にとって、恋愛は遊戯ではなかったようである)。その分、彼は恋を知らなかった。知らな過ぎたのであろう。何度何度、思考を巡らせようとも、情緒は、むしろ激しくなるばかりで、それは、彼からすれば、不気味な感覚でさえあった。そして、小説の中において、幾度となく触れてきたものの輪郭が、含羞に伴って、徐々に明瞭になっていった。結局、どうしようもなくなった彼は、苦痛に耐えながら、床に臥す用意を始めた。
人間、寝っ転がっただけで、すぐ眠りに就くのは難しいと云うのに、黄吉の場合は、殊にそうであった。そのような体質であったのか、彼が眠ろうとして横になってから、眠気が到来し、やがて眠りに就くまでには、少なくとも半時間、長ければ二時間ほど掛かった。無論、その間、彼は覚醒している。だが、これと言ってすることもないので、その果てしない先にある眠気を待つ間、彼は、いつも、天井を眺めながら、考え事をする。今日の記憶、新聞に掲載されていた出来事、芝居小屋の人々、他者との会話、読み始めた小説、劇場で見た映画、明日の予定、あの女のこと……。駄目だ、駄目だ! 自分は、どうしても、彼女のことを、思い出してしまうじゃないか!――――彼女が有する、その可憐さ、妖しさは、彼の眼球を塞ぎ、それによって生じる情動の波は、彼の心身を搔き乱していた。然りとて、死んでしまいそうなほどの苦痛が、押し寄せている訳ではあるまい。だが、その懊悩は、彼の奥底に、はっきりと、重たい鉛の塊を落としていた。いつまで経っても、その鉛は引き揚げられない。引き揚げようとしても、そこからは、終わりのない徒労が続くだけである。しかし、それを諦めた途端、他に何もないというのに、心理の深く深くに、ただ一つ、物体が沈んでいるのが、気になって気になって、しょうがなくなるのだ。この一見大したことのないような感情によって、彼は、彼女にことごとく取り憑かれていたのである。
また、見た目からして、女は、二十前半の娘と推測された。少なくとも、黄吉より年上なのは明らかである。しかし、彼は、まるで天女にでも会ったかのような、筆舌に尽くし難い高揚を感じていた。思えば、彼女の仕草一つ一つが、今の彼には、酷く尊く感ぜられて、遂には、「そもそも、このパライソに、そのような高貴な存在が居たとしても、何ら不思議ではないじゃないか。彼女も、この美しき世界・観念の一部なんだ……」とまで考えるようになった。そうした想いを彼女に抱きながら、彼は、暗く冷たい記憶の海を泳いでいった。
それから、幾許の時が経ったのか、彼女のことを考える内に、ようやく眠気がやって来て、いつしか、彼は、子供のような夢を見ながら、眠りに就いていた。
翌朝は、胸の高鳴りに少しばかりの懐疑が混ざったような気分だった。自分が女に恋をしたというのに、その愛おしい
元より、その日も仕事があるので、黄吉は、いつも通り、芝居小屋の店番をした。昼のA街は、夜と比べれば、幾分か人通りは少ないけれど、やはり、そこは、夢見る大衆に溢れていて、享楽的な雰囲気と甘美な音楽が混ざり合って、その言い知れぬ空間を創り上げていた。
黄吉は、店番をしながら、女が立っていた、劇場の入り口をずっと見つめていた。無論、この時間帯に、あの女はいない。だが、黄吉の目を通せば、劇場の前には、いつでも、彼女の存在が投影されていた。その度に、彼は、彼女に懸想する自分自身にハッとなった。彼は、今すぐにでも、己の感情を吐き出してしまいたかった。しかし、彼の想いは、何処までも、独りよがりで、一方的なものに過ぎなかった。彼がどれほど彼女に恋慕しようとも、女は、黄吉のことなぞつゆ知らず、また、黄吉の方も、女の名前すら知らずにいた。二人は、いつまでも交わらぬ、平行な二線のようであった。その事実に、遣り切れない寂しさを感じた彼は、それを紛らわすために、もう一度、彼女のことを推量し始めた。
その後、彼は、彼女がいつも見ている世界を知ろうとして、仕事の合間に、こっそりと、劇場の入り口前に立ってみたこともあった。しかし、眼前の風景は、芝居小屋の前にいる時とそう変わらず、流れゆく人々の喜怒哀楽が見えるだけで、彼女と同じ景色を共有したところで、さして得るものはなかった。芝居小屋へと戻ってから、そのことが、何だか、余りにも悲しく思われて、彼の抱く寂しさは増し、彼は、意味もなく、向かい側を眺めていた。
再び、夜が来た。黄吉は、女がやって来るずっと前から、今にも破裂しそうな心臓を必死に抑えていた。見慣れているはずであるのに、通り筋に並べられた電燈、女郎屋の提灯、カフェーの窓明かり、旗亭の障子から漏れ出る光、といった街の火樹銀花は、彼の恋心を弄び、暴発を催促するかのように、呑気に煌めいていた。やがて、彼は、全く落ち着きがなくなってしまって、あと少しで狂いそうな具合にまで達していた。
その時である。再び、あの女がやって来たのである。女は、昨晩とは異なる、白色と菫色と紅色を組み合わせた、ハイカラな和服を着て、少し長い黒髪を、緋色のリボンで、ちょこんと後ろで結び、それを項に垂らしていた。そして、その端麗な目鼻立には、何処か、純真無垢を彷彿とさせるものがあった。彼女は、服装を除けば、無論、昨晩の彼女とは、寸分違わぬはずである。だが、黄吉からすれば、恋を意識した上で目にする、彼女の表情や立ち振る舞いには、特別な意味を見出さずにはいられなかった。いくら容姿を褒め称える文言を並べても、有限な範囲しか持ち得ない、言語と云う形式では、彼女の美貌を、正確に表現することは出来ないであろう。やはり、女は、一点の間違いもなく、美しかったのだ(この美しさは、可愛いらしさ、innocence、艶麗などを含意している)。そして、彼は、またもや、その美しさに、すっかり目を奪われてしまったのである。
その日も、女は、いつもと同じように、大通りに目を配るか、自分の足元を見ているかした後、一時間半ほどで立ち去っていった。対して、黄吉は、芝居小屋の前で、我も仕事も忘れて、彼女に見惚れていた。そうやって、彼女が毎晩同じ行動を繰り返すのと同時に、彼の恋情は一層激しくなっていった。だが、何しろ、こういう問題に初めてぶつかった彼は、どうすることも出来ずに、日々芝居小屋で労働しながら、彼女のことを、遠くから見つめているしかなかった。
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