1st SINGLE「ゆらら、はらら」

五十嵐璃乃

01. ゆらら、はらら

 黄吉は、遠い田舎の出身であり、まだ二十歳にも満たないが、ここ東京・A街の、とある芝居小屋で店番を任されていた。このA街には、その芝居小屋をはじめとして、数多くの娯楽施設が、大通りに沿って、まるで宝石のように、丁寧に陳列されていて、この世にはすっかり疲れ果ててしまった大衆が、己の抑圧された感情を曝け出して、男だの、女だの、役者だの、映画スターだのに熱狂していた。夜になれば、そこは、世界中の遊戯を集めたかような、派手で艶やかな、光彩陸離の眺め、現世のパライソに変わり、黄吉はその美しさに毎晩圧倒されていた。

 彼は、芝居小屋から十町離れた、西洋風の古びた建物の一室を借りていた。芝居小屋は、A街においても、一等の人気であり、彼も日々多忙な上に、食事も、朝・昼・夕と、全て芝居小屋で済ませていたため、自宅に居るのは寝る時だけであった。しかし、週に三日は、休みを与えられていて、そういう日には、外へ遊びに出掛けたり、自室で書物を読むことに耽ったりした。

 そうした日常風景の中で、彼にとって、気に掛かる事柄が一つあった。

 というのは、芝居小屋の真向かいに、およそ二年前に建てられた、比較的新しい劇場があって、そこでは、毎日、映画の上映や舞台の上演などが行われているのだが、玻璃細工が施された、その劇場の入り口前に、とある女性を頻繁に見かけるのである。店番という仕事上、黄吉は、この女のことをよく憶えていたのだ。

 女は、三週間ほど前から、毎晩七時頃に、劇場の前に現れるようになった。彼女が劇場に着き、その場で立ち止まると、まず、彼女は、通りに顔を向け、周りを注意深く眺め始める。だが、ある時になると、ふと、自分の足元に視線を落とす。それから、一分ほど俯いたままになる。しかし、その後、顔を上げ、再び、周りを見渡し始める。そして、同じように時が経つと、やはり、また足元を見つめる、という一連の挙動を繰り返すのだ。それが繰り返され、およそ二時間が経てば、彼女は、何処かへと去ってゆくのである。

 黄吉は、その女の行動について、以前から再三考えていたが、彼女の意図は、混凝土の中に埋もれたように判然としなかった。

 事が起きたのは、彼の上京から二年も経たぬ、残暑の時分であった。その日も、黄吉は、変わらず店番であったが、珍しく客足が少なかったので、彼は、暇を持て余していた。

 黄吉に限らず、人々は、この街に居る時のみ、煩わしい俗世から離れ、己の将来を憂うことなく、遊戯に熱することが出来た。ここでは、あらゆる者が、己のあらゆる業を許され、あらゆる時にも甘やかされ、あらゆる遊びに誘惑された。そして、戯れに興ずる彼らは、己の自尊心や名誉、命までも捨てて、一度味わった愉悦に、いつまでも浸ろうとした。街の何処へ行っても、皆、惚気顔であり、喧騒は、絶えず黄吉の前を蠢いていた。

 そうして、時が無自覚に流れてゆく中、彼がその阿呆な欠伸を両手で隠していると、右手から、例の女がやって来た。劇場の前へと向かい、やはり、そこで歩みを止めて、人が溢れる大路に目を向け始めた。

 彼は、最早、彼女の行動を見ることに慣れてきていた。理由わけを推察するのも、無駄であると思って、止してしまった。それ故、その光景は退屈でしかなかった。

 ――――あゝ、世間と云うものは、何とつまらないのか。

 黄吉は、眼の前を通り過ぎていく、遊蕩に耽る人々を羨んだ。この彼の感情は、街の人々についての、先程の記述に矛盾するかのように思われるが、ざっくばらんに申せば、彼は、世間一般が遊戯とみなすような事柄を、存分に味わうことが出来ていなかったのである。無論、それらには興を覚えた。しかし、その快楽が持続することは、ほとんどなかった。飽き性、だと云うことには、間違いあるまい。ただ、彼が、飽きてしまったものに見切りをつけ、新たな物事に手を出すには、人一倍時間が掛かった。その時期が訪れれば、我々では想像し得ない、凄まじい退屈と倦怠が、彼を襲った。時期を脱するには、当分の時間と耐久を要する。それは、すなわち、彼にとって、苦渋の日々が続くことを意味する。残暑の今日は、まさに、その真っ只中だったのである。

 だが、退屈は、彼を蝕む内に、意思さえ体得したのであろうか。きっと、その退屈が、意地悪く、黄吉に呼び掛けたに違いない。

 彼は、突然、自分が、女を注視したことがほとんどなかった、ということに気が付いた。

 そもそも、芝居小屋が面しているこの通りは、非常に人通りが多く、「いつも真向かいできょろきょろしている女性」として、彼は、彼女の存在を認知し始め、彼の認識はそれに留まっていた。そのため、彼女を識別する要素というのは、思いのほか朧げであり、彼女の不可解な部分だけが、彼の記憶に印象付けられていた。

 このような経緯と状況を踏まえれば、無聊を極めた今の彼が、彼女の容姿だとか服装だとかに見入ろうとするのは、必然であった。――――それを行う余裕は充分にある。機会は今しかない。これによって、この女の謎も分かるかも知れない――――次第に、彼女への興味が、彼の中に募っていった。折よく、通りの人通りは少なかった。その上、芝居小屋へ入ってくる客もほとんどいなかった。

 結果、彼は、何の遮りもなく、彼女を凝視することが出来た。故に、彼は、それらに少なからず衝撃を覚えた。


 彼女は、鴇色の生地に月白の帯を重ねた着物を着ており、高貴な感覚を身に纏った髪の、艶のある黒色の上には、小さくも華やかな簪が飾られていて、僅かに袖口から出た手足は、海泡石で彫られたかのような繊細さを備えていた。そして、白い肌に落とされた黒水晶の両眼と、中央に聳え立つ愛らしい鼻と、ふっくらと柔らかそうに丹つらう頬と、血の巡った官能的な唇とが、その端整な顔立ちを構成していた。


 いつの間にか、彼の思考は支配されていた。そう、恋による支配である!

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