1st SINGLE「ゆらら、はらら」
五十嵐璃乃
01. floating and scattering(2025 Mix)
一
黄吉は、遠い田舎の出身であり、まだ二十歳にも満たないが、ここ東京・浅草の芝居小屋で店番を任されていた。
浅草の街には、黄吉の芝居小屋をはじめとした数多くの娯楽施設が、大通りに沿って、宝石のように丁寧に陳列されていて、この世にはすっかり疲れ果ててしまった大衆が、己の抑圧された感情を曝け出して、歌舞伎だの、オペラだの、遊女だのに熱狂していた。
夜になれば、辺りは、世界中の遊戯を集めたかのような光彩陸離の眺め、派手で艶やかな現世のパライソに変わり、黄吉はその煌びやかな景観に毎晩圧倒されていた。
彼は、芝居小屋から十町ほど離れた、古びた下宿屋の一室を借りていた。芝居小屋は浅草において一等の人気であり、黄吉も日々多忙なうえ、食事も朝・昼・夕と全て芝居小屋で済ませていたため、彼が自宅に居るのは寝る時だけであった。しかし、週に三日は休みを与えられていて、そういう日には、外へ遊びに出掛けたり、部屋で読書に耽ったりした。
そうした日常の中で、彼には一つ気にかかることがあった。
というのは、芝居小屋の真向かいに、およそ一年前に建てられた新しい劇場があって、そこでは映画の上映や劇団の興行などが行われているのだが、玻璃細工が施された入り口の前に、とある女性が立っているのを頻繁に見かけるのである。店番という仕事上、黄吉は、この女のことをよく憶えていたのだ。
女は、三週間ほど前から、毎晩七時頃に、劇場の前に現れるようになった。
劇場に着き、その場で立ち止まると、彼女は、まず通りに顔を向け、周りを注意深く眺める。だが、ある時になると、ふと自分の足元に視線を落とす。それから一分ほど俯いたままになる。しかし、その後、顔を上げ、再び周りを見渡し始める。そして、同じように時が経つと、また足元を見つめる、という一連の挙動を繰り返すのだ。それが何度も繰り返され、およそ二時間が経てば、何処かへと去ってゆくのである。
黄吉は、女の行動について、以前から再三考えていたが、彼女の意図は、
事が起きたのは、彼の上京から二年も経たぬ、残暑の時分であった。
その日も、黄吉は、変わらず店番であったが、珍しく客足が少なかったので、彼は暇を持て余していた。
人々は、この街にいる時のみ、煩わしい俗世から離れ、将来を憂うことなく、道楽に耽ることが出来た。ここでは、あらゆる者が、己のあらゆる業を許され、あらゆる時にも甘やかされ、あらゆる遊びに誘惑された。そして、戯れに興ずる彼らは、名誉や財産、時には命までも捨てて、一度味わった愉悦に、いつまでも浸ろうとした。街の何処へ行っても、皆惚気顔であり、喧騒は絶えず黄吉の前を蠢いていた。
だが、彼が
彼はもはや彼女の行動を見ることに飽き飽きしていた。
————あゝ、世間と云うものは、何とつまらないのか。
黄吉は、目の前を通り過ぎていく放蕩する人々を羨んだ。彼のこの感情は、街の人々についての記述に矛盾しているように思われるが、ざっくばらんに申せば、彼は、世間一般が遊戯とみなす事柄を、存分に味わうことが出来ていないのである。確かに、それらには興を覚えた。しかし、得られた快楽が持続することはほとんどなかった。飽き性、だということには間違いあるまい。ただし、彼が飽きてしまったものに見切りをつけ、新たな物事に手を出すには、人一倍時間がかかった。その段階に入れば、我々では想像し得ないほどの、凄まじい倦怠感が彼を襲った。苦境を脱するには、当分の時間と耐久を要する。それはすなわち、彼にとって苦渋の日々が続くことを意味した。残暑の今日は、そうした日々の真っ只中だったのである。
だが、退屈は、彼を蝕む内に、意思さえ獲得したのだろうか。きっと、その退屈が、意地悪く黄吉に呼びかけたに違いない。
彼は、突然、自分が女を注視したことが一度もなかった、ということに気が付いた。
そもそも芝居小屋が面しているこの通りは人の行き来が激しく、〝いつも向かい側できょろきょろしている女〟として、彼は彼女の存在を認知し始め、彼の認識はそれに留まっていた。そのため、彼女を識別する要素というのは思いのほか朧げであり、彼女の不可解な部分だけが、彼の記憶に残っていた。
このような経緯と状況を踏まえれば、暇な彼が、彼女の容姿や服装に注目しようとするのは、必然であった。――――時間的余裕は充分にある。機会は今しかない。これによって、この女の謎も分かるかも知れない――――次第に彼女への興味が彼の中に募っていった。折よく、通りにいる人は少なかった。そのうえ、芝居小屋へ入ってくる客もほとんどいなかった。
結果、彼は、何にも遮られることなく、彼女を凝視することが出来た。故に、彼は、少なからず驚愕した。
彼女は、鴇色の生地に月白の帯を重ねた着物を着ており、高貴な品格を纏った髪の、艶のある黒色の上には、小さくも華やかな簪が飾られていて、僅かに袖口から出た手足は、海泡石で彫られたかのような繊細さを備えていた。そして、白い肌に落とされた黒水晶の両眼、中央にそびえ立つ愛らしい鼻、ふっくらと丹つらう頬、血の巡った官能的な唇が、その端麗な顔立ちを構成していた。
いつの間にか彼の思考は支配されていた。そう、恋による支配である!
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