半魚人ツヨシ
千織
俺、なんで半魚人になったんだろ?
青い空
白い雲
太陽の光できらめく水面
ツヨシは何をするわけでもなく、ぷかぷかと海に浮いていた。
半魚人になって、十三年経った。
東日本大震災の津波で海に引き込まれ、気づいたら体は鱗まみれになっていて、指の間に水掻きができていた。
えら呼吸ができるらしく、海の中でもラクに過ごせる。
アカウミガメのガメラが、すいっと寄ってきた。
「ツヨシどん、また運動サボって。そんなんじゃメタボが進むよ」
メタボは人間の時からだ。
「なんで妖怪になっても、健康に気を遣わなきゃならないんだよ。しかも主食が海藻なのに、太るなんておかしいよ」
海面には顔と、それ以上に腹が、もこっと出ている。
「食べ過ぎに運動不足。あと、時々、串揚げ食べてるでしょ」
生まれつきの半魚人は油物はダメらしいが、人間から半魚人になるとちょっとは食べられる。
ツヨシは、ゴミ捨て場や海で拾ったガラクタを直してリサイクルショップに売りに行き、小銭を稼いでいた。
古着屋で買った服と帽子、マスクで人間を装い、串揚げ屋に行って、ビール一杯と串揚げ二、三本を食べるのだ。
「一カ月に一度しか行ってないのに……」
「もう少し動かないと。肥満の半魚人なんて初めてだ。そんなんじゃ長生きできないよ」
「半魚人になってまで、長生きしたくないよ……」
ツヨシは半魚人一年目のことを思い出した。
海の生き物たちはみんな優しく、人間関係ならぬ海洋生物関係にストレスはなかった。
本能的に、食べ物や危険なものはわかったし、案外半魚人生活にはすぐ馴染んだ。
慣れてくると欲が出て、陸地でどれだけ動けるが試し始めた。
肌が乾き切るとすごく苦しくなる。
海水を二リットルのペットボトル二本に入れて、いつも持ち歩いた。
海水を浴びながらなら、二時間くらいは動けた。
それがわかってから、自分の家族――妻の久美子、長男の翔琉、次男の海斗――の様子を見に行くようになった。
三人は、久美子の実家で祖父母と一緒に住んでいる。
祖父母の家は高台にあり、無事だったのだ。
高台に家があるのは安心でありがたいが、今の自分の身からすると、海から遠く、様子を見に行くのに一苦労だ。
それでも、できる限り夜に行って、近くの林に身を隠しながら、家の様子を探っていた。
当時小三の長男は救急救命士になり、小一だった次男は県外の大学に進学して地震の研究をしている。
俺の子にしては出来過ぎだ。
嬉しい反面、”父親として何もしてないのに子どもが立派に育っちゃって、俺っていらなかった?”という寂しさがあった。
もう人間でもないし、父としても必要なさそうだし、久美子のこれからを考えたら再婚した方がいいんじゃあ……なんて考えると、やけ食いしてしまうし、運動なんてする気は起きないのだ。
「あ、そうそう、そんなことより、大事な話があったからツヨシどんを探してたんだ」
「うん、まあ、俺の健康に大した意味がないのはわかってるけど、はっきり”そんなことより”って言われると傷つくな」
「繊細でめんど臭い人だね。そんなんじゃ一生半魚人のままで、魚人にはなれないよ」
「え? 半魚人って、半人前みたいな意味なの? 魚人が進化系?」
「ふっ。今のはね、高等なseaジョークだよ」
そう言ってガメラは笑ったが、ツヨシには全く面白さがわからなかった。
「で、何なの? 大事な話って」
「ツヨシどんが人間の時に働いていた工場の社長、死んだらしいよ。明日、お通夜だって」
ツヨシは驚いた。
社長は、まだ七十歳手前なのに。
今どき若すぎる。
でも……
仕方ない気もした。
震災で奥さんを亡くして、工場も流された。
工場再建のための苦労は計り知れない。
都会に出ていた息子が戻ってきて、会社を継いだはずだ。
ツヨシは高卒で社長の会社に入り、息子と同い年ということもあり、可愛がってもらった。
久美子とは社内恋愛の末、結婚した。
だから、プライベートも含めて面倒を見てもらっていたようなもので、まさに第二の父親的存在だったのだ。
「……通夜なら夜だから行きたいんだけど、どうかな?」
「人がたくさん来るし会話があるから、変装じゃ無理だと思うよ」
「そこをなんとか……なる方法ないかな?」
「海のおばばにお願いしてみたら? おばばに魔法をかけてもらえば、短い時間だけど人間になれるよ」
「ホントに?! それすごいね!」
ツヨシは、ガメラから海のおばばの居場所を聞いて向かった。
♢♢♢
海の底の岩場に大きな穴があり、そこに海のおばばはいた。
おばばは短く刈り上げた白髪に、青い肌をしていた。
ふくよかで、胸は布ようなものがまかれ、カラフルな腰巻きを身につけている。
小さな魚たちが、おばばの周りをふよふよと泳いでいる。
「おばばさん、はじめまして。半魚人のツヨシと申します」
おばばはツヨシに視線を向けたが、ツヨシを見た瞬間に「え?!」っと言った。
「太っでら半魚人ば、初めで見だ」
……自分だってふくよかじゃん……
そうツヨシは思ったが、もちろん言わなかった。
「あの……突然で失礼なのは承知の上なのですが、私の恩人の人間が亡くなりまして、なんとか明日、通夜だけでも行きたいのです。私をその時だけ人間にしてくれませんか?」
おばばはしばし黙って、ツヨシを見つめた。
「人間の見た目さするごだでぎっけど、万が一にも人間でねごどがバレだらばなす、おめさん、はぁすぐに泡っこさなっで消えでしまうんだぁ。葬式つったらば、みーんな親しい人だべ? なじょしたってわがられんべや。危ねんだ。気持ちはぁわがっけどもさ、やめどけ」
人の見た目にはできるが、バレたら泡になって消える。
葬式は親しい人が来るのだから、どうしてもわかられるだろう。
危ないから、気持ちはわかるけど、やめておけ。
と、言われた。
「んだけどもさぁ、ほんっとに世話かげた人なんす。今はオラも半魚人だっけども、人の心はまだあるのす。なんとか力貸してけんねべが? ならねぇようにはすっけども、万が一があっでも、おばばのこどは恨まねす。一生に一度のお願ぇだ。なんとがしてけねが?」
ツヨシは、同じ訛りで、心の距離を縮める作戦に出た。
本当に世話になった人なので、力を貸して欲しい。
今は半魚人だけど、まだ人の心はある。
万が一のことがあっても恨まないから。
と、言って、おばばに懇願した。
「……わがっだ。んだば、明日の夜
「ありがで、ありがで。恩にきる。今がら準備しさ行ぐがら。明日ば、よろしぐな」
ツヨシは、そう言っておばばの住処を離れた。
♢♢♢
おばばのアドバイスは、絶対バレないように女に化けようということだ。
人間でないことがバレてもいけないが、俺が剛とバレてもいけないということだ。
死んだはずの剛とわかったら、人間でないことにも気づかれてしまう。
男の姿だともしかしたら雰囲気で悟られるかもしれないが、女なら可能性が低くなるだろう。
ツヨシは、隠し財産を握りしめ、ファストファッションセンターへ行き、女性用の大きめサイズの喪服とストッキングと黒い靴を買った。
あの時の、レジ店員の不審者を見るような目は忘れられない。
♢♢♢
翌日の夜、おばばは約束通り魔法をかけてくれて、体は人間の女の見た目になった。
想像していたよりは太くなくて良かった。
喪服のサイズが合うか心配だったのだ。
「この珊瑚の数珠を持ってげ。珊瑚さヒビ入ったらよ、体が戻るまで残り十五分くらいだ。そうなっだらよ、急いで海さ戻るんだじゃ。決して血迷っでぇ、正体を明かそうなんて思うなや。おめはんは、もう半魚人として生ぎる運命だがらよ、それは受げ入れろ」
おばばは心配そうにツヨシを見つめた。
「わがっでら。オラはぁ人間の世界にゃ居場所はね。童はぁ大人になっで、嫁っ子も新しぐいい
ツヨシは、おばばの住処を後にした。
心配は無用だ。
あくまで、社長に最期の感謝を伝えに行くだけなのだ。
♢♢♢
陸地に隠していた喪服に着替え、用意していた水引が印刷された御仏前を黒いハンカチに包んだ。
珊瑚の数珠は、今から手首に巻くことにした。
残り時間は一時間半。
長々といるつもりはないが、念のためだ。
社長の自宅に着き、弔問客に紛れて受付に行く。
名前は、従姉妹の名前を借りた。
工場で人手が足りなかったときに、従姉妹がアルバイトに来たことがあったのだ。
丸っきり縁がないわけじゃない。
中に入り、社長の遺影を見る。
人間としては先輩だが、死後の人生においては俺が先輩だ。
会えることがあったら、頼ってほしい。
……なんてね。
社長は半魚人にはならないだろう。
お坊さんの読経が沁みる。
社長は、この世を去るにはまだ若かったのが悔やまれるが、ちゃんと人として行くべき道を通って成仏するのだ。
それに比べて俺は……
なんで半魚人になったんだろう。
海洋生物たちとの生活は楽しいは楽しいし、小銭稼ぎもなかなか面白い。
まあ、そう考えると、なんだかんだ半魚人人生を謳歌している。
適応能力、無駄に高いな俺。
そんなことを考えていたら、焼香の順番が回ってきた。
社長……
本当に今までありがとうございました。
震災後も大変でしたね。
軽々しい言葉かもしれませんが、お疲れ様でした。
いつかどこかで、また会いましょう。
死後の世界も、悪くはないですよ。
手を合わせながらそう心の中でつぶやいて、離れた。
悲しみに暮れるみなさんの横を通り、外に出ようとした。
自分が先に死んだから……というのはあるが、こうやって平気そうにしている自分は、いつの間にか人間の心を無くし、本当に妖怪の心になってしまったのかな、と思った。
ちょっと寂しいが、仕方ない。
おばばにも言われたじゃないか、運命を受け入れろって。
はぁ、とため息をついて、社長の自宅から外に出た。
残り時間はあと30分。
帰るだけなら余裕だ。
海に向かって、歩き出そうとしたときだった。
「あの、ちょっとよろしいですか?」
後ろから話しかけられて、振り向いた。
久美子だった。
いるのは当たり前だ。
今も社員なんだから。
気にはなっていたが、あえて探していなかった。
こんな近くで真正面から見たのは本当に久しぶりだ。
元から痩せ型だったが、さらに小さく感じた。
優しい目元は変わっていない。
久美子がそばにいると感じて、ふと、肩の力が抜けた。
一方で、久美子の表情は堅かった。
「……何か……?」
こちらから声をかけた。
「ああ、えっと、すみません。突然失礼して……。間違っていたら大変申し訳ないのですが、岩間剛の親戚の方……ですか? 私は、剛の妻です。なんとなく、雰囲気が似ていたので……」
驚いた。
うっすらバレている。
なんでわかったんだ。
誰とも会話してないし、見た目も全然違うのに。
「私は……従姉妹です。短い間でしたが、工場でお世話になったので……」
「そうでしたか! やっぱり……。なんか表情や、待ってる時の手つきが似ていて」
久美子は少しホッとしたようにほほえんだ。
そうか、そういう無意識のところに自分が出るんだな。
それに、そんなささやかなことで久美子が気づくなんて……。
ツヨシは、こそばゆい気持ちになった。
「なんか、まるで、剛さんの女性バージョンを見ているようで。思わず声をかけてしまいました」
久美子は笑顔で言った。
が、その笑顔を貼り付けたまま、久美子の目から、急に涙がこぼれた。
「ご、ごめんなさい。もうかなりの月日が経っているのに、いまだに……。どうして……って思うんです。しょうがないのに。自分たちだけじゃないのに。すみません、取り乱して……」
久美子は顔を真っ赤にし、肩を震わせた。
ハンカチで涙を拭くが、追いつかないようで、久美子はハンカチで顔を覆った。
「……久美子さん。わかりますよ。誰だって、大変でしたよね。あっという間の出来事で……。でも、考えてみてください。剛さんのあの性格ならきっと、あの世でも楽しくやってると思いますよ。今頃、社長と何して過ごそうか考え出るんじゃないですかね?」
ツヨシは笑って言った。
「ええ……そうかもしれませんね……。剛さんは、単純で、大雑把で、危機感がなくて。でもそういう大らかなところが良いところでした。こちらの苦労も知らず、今頃、新しい人生を呑気に楽しんでいるかもしれませんね」
……ちょっと、言い過ぎじゃない?
忘れてたけど、久美子は毒舌家だった。
しばらく交流してなかったから、つい久美子を優しい妻として美化していた。
でも、この懐かしい感じに胸が温かくなった。
普段の調子になったせいか、久美子の涙も収まったようだ。
「あの、良かったら、連絡先を教えていただけませんか? 今度ゆっくり、お話をしたいのですが……」
これもまた、懐かしいセリフだった。
出会いのきっかけは、観光客向けのイベントだった。
会社がそのイベントのために、販売員の短期アルバイトを募集した。
そこに来たのが久美子だった。
当時の俺は、メタボのメの字もないシュッとした若者で、久美子から逆ナンパを受けたのだ。
それから久美子は正社員にも応募し、採用され、俺とも付き合うことになった。
あの時の、若く、可愛らしい久美子が思い出される。
今すぐにでも、自分が夫の剛だと打ち明けて、抱きしめたい。
久美子の苦労を労り、想いを受け止めてあげたかった。
ツヨシは、そっと左手を久美子に伸ばした。
その時だった。
ピシッ!と音がして、左手首に巻いた珊瑚の数珠にヒビが入った。
海までは、走って十五分かかる。
もう行かなくては!
「すみません! 私はもう行かなくてはいけません! 元々、スマホとか持ってないんです! 今度、剛さんと初めてデートした海岸に来てください! 私はそこによくいるんで、見かけたら、必ず声をかけますから! 必ず!!」
驚きの表情の久美子をあとにして、ツヨシは海に向かって、全力で走った。
♢♢♢
あれから三か月が経った。
「すごいね、ツヨシどん。腹筋われてんじゃん」
ガメラが言った。
「ふっふっふっ。俺はやればできる男なのだ」
ツヨシはボディービルダーポーズを決めた。
「俺は、息子たちの子ども、孫、ひ孫まで見るつもりだし、今度津波があったら流された人を助けられるようにしたいんだ」
「ああ、だから最近、流れの強いところで逆らって泳いでるんだね」
「息子たちに負けてはいられないからね」
「あ、久美子さん、来たみたいだよ」
久美子とは、週一回、この浜辺で会っている。
おばばが三十分だけ、あの女の姿になれる魔法の薬を作ってくれたのだ。
二回目に会った時、
「葬式の時、私は名乗らなかったのに、どうして私が久美子だとわかったんですか?」
と訊かれた。
思い出したんだよ!と、無理矢理弁解したが、久美子は察したようだった。
薬が切れる時間が迫ると、女ツヨシは岩場の陰までダッシュをし、海に飛び込む。
そんな奇妙な行動を見て、久美子は俺が剛だと確信しただろう。
「じゃあ、俺は妻とのデートに行ってくるから」
「はいはーい。楽しんで来てねぇ」
どうして俺が半魚人になったのか、これからどうなるのかは何もわからないが、久美子の笑顔がそこにあることだけは真実だ。
スリムになった女ツヨシの俺は、砂浜に座る久美子の横に座った。
夕日で赤く染まった久美子の横顔は、出会った頃と変わらず美しかった。
半魚人ツヨシ 千織 @katokaikou
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