畳のへり
西しまこ
父親
スマホが鳴った。
見ると、妹からだった。
珍しいなと思って出ると「お姉ちゃん? あのね、お父さん亡くなったから」と、いきなり恐ろしい真実を突き付けられた。
「え? どうして?」
「どうしても何も、ずっと入院していたし」
「それは知っていたけれど」
「……一度もお見舞いに来なかったけどね」
冷たい刺さるようなひと言に私は黙り込んだ。
そうだ、その通りだ。私は父が入院しているのを知っていて、お見舞いに行かなかったのだ。一度も。
「とにかく、明日がお通夜で明後日がお葬式だから。伝えたからね」
妹からの電話はかかってきたのと同じように、唐突に乱暴に回線は切断された。
私はしばらく無言になったスマホを眺めた。――あの父が亡くなった? 本当に?
私は父が苦手だった。
小学生のとき、私は時計の問題が分からなかった。テストでひどい点をとってきた私に、父は珍しく勉強を教えてくれた。
「七時四十五分の三十分後は?」
「七時七十五分!」
「七十五分はないんだよ。ほら、時計の針がこうぐるっと回るから」
「七時十五分!」
「……どうしてそうなるんだい? 七時四十五分より前だろう、それでは?」
「前って?」
父は私を見て呆れたように溜め息をついた。わたしはその父の顔を見たら、何も言えなくなってしまった。四十五分に三十分を足すと七十五なのに、どうして七十五分じゃないんだろう? 父が書いてくれた時計の図の針は十五を指していたのに、どうして七時十五分は不正解なのだろう?
このようにして私は父に「最適解」をもたらすことが出来なかった。いつも。高校を決めるときも大学を決めるときも。就職をしてから転職したときは、「どうしてあんないい会社を辞めたんだ」とひとこと言って、黙り込んだ。
「私ね、デザイン関係の仕事をやりたくて」
「……いつまで夢みたいなことを言っているんだ。いい年をして」
「だけど、私は――」
父は私に背中を向け、もうひとことも話さなかった。
私はその後すぐに家を出て、独り暮らしを始めた。家族の目を気にしないでいられる環境はとても快適で、私は実家にはほとんど帰らなかった。実家には年の離れた妹がいて、妹は私と違って、父に可愛がられていたし母も妹のことを頼りにしていた。妹とは年が離れているせいか、ケンカもしなかったけれど深い話もしなかった。
私は、まるで三人家族であるかのような、父と母と妹の中に入って行けなかったのである。
「お姉ちゃん、お父さん、病気になったの」
「そう」
「入院したのよ。お見舞いに来てくれる?」
「今、仕事が忙しくて」
「ねえ、お姉ちゃん、一度くらいお見舞いに来たら?」
「仕事がひと段落したらね」
仕事がひと段落することはなく、次々に仕事をしていった。時には徹夜もして働いた。自分がやりたかった仕事だから、大変だったけれど情熱を注いで仕事をしていたのである。そうして、父のことは頭の片隅に追いやられていた。
その間に父はこの世を去った――らしい。少しも現実味を伴わなかった。
私は仕事先に連絡を入れ、それから喪服と黒い鞄と靴と数珠を買いに行った。
ショッピングモールに向かう駅の構内で、突然、昔父と一緒に聞いた音楽が流れて来た。小学校に通う前だったかもしれない。私と父しかいない家の中で、父がその音楽をかけたのだ。透明なその英語の音楽は、私の心にずっと残る美しい調べだった。気持ちのよい畳の感触。畳のへりを裸足の足でなぞった。
あのとき、父は確かに少し笑って私を見ていたと思う。不思議に温かい時間だった。その後、家の中でふと不安になると、私はいつも畳のへりを見て、あの日の音楽と父の微笑を思い出し、そうして生きてきたのだ。畳のへりは深い緑の色に金糸が織り込まれたものだった。
あの日のにおいまで蘇るようだった。
了
畳のへり 西しまこ @nishi-shima
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