俺たち
おぎまさお
第1話
もう四十分は走っただろうか。深い山道に入ると、太陽は木々に遮られ、道に陽の斑点を作った。山腹の風はひんやりとしており、土の香りを含んでいる。テレビの予報では猛暑日であったが、ここでは関係のないものだ。開けた窓から入る蝉の鳴き声は凄まじく、山全体がうなりを上げていた。普段都会で聞くそれとは大違いである。
「すごい鳴き声だろ雄介。この蝉はお前と同い年なんだぞ」
分かってはいたが、車酔いを起こしている彼は、後部座席のシートに顔を埋めたままピクリとも動かなかった。
「大丈夫かい?」
返答は無かった。上り下りの激しい山道は、子供には厳しかったようだ。路肩に車を停めて、外の空気を吸わせてやっても良かったが、まあ大丈夫だろう。
峠を二つ越えると、視界は大きく広がった。村へと続く一本の真っすぐな長い道を、鮮やかな緑の田園が挟む。私の故郷である。雄介が産まれた時、私の母はこんな田舎から一人で東京まで来てくれた。最後に会ったのはその時である。七年ぶりだ。実家に帰るのはもっと久しい。それがいつだったのかも分からない程に。独り、この寂し気な村に暮らす母を思うと、どことなく悲しい気持ちになった。太陽の強い陽射しが、フロントガラスを突き破る。
「こんな田舎じゃあ遊ぶ所なんて一つもないよ」
運転席に飛び出した顔は、今すぐにでも引き返せと言っていた。
「雄介、わがまま言わないでくれよ。父さんも母さんも仕事なんだ。夏休みの間、一体誰が給食屋の代わりをするっていうんだ?」
不満げな顔は、後部座席へゆっくりと戻っていった。何を言っても、もう引き返すことはないと分かってくれたらしい。
「それにな雄介、遊ぶ所なら沢山あるんだぞ。父さんがお前ぐらいの時は毎日友達と、さっき走った山とか、向こうの海で泳いで遊んだぞ」
「でも僕は独りじゃないか。ここには友達なんて一人も居ないんだよ?」
暫く私は運転に集中するふりをした。というのも、返す言葉が見つからなかったからである。私の母が面倒を見てくれるとは言え、雄介が満足するような良い遊び相手にはならないだろう。夏休み期間中、ずっとこの田舎で独りきりは確かに少し不憫だ。しかし、仕方のないことなのだ。
「まあ楽しめるよ、きっと」
「父さんは友達が居たから楽しかったんだよ。僕みたいに独りだと、やることなんてなかったさ」
雄介は不機嫌そうに言った。
「そうかもしれないね」
私はこれ以上、彼の夏休みの話は止そうと思った。どれだけ言っても、彼の夏休みが楽しい物にはならないことに気が付いたからである。
私はラジオを点けた。しかし、山奥だからか、ラジオのダイヤルはなかなか合ってくれなかった。
雄介の不満が治まってくれたかと思ったが、暫くすると彼はまた口を開いた。
「父さんの友達って、まだこの村に居るの?」
ラジオの音にノイズが走った。
「さあ、どうだろうね」
原木に打ち付けられた、村の名前が書かれた大きな標識を通り過ぎた。木の皮は殆ど腐って崩れ落ちている。あいつはきっと、まだこの村に居るだろう。
*
俺とあいつはいつも一緒だった。その日も学校を昼に抜け出し、あいつが待つ場所に走った。前日に雨が降ったため、地面はぬかるんでいる。靴は泥だらけになっていたが、俺は一切気にならなかった。
あいつはあまり学校に来ない。気が向いたときに来て、飽きたら勝手に帰るのがあいつだった。俺は他にも友達は居たし、あいつも別に嫌われていた訳ではない。でも、あいつと俺はいつも一緒だったのだ。
息を切らしながら走った俺は、いつもの場所に辿り着いた。そしてあいつもいつも通り、標識が打ち付けられた原木にもたれかかるようにして座り、たばこを吸っていた。
「田岡! お前今日も学校来なかったな」
田岡は俺に気づくと、黄色い歯を見せてにやりと笑った。
「つまらないだろ、あんなところ」
いつもの調子で田岡は言った。
「まあ確かにな、言えてるよ」
「北江もあんな場所、とっとと行くの辞めちまえよ」
俺は笑った。何が面白かったかは分からなかったが、そうした。咥えていたたばこを吐き捨てた田岡は、口に付いた唾を手で拭いながらぼそりと呟く。
「今日は何処まで行けるかな」
俺は太陽を見上げた。
「まだ日暮れまで時間があるから、結構なところまで行けるよ」
田岡はまた、満足げににやりと笑った。
この標識は、この村の入口であり、出口であった。俺たちはいつもここで集まり、村からどれだけ遠くに行けるか歩き続けるのに夢中だった。車が走る車道を歩くのは簡単だった。しかしそれではつづら折りや回り道が多く、進める距離に限界がある。そこで俺たちは車道ではなく、山の中を歩くようになったのだ。
「そんなので行けるのかよ」
俺は田岡のサンダルを指さした。
「年中これだとさ、慣れちゃって靴より楽なんだよね」
田岡はサンダルの中で足の指をばたばたと上下させた。サンダルは既に泥だらけになっていたが、彼はこれで平気なのだろう。もっとも、俺の靴も既に泥だらけではあったが。
集合場所から車道を歩いて進み、暫くして脇の雑木林から山へ入っていった。森の中は薄暗く、土だけでなく草木もまだ雨水が滴っていた。森の様々な音が入り乱れている。しかしそれらの音は、俺たちからすれば聞きなれたものであり、村にいる時よりも静かに感じていた。
「やっぱりここの方が学校より良いや」
木々を見上げる田岡は独り言のように言った。
「でも森にばっかり籠ってないでさ、学校のみんなとも遊んだほうがいいんじゃないか? 先生だって心配してたぞ」
田岡は黙ったまま、木の棒で膝下程まで伸びた草をかき分け、先へ進んでいった。
「最後に学校へ行ったの、いつだよ」
「さあ。先月は遊びに行ったよ、体育祭の日だ」
田岡は笑いながら言った。
「そんなことよりよ、気をつけろよ。最近ここら辺で熊が出たそうだからさ」
話題を変えたかったのだろう。俺はそんな気がした。
「ああ聞いたよ。親からも森に近寄るなって散々言われたよ」
「あいつらは何をするにしてもやるなって言うだろう」
俺は視線を上げ、田岡を見た。しかしその背中から田岡がどんな顔をしていたかは分からなかった。
「まあそうかもな」
「ああ」
どんどんと先へ進んでいく田岡を俺は追った。思えば、俺はいつも田岡の背中を見ているような気がする。
暫く歩けば俺たちの間にはもうかなりの距離が出来ており、俺は田岡を見失いそうになっていた。
「田岡、ちょっと進むの早いよ!」
そう言いながら田岡を追おうと、ぬかるんだ傾斜を踏んだその刹那、森の中に銃声が響いた。とても大きな音だった。俺は音の衝撃からか、あるいは泥のすべりからか分からないが、どちらにせよ尻もちをつき、背中と後頭部を地面に打ち付けた。しかしそんなことはどうでも良く、そのまま自然と体を屈めていた。そして状況を理解し、すぐさま田岡のもとへと走り寄った。
「なんだよ今の音!」
「害獣対策の爆音機だね」
驚いた俺をよそに、田岡は冷静だった。俺には分からなかったが、音が鳴ったと思われる方向を彼は見つめていた。森の中にばかり居る田岡は、銃声と爆音機の音の違いを聞き分けられるようだ。銃声でないと分かった俺は胸をなでおろした。
「前にここを通ったときは、設置されてなかった筈だけどな」
不思議そうに辺りを見回しながら田岡はそう言った。どうやら本当に、ここら辺で熊が出ているらしい。俺は親の言うことを信用していれば良かったと少し後悔した。
「おい、熊が出たらその棒切れで殴り倒してくれよ」
俺は田岡の持つ木の棒を指さした。田岡は大きく笑いながら木の棒を大袈裟に構えた。俺はそうする田岡を見て、やっと落ち着きを取り戻せた。こんなものでは熊など倒せないことは分かっているが、そうする田岡を見ると心強かったのだ。
今この辺りの森を歩いているのは、猟友会の人間か俺たちぐらいだろう。何が起きても頼れる相手は決まっているのだ。そう思うと、一段とこうしていることが特別なことに感じるものである。俺たちは、図らずも森の先にある隣街へと向かっていた。
*
「ほら、もう着いたから大丈夫だ」
車のドアを開けると、雄介は向こうの窓に頭を委ねてぐったりとしていた。私は彼を抱き抱え、実家の呼び鈴を押した。日光に焼けたそのプラスチック部分は黄色く変色し、粉を吹いている。ボロボロと崩れそうに感じた。最後にこれを押した時はきっとそうではなかったのだろう。
「暫くゆっくり寝かせとくと良いよ」
台所で茶を淹れてくれている母はそう言った。七年ぶりに見る母の背中は、以前よりもまた小さく見えた。私は座布団を重ねて枕を作り、雄介を横にした。彼は辛そうに目を瞑っていた。淹れた茶と菓子を居間に運ぶ母は、雄介を心配そうに見た。
「雄介君? 冷えたサイダーがあるから、飲みたくなったら言ってね」
「ありがとう」
雄介は小さな声で応えた。
「突然悪いね母さん」
「いいの、いいの。子供の一人ぐらい、何も問題ないんだから」
そう言いながら母はしおれた手で茶を出してくれた。
「それに、こういう時ぐらいじゃないと雄介君にもあんたにも会えないみたいだからね」
私は笑った。そんなことを言えるならまだ安心だ。私はまだ、母の強さに助けてもらえると思った。
「そんなことより、最近そっちではどうなの? 仕事とか、美紀ちゃんは元気でやっているの?」
「大丈夫だよ。転勤とかもあったけど、問題ないよ」
「美紀ちゃんは? 元気でやってる?」
「まあぼちぼち元気でやってるよ」
母からの質問攻めは、正直面倒くさい。心配して聞いているのだとは思うが、仕事や妻の問題があったとしても、それを言ったところで何も解決はしないものである。こういった場合は大丈夫とだけ伝えて安心させれば良いのだ。
面倒な質問を切り上げる為に私は立ち上がった。
「線香あげてくるわ」
私は隣の仏間に逃げた。六畳一間の和室に仏壇が一つ、ぽつりと置かれたこの部屋には、それ以外に何も無かった。父は私が九歳の時に死んだ。もう物心がついていた年齢ではあるが、父の記憶は曖昧である。どんな声をしていたか、何をしてもらったか、はっきりとは覚えていない。手を合わせてみても、何を言うべきなのか思いつかなかったので、ただいまとだけ想うことにした。
その後、母が作ってくれた昼食を食べた。雄介はまだいらないと言うので母と二人で食べた。それにしても、久々に帰った実家だというのに、何も感じない。もっと懐かしさを感じるものだと思っていた。この家を出てから私を取り囲む環境は変わった。新しい人との出会いや経験、大切な子供も授かった。私自身は大きく変わっているはずなのだ。それなのにもかかわらず、何も感じないのである。なにか、自分の中で時間が止まっている気がした。
テレビを見て、少し寝て、夜になればまた夕食を食べた。一時間がとても長く、そして薄く感じる。退屈である。
気がつけば雄介と母はよく話すようになっていた。雄介は誰とでも話せる性分なので大丈夫だとは思っていたが、とりあえずは一安心だ。
「この辺りの川は水が綺麗だから、蛍がいるんだよ」
「蛍って光る虫だよね。図鑑で見たことがあるよ」
二人が話している様子を私は横目で見ていた。雄介は楽しそうだった。誕生日に買ってやった昆虫図鑑は少し値段が高く財布が痛んだが、二人の会話を聞いていると買って良かったと思えた。
「今の時間帯なら光っているとこが見られるかも。見に行きたいな!」
雄介は母に目を丸くして言った。その目は、連れて行って欲しいと言っていた。
「母さんは山の中まで歩けないから、お父さんに頼んでみなさい」
私は二人の会話が聞こえる距離に座っている。当然、雄介も母もそれは分かっているはずだ。わざとらしいことをしてくれる。
「今の時期じゃ、もう蛍は光らないんじゃないかな」
私は二人の会話に割り込んだ。
「あら、もうそんな時期だった?」
「確かシーズンはもう終わっているよ」
「ぎりぎり間に合うんじゃない?」
雄介は私と母のやり取りを、顔を交互に向けながら聞いていた。
「連れて行ってあげなさいよ」
「まだ光っているとは思えないなあ」
私はテレビを見ながらそう応えた。そんな中、雄介は一人で図鑑にある蛍をチラシの裏に模写し始めた。時計の針はまだ十八時を過ぎたばかりだった。どうしたものか、テレビの内容が頭に入ってこない。キラキラと光る画面と、賑やかな笑い声しか、ここにはなかった。
テレビを消すと、灰色の画面の向こうで雄介はまだ俯きながら絵を描いているのが見えた。私は大きく溜息をついた。
「とりあえずちょっと見に行ってみるか?」
重い腰を上げた。どうせ家に居てもすることはないだろう。少し面倒ではあったが雄介の夏休みにせめてなにかしてやった方が良いと思った私は、散歩がてら山にある小川へ行くことにした。
「やった、準備してくるね!」
雄介はそう言い終える前に、二階へと走っていった。
「やったね!」
母は満足気に、走り去っていく雄介の背中に向かって言った。
リュックを背負った雄介は、もう玄関で靴まで履いて待っていた。
「そんなに焦らなくてもまだ間に合うよ」
「もう時期が終わるんでしょ? だったら早く行かないと!」
雄介は玄関で飛び跳ねていた。可愛らしかった。私は前と後ろのポケットに手を当て、忘れ物が無いか確認した。
「雄介、懐中電灯は持ってるね?」
「持ってるから早く行こうよ」
雄介は玄関扉を開け、今にも走り出しそうだった。
「じゃあちょっと行ってくるよ」
母は廊下の奥の台所でグッドサインをしてみせた。
「よし、じゃあ雄介、車に乗って」
「え、またあの山道を車で走るの?」
「大丈夫だよ。ちょっと車で走って、そこから歩いて向かうからさ」
早く行かなければ蛍は見れないが、車にも乗りたくない雄介は、気の抜けた顔で車に乗り込んだ。
「心配しなくて大丈夫だよ。ゆっくり走るからさ」
私はエンジンキーを回した。
この村や山道には殆ど街灯がない。車のヘッドライトが真っすぐ先を照らしていた。
「危なくてスピードも出せないし、大丈夫だろ?」
「うん、全然平気だよ」
車内は暗く、助手席に乗る雄介の顔の表情までは分からなかったが、大丈夫そうだ。晩御飯を車内に撒き散らかされたらたまったものじゃないので、無茶なことはしない。
「真っ暗だね。前以外何も見えないよ」
「危ないよな。自治体はもっと街灯を設置するべきだよ」
雄介は窓を開けて外を眺めた。
「あんまり顔を出すなよ、気を付けてよ」
そう言うも、雄介は何も言わずに外を眺め続けた。
「畑以外何も見えないだろ」
「そうだね、畑の向こう側は真っ暗だよ」
暗く静かな村の中を、エンジン音と光を纏いながら私たちは走っていった。
雄介は山道に入っても外を眺め続けていた。行きも同じ道を走ったが、全く違った場所に感じる。
「お化けは居るかい?」
窓を閉めて欲しかった私は雄介を脅かした。
「そんなの分からないぐらい真っ暗だよ」
もっと怖がるかと思ったが、意外な返答であった。知らないうちに、雄介もしっかりしてきたのだなと私は思った。
「こんなに真っ暗なのに、父さんはよく道が分かるね」
「まあ一本道だし、昔はよく通ったからね。それこそ蛍も見に行ったさ」
「それって、行きに言っていた友達と?」
私はこの時、車内が真っ暗で助かったと思えた。
「ううん、どうだったかな」
車内がひんやりと冷たく感じた私は雄介を戻し、助手席の窓を閉めた。虫の鳴き声は止んだ。
*
俺たちは森の中を歩いていた。
「おい北江、こんな時間から歩いても大した距離まで行けないって。流石に夜中まで歩くのは危ないよ」
日没から歩き始めた俺たちには、月と壊れかけた懐中電灯の明かりしか頼るものが無かった。
「今日はそっちが目的じゃなくて、蛍を見るだけだよ。そんなに歩かないからついて来いって」
夏休の自由研究用のスケッチブックとペンだけを持った俺は、珍しく田岡よりも先を歩いている。あまり乗り気ではない田岡と違い、足取りは軽かった。
夜の森の中は初めてだ。何度もこの森へは入っているが、夜になるとどうも同じ場所とは思えない。冷たい空気が森の中に流れている。
「足元が見えないと気味が悪いな。草が当たると誰かに触られたみたいだ」
田岡は懐中電灯の明かりを下に向けながら言った。一ヒロも無い程の、細い獣道の両脇を木々が挟むようにして生えており、トンネルの様だった。
「お前が中途半端に照らすから、いつまでたっても目が慣れないよ」
俺は振り返り田岡に言った。
「俺は目が悪いから、慣れようが慣れまいが何も見えないよ」
「早く眼鏡を買えよ」
「じゃあ金よこせ! おら!」
そう言って田岡は俺に懐中電灯を向けた。視界は黄色に染まった。驚く俺を見て、けたけたと田岡は笑う。暗く薄気味悪い森の中には似つかわしくない、俺たちのくだらない会話が流れた。こうして田岡と話していると、暗い森の中の嫌な空気も寄り付くことは出来ないだろう。俺は何も怖くなかった。
暫く獣道を歩いていると、遠くから小さな川のせせらぎが聴こえ始めた。
「聴こえるか?」
田岡は明かりを先へ向けて言った。
「音を聞くのに目は要らないだろ。さあ行こう」
俺はまた田岡を背にして、先へ進んだ。暗闇の先を進むにつれ、せせらぎは確かな形になっていく。夜に聞く川の音というのはどうも不思議な気持ちになる。当たり前のことであるが、川は日が沈んでも流れ続けているものであるが、いざそれを耳にすると、とても異質に、非現実的な場所に来たように感じるのである。
月明かりなのだろうか、トンネルの先がうっすらと白く光っている。獣道の終わりが見えた。
「ここだね、ここで見られるよ」
俺たちの目の前に、狭く浅い小川が横切った。何故だか、ここ一帯だけ木々はおろか、背の高い雑草すら生えておらず、夜空を見上げることが出来た。月の光が小川に当たり、きらきらと輝いている。
「本当にここか? 蛍なんてどこにも見当たらないぞ」
田岡はまた懐中電灯を振り回した。
「いいからそれ消せって。目が悪くても蛍の光ぐらいは見えるだろ?」
田岡が明かりを消すと、うっすらとではあるが、小さな光の粒が浮かび上がり始めた。小川はぴちゃぴちゃと優しい音を立てている。付近を囲うようにして生える草木は風に揺られ、蛍の光を際立てた。ここがこの森の中で一番明るい場所だろう。間違いなくそう思えた。
「凄いなこれ、初めて見たよ」
小川の脇で胡坐をかいて座る田岡は、黄色に輝く空間に呆然としながら言った。俺は田岡にこの景色を見せられたことがとても嬉しかった。お前の知らないことを教えてやったという訳ではなく、単純に田岡が今まで見たことのない、素晴らしいものを見られたという事実が嬉しかったのだ。俺たちは行きの道中のように会話することは忘れ、ただ飛び交う光を目で追い続けた。もうすっかり、自由研究のことなど忘れていた。
どれだけそうして見ていたかは分からないが、蛍の光は徐々に薄く、少なくなっていった。
「見られる時間は少ないんだな」
「そうさ、だから良いんだよ」
俺たちは顔を見合わせて笑った。なんだか、家に帰らずこのままずっとここに居たいと思った。しかし残念だが、時間は止まらないものなのだ。
「さあそろそろ行こうか。早く帰らないと明日の朝練に遅刻するわ」
「俺は行かないからどうでもいいよ」
「じゃあ懐中電灯を貸してくれ。お前は真っ暗の中を歩くんだな」
「うるせえなあ」
田岡はやれやれと面倒くさそうに笑いながら立ち上がった。また俺たちのくだらない会話が暗い森の中に響き渡る。田岡と二人ならどんな場所でも楽しかった。
「おい、見ろよ」
木のトンネルを引き返して数歩程だろうか、俺の背後から突然田岡がそう言った。振り返ると、田岡がさっきの小川を指さしていた。小川には先程とは比べものにならないほどの、光がうごめいていた。
「凄い」
俺たちは顔を見合わせた。言葉など必要なかった。まっしぐらに光へと走った俺たちは、そのまま濡れることなど忘れてしまい、小川の中へと飛び込んだ。天の川のような光の中で、俺たちはひたすらに跳ね回った。もう時間などどうでもよかった。
夜中に森をほっつき歩いていることなど親には言ってはいないので、心配しているかもしれない。明日のことだってある。しかしそんなことなどは、今過ごしている時間と比べればどうでも良いことなのだ。ずぶ濡れになった俺たちは、あのトンネルを引き返すことなく、あてもなく森の中を歩いていた。当然、くだらない会話も終わりなく続いていた。
「あれ? お前、行きはスケッチブックなんか持ってきてなかったか?」
思い出したかのように田岡は言った。俺は思わず自分の両手を見て確認した。そこには懐中電灯以外、何も無かった。
「最後に見たのいつだ?」
俺は焦る気持ちを抑えて田岡に尋ねた。
「知らねえよ」
田岡は冷淡に答えた。恐らく俺たちが蛍に夢中になっていた時に無くしたのだろう。引き返して探しに戻るべきなのは分かってはいたが、きっと田岡からすれば、面倒なことだろう。
「宿題の提出なんてやらずに、ついでに学校も行くの辞めるか?」
田岡はにやにやと笑いながら言った。
「そんな簡単なもんじゃないよ」
俺はそう言いながら、懐中電灯の明かりを先へ向けた。
「おい、いいのか? 探しに戻らなくて」
「いいよ、ただのノートだろ?」
暗い森の中の空気が、一瞬止まった。
「だな」
暫く間が開き、田岡はそう応えた。俺たちはまた、森の先へ進んでいった。
「お、この先はあの展望台に続いているんだな」
田岡はそう言うと先へ走っていった。私は彼を追いかけた。雑木林を抜けると、そこには登山道があった。もちろん、登山道とは言っても整備されたものではなく、人が長い間行き交い、地面を踏んでいったことによって出来た道ではあるが、俺たちが歩いてきた草木が生い茂る森の中と比べれば、しっかりとした道であった。
「ここに出るとは思ってなかったよ。随分と回り道したんだな」
俺は先を行く田岡にそう言った。
「回り道した方が面白いだろ。目的地なんてないんだからさ」
俺たちは先に建つ展望台へと向かった。古い木で出来たこの展望台は、俺たちが生まれる前からあったと親から聞いたことがある。木は所々が腐っており、みしみしと音を立てた。床が抜け落ちても死にはしないだろうが、登ってみると意外と高い。少し怖かった。そんな俺をよそに田岡は、軋む木の上で飛び跳ねておどけている。田岡なら、もし踏み抜いて落ちたとしても、何事もなかったようにまた登り、飛び跳ねておどけるだろう。そんなやつなのだ。
「わかったからもう飛ぶのは止そう」
そう言う俺に、田岡はげらげらと笑った。一体何がそんなに面白いのか。
展望台からは隣町を一望出来た。駅の近くの建物や、いくつかの車の光がピカピカと光っている。俺たちは横に並んでしばらくそれを見た。
「さっき見た蛍みたいだな」
田岡は呟いた。相当蛍が気に入ったみたいだ。大都会に比べれば隣町の光など暗すぎるが、俺たちからすればとても眩しかった。
「蛍みたいにさ、外から見るより中から見たほうがもっと綺麗なのかな」
田岡はまた小さく呟いた。
「さあ、どうだろうね」
俺たちの真上では星が煌めいて見えたが、向こう側の空は真っ暗だった。
*
「ここからは歩きだよね」
路肩に車を停めると、雄介はそう言って我先にとシートベルトを外し、勢いよくドアを開けて飛び出た。
「一人で行っちゃ駄目だよ!」
今にも森の中へ入ろうとする雄介に言うも、彼はそんなことなどお構いなしに懐中電灯を点けて先を照らした。私は急いで車を降りて、雄介の元へ駆け寄った。
「ここら辺はね、たまに熊だってでるんだよ雄介。父さんと一緒に行かないと食べられちゃうよ?」
「そんなこと言っても怖くないよ」
雄介はそう言うも、森の入口から数歩下がった。
「父さんは怖いから一緒に行こうよ。な?」
手を繋いで歩くのにこの木のトンネルは狭かったが、雄介の小さな手は私を放さなかった。
「暗いのも平気だなんて、今日一日で沢山大人になったね」
雄介は何も答えなかった。少し怖がらせすぎてしまったようだ。確かにこの真っ暗な森の中を怖がるのも無理はない。大人の私でも目的が無ければ進んで入ることは無いだろう。しかし、昔と比べると随分歩きやすくなった気がする。私の記憶では、この一本の細い獣道はもっと狭く、鬱蒼としていたはずだ。誰かと歩いたあの思い出が、一瞬脳裏をよぎった気がした。
「すぐこの先だよ」
車を降りて五分、十分といったとこだろうか。小川の音が聞こえてきた。
「雄介、明かりを消して」
「何も見えないよ」
「大丈夫、すぐに目が慣れて見えるようになるよ」
怖かったのか、明かりを消した雄介はぴたりと私にくっついた。私たちは暗がりに目を鳴らす為に、何も見えないその先を見続けた。
「あれそうだよね?」
雄介は私よりも先に気がついた。彼が指さす方向に目を凝らしてみると、一つの小さな光が点灯していた。それはとても弱々しく、風前の灯火の様だった。
「よく見つけたね、あれが蛍だよ」
「あれだけ?」
光は他に無かった。
「一つしか見えないね」
時期的にも見られたことでさえ幸運だったが、雄介には物足りなかっただろう。雄介は残念そうに肩を落とす。
「まあ仕方ないよ、来年また見ようよ」
虚しく森に響き渡る、小川のせせらぎだけが鮮明に聞こえる。雄介は暫くその場を動かず帰りたくなさそうだったが、私は彼の手を取り家路へと促した。
「仕方ないよ。帰りに自販機でジュースでも買おう」
こんなことでは雄介の機嫌を治せるとは思えなかったが、言うべきことは言った。踵を返し、私と雄介は車へと向かった。こんなことなら来なかった方が良かったかもしれない。何故だか私まで残念に思えてきた。とぼとぼと歩く私たち。そんな中、先ほどまで落ち込んでいた雄介は意外にも明るさに富んだ声で言った。
「あれも蛍?」
何も見えないはずのトンネルの正面には光があった。強く輝いて見えた。
「蛍じゃなくて懐中電灯かな?」
珍しい。地元の人間でもこんな場所に用があるやつは殆ど居ないだろう。私は少し身構えた。光はどんどん近づいて来る。私も雄介も歩くことを忘れ、近づいて来る何かをじっと見つめて待っていた。私の手を握る雄介の小さな手に、力がこもっていくのを感じた。
それが十メートル程の距離に来た時、光は一つであったが、大人とその子供と思われる二人であることが分かった。
「こんばんは」
向こうから声を掛けてきた。男の声だ。緊張の糸が少し解ける。子連れなら危ない奴ではないだろう。
「こんばんは。道に迷いましたか?」
誰が聞いても違和感のない返答が出来たはずだ。
「いやいや、蛍ですよ。この先で見られるんです」
男ははつらつと答える。声からして私とあまり年は変わらないようだが、あの場所で蛍が見られることを知っているようだ。手が届く程の距離でしかはっきりと見えないような暗闇であったが、男の笑顔が見えたような気がした。何故だか、男の顔を照らしてそれを見たくなったが、私は彼らの足元を、男は我々の足元を照らした。向かい合う私たちの間で懐中電灯の光の筋が交差していた。
「我々も先程見に行ってました。水辺なので足元にお気をつけて」
「有難うございます。そちらもお気をつけて」
雄介は少年を見つめていた。彼らも年は近いように感じる。警戒しているようでもあったが、それと同時に雄介の目線には好奇心も含まれているように思えた。そして少年もまた、雄介をじっと見つめているようだった。子供が見る世界には、子供しか存在していないのだろう。
「さあ雄介、行こうか」
私は雄介の手を取り先へ進んだ。彼らもまたそうした。今にもすれ違おうとする私と男。私が男から視線を逸らさなかったからか、或いは男が私から視線を逸らさなかったからか、私と男は暗闇に隠された互いの顔が、徐々に浮かび上がるその様を凝視していた。細い一本の獣道。私と男の肩が擦れたその時、お互いの顔ははっきりと映った。やっぱりお前だったのか。
「北江か!」
あの頃に見たあの顔で、田岡は私の名を呼び、立ち止まる。一体その時私はどんな顔をしていただろう。田岡にはどのように映っていたのだろう。森の静けさだけが煩く聞こえる。間近にある田岡の顔が、遠のいていくように感じた。
「え?」
私は全ての状況をしっかりと把握していた。なんだったら、この村に向かって車を走らせていたあの時から、このようなことが起こり得るのではないかなどと考えていたような気もする。しかし、私の口から発することが出来た言葉はこれだけであった。
「ほら、俺だよ!」
そういう田岡は自分の顔を指さした。私は未だ唖然とすることしか出来ず、どんな言葉を口から出すべきなのか分からずにいた。見かねたのか田岡は持っていた懐中電灯の明かりを自分の顔へと向ける。そんなことをせずとも、私はしっかりこの男が誰であるかを理解していたが、田岡のこの助けを借り、やっとの思いで彼の名前を口にすることが出来た。
「田岡か?」
「そうだよ俺だよ、久しぶりだな!」
一点の曇りもない彼の笑顔。よく聞いた彼の声。あの時のまま何も変わっていない彼を直視出来る程、私は勇気という物を持ち合わせていなかった。自分でも分かる程に引き攣った顔を元に戻す為、私は今できる会話というものを懸命に探した。
「蛍、全然いなかったよ」
久しぶりの再会なのにも拘わらず、場違いなセリフである。しかし、これが私の精いっぱいなのだ。そんな不自然な私であったが、田岡は一切気にすることなく、私の言葉を言葉通り受け止めた。
「本当に? まだ見られるはずなんだけどな」
田岡は腕時計を見た。
「一匹だけ光っているのが見えたけど、それだけだったよ」
「もう少し粘ってみようよ。ほら」
そう言うと、田岡と少年は小川へと歩いて行ってしまった。雄介は私を見上げる。私は何も言わず、彼の手を取り田岡の後ろをついて行った。そうするしかなかったのだ。
「ほらな、居ないだろう」
先程と何一つ変わっていない。時間の無駄である。そもそも、蛍が見られる時期はもう終わりを迎えようとしているのだ。私はどのように言ってこの場を去るかということだけを考えていた。
「もう少ししたら見られるはずだ」
もう良いんだよ田岡、見られなくたって。田岡は小川を見つめ続けた。川上の少し離れた場所では、雄介と少年がにこにこと何か話している。
「そうだ、お前子供出来たんだな!」
田岡は本来話すべきであろうことを思い出したようだ。
「ああ、すっかり忘れていた。今七歳になるよ」
「驚くよほんと。なんて名前なんだ?」
「雄介だ」
「そうか、雄介君か」
私たちは川上で遊ぶ子供達を眺めた。
「俺もびっくりしたよ。まさか田岡が父親になるなんて」
「最近九歳になったよ」
そうして話していると、子供たちはこちらに駆け寄って来た。雄介は両手で何かを大事そうに持っている。そんな二人を見て田岡は独り言のように呟いた。
「なんだかな、最近まで俺たちもああだったのに、面白いもんだよ」
私は何も言わなかった。
「父さん見てよ、大樹君が見つけてくれたんだよ」
雄介は興奮しながらそう言った。覆われた手を開くと、そこには弱々しくも点灯している蛍が居た。
「凄いね大樹君、よく見つけられたね」
大樹君はにっこりと笑った。
「大樹、この人やっぱり俺の友人だったよ」
先程すれ違う前に、私のことを話していたようだ。
「北江のおじさんだ!」
大樹君は私を指さし、見つけたと言わんばかりに言った。
「お父さんに教えてもらったの?」
私がそう言うと、田岡は声を出して笑った。
「お前、俺の事話してたのか?」
「いや、昔の事を色々と聞いて来るもんだからよ」
田岡は一体、私の何を語って、何を語らなかったのか。
「もしかして、父さんが言っていた友達ってこの人?」
雄介は田岡にわざと聞こえるように、私に尋ねた。
「なんだよ、お前も話してるじゃん」
田岡は私の肩に手を置き、にやにやと笑いながら横目で見てきた。
「いや、俺は特になにも言ってないけどな」
「これでみんな友達だな!」
相変わらずの調子だ。田岡はいつまで経っても変わらない男だ。こんな夜の森の中で、なんて会話をしているのか。しかし少しだけ、懐かしいような気もした。
「まあそれにしても、ほんともう帰ろうか」
私は兎に角切り上げたかった。これ以上話すことはもう無いだろう。これ以上話すと、まずいような気がした。
「なに慌ててんだよ、もうすぐあの時みたいなのが見られるぞ」
「いや、充分待っただろ。一匹見つけられたんだからもういいじゃないか」
「そう慌てんなって、ほら、フワーっと……」
そう言いながら川上を指さす田岡。私たち三人はその先を目で追った。一つ、二つと明かりが灯り、しまいにはそれを数えるのが馬鹿らしく思えた。
「大樹、雄介君、近くへ行って見てきたら?」
田岡の言葉を最後まで聞かずに、二人は川上へ走っていった。二人の後ろ姿は、蛍の光の中へと溶けていった。
「よく分かったな、光るって」
「蛍の習性だよ。月明かりの下では光らないからな」
空を見上げると、先ほど出ていた月は大きな雨雲に翳っていた。
「たしか昔、お前に教えてもらったことだぞ?」
「いつの話だよ。もうそんなの、覚えてないよ」
雄介と大樹君は靴を脱いで小川で遊んでいる。さっき出会ったばかりなのに、もう親友のように見えた。
「あの二人、いい友達になりそうだな」
田岡は腕を組みながら言った。
「そうだな」
少し離れた川のほとりでそれを眺める私たちは、子供達から彼らのような友達に見えただろうか。
「良いじゃん、おばあちゃんの家で遊びたいよ!」
雄介は私の言う事を聞こうとはしなかった。大樹君もそれにならって田岡に反発した。
「向こうのお母さんにも悪いからさ」
田岡は私をちらっと見ながら大樹君にそう言った。そうだ。もっとそう言ってくれ。母はきっと歓迎してしまうだろう。大樹君や雄介にも悪いが、今日はもうお開きなのだ。
「まだ一緒に居たいよ、そんなに遅い時間じゃないんだしさ」
雄介は私の手を握ってそう言う。田岡は私に笑い掛けた。
「とりあえず車に戻ってるからさ」
そう言って大樹君と共に去っていく彼の背中は、私への期待に溢れているように感じた。考え過ぎだろうか。田岡はいつだってなにか余裕を感じさせる。私にはそれが無いせいなのか、そういう所をいつも妬ましく思ってしまう。取り残された雄介と私。話すことは無かった。
「とりあえず俺たちも車に戻るか」
「田岡のおじさんと同じこと言ったね」
雄介は笑った。私は何も言わず雄介の手を取った。
路肩に止めてあった私の車の前に、田岡の車も止められていた。
「この車、お前のだったんだな」
運転席の窓から身を乗り出しながら田岡は言った。
「ああ、そうだよ」
「良い車だな。高かっただろ」
田岡は笑った。
「まあでも、中古だよ」
「中古でも凄いさ」
田岡はここで暫くおしゃべりでもするつもりなのだろうか。早く車を出して欲しかった。
「てっきり余所から来た観光客かと思ったよ」
「こんな田舎に観光客なんて来ないよ」
「おいおい、自分の故郷を悪く言うなよ。最近は蛍のシーズンになれば沢山来るんだ。今年も繁盛したぞ」
「繁盛ってお前、何かやってるのか?」
田岡はにやにやと笑った。
「なんだよ」
「まあ色々とやってんだよ」
「なんだそれ」
私はふと笑ってしまった。どうやら田岡は色々とやっているらしい。気づけば私は田岡と談笑などしていた。きっと昔もこんな風に話していたのだろう。あの時と変わらない田岡と居ると、私もあの時のようになってしまっていた。
「さあどうするよ。二人はまだ遊びたがっているけど」
田岡は話を切り出した。
「うーん、どうする?」
私の答えは先程決めたはずではあるのだが、私は答えを田岡に委ねていた。
「お前に任せるよ」
田岡の車のヘッドライトに照らされる子供たち。カーブの先の擁壁に、大きな影を作った。
「とりあえず一旦、俺の家にでも寄っていくか?」
「おっ、いいね。お邪魔させてもらうよ。お前の家久々だなあ」
「だな」
これから一体どうなるのだろう。私はここで解散を切り出す勇気よりも、家に誘うほうがよほど楽に思えたのだが、結局のところ、この選択のどちらを取っても、自分にとって望ましくない結果が待ち受けているような気がした。
「大樹行くぞー」
子供たちは察したのか、何も言わずにそれぞれの車に乗り込んだ。
「大樹君ともう少し遊べるぞ。良かったな」
「やった!」
「でもあまり遅くならないようにな。夏休みが終わったらまた学校なんだからな」
「分かってるよ!」
雄介は上機嫌だった。今朝この村に向かっていた時とは大違いだ。友達ができただけだというのに。
「大樹君とは仲良くなれた?」
「うん、虫とか川の魚のこと色々教えてもらったよ!」
「へぇ、楽しそうだね」
二台の車は走り続ける。そんな気はしていたが、あいつは結構飛ばして、付いていくのが怖かった。
「大樹君のお父さん、おばあちゃんの家の道分かるの?」
気にもしなかったが確かにそうだ。私は無意識に田岡のテールランプを追っていた。
「道は間違えてないから大丈夫そうだけど」
私たちは刻一刻と、家に向かっていた。
結局、田岡は道を間違えることはなく、一直線に到着した。よく場所を覚えていたと思う。
「ここに止めても構わないか?」
運転席の扉を半分開けて、田岡は後ろに付ける私へと尋ねる。私は窓を開けて身を乗り出して答えた。
「家の前に適当に並べればいいよ! どうせ誰も通らないから!」
十九時半。母は私がここへ着いた時よりも、私たちを歓迎した。
「いいから座っていてよ。二人で話しときなさい」
そう言って母は台所でつまみを作り始めた。居間に二人きり。それ程小さくはないはずの食卓ではあるが、私は少し窮屈に感じていた。子供たちの笑い声で聞こえるはずもないが、私の耳には確かに掛け時計の音だけが強く鳴っている。
「あれ? 雄介君って何歳だっけ」
先に口を開いたのは、田岡だった。
「七歳だよ。大樹君の三つ下だね」
「たった三歳違いだっていうのに、この年齢だと随分違って見えるもんだな」
「ああ、兄弟みたいだったな」
「だな」
また暫く会話は途切れた。
「ほら」
田岡のグラスに酒を注ごうとすると、彼はグラスの口を手で覆った。
「おいおい、俺は運転があるだろ?」
「大丈夫だろ、大した距離でも無いんだし」
田岡は笑った。
「そういう問題じゃないんだよ」
「真面目なこと言うなよ。いつでも取りに来ればいいよ」
私はどうしても、田岡に飲んで欲しかったのだ。
「じゃあそうするよ」
私は一杯目を、二口もせず飲み干してしまった。なんだか酷い酔い方をしそうな気がした。いや、むしろそれを望んでいるのかもしれない。
「こうやってお前と酒を飲める時が来るなんて、思っても無かったよ」
田岡は嬉しそうだった。
「父親みたいなセリフだな」
田岡は酒を吹き出しそうになりながら笑った。
「やめてくれよ」
静けさと会話は相反するものであるが、私はその両方を避けたかった。だから出来るだけ、田岡の笑い声だけを聞いていたかった。
「でも昔もこうして話したよな。酒がジュースだったけど」
母は台所でまだ何かを拵えている。私は田岡の言葉の頭が聞こえたと同時に、グラスを口へ運び、暫くそのままにした。空になったグラスを置くと、田岡は酒を注いでくれた。
「悪いね、ありがとう」
「おう」
グラスの淵まで注がれた酒。これじゃ少なすぎるだろう。
「昔はよく話したよな」
私は視線を定めることなくそう返した。
「いつも二人で集まってな。中身のないことばっかり話したよな」
「お前との思い出は全部、中身のないことばっかりだった気がするよ」
私たちは笑い合った。
向こうでは子供達が遊んでいる。雄介は大樹君をまるで兄のように慕っていた。そんな目をしていた。これで雄介の夏休み中の心配はないだろう。少し救われた気になった。田岡もまたそんな二人を見ている。二人の様子を見る私たちは、ほほ笑んでいた。
「これくらいしか用意できないけど、ごめんね」
酒の肴が卓に並ぶ。
「こんなに沢山、どうも有難うございます」
「悪いね、母さん」
「何か欲しくなったらまた言って」
突然のことであったのにも関わらず、それはあまりに豪華だった。
「いやあ、美味しそうだ」
「苦手なもの、無かったかしら」
「苦手なものなんてないですよ!」
二人が会話するのを見ていると、昔のことが頭を過った。あの時は、夜まで遊んで泥だらけになって。田岡の家と、私の家の分かれ道に近づくと、何故だか私たちは歩を緩めた。そのまま結局私は田岡を家へ誘い、あまりの汚さに見かねた母は、私たちをまとめて風呂へ入れた。風呂の中でもまた遊び、晩飯まで一緒に食べて、気づけば横になって寝ていたのだ。あの時の田岡は母に敬語なんて使わなかった。いや、敬語なんてものは知らなかったのだろう。長い時間が経ったのだ。
「おーい、あんまり走り回るなよー」
向こうの部屋で子供達はきゃっきゃと走り回って遊んでいる。田岡の声などにも気付かない程、二人は楽しそうにしていた。
「すいませんね」
田岡は母にそう言い、席を立ち上がろうとした。
「いいのいいの」
母は田岡を止める。
「いくらでも遊ばせてあげてよ。賑やかな方が良いわよ。なんなら、あなたたちの方がよっぽどひどく暴れていたわよ」
母は笑ってそう言い、二階へと消えた。
「だってよ田岡。まあ良いって言っているし、好きなだけやらせてやろうよ」
田岡は申し訳なさそうにして席に座った。
「なんか悪いね」
再び私たちは飲みなおした。
「そういえば、お前なんかやっているらしいな」
「何を?」
「ほら、さっき言っていただろ。観光客がとか、繁盛したとか」
「ああそうなんだ。実は畑だけじゃなくて、キャンプ場とかコテージの経営をやっていてさ」
私は驚いた。あの田岡が、まさかそんなことをやっているだなんて、想像すらできなかった。
「凄いな」
「そうかな?」
「お前が経営者か」
「そんな大層なもんじゃないよ」
田岡は笑いながら箸を口に運んだ。
「あの蛍の小川、昔と少し違ってなかったか?」
「そうだっけ」
「観光客の人でも入りやすいように、草を刈ったり、木を伐採したり、道を均したり色々やったんだよ」
「そういえばあの木のトンネル、昔に比べて小奇麗な感じだったな」
歩きやすかった訳はこれだったのだ。
「こんな田舎だけどさ、都会にはない良い所も沢山あるだろ? いろんな人に知ってもらって、残していきたいんだよ」
耳が痛かった。これじゃまるで、裏切り者かなにかだ。あの時お前は、俺を止めなかっただろ。
「まあな」
宙ぶらりんに私は返した。
子供達は遊び疲れたのか、いつの間にか二人とも大の字になって眠ってしまっていた。時計の音は確実な物になって私たちの間に響いた。
「眠っちゃったね」
田岡はグラスを片手に子供達を横目で見た。
「子供達もああだし、そろそろお開きにするか」
もう充分話しただろう。もう、話すことはないだろう。私は帰宅を促した。
大樹君を負ぶり、片手に彼の靴を持った田岡は、父親の顔をしていた。
「ありがとな。お母さんにもよろしく言っておいてよ」
「ああ、伝えとくよ。気を付けてな」
玄関を出て数歩歩いた田岡は、何かを思い出したように振り返る。
「明日は祝日だし、まだいるんだろ? うちに来いよ。今日のお返しするからさ」
「まあ仕事の片づき次第だな」
そんなものなど無かった。私は嘘をついた。
「久しぶりの故郷にそんなもん持ってくるなよ」
田岡は笑った。私たちの会話に気が付いたのか、背中の大樹君は目を覚ます。
「まだ遊ぶよ」
寝ぼけながらそう呟くと、また目を瞑ってしまった。
「取り敢えず雄介は喜んで行くと思うから、遊んであげてくれよ」
「お前もいつでも来てくれよ」
「ああ、ありがとな」
息子を負ぶった田岡が暗闇に消えていく。私はその後ろ姿を見た。角を曲がりそれが見えなくなっても、私は何故か暫くの間、玄関先に佇んでいた。
がらんと静まり返った家の中。賑やかな音は消え去った。私の心にも平穏が訪れる。寝転がって眠る雄介を、吊り下がった照明が真っ白に照らしつけた。私は仏間に行き、彼の布団を敷いた。
「ほら、風邪ひくよ」
雄介を抱え上げても、彼は起きることなく眠ったままだ。沢山遊んで疲れたのだろう。私もそうだ。とても疲れた。しかし、眠気は全くと言って良いほど無かった。
飲みかけの酒を片手に、私は縁側へ出た。ちりんと風鈴が揺れる。頬に当たる静かな風が私を冷ました。心が何かを私に訴えかけていることは分かっていたが、私はそれを知りたくは無かった。私は暫く、ここに座って過ごした。
ふと足音に気が付いた。階段から母が降りてきたようだ。私は静かに、縁側の障子の陰に隠れるように立つことにした。母は居間で何かやっているようだった。ごそごそと音だけが聞こえた。足音が近づいてくる。
「ここにいたの」
「ああ、どうしたの?」
私は偶然を装った。
「急に静かになったから。もう帰ったの?」
「ああ、帰ったよ」
「もっと話さなくて良かったの? 昔はあんなにずっと一緒に居たがっていたのに」
私は笑ってしまった。もう大人になった私と田岡を、まだあの時のままのように思っているようだ。
「昔から俺たちはこんな感じだよ」
「そう」
こつこつと、屋根が鳴った。雨だ。
「母さんはもう寝てよ。雨戸は閉めとくからさ」
どんよりと湿気た空気に変わったのは明白だった。雨に濡れながら外の雨戸を取り付ける私は、なぜか蛍のことが気掛かりになった。奴らは虫で、雨など平気なことぐらい分かっているのに、このままだと雨に打ち付けられて死んでしまう気がした。
*
耳をつんざくような、驕った騒音が不愉快だった。田岡が操る原付バイクの後ろに乗った俺は、振り落とされないようにしがみつくことだけで精一杯だった。俺は一体何をやっているのか、その疑問は尽きない。どうしても来いという田岡があまりにもしつこかったから来たが、こんなことだったとは。
「おい! 一回止まれって!」
俺は叫んだ。聞こえていなかったのか田岡の反応は無く、エンジンの音は弱まるどころかますます激しくなっていく。俺は田岡の肩を叩いた。
「なんだ!」
田岡は振り向いた。
「スピード落とせ!」
再びそう叫んだ俺は、迫りくる擁壁を見た。最早危ないだの、避けろだのと言っても、どうにもならないことは明白だった。俺はただ、体に力を込めて衝撃に備えること以外、出来ることは残されていなかった。田岡もそれに気づき、ハンドルを切った。タイヤの擦れる音が響く。アスファルトの表面の小さな凹凸が、体を引き裂いていくのが分かった。バイクから投げ飛ばされた俺は、幸いにも皮膚を大きく擦り剥いた程度であるということを理解した。しかしその恐怖と衝撃に、すぐに立つことなど出来るわけがなかった。
向こうから田岡が走って来る。
「おい大丈夫か!」
見たところ、田岡は無事なようだ。俺には傷一つ無いように見えた。
「こうなるからスピード出すなって言ったんだよ」
「悪い悪い、ちょっとはりきり過ぎっちゃってさ!」
無事だと知って田岡は大きく笑いながら、私に肩を貸そうとした。
「ああ要らねえよ。擦りむいたぐらいだよ」
血は出たが、それ以外に問題はなかった。
「良かったよ」
俺たちは横たわったバイクの元へ向かった。ゴムの焦げた臭いがする。そこら中にバイクの破片が散らばっていた。
「あー、もう使えないね」
田岡は残念そうに言った。死にかけたというのに、よく普通でいられる。俺には田岡の感覚が分からなかった。
「おい、近くに灯台広場があるからそこで休もうか」
そう言いながら、田岡は散らばった破片を足で道の端へ払い除けた。私は黙ったままそんな田岡を見ていた。
向こうから波の音が聞こえる。傷口に潮風が当たると、神経がぎりぎりと切られるようだった。俺は広場のベンチに座った。
「そのバイク、親父さんのだろ?いいのかよ」
バイクはもう自立することが出来なくなっており、田岡は無造作に横たわらせ、その上に座っていた。
「親父のじゃないよ。隣町の連中から奪ってやった」
自慢気にそう言う田岡は、もう俺の知る田岡では無いように思えた。どこか遠くへ行ってしまったのだ。思えばこのところ、そういう話が学校でも流れていた。野球部の連中が練習試合と共に仕入れてくる他校の話だ。隣の学校の人間と揉めて、喧嘩をしたり、警察の厄介になったりしている奴が居るという話を聞いた。噂程度ではあったが、俺はこの時確信した。田岡のことであったと。
俺は立ち上がり、広場の手洗い場で血を洗い落とした。田岡は鼻歌を歌っている。俺にはそれが何の歌なのかは分からなかった。
「バイクがあれば、何処へでも行けるよ。県外にだってな」
「もう使えないだろそれ」
「バイクなんて簡単に手に入るよ。またあいつらから奪えばいい」
俺はもう、田岡とは話したくなかった。これ以上、田岡のことを嫌いになりたくなかった。濡らしたハンカチを傷口に当てる。じんわりと熱を感じた。
「田岡、俺受験するんだよ」
「受験?」
「これから勉強とか、忙しくなる。今日みたいにはもう遊べない」
ここは普段から誰も立ち寄らない寂しい場所であったが、今より静かな時など後にも先にも来ないと思えた。真っ白な体でそびえ立つ灯台は、今日も寂しく何もない海を見ていた。
しかし、田岡だけは違っていた。彼はあっけらかんと笑い、この場の空気を吹き飛ばした。
「お前が受験? 思ってもみなかったよ!」
田岡の曇りのない笑顔に、俺は少し動揺した。
「とにかく、そういうことだからな」
俺は傷を抑えながら帰った。
「寂しくなるなあ」
後ろから、そんな声が聞こえたような気がした。
俺はこの日からより一層、勉学に励んだと同時に、田岡とつるむことは無くなった。
受験が終わり、高校での寮生活は良い物だった。皆は田舎で遊ぶ場所が無いと言ったが、俺からすればあの村よりも少し都会だった。田岡に手紙を書こうとは思っていたが、色々と忙しくて、結局そうすることはなかった。地元の他の連中も大人になれば、殆どが村を出る。長男で家業を継がなければならない、田岡のような人間を除いて。私はあの時のことを、今でも思い出す。
*
雄介は行ってしまったようだ。少し遅くに目が醒めた私は家の中が静かだったので、母と二人きりだということがすぐに分かった。
「おはよう。朝ごはん、もう食べる?」
「味噌汁だけ貰うよ」
昨晩は少し飲み過ぎた。体がどんよりと重たかった。
「雄介はいつ頃遊びに行ったの?」
「朝起きてすぐに行ったよ。大樹君が迎えに来てくれてね」
「そう」
カーテンを開けて表を見ると、もう田岡の車も止まっていなかった。
雄介が居なくなり一人になると、この家は本当に静かだった。母には特に話すこともなく、母もまたそうだった。私は少し、実家に帰って来たのだなと実感した。やることもなかったので私はまた、テレビを見たり、居眠りをしたり、物置から昔に読んだ本を引っ張り出して読書などをするしかなかった。
埃っぽい物置は昔のままだ。そこには私と父が集めた本が、天井まで積まれている。しかし、どこから取っても、もう読んでしまった物ばかりで味気なかった。
ふと、私の手が止まる。棚の奥には卒業アルバムが眠っていた。それは正に、そこにあるべくしてあるように、堂々と鎮座していた。私はそれを暫く見つめた。本棚の奥を覗く私と、本棚の奥から私を覗く卒業アルバム。そして私はとうとう、見つめるだけに終わった。私は負けたのである。
居間に西日が差し込んだ。暫くして眠れば、私はこの村を出る。また、いつもの日常へ戻るのだ。そんなことを考えていた時、玄関の扉が開く音がした。
「ただいまあ!」
雄介だ。そういえば、あいつの家で遊んでいたのだった。私はすっかりそのことを忘れていた。
玄関へ向かうと、雄介と大樹君が満足そうな笑顔を浮かべて立っていた。
「二人とも楽しめたか?」
「うん!」
二人は揃って、首を大きく縦に振った。
「良かったな雄介! 大樹君は一人で帰れるか?」
「まだ終わらないよ!」
「え?」
「バーベキューした後にコテージに泊まるんだ! だから着替えとか図鑑とか取りに来たんだよ!」
雄介にとって、私の意見などは関係が無いらしい。それはもう、決まったことだという主張が伝わった。
「お父さんは良いって言ってたの?」
「言ってたよ! 北江のおじさんも早く来て欲しいってさ!」
大樹君はそう言うが、私にも私の事情があるのだ。
私たちの会話などお構いなしに、雄介は小走りで二階へと上がって行く。
「まあ、仕事が終わり次第かな。もしかしたら行けないかもしれない」
個人的な事情とはいえ、子供に嘘をつくのは辛かった。
「そっかあ」
大樹君は残念そうに肩を落とす。
「ごめんね」
荷物を取って来た雄介は、階段を流れるように駆け下りてきた。
「慌てなくてもまだ夏休みは長いよ」
そう言うも、雄介には聞こえやしなかった。
「大樹君行こ!」
「うん!」
二人は並んで走っていった。嵐のように過ぎ去った。二人が楽しそうで何よりだ。今さっきまでの出来事が嘘の様に感じる程、静かな玄関にまた戻った。
ふと胸騒ぎがし、私は階段を上がる。雄介の荷物を見てみると、どうやら図鑑だけを持っていき、着替えを忘れて行ったようだった。何をしに家へ戻って来たのか。図鑑なんて二の次だろう。私は髪をかきあげ、溜息をつかずにはいられなかった。
道を覚えていた訳では無かったのだが、迷うことなく田岡の家へ辿り着いてしまった。ここまで来て、もう躊躇う事などなにもない。
見慣れた田岡の実家は以前よりも小さく感じた。私は呼び鈴を押す。するとどういう訳か、出てきたのは見知らぬ女性だった。家を間違えるはずはない。この呼び鈴はもう、何百回と鳴らしてきた。この世のどこを探しても、私が一番鳴らしてきたのだ。
「あのー、田岡さんはいらっしゃいますか?」
「もしかして、北江さんですか?」
「はい、そうです」
「主人と子供達は今コテージに居ますよ」
「コテージはどこら辺にありますかね」
「すぐ近くです。案内しますよ」
つらつらと会話は進んだが、この人は田岡の奥さんのようだ。あいつのことだしなんとなく昨日は触れないようにしたが、凄く真面目そうな人だった。そして多分、この村出身の人では無いだろう。
「主人は喜んでいましたよ。久しぶりに会えて楽しいって」
「そうですね。もう何年も会っていませんでしたからね」
そんなことを話しながら少し歩くと、子供の楽しそうな声と、炭の匂いがしてきた。
「お、やっと来たか!」
トングを片手に肉を焼く田岡はエプロンなんか付けていた。まるで野外活動でもする先生だ。私は軽く手を挙げて田岡に応える。
「雄介の忘れ物を届けに来ただけだよ」
着替えを入れた手提げ袋を雄介に渡す。
「ありがとう、忘れてたよ」
私は雄介の頭に手を置いた。
バーベキューは盛り上がっている様だった。一目見れば誰でもそう思えるだろう。可愛らしい小さなコテージの前で、田岡と子供達は楽しそうにコンロを囲んでいる。少し離れたところには、まだ火は点けられていないが、小さなキャンプファイヤーまで用意されていた。
「良い場所だな」
「そうだろ。三日前までお客さんが使っていたから、運が良かったよ」
肉を食いながら田岡は言う。
「皆にこの良さを知ってもらえて嬉しいよ」
私も変わったが、田岡も少しではあるが変わったと思えた。最後に会ったあの時、あの場所から。いや、もしかしたら私だけは何一つとして変われていないのかもしれない、今の田岡を見ると、そう思えてならなかった。
田岡は新しい紙皿と割り箸を私に渡した。
「いや、忘れ物を届けに来ただけだよ」
「いいから、いいから。ちょっとぐらい食べていってくれよ」
そう言って彼は、私の皿いっぱいに野菜だけを取り分けた。
「バーベキューだろ? なんで野菜だけなんだ?」
「俺が育てたやつなんだよ。お前、食べたことなかっただろ?」
「初めてだね。頂くよ」
田岡の野菜はとても甘く新鮮で、普段食べるものとはまるで違った。
「どうだ? 美味いだろ」
「まあ、確かにちょっと違うかもな」
「なんだよ中途半端な感想だな!」
ビールの缶を片手に上機嫌な田岡は、なにを言っても笑った。今がきっと、田岡にとっての理想だったのだろうと思えた。
日が暮れると、辺り一面がキャンプファイヤーのオレンジ一色に包まれた。時折弾けるパチパチという音が心地よかった。田岡の奥さんはもう帰ってしまい、残されたのは男四人。このキャンプファイヤーの火は雄介と大樹君が二人で点けてくれた。
「まだ痛い?」
大樹君が雄介の手を取って見た。
「ううん、もう平気」
火はなかなか点かなかった。ライターを使えば簡単だったが、田岡は雄介と大樹君に、ほぐした麻紐とマグネシウム棒で火を点けさせた。二人は最後まで辞めようとはせず、私と田岡はそれを見守った。
「夏でも夜になると寒いな」
「よその人間みたいなこと言うなよ。お前も知ってるだろ?」
田岡は笑った。
「ああそうだった」
田岡はクーラーボックスから缶ビールを取り出して飲んだ。
「お前、強いな」
「お前のもあるから飲んでよ」
「まだ昨日のやつが体に残ってるよ」
私はキャンプファイヤ―越しに雄介達を見た。二人は小さな小枝や雑草なんかを火の中へ入れて遊んでいるようだった。
「田岡、奥さんってこっちの人か?」
「違うよ。まだこのコテージが建つ前、キャンプ場だけやってた時に来たお客さんだったんだよ」
「ああやっぱりそうか」
私たちは心なしか小声になって話していた。
「お前はあれか、向こうで出会ったんだよな?」
「そうだよ」
田岡が初めて私の向こうでのことに触れた。
「あのままお前がこの村に残ってたらさ、雄介君も居なかったんだな」
火に煽られた私は、酒に酔ったように心が澄んでいた。頭はぼんやりとしていたが、余計なことなど何も思い浮かばなかったので、却って良かった。
「そりゃそうだろ。お前だってそうだ。村を出ていたら、今は無いよ」
「面白いよな」
「飲み過ぎじゃないか? そんなもん当たり前のことだよ」
田岡は急に私の肩に手を回し、酒を片手に空を指した。
「見ろよ」
空には空が見えない程に、星が一面に広がっていた。
「昔見た蛍みたいじゃないか?」
「急に話が変わったな。それに蛍は昨日も見ただろ」
こいつは、昔から気分が上がるところころ話が変わる。でもそんな話を聞くのが好きだった。
「いや、この星は昔見た方の蛍だな」
「そうかい」
長居をするつもりは無かった。届ける物を届けて帰るはずだった。でも、気がつけば時間は経っていた。昔から、田岡と居るとこんな感じだった気がする。
「そういえば明日な」
また話が変わった。
「明日はもう帰ってるよ」
「分かってるって。明日、二人を灯台広場へ連れて行こうと思っててさ」
緩やかな風が止んだ。キャンプファイヤーの火は真っすぐ空へ向かって立ち上がった。
「ああ、良いんじゃないか?」
「まだここの海を見れてないだろ? きっと喜ぶと思ってね」
私は奇妙なほど静かな火から、目を背けずにはいられなかった。それ以外に、目をやる場所が無かったのだ。
「あそこもお前と良く行ったよな。覚えてるか?」
田岡は止まらなかった。私から何かを引き出そうとでもしているのではないかと思えてしまう程に。
「行ったか? あんまり覚えてないな」
少し不自然な間が開いたが、私は答えた。腕に残ったあの時の傷跡は、もう分からない程に薄くなっていたが、私はそれを無意識に手で覆っていた。
もう長居しすぎたかもしれない。
「今日は色々とありがとう。雄介もいい思い出になったと思うよ」
「コテージに泊まっていけよ。暫く予約もないんだし」
「いいよいいよ、悪いからさ」
雄介はコテージで大樹君とお泊り会をしたがったが、私はそうさせなかった。自分の都合だ。とても情けなかった。私は雄介の夏休みを壊しているのだ。
帰り道、時折雄介は後ろを振り向いていた。暗くてなにも見えないのに。
翌朝私は、誰よりも早くに目が醒めた。まだ外は暗く、この村に誰も居なくなったと思えるほど静かだった。支度をし、まだ眠っている母に一声掛けた後、実家を後にした。
今年の冬休みはどうするか。妻の実家に預けてみても良い。あそこはここよりも遠いが、スキーが楽しめる。そんなことなど考えながら車を運転した。くねくねと狭い道を走り、山へと続く一本道へ出た。少し空が赤味がかっている。あの時もそうだった。早朝から行けば一日中歩ける。そう言って前日からあいつの家で……。気がつけばそんなことが頭に過る。過っては消して、馬鹿みたいなイタチごっこをしていた。
村の名前が書かれた標識が見えた。帰り道はあそこから始まるというのに、あそこが目的地のようにさえ感じた。
ふと、そとの景色が気になった。見る必要は無かったが、そうせずにはいられなかった。そのまま車を走らせたって良かった。しかし、私は何故かそうは出来なかった。
私は車を停め、外へ出た。
「おはよう、早いね」
「お、もう行くのか? お前こそ早いな」
仕事中の田岡を見るのは初めだ。なかなか、様になっていた。
「今年は豊作か?」
「まあまあだな」
空では鳥が鳴き始めた。稲が風に揺られ、波模様を作る。
「今日、行くんだろ? 灯台広場へ」
「ああ、昼頃に行こうと思ってるよ」
私は軽く頷いた。目線の先に何かを捉える訳でもなかったが、田岡とはしっかりと向き合っていた。
「思い出したよ、昔にお前と行ったこと」
「だろ? やっぱりそうだ」
「お前と最後に遊んだ日だ」
私ははっきりと、目線の先に田岡を捉えた。そして田岡もまた、私の語気に気が付いたのか、振り向いた。そして俺たちの目が重なり合ったその瞬間、どういう訳か田岡は吹き出すように、堪えていたであろう笑顔が決壊し、笑ったのである。
「何が言いたいんだよ」
田岡はとうとう笑ってそう言った。それが誤魔化しや茶化しではないことなど、すぐに分かった。私は目が醒めたと同時に、自分は如何に馬鹿馬鹿しいことに囚われていたのだと、恥ずかしくなった。俺たちが二人で刻んできたあの時は、そんなちっぽけなものなどでは無かったのだ。
「いや、なんでもないよ」
田岡はまた、笑った。二人の間に明け方の静けさが流れる。
「朝ごはん、食べたか?」
田岡が口を開いた。
「いや、帰りにどこかに寄って食べるよ」
「良かったらこれ」
田岡は弁当箱に入ったおにぎりを出した。俺はそれが、嬉しかった。
俺たちは道に腰をかけ、それを食べた。視線の先にはあの標識があった。
「あいつら、これからもずっといい友達でやっていけたら良いな」
「今が楽しけりゃ先の事なんて考えなくていいんだよ」
「そうか?」
「そうだよ。一回友達になったら、離れて会わなくなっても、友達でいることに変わりはないだろ?」
俺は出来るだけ長く、このおにぎりを食べていたいと思った。
遠くで一匹の蝉が鳴きだした。新しい一日が始まった。
俺たち おぎまさお @OggyMasawo
ギフトを贈って最初のサポーターになりませんか?
ギフトを贈ると限定コンテンツを閲覧できます。作家の創作活動を支援しましょう。
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます