我が家のクローゼットには骸骨がいる

エモリモエ

skeleton in the closet


 今夜も夫はわたしに命じる。

 わたしは跪き、キスをする……。




 わたしの夫は完璧だ。

 何をするにもソツがない。

 学歴、職歴ともに申し分なく、出世は順調。収入なども当然、世間の人が羨むほどにある。

 仕事ができる男なのだろう。

 職場での様子を見たことはないが、何であれ夫が失敗をする場面を想像することができない。

 運動神経も良い。学生時代は陸上部。今では休日にゴルフをやるくらいしか運動をしなくなったが、スポーツマンらしく歩く姿は颯爽としている。

 容姿にも恵まれている。手足が長く、服の着こなしが上手い。鼻筋の通った美しい顔立ち。相応に手入れされた髪。清潔感がある。

 優しくて、が柔らかいから、老若問わず多くの女性に好感を持たれる。

 おそらく夫を嫌う人は、夫に嫉妬をしている人だけだろう。

 そう思わせるほど、同性にも人気がある。

 人づきあいが上手いのだ。相手が心地よく思う距離感を知っている。要するにセンスがいいのだと思う。

 おまけに有言実行で信頼できる人柄。

 友達甲斐のあるヤツ。夫の友人たちはそう言う。


 たぶんその通りなんだろうな、とわたしも思う。



 家での夫にも不服はない。

 家族思いで子煩悩。

 息子ふたりはパパのことが大好きだ。

 わたしの実家での評価も高い。両親は夫のことを実の息子のように思っている。


 完璧な夫は無論わたしのことも大切にしてくれる。

 記念日は忘れない。

 誕生日にはバラの花。

 新しい服や髪形を見逃さないし、がんばった時のごはんは必ず褒めてくれる。

 そしてなにより。世の旦那連中が軽視する「急な仕事や付き合いがあるときに連絡を入れる」ことさえマメにしてくれるのだ。



 そう、わたしの夫は完璧だ。




 夫とはほとんど見合い結婚のようなものだった。

 もともと家同士の行き来があった縁で、家業のパーティー(新作発表会やらなにやら)で顔を合わせる機会がたまたま重なり、まず親同士が「どうだろう」と盛り上がった。

 女子校育ちで奥手だったわたしは結婚というものにピンとこないまま。

 それでも何度か会った夫のことは決して嫌いじゃなかったし。二人きりで会った時にも感じがよかった。

 両親からの強い薦めもあって。わたしとしては断る理由が見つからなかった。

 気が付いたらウエディングドレスを着ていた、そんな感じ。ボンヤリしていたわけではないけど、本当にそんな印象なのだ。

 語弊はあるが、それだけ周囲からの圧力が強かったのだと思う。期待という名の圧力が。

それは家族たちからだけでなく、幼い頃から懇意にしている家業関連の人たちや、友人たちからも感じたことで。

 要するに皆に望まれた結婚だったのだと思う。




 夫はどうしてわたしと結婚したのだろう?

 やっぱり周囲に流されて?



 自分を卑下するつもりはないが、過大評価するつもりもない。

 誰もが認めるモテ男。結婚相手もよりどりみどり。わたしより素敵な女性は夫の周りにたくさんいたはずなのだ。



 いつだったか、

 「どうしてわたしと結婚したの?」

 夫に聞いたことがある。

 「そりゃあ、おまえがいいと思ったからさ」


 新婚当初のなんてことない会話。

 初心うぶな私は臆病で、甘い言葉も話半分。

 妙に冷静な気持ちでその言葉を聞いたことを覚えている。



 愛されてる実感?

 なかったこともない。

 けど。

 その感覚はいつもどこか曖昧で。

 幸せかと聞かれれば、間違いなく幸せで。

 物足りないかと聞かれれば、そんなこともなかったのだけれど。

淡く、平坦な喜びは、たぶんわたしの情が薄い証拠。

 きっと元来わたしは血が冷たい、そういう性質なんだろう。

 そう納得して夫との生活を暮らしていた。

 結婚なんてそんなもの。

 恋なんて都市伝説のようなもので、ある人にとっては真実だけど、そうじゃないわたしみたいな人間にとっては夢物語に過ぎないのだ、と思いながら。





 彼は。

 完璧とはほど遠い男だった。


 いい加減で約束を守らない。

 小銭に汚く、気に入らないことがあると貧乏ゆすり。

 たまねぎとピーマンが食べられない。

 へんに子供っぽいところがあって、他愛ないことでケタケタ笑う。

 欠点だらけの人なのに、その屈託のない笑顔を見ると、何故だかすべてを許してしまう。


 どうしてかなんて分からない。

 知り合って一月足らずで、彼とは体を重ねる間柄になっていた。



 何故わたしは彼を愛したのだろうか。

 完璧なはずの夫ではなく、不完全な彼を愛したのだろう?

 わたしの魂が不完全だから?

 彼の不完全に惹かれたのだろうか。


 わたしは。


 彼に出会わなければ幸せな一生を送ることができただろう。

 夫に愛されて、何一つ屈託のない、他人の羨む人生を疑うことなく歩むことができたろう。


 けれどそうはならなかった。




 訪れてしまえば、破局は驚くほどあっけなく。

 その結末は最悪だった。


 わたしは彼との関係に慣れて、家で会うことも多かった。

 平日、夫は会社に、子供たちは学校に行っている時間帯を狙って、口実を作っては(たいていは会いたいという理由だけで)二人で逢った。


 その日。

 どしゃぶりの雨のなか、彼は我が家にやって来た。

 部屋に迎え入れたわたしは、湿った服のまま抱きついてきた彼の背中に手をまわした。

 傘の使い方が下手くそなのだろう。横殴りの雨を凌ぎきれなかったらしく、左の肩がびしょ濡れだ。

 「はやくシャワーしたら?」

 「ん」

 生返事だけしてわたしを離さない、聞き分けのない恋人をわたしは可愛いと思った。

 濡れて冷たかった彼の服が二人の体温で次第に温まっていく。髪の匂い。肉体を感じた。

 口づけを待つ瞬間。

 思いがけない衝撃がきた。

 と、同時に彼の体重がのしかかってきた。

 支えきれずにそのまま床に倒れ込む。

 訳が分からないうちに、乱暴に彼の体が引き剥がされた。



 夫だった。



 そう認識できたときは、すでに夫は彼を組み敷いて何度もナイフで刺していた。

 何度も。

 何度も。

 刺していた。

 最初は抵抗していた彼も、やがて力尽きてグッタリとなった。

 彼は血を流し続けていた。

 闇色を秘めた血があふれていた。

 みるみるあふれて、大きな溜まりを床の上に作っていった。

 それでも夫は刺し続けていた。


 恐ろしい光景を目の当たりにして、わたしは立ち上がることができない。

 倒れたときに頭を打ったのかもしれなかった。

 耳元でなにかがガンガンと鳴っている。

 眩暈。


 圧倒的な血のにおい。

 彼の命が流れ出ていく。


 たすけて……。



 叫びは声にならない。




 どしゃぶりの雨が降っている。




 夫は雨に濡れていなかった。

 思い返せば、夫の登場にあたって、玄関のドアが開く音を聞いていない。

 なんの気配もしなかった。

 つまり。

 

 わたしの不貞を疑って、はじめから罠を張っていた。

 息を潜めて待っていたのだ。

 そう、恋人を待つわたしの浮かれた様子も、どこかから見ていたのに違いない。

 そしてわたしたちが抱き合ったのを確かめてから姿を現したのだ。


 鉄槌を下すために。



 獣のような咆哮をあげると、夫はゆっくりと立ち上がった。

 横たわる恋人の胸にはナイフが突き刺さっていた。

 その体はピクリともしない。

 夫はついにこちらを向いて、わたしのほうにやって来る。


 「そんなに私が厭なのか」


 取り乱した夫は醜かった。

 目は血走り、髪は乱れていた。

 頬にポツポツと返り血がついている。

 上等な服は血に濡れて、濃厚な闇色に染まっていた。


 「こんな男がそんなにいいか」


 血溜まりを踏み、グショグショになった靴下でハッキリした足跡を床に残しながら近づいてくると、わたしの髪を掴み、


 「キスしろ、あばずれ」


 彼の死体に押しつけられた。



 なるほど、わたしはなのか。

 言われてみれば確かにそうだ。

 わたしは彼を愛している。

 夫ではない。恋人の彼を。



 力任せに押しつけられながら見れば、不遇の死を迎えた彼の顔もまた醜かった。

 目はギョロリと虚空をにらみ、のどを切られて悲鳴をあげそこなった口は大きく開いている。

 最期になにを叫ぼうとしたのだろう。

 それは永遠に分からない。


 そして、子どものようなあの笑顔を、彼が見せてくれることも二度とない。



 わたしは夫の望み通り、彼に口づけしてみせた。

 血まみれのキス。

 それはまだ温かく、血の匂いに混ざって、少しだけ青臭い夏の雨の匂いがした。



 たぶん夫はわたしも殺すのだろう。

 それとも。

 許しを乞えば、夫は助けてくれるだろうか。

 死にたくはない。

 でも、愛するひとを亡くした今、生きていくことに意味があるのだろうか。


 分からなかった。


 いまさら後悔しても仕方ない。

 こんな悲劇的な結末も少し考えれば想像くらいはできたはずだった。

 なのに疑いもしなかった。

 ずっと続けられると信じていた。

 ずっと変わらずに彼を愛せるのだ、と。

 馬鹿げた話。

 そんなことあるはずないのに。

 そう、どんなに上手に取り繕ってたとしても、夫が浮気に気づかないわけがない。なにしろわたしの夫は完璧なのだ。

 そんなことさえ忘れるなんて。

 彼を愛して、たぶん、なにも見えなくなっていたのだ、わたしは。



 でも、なにもかもが終わった。



 わたしは夫を待った。

 わたしを殺す夫の手を。



 わたしは。

 わたしを殺すはずの夫がその場に崩れ落ちるのを見た。

 わたしの首を絞めるはずだった夫の大きな手が、夫自身の顔を覆うのを見た。

 それから、夫は私を見た。


 夫が泣くのを見るのは初めてだった。

 悔しさを噛みしめ、それでいてどこか無防備な泣き方だった。

 こんな時だというのに、わたしは妙に感心してしまった。

 血に濡れた殺人犯の手が隠そうとする、その泣き顔が、わたしたち夫婦の長男の泣き顔にそっくりだったから‥‥。






 そして。



 「キスしろ、あばずれ」



 今夜も夫はわたしに命じる。

 命じられるまま、跪いたわたしはキスをする。

 クローゼットの中の、恋人かれの死体に。


 そう。

 もちろんこれは罰なのだ。

 あの日から、雨の夜には決まって、夫はわたしに命じる。

 死の接吻を。



 死肉と化した恋人にキスすることを厭わないほど、今も彼を愛しているのかと聞かれれば。

 口をつぐむしかない。

 もちろんYESと答えたい。

 けれど、そう答えるのは簡単ではない。

 彼はとっくに彼であることを止めて腐った死体になっている。

 腐敗した肉や剥き出しになった骨を愛することは難しい。


 それでも時々、ほんの一瞬。名残りこいびとに触れたくちびるが、彼とのことを思い出す。

 彼への恋情が蘇る。

 そんな時には。


 人生に騙された気分になる。

 彼を恨み、夫を憎む。



 わたしがどんな反応をしようとも、夫が態度を変えることはない。

 泣こうが喚こうが。

 侮蔑をあらわに睨みつけようが。

 そのままベットに連れ込まれて夫婦の事をする。


 クローゼットの中では彼の死体が貧乏ゆすりをしている。


 夫の愛撫でわたしの心はときどき死ぬ。

 どうしようもない愉悦を刻まれながら、何に謝ればいいのか分からなくなる。




 夫はこのグロテスクな三角関係を楽しんでいるのだろうか?



 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。



 こんな生活、どうかしている。


 なぜ逃げ出さないのか。自分でも不思議に思う。

こんな状況に甘んじる必要はない。地獄と化した家庭から逃げ出す方法はいくらでもある。

 そう、夫が出勤している間に黙って立ち去るだけでいい。

 一人で生きることは難しいだろうが、その気になればなんとかなるはずだと思う。

 あるいは、彼の死を警察に届け出ることもできる。

 殺害したのは夫なのだから、夫は逮捕され、結果わたしに有利な別れを決着できる。

 別れることだけが目的なら、わたしが殺ったと言い張ってみてもいいかもしれない。簡単に刑務所の壁の内側に逃げられる。

 それなのに。

 どういうわけか、わたしにはそうすることができない。


 もちろん、子供たちのこともある。

 けれど、なにより。

 本当は見た目ほど完璧ではないと分かってしまった夫を置いて、この家を出る気になれない。

 どうしても夫を捨てる気にはなれないのだ。




 どうして?

 自分でも分からない。


 これがわたしの物語。


 疑問符だらけのまま、人生は続く。





 陰惨な夜も途切れれば、雨は止み、当たり前のように新しい朝が訪れる。

 太陽はキラキラ。風はそよそよ。洗濯日和。


 次男坊は最近、トーストを焼くのがお気に入り。家族みんなのパンをトーストしてくれる。

 「パパはバター。ママはいちごジャム。おにいちゃんがピーナツバターで、ぼくはミルクジャム」

 「お兄ちゃんは?」

 「まだ寝てるー」


 いつもの朝。


 わたしが洗濯物を干している間に、夫は完璧な顔を取り戻し、冷蔵庫の作り置きを使って簡単なサラダとインスタントのスープを手早く作る。


 「ママ。ママの好きなひまわりが咲いたよ」

 のんびり屋の長男がのんびり起きてきて報告をする。

 「それはステキね」

 わたしは笑い、夫はあきれたように、

 「早く食べないと遅刻するぞ」

 家族みんなでトーストを噛る。

 夫はバター。わたしはイチゴジャム。長男がピーナッツバターで次男坊がミルクジャム……。




 我が家を知るご近所さんたちは口を揃えてこう言う。

 「完璧な家族。お似合いの夫婦ね。うらやましいわ」



 たぶんその通りなんだろうな、と。

 わたしも思う。









(我が家のクローゼットには骸骨がいる・終)

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