4

「あら、大きなかまくら、できたわね」


 しゃがんだ妻が、かまくらの入口を覗き込んで言った。


「あ、お母さん! お母さんも一緒に入ろうよ!」と、優美。


「ううん。お母さんはいいよ」妻が苦笑いする。


「えー! なんでー!」優美の頬がプクっとふくれた。


「なんでも、よ」そう言って、妻は少し辛そうな顔になる。


 あの時、由希は死んではいなかった。低体温の仮死状態だったのだ。脈拍が非常にゆっくりで血圧も極端に下がっていたので、僕はてっきり脈がないものと勘違いしてしまった。ただ、そのまま放っておいたら間違いなくそうなっていただろう。彼女の生死はかなりギリギリのところだったのだ。


 助け出した後、僕は冷たくなった彼女を背負い、家に向かって歩き始めた。まだ子供が持てる携帯電話など無かった時代だ。助けを呼ぶことも出来ない。しかし、子供の体力ではもはや限界だった。力尽きて倒れそうになった時……カンジキを履いた、たくさんの大人たちが駆けつけてきた。


 家を訪ねたときの僕の様子から、娘の身に何か尋常じゃない状況が起こったことを悟った由希の母親が呼んだのだ。そうして助け出された彼女は、病院で無事、意識を取り戻したのだった。


 お互い憎からず思う気持ちもあり、幼馴染に命の恩人という要素が加わった僕と由希が、恋人同士となったのは自然な流れだった。そして二人は順調に交際を重ね、彼女が24になった年の六月に結婚した。その4年後に優美が生まれ、もう10年になる。あっという間だった。


 由希の体には奇跡的になんの後遺症もなかった。腕がバンザイの形になって手首から上が雪の外に出ていたため、少しすき間ができて窒息を免れたのだ。ただ、心的外傷トラウマはしっかりと残されていた。あの事件以来僕らが凍み渡りに行くことはなくなったし、彼女はかまくらにも入れなくなった。雪の中にいるとあの生き埋めになったときのことを思い出して、苦しくなるんだそうだ。だから僕は、あれから今日に至るまで一度もかまくらを作ったことはない。


「もー! お母さんもいっしょじゃないとつまんなーい!」


 相変わらず優美のゴキゲンは斜め45度に傾いたまんまだった。


「こら、優美。お母さんにも事情があるんだよ。優美だって、お父さんとお母さんの大好物だから優美も絶対にトマトを食べなさい、って言われたら、どうする?」


 たしなめるように僕がそう言うと、優美はギクリとした顔になる。彼女はトマトが大の苦手なのだ。


「う……そうだね……それ、すっごく嫌……」


「だろ? だから、嫌なことを人に無理矢理勧めちゃダメだよ」


「はーい……」


 照れくさそうに笑みを浮かべる優美の向こうで、僕の妻にして彼女の母親、旧姓 篠原しのはら 由希、今は僕と同じ名字の青井あおい 由希が、全く同じ顔をして笑っていた。

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アオイユキ Phantom Cat @pxl12160

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