3


「由希姉!」


 由希姉がこんなところでアノラックを脱ぐなんてことはありえない。一体何が起こったのか。ぼくはダッシュで駆け寄る。


「うそ……」


 アノラックのそばで、手袋をした由希姉の両手だけが、雪の上に生えているように見えた。思わず駆け寄ろうとして、すんでのところで思いとどまる。


 ここは、小さな川があるところ。だから少しくぼんでいる。そして……


 川の上に積もった雪は、川の真上に空洞ができていることが多い。だからそこは他のところよりも雪が薄く、落とし穴のようになっている。行きは寒かったので普通に渡れたが、帰りは気温が上がって凍みが解け、由希姉の体重に耐えられなかったんじゃないか。そして……由希姉はそれに気づかず、踏み抜いて落ちてしまったんだ……


 ということは、うかつに近づけばぼくも同じ目にあう。だけど……


 このままになんかしておけない。早く助けないと由希姉が凍死してしまう。走って汗ばんだ彼女は、アノラックの前のチャックを全開にしていた。川に落ちたとき、裾が引っかかってそれで脱げてしまったのだろう。ということは……彼女は今セーター一枚で雪に埋もれているのだ。


「由希姉!」


 精一杯の大声で叫ぶ。だけど、何の反応もない。速攻でカンジキを両足の長靴に装着し、ぼくはそろそろと川岸の方向から由希姉に近づく。


 おそるおそるのぞきこむと、彼女のかぶっている赤いニットの帽子の先端も見えていた。その周りを、ぼくは手袋をした手でかき出す。気温が上がり柔らかくなっているとは言え、それは表面だけで下の雪はザラザラとしていて硬い。手袋をしていなければ手を切ってしまいそうだ。その手袋も、だんだん濡れて冷たくなってきた。それでもぼくは雪を掘り続ける。


 由希姉の顔が見えてきた。青白く、目を堅く閉じている。彼女の両手はバンザイの状態だった。これだけ掘っても彼女の体がそれ以上沈み込むことはない、ということは……おそらく彼女の足先はすでに川底に届いているのだろう。


「由希姉!」


 叫んでみても、由希姉の反応は全くない。さらにぼくは雪を掘り進めるが、彼女の肩の辺りまでが限界だった。しかし、ここまで掘れば彼女の体を引き上げられそうだ。


「よいしょ!」


 由希姉の両手を握り、渾身の力で持ち上げる。かなり重い。カンジキを履いていても足が雪に沈み込む。それでもぼくは全力で彼女の体を引き上げた。火事場の馬鹿力みたいなものが働いたのかもしれない。なんとか彼女を雪から引っ張り出すことに成功した。しかし……


「由希姉! しっかりしてよ!」


 何度声をかけても揺さぶっても、由希姉は目を開けようとしない。彼女の顔も体も冷え切っている。手首をとって、脈を診ようとした、その時。


 彼女の右手から、ウサちゃんが転がり落ちた。


「……」


 ぼくがこれを贈ったせいで、由希姉がこんな目にあうなんて。涙が浮かんできた。


 しっかりしろ。ぼくは自分を叱りつける。今は泣いてる場合じゃない。由希姉が無事かどうか調べるんだ。拳で涙を拭い、ぼくは彼女の右手首をとった。


 脈が……ない……呼吸も……してないようだ……


 そんな……由希姉、死んじゃったの……?


 視界が涙でゆがむ。冷たい彼女の体を抱きしめたまま、ぼくは絶叫した。


「由希姉――!」


%%%


「あー! かまくらできてるー!」


 声の方に振り向いた僕は、愕然とする。


 そこに、由希姉が、いた。あの頃のままの。


「……どうしたの? お父さん」


 その怪訝そうな声が、僕を現実に引き戻す。それは僕の一人娘の優美ゆみだった。


「あ、ああ。なんでもないよ。優美、入っておいで」


「うん!」嬉しそうに優美はかまくらに入ってきて、僕の隣にちょこんと腰を下ろす。

 

「あ、なんか、意外にあったかいね……あれぇ?」


 いきなり優美が首を傾げた。


「どうした?」


「雪が……青く見えるんだけど……気のせいかな?」


「気のせいじゃないよ。父さんも青く見えるから」


「そうなんだ。どうして?」


「さあ……どうしてかな? 優美、後でネットで調べてみたら?」


「うん!」


 ニッコリする優美の頭を、僕は撫でてやる。


 この頃、ずいぶん由希姉に似てきたような気がする。言動までそっくりだ。それも当然か。


 だって彼女は、由希姉……いや、由希の実の娘なのだから。


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