引き夢
「武藤くん、キミ、夢の中で辞書を引いたことあります?」
ボリュームが売りの全国チェーン喫茶店の、二人掛けのテーブル席。
水上祥吾が巨大パンケーキの残りをナイフで突つきつつおかしなことを言った。
パンケーキは二口だけ食べられている。太っているくせに偏食家というか、昔から食い物の好みにはうるさい男だった。
水上とは高校入学以来15年、人生の半分を友人として過ごしてきた仲だ。
付き合い始めたきっかけは同じクラスになった事。そして名前順の出席番号が、「みなかみ」が15番で「むとう」の私が16番だったからだ。
意味など何もないきっかけだが、あの年代の、同じレベルの高校に入学した男同士、趣味嗜好にそれほど差異があるはずもない。気が合うのは不思議な事ではなく、友人になる事に特別な理由は要らなかった。
「夢の中で辞書をねぇ…… それって紙の辞書のことだよな?」
「まあ、電子辞書でもいいです。言葉の意味を調べるためにそれらを使用したことがありますか?」
「……どうだろう。あるのかもしれないが、記憶にはないな」
「そうですか」
水上は少し落胆したような表情を見せた。
高校を出てからは東京の大学へ進み、大学における水上の専攻は民俗学だったらしい。妖怪の研究で卒業論文を書いたとか。
そして卒業後は地元に戻って県立高校の教師を続けている。
高校の授業に妖怪学は無いので、今は現代文の教師をしているはずだった。
「……僕はたまにあるんですよ。夢の中で辞書を引くこと」
「へえ、勉強熱心な先生で結構だな。寝てる時までとは」
「夢なのでシチュエーションは毎度ちがうんですが、たとえば自分のクラスの授業中、教科書の文章の中に自分が意味を十分理解していない単語が出てきます」
「ダイバーシティーとか?」
「それくらいは分かりますが、まあ似たような感じです。はっきりと覚えているので言えば去年の暮、実家で見た夢です。『偕老同穴の契り』が出てきて、意味自体は分かりますが、出典とか、故事が伴っている熟語なのかどうか。それを知りたいと思って、机の中から取り出した辞書を引く」
「お前は昔から紙の辞書派だったもんな。電子辞書も許可されてたのに」
「はい。それで、偕老同穴を辞書で引こうとするとどうなると思います?」
「どうって……」
自分は「かいろうどうけつ」の意味を知らないが、ともかく。
夢の中で辞書を引く。普通に考えれば、答えが載っているはずがない。
夢はあくまで脳の中にある知識や経験、および創造力で構成されているはずだ。
自分の脳内に無いことを自分の脳中で調べようとしても、結果が出るはずがない。
「でたらめな内容がでてくるとか?」
「違います」
「じゃあ、説明文が白紙になってるとか」
「それも違います」
お手上げという意味の仕草をする。そもそも三十路の男同士が夢の話というのも気恥ずかしい。同年代の中にはもう小学校に通う子を持つ者もいる。それに比べ、出席番号15番と16番はお互いまだ独り者だった。
「辞書のページが重なっている部分、背表紙のちょうど反対側の、染色されて色が付いている部分わかりますか?」
「ア行とかカ行とかあるところか? ヤ行とかになると細くなってるやつ」
「そうです。ツメというらしいんですが、そのツメの中で、カ行の頭にあたりをつけてページを開きます。『かい』から始まる言葉はたくさんあって、『
「ふん。そしたら?」
「カイワレ大根が出てきます」
急に俗っぽい言葉が出てきて、その落差に思わず笑ってしまった。
水上も目を閉じて右の犬歯だけを見せるような、独特な笑顔を作っている。
この笑い方を理由にして、高校時代水上はケンケンというあだ名をつけられていた。本来の「ケンケン」がいったい何者で、どうしてそう呼ばれることになったのか自分は知らないままなことに気づく。
「偕老同穴に限らず、どんな言葉であってもそうなんです。そこに言葉があると確信して、慎重にページをめくっているのに、あるはずのものは見えないで、次の言葉が出てきてしまう」
「ページが破り取られてるとか、糊付けされてるとか。それが真相だ」
「武藤くん。これは夢の話です」
「知ってる」
「まあ、夢の中の僕もそんなふうに考えるのか、絶対に見逃さないようにと思って、角にあるページ番号を確かめながら、指で挟んだ紙の厚さまで確かめながら、1枚1枚厳密にめくり続ける。そうしていると、目が覚めるわけです」
「なるほどね」
追加注文していたアイスコーヒーを店員が運んできた。店のユニフォームを着た若い女。学生バイトだろうか。
ブラックのまま一口飲む。アイスコーヒーなので、はなから期待していなかったが、喫茶店を名乗るこの店のコーヒーの香りは濃縮液を薄めて作る市販品のそれよりも劣っていた。
「話は分かったけど、でもそんなのは人によるんじゃないのか? 夢で辞書を引いた人間皆がそうなるわけじゃないだろ。俺が言ったみたいに、白紙になってるって人もいるんじゃないのかな」
「それはそうかもしれません。でも、僕が言いたいのはそこじゃないんですよ」
水上はノーカロリーの人工甘味料を2パック入れた。アイスコーヒーをストローで、グラスの半分がた飲んでから小さなため息をもらす。
「じゃあ何だ?」
「以前はそうだったんです。夢の辞書を引いても意味がなかった。それが最近、引けてしまうんですよ」
「……ん?」
「夢で引いた見出し語が、ちゃんと出てくる。そしてその解説文も。目が覚めてから驚きます。夢だったと気づいて、改めて現実で辞書を引くと、ちゃんと正しい意味なことが分かる。……そんなことって信じられますか、武藤くん」
「そりゃまあ、凄いな。普通に考えたらありえない」
「そうです。どれだけ頑張っても目当ての見出し語が見つからないでいた時は、夢の仕組みは面白いな、なんて思っていたんですが、この現象は意味が解らない」
「例えば何を調べたんだ?」
「5日前に見た夢で、全体の内容はあいまいなんですが、とっていないはずの新聞がアパートに毎日届けられるとかそんな感じでした。新聞記事の中に出てきた『もっけの幸い』という言い回しの、もっけとは何なのかが気になって、調べてみるとちゃんと載っている。もっけとは物の怪と同じような意味で、
曖昧模糊とした夢のお告げ、ではなく。現実で調べてみても同じ結果だったという。
何故水上が自分にこの相談を持ち掛けたのか、理由に見当は付く。
水上同様に文系の進路を選択した自分の専攻は心理学だった。フロイトの例を出すまでも無く、夢診断もまた心理学の範疇ではあるだろう。
だが水上と違い、地元の2流大学に進学した俺の学問などいいかげんなもので、学生相手に少しだけ独自性を出したつもりのアンケート調査を実施しては、その結果を勝手な基準で数値化する、そんな程度の物だった。
卒業研究の内容は、好むコンピューターゲームジャンルと県内大学生の学部選択に関連性はあるのかという研究だった。調査規模が小さければ落第だったと教授には言われた。
夢に関する知識や見識など、教養の授業で学んだ他の学科の出身者と大差は無いだろう。
「寝てるだけで物知りになっていくなら便利だな」
「……」
眉間にしわを寄せ、横分けの髪が乗っかっている頭をゆっくりと横に振っている。苛立ちだした時の水上の仕草だ。
「まあ、落ち着け。実は昔、辞書のすべてのページを通読した経験があるとか、そういうことは?」
「僕はそこまで真剣な学究の徒じゃなかったですよ。自分で言うのもなんですが、広く浅く知るのが好きなんです。研究者向きじゃなかった」
大学時代にはお互い自分の生活圏での活動に忙しく、連絡は取っていたが親しい友人関係を取り戻したのは社会人になってからだ。どういう学生だったのかを話したことは少ない。
進路について自分は少し劣等感を持っていたし、水上はそれを察することが出来る人間だ。
「話はわかったよ。でもやっぱり、実は知っていたって考えるのが一番妥当な結論に思えるな。昔調べて本当は頭に入っているんだが、知っていることを忘れている。夢を通じて、その隠されていた記憶がよみがえって来たと、そんな感じじゃないのか」
「まあそれで説明は付きます。一回や二回なら、そう考えます」
「そんなにたくさんあるのか」
「半年くらい続いています。国語辞書だけでなく、百科事典の時もありましたが」
「頻度は?」
「月に一度くらいでしょうか」
「ふむ」
ということは、合計で六度ほどということだ。たいして多いとも思えない。
そもそも人間の記憶などというものは、曖昧なものだ。有名なところでは、デジャヴュ現象などがある。
初めて体験したことなのに、何故か過去にも同じことがあったような気がして、それが間違いないことのように思えて仕方ない。
実際は、経験したことを脳に刻む際、誤作動を起こした脳が日付の付け方を間違えてしまって起きる現象だ。
変な模様の猫を目撃し、目撃したことを記憶領域に移すとき、数秒前のことと記憶すべきところを遠い過去の記憶としてしまう。そして変な模様の猫は、現在も目の前にだらりと伸びている。
過去に見たと錯覚している光景と、目の前の猫の姿が一致している。
それを不思議に思う。それがデジャヴュ現象。
水上の体験もそれに似たような事ではないのか。現代は辞書を引かなくても、雑多な情報がどこからともなく飛び込んでくる。
SNSなどで見た知識が頭に残っていて、それが無意識に気になって後日、朝に目覚めてから辞書を引く。そこに出ている説明と、辞書の解説が一致している。
SNSで見たことを失念している水上は、知識を得たのが夢の中だったかのように錯覚を起こす。
人間は起きている間の記憶ですら、実際は曖昧なのだ。夢の記憶の正確性など問題にもならない。
そんな説明もつく。違うとすれば、あるいは。
「
「なんですか?」
「前に言ってたじゃないか。長く愛用された物に付く、力を持った霊的存在が付喪神だって。水上が辞書を愛用してるから、それで感謝した付喪神が夢の中でもお役に立ちたいと」
「武藤くん、僕はけっこう悩んでいるから、わざわざ連絡して話を聞いてもらってるんですが」
「わるいわるい」
伝言アプリで水上から連絡がきたのは一昨日だ。学校勤めの水上は祝日なので月曜の今日休みだが、自分の勤め先は土日しか正式な休みは無い。少し遅れるかもしれないと上司に断って、長めの昼休みを取っているのだ。
サイズの大きいパフェに加え、氷たっぷりのコーヒーまで飲んだのがまずかったかもしれない。腹が少しばかり痛くなってきた。
体育祭で苦手な徒競走に参加させられた時のような顔をしている水上を残してトイレに行く前に、アドバイスを残すことにした。
「夢の中で何か違和感を感じて、目を覚ましたいと思ったらまばたきをするといいぞ」
「まばたきですか?」
「そう。自然にするんじゃなく、意識して強く何度もする。そうすると実際の肉体の方もまぶたが動くから、勝手に目が覚めてくれる」
「実体験ですか?」
「そうだ。職場で下半身になにも穿いてないってことに気づいて、あちこち隠れながら途方に暮れているときに、ああ、これは夢だろうと思ったらまばたきをする。すると悪夢から解放される」
「……僕の場合は、夢だと気づかないのでその手は使えないのでは」
「だからさ、今度から辞書を手に取るたびにいつでもまばたきしろよ。夢なら覚めるし、夢じゃなきゃそのまま調べればいい」
「なるほど」
「ちょっとトイレに。少しかかるかもだが、帰るなよ」
言い残して席を立つ。
職場の近くだがこの店に入るのは初めての事。アイスコーヒーを運んでくれた店員に声をかけて場所を教えてもらった。
ある程度の回復をみて、10分ほどして席に戻ると水上がテーブルつっ伏していた。周りは誰も気づいていないが、パンケーキの皿に半袖ワイシャツの上半身が乗ってしまっている。
「水上っ!」
駆け寄って、肩をゆする。引き起こしてみると目を閉じ、口を開いている。大声で呼びかけても頬を叩いても意識を取り戻さない。
あたふたとしている店員に救急車を頼んでもらう。
息はある。ドラマか何かの見よう見まねで、水上の太い手首に指をあてて脈をとってみると、心臓も動いているらしい。
救急車が到着するまでの10分間。人工大理石の床の上で、水上は穏やかにただ呼吸を続けていた。
市立病院の救急外来待合室。水上の母親がやって来たのは運び込まれてから2時間後の午後3時だった。
水上のスマートフォンは暗証番号でロックされていて使えず、財布などに緊急連絡先が掛かれているものは見つからず、勤めている高校は分かっているのでそちらから連絡をしてもらった。
面識があり、迷惑をかけたと詫びる母親に、医師の説明をうけるように促す。水上は救急救命室から内科の一般病棟に移されていた。
不安がる水上の母に頼まれて、説明の場に立ち会うことになった。
説明がなされたのは水上の眠る病室と同じ階、3階にある診察室のような場所だった。
「水上祥吾さんの状況は、現状ではただ寝ているだけと言えます」
「ただ寝てるだけ……」
病棟を移されてもまだ救急の患者であるらしく、四角い眼鏡をかけた医師の着ている服は青い半そでの、名前は知らないが白衣ではない服だった。
年齢は自分たちと変わらなく見えるが、一般人なら決して味わわない修羅場を潜り抜けてきたであろうその表情は厳めしい。
「脳の異常の可能性があったので、画像診断をさせてもらいました。それでも問題は見られません。ですが、これは楽観視できる状況とも言えないです」
「なんとか、起こすことは出来ないんでしょうか」
「画像診断の前に、そういう処置はしています。小脳の反応に異常がないかを調べる診断なのですが、痛みをともなうものもあり、普通はそこで目を覚まします。他に分かりやすいのは瞳孔の反応を調べる検査で……」
胸ポケットからペン型のライトを取り出し、それを光らせて見せた。水上の母も自分も、まぶしさに目をそらす。
「まぶたを持ち上げられて、これで直接目を照らされたら、たぬき寝入りも不可能でしょう。実際脳波計では睡眠と同じ波形が出ている。それなのに、ただ起きないんです。原因が不明です」
「あの、ではどうしたら……」
「命の危機ではないので、これから内科の医師が血液検査の結果を待って診断するんですが、とりあえず入院という事にはなると思います」
「はい……」
看護師に連れられて水上の母は出て行った。病室の水上の様子を見に行くのだ。
医師はパソコンの前に散らばった資料をクリアファイルの中に片付けている。
「あの」
「はい」
「素人考えであれなんですが、睡眠には二つの状態があるって言いますよね」
「レム睡眠とノンレム睡眠ですか?」
「そうです。たしか、レム睡眠だと夢を見ているとか言いますよね」
「脳波計では一般にいうレム睡眠でしたね。ですが、レム睡眠中なら必ず夢を見ているというのは、あまり信頼性の高い話ではないですね。専門ではないので断言しませんが」
そう言い残して医師は出て行った。
病室で水上と面会する。原因不明の昏睡状態の患者なので特別に個室だ。母親は点滴の繋がれた右手を握って名前を呼び掛けている。
薄い枕の上で水上は一見やすらかな寝顔を見せている。そのまぶたの裏で、眼球がせわしなく動いているのがわかった。
伝言アプリを開き、これから戻りますと上司に連絡を入れると「半休にするからもう直帰しろ」と返信が来た。戻っても16時以降になるだろうし、正しいと思う。
上司である城南事務所所長の坂本は口と態度が悪いが、年若いわりに仕事ぶりはまあまあ信頼できる男だ。友人が緊急搬送されて付き添っていると連絡したら、すぐに人員対応してくれた。
通信インフラ企業の下請けで業務範囲は広いが、基本的には年度末と年度初めが繁忙期。夏場はそこまで忙しく無い。
それにもともと専門性の高い仕事は資格を持っている者に回されるので、今回の事でそこまで迷惑はかけていないはずだった。
夕食にはまだ早かったが病院の近くの評判のいい蕎麦屋を検索し、てんぷら蕎麦を食べてから家に帰った。
仏語基礎の授業が総合人文学部棟の5階、502教室で始まっているはずなのに、講師が来ないままで既に30分は経過している。教室に集まっている学生たちは各々集まっておしゃべりに夢中だ。
自分は一人、誰とも目を合わせないままで、正面の時計と天井を交互に見ている。
白い天井。内装材の一面に無数に開いている不規則な形をした穴は何のためにあるのだろう。音を吸収するためなのかもしれない。きっとそうに違いない。
机の左隣に突っ伏しているのは水上祥吾だ。白の半袖のワイシャツを着ている。
水上は友人なのだから、こういう退屈な時間にこそ会話を楽しみたいのだが、反対側に顔を向けている。寝ているのかもしれない。
教室の扉が開き講師の坂本が入って来た。遅刻を詫びもせずにそのまま授業を始める。
県立大学が開校したのは昭和の終わりごろで、この502教室はそれから一度も改修されずにまだ黒板を使っている。
坂本が黒板に書き連ねていくフランス語の文章。それが一つもわからない。
そもそも自分の第二外国語の選択はドイツ語ではなかったか。
坂本が教壇の上でプログレについての蘊蓄を日本語で語り出した。
いつも坂本が言っている「プログレ」がどういう音楽なのかが知らないが、プログレッシブ・ロックの略であることはわかる。
音楽に興味はないが、「プログレッシブ」という単語が気になった。前衛的という意味であることはわかる。
だが「前衛的」は「アバンギャルド」というのではなかったか。同じ意味なのだとしても、ニュアンスの違いがあるのではないか。
机の上のノートPCを開き、ウェブブラウザを立ち上げる。OSについている検索機能は何となく気味が悪いので使わない。
トップページに設定している検索サイトで「プログレッシブ アバンギャルド」と打ち込み、エンターキーを押す。
「ああ、そうか。プログレは英語で、アバンギャルドはフランス語なのか」
その時。思考が一段階クリアになった。
自分は今、何をしたのか。ここが夢の中であることは、もう気づいている。
自分は今社会人であり、大学生ではない。
PCの画面には、検索サイトが要約したプログレッシブとアバンギャルドの違いが確かに表示されている。昨日まで、水上が入院した日の夜まで、確かに知らなかったはずの知識。
顔の筋肉が収縮する音が、耳の奥に聞こえるくらい強く、まぶたを閉じる。そして勢いよく開く。いつもはこうして悪夢から覚める。
相変わらず母校の502教室に居る。もう一度試みる。何度も何度も、繰り返し。意図的にまばたきを繰り返しても、目が覚めない。
ブラウザがいつのまにかトップページに戻っていた。検索バーに縦棒が点滅している。
「ケンケン」と打ち込むと、口の端を持ち上げた犬のイラストが並んだ。
外国の古いアニメのキャラクターのように見えた。
周りを見渡す。何も変わっていないが、本当は見たことのない風景。
隣に突っ伏している水上と同じ大学に通ったことはない。
またいつの間にかトップに戻っていた検索バーに、「辞書 付喪神」と打ち込んでみる。画面が切り替わり、「検索ワードに合致するページが見つかりませんでした」との表示。
「インターネット 付喪神」でも試してみる。同じ結果になる。
小学生のころからネットを使っていたので、この「ページが見つからない」という表示には見覚えがあった。
だが、最近の検索サイトではこれが表示されることは少ない。どんな支離滅裂な言葉を検索しても、必ず似た言葉の記載されたページを出してくる。
これが現実でないことが改めて確認された。
「夢 目覚め方」「悪夢 解放」「目を覚ましたい」。
これらを打ち込むと、今度は検索結果が表示された。だが、どれもくだらない豆知識が載っているような個人ブログのページ、あるいは聞いたこともない企業の訳の分からない販促サイト。開く気にもならない。
焦燥が心をどこまでも暗くさせていく。
心と体がつながっている感覚がない。こんな感情に支配されているならば、現実世界に生きているのならば、きっと心臓は早鐘を打つように必死の鼓動をしているはずだった。
新たに「知識 」と打ち込んだところで、PCが動かなくなる。
教室から音が消えた。教壇に立っている坂本を含め、誰もが背中を向けて自分の方を見ていない。隣の水上は、最初から向こうをむいて伏したまま、微動だにしていない。
前の席に女子が座っている。さっきまでは居なかったはず。黒髪のショートボブがゆっくりと振り返った。
深紅に彩られた唇がうすく開き、音も無くささやく。
凡て 教える
聞こえていないのに意味だけが分かった。
要らない。知識などいらない。目を覚まして現実に戻りたい。
ヒトは常に 智識を求め続ける
陶器のような、白く滑らかな肌。真っ直ぐにこちらを見ているはずの女。
あごの先から順に、目線を上げていく。
むらなく塗られた口紅の間から真珠のような歯がのぞき、唾液で濡れた舌先の、赤い斑点のような味蕾までがよく見える。
さらに目線を上げると、横一列に切り揃えられた前髪が見える。
もう一度確かめようと今度は上から。艶やかな黒髪の頭頂から順に目線を下げていくが、前髪の下まで来たところで、赤い唇が見える。
女の前髪が長すぎたり、頭部が異形のように短いのではない。
あるはずのものが、見えない。
慎重に、見逃すことの無いように目線を動かしても、目も鼻も視界に入れることが出来なかった。
「俺は、知識だけ得られればいいわけじゃない。触ったり、嗅いだり、味わったり、そういうことをしないと生きていけない。俺だけじゃなく人間はそうだ」
命が 至上カ
「そうだよ…… 当たり前だ。元に戻してくれ、俺も水上も」
女が口を大きく開いた。まるで断末魔の叫びをあげるかのように、喉の奥まで見えるかのような。
あごの下に皺が寄り白い皮膚が醜くゆがむ。あるはずの目鼻がやはり見えない。
夢から覚めるという感覚ではなく、失神するように世界は消え去った。
亡くなった親から相続した一軒家の二階の部屋。薄くなった敷き布団と夏掛けの間で目を覚ました。かけっぱなしのエアコンの音がうるさい。
スマートフォンを手に取ると伝言アプリに通知が何件も溜まっている。時刻は昼を過ぎていた。上司の坂本からのメッセージは相変わらず口調が荒いが、後半の方には心配の気持ちがありありと文面に出ていた。
普段は満員に近い通勤電車の車両は、午後1時にはほぼがら空きだった。
綿シャツの胸ポケットからはみ出しているスマートフォンが振動し、メッセージを開いてみれば水上からだった。
≪迷惑をかけたみたいで。
おかげさまで無事です≫
安堵のために全身の毛細血管が緩んだような感覚を覚える。
≪それは良かった。夢はどうなった?≫
≪夢とは?≫
≪辞書の夢だよ≫
≪よくわかりません。
夢の中で辞書の事なんて考えないでしょう?≫
覚えていないのなら、それはそれでいいのだろう。
人間の記憶など曖昧なもので、自分が昨晩見た悪夢だって、所詮は夢だ。
水上と交わした奇妙な夢の話も、実際にあったことなのかどうか証拠などはない。精神の混濁が、それを実際にあったものとして錯覚させているだけかもしれないではないか。
水上から新たにメッセージが追加された。
≪夢と言えば昏睡中に変な夢を見たかもしれません。
全体はあいまいで覚えていないんですが、
白い肌をした女性が出てきて、それはのっぺらぼうでした≫
止まった呼吸を、意識して再開させる。強くまぶたを閉じ、そして開く。
画面上のメッセージは表示されたままだ。
その女なら俺も見た。そう返信すべきかどうか。
忘れてしまわなければ。もし覚えたままでいれば。
自分たちには、きっともうどうにも出来ないことが起きる。そんな予感がある。
もうすぐ電車は職場の最寄り駅に着く。
スマートフォンを手に持ったまま、いつまでも返信が出来ないでいた。
請い猫 サワラジンジャー @sawarajinjer
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