絶望のポートレート
原田楓香
~大いなる教訓~
彼女は絶望していた。すごくすごく絶望していた。
だが、もう今さら後戻りはできなかった。
市役所の別棟のうす暗い部屋で、彼女はただ、ただ絶望していた。
ちょっとした手続きのために、印鑑証明を取る必要があって、彼女は市役所に行ったのだ。
月曜の夕方4時過ぎ。仕事を1時間早退して来ていた彼女の目に、ふと『マイナンバーカードの申請はこちら』という貼り紙の文字が目に入った。
カバンの中には、気が向いたらやろうと思って、マイナンバーカードの申請のための書類の入った封筒がある。目的の印鑑証明は、あっという間に手に入ったので、まだ時間に余裕がある。もちろん、自分のスマホで申請手続きができることは知っている。でも、役所でやれば、手っ取り早いではないか。
(よし。やってみよう。申請しよう)
あれほど、ポイントがつくと世間が大騒ぎしていたときも、全く作る気にならなかったのに、職場の周りの席の人たちや親戚や兄弟がみんな、当たり前のような顔で「持ってるよ」というのを聞くと、急に気持ちが焦ってきたのだ。
あまのじゃくなくせに、小心者でもある彼女は、「持っていないこと」がちょっぴり不安になったのだ。
「あの。マイナンバーカード作りたいのですが」
案内係の職員の方に声をかける。
「はい。こちらでできます」
「あ。じゃあ、お願いします」
「写真はどうされますか。こちらで撮れますけど……」
「お願いします」
「こちらで撮る場合は、5時までなので。今すぐしないといけないのですが……ほんとに今撮りますか」
「あ。はい」
なんだろう。職員の方がためらいがちに、歯切れ悪く訊いてくる。(今にして思えば、そのコンディションで、ホントに撮っても後悔しない? という意味だったのかという気もするが)
「はい」
さっさと済ませてしまおう。
役所の表の証明写真のコーナーで撮ったら、かなり高くつく。たかが写真にお金をかけたくはない。
彼女の節約志向がひょっこり顔を出す。(これが、絶望への第一歩だとも知らず)
「では。こちらへ」
案内されたのは、市民課を出てすぐの小さな別棟だった。うす暗く、いろんなイベントの時に使われているらしい、のぼりや横断幕や立て看板が立てかけてあったり、段ボール箱がそこらへんに散らばっている。物置のようだ。
その一角に、カウンターとついたてがあって、その前に椅子があった。
「そちらにおかけ下さい」
「はい」
テーブルに、小さな鏡がある。一応、覗いてみる。自転車で来て風で乱れた髪を手ぐしで、ささっと直す。一日、仕事でドタバタしたまま来たから、なんだか疲れた顔が鏡の中に見える。口紅は……しまった。まだ毎日マスクを使ってるから、持ってない。やむを得ぬ。持っていた薄い色つきリップを塗る。
「よろしいですか」
職員の男性が言う。
「あ。はい」
ええい。なんとかなるやろ。
「じゃあ、撮りますね。タブレットの上の、この辺りを見ていて下さいね。眼鏡が反射して瞳が映らないといけないので、取って下さい」
不安だけど、眼鏡を外す。見るように言われた辺りが、ぼやけてはっきりわからないけど。しかたない。
そや。アゴ。アゴ引いた方がええんやったな。アゴ引いて、タブレットの上の方を見る。ちょっとへんな上目遣いになってるやもしれぬ。口元は、証明写真でほほ笑みすぎるのはいかがなものか。ごく控えめに口角を上げる。よし。
「はい。じゃあ、撮ります」
タブレットの上の方からパシャッと光が発せられた。眩しいじゃないか。目、つぶってしもたかも。
「はい。撮れました。こんな感じです」
職員の男性が、撮ったばかりの写真を見せてくれた。
目は、とりあえず、つぶってはいない。
だが、危惧したとおり、微妙な上目遣いで、焦点の合わない、どこかうつろな目つきの、めちゃくちゃ老けた指名手配犯のようなオバサンが半笑いで写っている。
手ぐしで整えただけの髪は、ぺたんとして、頭にはりつき、アゴを深く引いたために、二重アゴと首のシワが目立つ。
ちゃう。私、二重アゴちゃうで。なんで二重アゴに写ってるん?
あかんて。こんなん。ちゃうちゃう。ちゃうってば。
彼女は、激しく動揺した。
「す、すみません。もう一回撮り直せますか」
絶望感を抑えて、言う。かすかな期待を抱きつつ。
次は、アゴを引くのはやめよう。不気味な半笑いにならぬよう、軽くくちびるを結ぼう。よし。
「いいですよ」
よかった。職員は快く応じてくれた。
「あの、眼鏡、かけてもいいですか」
「う~ん。レンズが光って、アウトになるときもあるので……。あ、でも、一応、このフラッシュ切って、撮ってみましょうか。そしたら、光らないかも」
「はい。それでお願いします」
再チャレンジ。
撮れた写真を見て、職員が言う。
「あ。目、つぶってますね」
「あ。ほんまですね」
写り具合のクオリティは、先ほどのまま、今度は、目をつぶっている。アゴは引き加減をおさえたので、少しマシにも見える。だが、目をつぶっている。
彼女の絶望は、さらに深まる。
「じゃ、もう一回行きますよ」
「はい」
職員は、再度、タブレットを構え、彼女は、目を開けることに全集中する。うっすらと、アゴと口角は気にしたものの、それどころではない。これ以上、職員のかたにご迷惑をかけるわけには行かぬ。目を開けるのだ。閉じてはならぬ。
「はい。撮れましたよ~。目、あいてますよ。どうですか」
彼が見せてくれた写真は、一番はじめの写真と、ほとんど変わらない。違いと言えば、眼鏡のあるなしだけだ。
やはり疲れ果てた顔の指名手配犯が、そこにいる。
彼女は絶望していた。すごくすごく絶望していた。
だが、もう今さら後戻りはできなかった。
ああ。せめて、仕事帰りの疲れたときは、やめておけばよかった。
ああ。せめて、伸びきってぺたんとなった髪の時に撮るんじゃなくて、美容室行った直後にすればよかった。
ああ。せめて、口紅くらいつければよかった。(あとで、必ずや口紅を買いに行こう)
ああ。せめて……
後悔が山のように彼女を襲う。
それほど彼女は絶望していた。
だが、もう後戻りはできぬ。
一瞬、再チャレンジの提案が心の中をよぎりはしたが、断念した。
もう、それを口にする勇気は、彼女にはなかった。
「そ、それで、いいです」
職員の男性は、笑顔で、
「はい。お疲れ様でした。後はこちらでやっておきますので、これで終わりです。後日通知が届いたら、取りに来て下さいね。こちらのプリントに書いてある説明もよく読んでおいて下さいね」
そう言って、プリントを渡してくれた。
「ありがとうございました」
彼女は、うちひしがれていたが、礼を言うのは忘れなかった。
心なしかうす暗い別棟を出て、失意のまま、よろよろと自転車の元へ戻る。
帰り際、念のため、職員に訊ねた質問の答えにさらに衝撃を受けていたからだ。
「この写真は、何年で更新になりますか?」
「10年ですね」
「え。10年」
……門外不出にせねばなるまい。このカード。
たいがいひどいと思っていた自動車運転免許証の写真の方が、1000倍くらい良い。
彼女は、申請に際しての、大いなる教訓を得た。
『申請は、必ずや、事前に撮っておいた自分史上最高の写真で、臨むべし』
絶望のポートレート 原田楓香 @harada_f
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