私にしとけばいいのに

椎名宗一郎

第1話




 小学生の頃、平日の昼間に観る『ぐ〜チョコランタン』は楽しかったはずの夕方に観るそれとは違い、不安を紛らわせるほどの効能はなかったように思う。風邪によって気持ちが落ちていただけなのか、慣れない状況がそうさせたのか。あの頃の私は少なくとも、親や先生の言いつけを今よりは熱心に信仰していたのかもしれない。

 高校の同級生たちが黒板の文字を生真面目に板書する平日の昼間。河川敷に澄みわたる青い空を全身に浴びながら、そんなことを思った。

 地面が崩れていく焦燥感と宙に浮かぶ高揚感が混じりあって、あたりまえの日常は景色を変える。なんというか今を生きてる感じてるって気がして、将来のこととか友達とのしがらみとか、そんなあたりまえにかくれた日常のスキマがいつになく心地好い。

 きっと彼女も。

「ていっ、ちょあっ」

 石階段の端に気だるげに座るイトーは、斜面の雑草をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、草刈りの仕事に精を出している。

 そんな彼女の頭を二段上から眺めていると、あのつむじに茎を突き立てたら花カッパ的ななにかになるのかなあ、という妄想が膨らんできたので、私は手近に咲くノアザミを刈り取って現実との間にそれを放った。

「おりゃあっ」

 紅紫の花は前に飛ぶことなく、川岸を舞う春に押し戻されて落下する。ま、現実なんてこんなものさね。

 イトーとは知り合ってから、かれこれ一年ちょっとになる。といっても、一年の頃はおたがいになんとなく顔を知っている程度の関係で、あまり話した記憶はない。

 こうして関わりあうようになったのは、ここ一ヶ月くらいだろうか。

「おおっ、調子が出てきたね」

 いやなんのだよ。

 のんきな声に釣られた視線は、こちらを見上げていたイトーのあやしげな輪郭につかまった。なんだか見方によってはバカにされている気がしないでもない。

 とりあえずもう一輪お見舞いしてやろうかな。なんて考えるまでもなく、私のかしこい右手が斜面に伸びているのを見てか、「ちょまっ、あひゃひゃっ」と彼女は両手でバリアーを張りながら、階下の遊歩道までやたらと楽しそうに避難をはじめるのだった。

 まったく、小学生じゃないんだから。

「バッカじゃないのっ」

 ブレザーを脱いでもなお増し続ける気温の上昇を遮るように、役目を終えた右手が宙をあおいで日光に触れる。指のスキマから覗く景色に、空との距離を感じて。

 なんとなく、これを追いかたらこっちの頭まで悪くなりそうな気がしたので潔くあきらめて、野草のかわりに罵声を投げつけてみたけれど、

「あ、パンツ見えた」

「えっ、おまふざっ、ったくこんにゃろっ」

 彼女の何気ない言葉に乗せられてつい追いかけまわしてしまうあたり、やっぱり私もバカなのかもしれない。

「ひゃーっ、つかまっちった」

「きちんと責任は取ってもらうぞっ」

 自分で言っておいてなんだけど、パンツ見られた責任ってなんじゃい。

 ヘッドロックを決められたイトーが「おーけーギブ、わかったから離してちょ」と私の腕をタップし、乱れた呼吸とワイシャツと、彼女らしい淡い栗色をまとった長い髪をひいひい言いながら整えている。そこまで本気でかけたつもりはなかったのだけれど、少し悪いことをしただろうか。

 学校でのイトーは人気者だった。それこそ、男子や女子たちからの羨望の声がこれまで関わりのなかった私にまで聞こえてくるほどに。

 やわらかな印象を与える白い肌。愛嬌溢れる大きな目もと。同い年にしては大人びたメイクからファンデーションの匂いがにじみ、手に付着した強烈な青さと相まって、はじめての刺激に心がかゆくなる。

「マコトは王子様なんだからこんなことしちゃいけないんだぞぅ」

「それさあ、あんまり好きじゃないんだよね」

 対して、学校での私は王子なんて呼ばれている。たしかにイトーと比べれば背も高いし髪も短いし、言葉づかいまで男っぽいからそんなあだ名がついたのだろう。

「じゃあプリンスマコトで」

「やめて。てかひとのパンツ見んな」

「わがままだなあマコトは。わかったわかった責任ね。ほらっ」

 目の前に立つイトーが、なぜかスカートの裾を握った。

「いやほらって」

 そんな意味で言ったわけじゃないのだが。

 どうやら私の合図を待っているのか、彼女はこちらをじっと見据えたまま動かずにいる。川を流れる水の音だけが、周囲の時間を下っているみたいだった。

「ほらほらっ」

 自分の乱暴さを反省しつつ、なぜかノリ気でいるイトーの顔を見てどうしたものかと考える。正直にいえば、すぐにでもこのしょうもないプロレスごっこを切り上げて、どこか他の場所にでも移りたい。彼女を追いかけまわすのもさすがに億劫だし。それにさっきから退屈の足音だって。

「はああああ。まったく」

 だからここは彼女に乗っかってしかたなく。そう、合図のための行為として、私は自らの視線をその興味のない景色へとただ下ろしただけのはずだったのに。

 まるでイトーは、それを待っていたかのように不敵な笑みを浮かべながら、

「そんなにあたしの下着が見たかったあ?」

 賞味期限切れの、それこそひと昔前の少年漫画にだって見ることのないフレーズはおろか、「きゃーやだーっ、えっちぃーっ」というチープな叫び声まで残して平日の昼間を駆けてゆく。退屈とは無縁の、日常のスキマに向かって颯爽と。

「はっ、はあああんっ?」気がつけば、私はイトーを追いかけていた。追いかけまわしていた。大声を上げながら無意識に。石階段に放ったブレザーの存在さえも忘れて。きっと今の自分は、恥ずかしい顔をしているに違いない。夢中だった。「バッカじゃないのっ。んなわけあるかっ。こらっ、逃げるなっつうのっ」

「ひゃーこわーいっ。あははっ」

 イトーはいとも簡単に、現実の思考に今という妄想を、冷静に移ろう感情の繋目に恥ずかしい情熱を落としてゆく。こうして彼女が心の内側に入ってくるたび、表面よりも少し深い、やわらかい場所を擦っていっては私の胸を熱くする。まるで言えない気持ちを知られてしまったときようなこそばゆい温度が、彼女とのスキマに潜んでいるみたいだった。

 白い背中があって、青い空があって、息があがって。

 新しい空気を浴びて、駆け出して。

 世界がそれだけになって、今を感じる。

 もう退屈の足音は聞こえない。

 イトーの前で認めるのは癪だけど、嬉々とした自らの声が胸を打つ鼓動の裏側から、微かに聞こえたような気がした。

「――ほんとっ、バッカみたいっ」




 下町児童公園には本来の使用に想定されるべきはずの遊具があまりない。公園の半分を占めるグラウンドにはゲートボール用の金具が設置されているためか、児童というよりはシニアの方々が多く見られる。まるで都会ではないこの町の人口分布率が最小公倍数的に反映されているようだった。

 河川敷をあとにした私たちは一台の自転車に跨りあいながら、今はそんなシニア公園のベンチへと腰を落ち着けている。まるでゲートボールを観戦しているのかと勘違いされてしまいそうなほどの、まごうことなき特等席だった。

 なんだか気まずいなあとか思っていたら、

「えっ、今のゴールかな?」

 本当に観戦しているヤツがひとり。

「サッカーじゃないんだから」

 私はとなりに座るイトーとは反対側の、砂場で大人しく遊ぶ母子の姿を追っていた。といっても認識しているわけではないのだが。

 ベンチに控える補欠選手みたいに背もたれに掛かった左腕の先には、すでに空っぽとなった緑色のペットボトルが彼女の視線からかくれるように震えている。

 じつはつい先ほど、飲み物を求めて立ち寄った公園前の自販機で、ロゴを見上げたイトーの「デイドゥかあ」「いやダイドーな」というバカ丸出しの記憶が、今になって私の脇腹を小突いてきては全身の筋肉にささやかな抵抗をもたらしていたのだ。笑いをこらえようとしておかしな顔になっていたのかもしれない。

「なあにぃ?」

 異変に気づいたイトーがこちらの顔を覗いてくる。

 彼女の声がリアルな記憶を補って、私はたまらず右手で口元を覆って。

「いや、だって、ふふっ、でいどぅってなんだし、ふはっ」

「なっ、ちょっとおーっ」

「ふふっ、デイドゥって。ふはっ、バカじゃないのっ、ぷははっ」

 もう忘れろしーと照れ笑いを浮かべるイトーに脇腹を突かれて、私たちは転がった。

 やわらかな陽ざしが熱を生み、たわいない会話が汗を加速させる。転がった先のベンチから空を見上げて、もっと高く、もっともっと高く。お母さんからの小言とか、学校に戻ってからの説教とか、そんな地上の憂鬱から離れるように私たちは舞い上がった。

 このままずっと生きていけるんじゃないか。

 そんな錯覚が心をとらえて、瞳の中に永遠の景色を見せつける。

 人は低いところでしか、地に足をつけて歩くことでしか生きていけない。きっと生きていくための空気も、食事や寝床さえも高いところには留まることができないからだろう。だったら。

 めくれ上がるスカートを直すことすら忘れて、私はお腹に倒れているイトーの脇腹を指先でつんっと突いた。びくっと跳ねて、ぐわんとよじれて、べちゃっと絡まって。めいっぱい飛んでやろうとバカをやってみた。私もバカだった。

 考えてみればそんなことはハナからわかっている。

 しばらくして、重力に逆らえずに引き戻されてゆく心が地上の現実に触れるかどうかというところ。

「あんたたち学校はどしたの?」

 知らない声に肩を叩かれて「ふがっ」と。慌てて頭を起こしてみれば、いつのまにベンチの前に来ていたのか、見知らぬシニアの面々がニコニコとこちらの様子を眺めているではないか。なんだか小石につまづいたジャンプの着地みたいに心臓にわるい。

 とりあえず制服を整えて、

「サボってまーす」

「そっすね」

 と私たち。

 なんの気なしに答えてしまったけれど、冷静になった頭で考えてみるとこれってかなりマズいんじゃ。ってか学校にチクられたらマジで面倒な事態になるんじゃね。

 しかしそんな状況をとがめるシニアは誰もおらず、グランマの一人は「そうかいそうかい。若くてもたまにはね」と持ち前のやさしさを利かせてくれるどころか、むしろ「やってくかい?」なんて好意的に迎えてくれる始末だったので、ふぅーっと緊張が解けたように頭が再びベンチの背もたれへと深くうなだれた。

 まあそんなもんか。ちょっとふざけあっていただけだし、誰かに迷惑をかけているわけでもない。と思う。

「どうするー?」

「私はパス」

「ええー」

「えぇじゃない」

「あっ、ひょっして未来の本田におそれをなしちゃった?」

「だからサッカーじゃないっての」

 むぅーとふくれるイトーの視線には気づかないフリをして砂場の方へと顔を向ける。先ほどの母子の姿はどこにも見あたらなかった。

 にしても今どき本田って、ははっ。なんつうか浅すぎるんだよなあ。

「あたしやりますっ」

 となりで上がった元気いっぱいの声がグランマに賛成して立ち上がる。シニアの面々と和気あいあいをはじめるイトーに『正気か』と疑念を送る。「ほんとにやらないのー?」楽しそうなのにーといらん心配を返されて、やるかボケと手を振って、

「いってらぁ」

 やかましさの去ったベンチには、液体のない緑のペットボトルとピーチネクターの缶が肩を並べるように残っていた。

 誰にでも合わせられる子なんだと思う。形を変えて、軽くなって。彼女はそういう心の在り方が出来る子なんだと。私は大勢の人たちに混じることができない。個でしか上がっていけない。だからといって、心が動かない以上はどうすることもできないのだけれど。

 昔、お母さんが言っていたな。マコトは固体なのね、と。お友達の輪に参加することを日本では『混ぜて』というでしょう。これは日本人の心が、液体に近い性質を持っているからだと思うの。欧米では『繋ぐ』を意味するジョインだから、混ぜてを意味する液体のミックスとは違って固体の性質を尊重しているのかもね。とはいっても、液体だって原子レベルからみれば固体だし、固体だって地球の年月からみれば液体だし。なにより、どちらも個体であることには変わらないのだから、あまり気にするほどのことじゃないのよ。

 なるほどなと思った。

 トンカチみたいに大きなスティックを構えるイトーの背中を目で追った。彼女は目の前の今に真剣で、悩みなんて何も無いんじゃないかと錯覚してしまうけれど、もしそうだったらきっと、ここにはいないと思う。

「めっちゃ転がるんですけどおっほっほっ」

「なあにやってんだか」

 将来の自分を想像して季節のスキマを仰ぎ見る。年月を重ねれば、私の心も変わってゆくのだろうか。




 あれから一週間後の月曜日。まもなく一限目の授業がはじまるかという頃。イトーは待ち合わせ場所である学校近くのコンビニに姿を見せなかった。

 待ち合わせといっても、おたがいに約束をしていたわけじゃない。まあこんなときもあるか。とは思うものの、今日の空模様を反映しているのか、私の気分もどんよりとしたものだった。

 なんだろう、イトーが来ない理由って。たとえばお腹が痛かったとかセンチメンタルだったとか、いまだ夢を中をさまよっているとか。それならまだしも、じつは私にかくれてこっそりと学校の授業を受けているとかだったらどうしよう。いや、最後のは正しいな。サボっている私の方がまちがいなくまちがっている。けれどそれはなんというか、ほんのちょっとだけさみしいような。

 ここ最近は毎週のように彼女と過ごしていたから、ひとりでいる状況が妙に心細い。もしかしたらどこかに来てるんじゃないか。なんて考えたりもして、ひとり自転車に跨りながら聖地をめぐってみたけれど、イトーの姿はどこにも見当たらなかった。

 高校二年生になってからというもの、わずらわしさから離れてつかのまのひとりを求めたあのコンビニで、私は人懐っこい猫と出会った。綺麗な茶トラ。それがイトーに対しての、はじめての印象だった。私の方はというと、イトーいわく「王子様っていうより不良って感じ」らしい。

 小さな町の片隅に、ノラ猫が一匹と不良がひとり。はぐれもの同士だからなのか不思議と気が合って、なんとなく連れ立ってサボるようになって。うわっ面だけの言葉しか交わしたことはないけれど、そんなスナック菓子みたいな関係が休日と平日のスキマにはまさにうってつけで、居心地が好かったんだと思う。

「思ってもなあ」

 私はひとりつぶやいて、デイドゥで買った飲み物を片手にイトーの好みを舌で転がしながら、今は誰もいない公園のベンチを見送った。衣替えをしたばかりだからか、身を包むワイシャツの生地がなんだか心もとない。

 自転車のカゴに放ってあった鞄のポッケに手を入れて、気晴らしにスマホを立ち上げてみる。画面の上部には、ついさっきまではなかったメッセージの通知がポップアップとして表示されていた。

 名前を見て、息が止まる。

「えっ」

 しばらくの間、時が進むのを待ってから、口に含んでいた甘ったるい液体を喉奥に流して、中身を開いて、躍動する。

「今から来るって、なにっ?」

 私はすぐには返事をせず、画面の向こうで慌てふためいていそうなイトーの姿を想像した。けれど、イトーの寝起き姿を上手く思い描くことができない。イトーって中学のジャージとか着て寝てそう、なんて失礼なことを考えていると追加のメッセージが。

 内容から察するに、どうやら私に愛想を尽かされたんじゃないかと心配になったらしい。返事が来ないから。

 いじわるをするつもりはなかったのだけれど、めずらしくしおらしいイトーの態度を目の当たりにすると、ちょっとだけからかってみたくもなる。

 まあ、それは会ってからのお楽しみとして。

 メッセージを返して自転車に跨る。曖昧だったはずの灰色の景色は、いつのまにか彩られた日常の青へとその場を明け渡そうとしているようだった。

 目的地へと向かう足は軽く、ペダルをこぐ体が自然と立ち上がる。生ぬるい風に肩が震える。

 どうやら『しおらしいイトー』には、私の不安を紛らわせる効能があるらしい。あの『ぐ〜チョコランタン』を超えてくるだなんてきっと、誰にでもできることじゃない。

 イトーの持つ素直なかたちに触れて心がやわらかくなる。

 たしかな繋がりを探して遠くの空を見る。

 息をすって、胸を張って、

「もう昼になるっつうのおおおおおっ」

 こぼれ落ちた日常のその先に、微かな夏のはじまりを感じて。

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私にしとけばいいのに 椎名宗一郎 @shina_soichiro

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