メガネケースと残らない記憶

@hajime_018

第1話

 ピピピ、ピピピピと鳴る電子音で松本栞は目を覚ました。

 


 栞は身体を起こしながら、静かに鳴る目覚まし時計を止め、流れるように薄い緑色の眼鏡を手に取った。その眼鏡は、数年前に息子からもらったもので、葉っぱ模様のメガネケースと一緒にもらった時は感動で泣いてしまった。そんな嬉しくも恥ずかしい記憶のことは昨日のことのように思い出す。

 ベッドから足を下ろし、一呼吸する。そしてゆっくりと立ち上がる。

 この歳になると、さまざまなことに気を付けなければいけないなと、ため息をつきながら廊下へ出る。

 自分はどうなってもよいが、迷惑がかかるのは自分以外の家族なのだ。もしも介護が必要になったときは迷わず、介護施設にお世話になろう。

 

 リビングの扉から、焼けたパンの香ばしい香りが鼻孔をくすぐり、胸を高揚させながら、扉を開けた。


 「あらお義母さん。おはようございます、ご飯はもう少しかかりそうです。」キッチンにいる由里子が申し訳なさそうに言った。


 「おはよう、由里子さん。そんなに気を遣わないで。」栞もまた申し訳なさそうな顔で笑った。「じゃあ私は、お花に水をあげてくるわね。」


 「でも昨日、少し雨が降ってましたよ」


 「あら、そうだったかしら、ありがとう。なら少し様子を見るだけにしようかしら。」栞は笑ってそう答え、玄関に向かった。


 由里子は十年前に息子の遼と結婚し、遼との子供が生まれたタイミングで、この家へ一緒に引っ越した。夫が死んでしまってから、一人で寂しく暮らしており、それは会話を好む栞にとって苦痛だったため、息子夫婦から一緒に暮らさないかと、話があった際は二つ返事で快諾した。


 以前は看護師の仕事していたこともあって、気遣いができ、器量が良い。息子にはもったいない女性だ。そんな素晴らしい人間性を持っている。

 しかし一方で、そんな由里子に負い目を感じていた。同居の誘いは、遼が半ば強引に決めたかもしれない、今だって心に負担を感じているかもしれない。そんな思いも口に出したら、この生活が壊れてしまいそうで、そんな不安がたびたび栞の心を刺していた。

 

 そんなことを考えながら、玄関の扉を開けた。

 外の空気は冷え込んでおり、半袖の栞には肌寒く思わず、体を丸めて、腕を組んだ。


 明日からの服装を考えないといけないな、そんなことを栞は考えながら、プラスチックのじょうろを手に取った。

 


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