バスタブに堕ちる

粟野蒼天

バスタブの中

高1の夏、わたしはうつ病になった。


自然に涙が出たり、心臓が急に重くなり寝てないと気持ち悪くなった。

最初に異変に気が付いてくれたのは母だった。


病院の診察室でうつ病と診断された時に母が見せた顔はとても印象深かった。

余程信じられなかったのだろう。


正直自分でも驚いている。よくこうなるまで気が付かなかったものだ。

わたしは自分にとことん無関心なのだろうか。いや多分違うな。

わたしはわたし自身がたまらなく嫌いなんだろう。


両親には「もうちょっとちゃんと勉強してよ、あなたは頭が悪いわけじゃないちゃんと勉強すれば………」と言われ。

学校では「なに調子に乗ってんの?出しゃばらないでくれない。うざい」などと平気で言われてしまう始末。


わたしはただその言葉たちを受け入れるしかなかった。

言い返せなかった。言い返せる気がしなかった。


雑魚。


そうしてわたしは次第に壊れていった。



学校を休学したわたしは一日の大半を自室で寝て過ごした。冷房をガンガンにして眠り続けた。身体は死体のように冷たくなった。


家族とはなんだか申し訳なくて顔を合わせることができなっか。


起きているのは家族が寝静まった2時間程度で、起きていても食事をしてトイレに行くのみ。そしてまた寝る。その繰り返し。


今まで普通にできていたこともできなくなり、あらゆることがめんどくさくなり、どうでもよくなった。


動くことを辞めたわたし。考えることを辞めたわたし。わたしの心臓と脳みそは動いていない。


死んでいるも同然。


今のわたしは「生きている」とは言えなかった。



ドア越しから母に「そろそろ、お風呂に入ってみない?」と言われた。


そういえばうつになってから、一度も入っていなかったな。


う,,,,,,,臭い。

匂いを嗅ぐと明らかに臭っていた。その匂いは到底女子から漂う匂いじゃなかった。腐った魚のような匂い。お風呂に行かなきゃ、でも起き上がれない。身体が重い。だるい。でも臭いのは人として、女として耐えがたかった。


重たい身体を起こして、わたしはお風呂場に向かった。

部屋から風呂までが異様に遠い。こんなに長かったっけ?


体感20分くらいだったかな?わたしはやっとの思いでお風呂場に着いた。


服を脱ぎ、自分の貧相な身体を鏡越しに見る。鏡に映ったわたしの身体はやつれていてとても弱弱しく見えた。ドアを開けて浴室に入る。久しぶりの光景。

見慣れたはずの浴室。だけどどこか懐かしく感じた。


「小さい頃、ここでよく一人で遊んだっけ……」


わたしんちお風呂は日本では珍しい猫足の付いた白い磁器性のバスタブだ。ヨーロッパに多いイメージ。数少ないわたしのお気に入りの場所。


浴室に入りシャンプーやボディーソープで体中を洗う。浴室中に広がる甘いリンスの匂い。シャワーで泡を洗い流す。目に泡が入り目を擦る。


お湯と水の出る蛇口を開けて温度を調節する。


少し熱いくらいの温度にしてわたしは湯船に浸かった。


「………………………ㇵァ」


少し、ほんの少し楽になった気がした。入浴にはメンタル回復効果があるとどこかで聞いた記憶がある。


立ち込める湯気をぼーっと眺める。


お湯は照明を反射して橙色になっていた。


濡れた髪をくるくる弄る。 


5分くらい入浴した頃、突然わたしの目から涙が零れ落ちた。


ポタポタと零れる涙の音。聞きたくない。


「あ………あう………」


わたしは耐えきれなくなり、湯船に顔を付けた。顔を上げ必死に呼吸を整える。


(なんで………なんで………)


自然と涙の出る弱い自分が、脆い自分が、情けない自分が嫌で仕方がないのだ。


大っ嫌い!!


昔に戻りたい。楽しくお風呂に入っていたあの頃に。


わたしはバスタブの中で小さく丸まった。



「はぁ………そろそろ出よっと」


入浴して30分くらい経ったので、わたしはバスタブから出ようとした。


「………?」


そのとき、わたしの足になにかが触れた。


湯気でよく見えない。目を凝らして見ると.........魚がいた。


「………ワア!!??」


なんで?なんで魚なんているの?幻覚?


目を擦っても魚は泳いでる。わたしは恐る恐る魚に触れてみる。


触れると魚は溶けるように消えてしまった。


「なんなのこれ?」


次の瞬間、バスタブの底から無数の魚が溢れ出し、わたしは吸い込まれるようにバスタブの底に引きずり込まれた。わたしの身体はバスタブに堕ちた。


「………ゴボツ⁉」


なにこれ!?なにこれ!?どうなってるの?


流されながらもわたしは息を止め必死になって藻掻いた。けれども身体は流され徐々に沈んでいく。水面は遠くなっていく。光が段々小さくなっていく。


しばらくして、わたしはあることに気がついた。


苦しくない。息ができる。どうして?口からは空気が出ている。不思議な感じだ。

感覚的には昔やったスキューバダイビングのようだった。


周りを見渡すが何もない。


この奇怪な状況を飲み込めずにフリーズしていると、下の方から魚の大群がやってきた。


うわっ‼


魚たちはわたしの真横を通り過ぎていき、丁度私の頭上で動きを変えた。


水族館で見かけるイワシがボール状の渦を作っているやつだ。


これはたしかベイトボールという捕食者から身を守るための行動だったはず。


嫌な予感がした。


イワシたちがやってきたほうから、でかい何かが近づいてきた。


サメだ。サメはわたしの横を通り過ぎていきベイトボールの方へ向かった。


(よ、よかった)


食べられるかと思った。わたしはそっと胸を撫でおろした。


我に返ったわたしは辺りを見回した。


ここはどこなんだろう。バスタブの中?なのは確かなんだけどだけど。   


夢か幻覚か、それとも現実か?よくわからない。     


上を見上げると既に水面の光は消えていて、わたしは謎の場所で迷子になった。


一人でマリアナ海溝に取り残されたようだ。


今私が出来ることは………とりあえずわたしは上に向かって泳ぎ始めた。


上に泳げば水面が見えて来るとわたしは考えた。


泳ぐ度にいろんな生き物に遭遇した。


シャチにイルカ、イワシやマグロ、ホホジロザメ。

深海に生息している、シーラカンス、ラブカ、ダイオウイカ。

大昔に絶滅したはずのヘリコプリオン、ダンクルオステウス、リードシフティス。

なぜ絶滅したものまでいるのかは分からなかった。


本当にここは不思議な世界だ。とても心地いい。


(あぁぁ、ずっとここに居たいな)


………わたしは今何を思ったの???


一刻も早くここから抜け出したいと思っていたはずなのに………


気がつけばわたしは帰ることを忘れて魚たちと一緒になって泳ぎ回っていた。


泳ぐことがこんなにも楽しかったなんて。


(楽しい)


不思議だ。ここにいると身体が軽くなっていく。心臓は重りが取れたかのように軽く楽になっていく。楽しい。


ここではわたしも、ちゃんと生きれるような気がした。


お伽噺に出てくる人魚姫のように魚たちと一緒に泳ぎたい。

何も気にしないで、誰にも何も言われず自由に生きたい。


………でもそれって本当に「生きている」って言えるのだろうか?


(あれ、なんでわたし泳いでるんだろう?)


一瞬だった。そのことを頭に思い浮かべたとたんわたしの中の何かが弾け散った。


周りの魚たちは一瞬で姿を消した。

その後、わたしの周りを黒いなにかが包みこんだ。

黒い何かは次第に形を変えてった。人の姿を模ったそれは顔がないわたしだった。

顔がないことはこんなにも不気味なのだろうか?身体が動かない。動かせない。

苦しい。首を締め付けられるような感覚にわたしは背筋が凍りついた。

顔がないそれはわたしに一言を告げると泡のように消えてしまった。

「産まれて来なかったほうがよかったのに………」

わたしの存在そのものを否定されような気がした。


涙が止まらなくなり、わたしの思考は止まった。


わたしは泳ぐのをやめた。身体はどんどん沈んでいく。

また涙が溢れてくる。涙が気泡とともに浮かんでいく。


(あぁ……もう何もかもがどうでもいいや)


死にたい。このまま沈みたい。いっそ魚の餌になりたい。そう思うと身体がどんどん重くなっていった。


ふと下を見ると大きな影が近づいてきた。


クォーーーーン‼


次の瞬間、下からクジラの群れ現れ、一匹のクジラがわたしのことを飲み込んだ。



目を開けるとそこには白い家があった。外装、花壇の位置全てにおいてみおぼえがあった。その家は紛れもないわたしの家だった。


クジラの口の中に家?と思ったが今更だよね。もう何があっても驚いたりしないだろう。


わたしは玄関の扉を開けて家の中に入った。いつもの家のはずがどこか懐かしく感じる。


そしてわたしは引き寄せられるように再び浴室へ向かった。理由はよくわからない。


不安になりながらもわたしは浴室に入った。


ドアを開けるとそこにはバスタブに入っった少女がいた。鼻歌を歌い気持ち良さそうにバスタブに浸かっている。


わたしのことに気がついたのか、少女はわたしの方をじっと見つめてくる。そして優しい笑みを浮かべた。


わたしは息を呑んだ。なぜなら、その少女はわたし自身だったからだ。


「やっと来た。待ってたんだよ」


飄々とした喋り方で優しい笑みをこちらに向けてくる。このわたしはわたしであってわたしじゃない。


「ほら、こっちに来て。一緒に入ろうよ」


もうひとりのわたしが招き猫のように手を動かす。


わたしは少し考えて頷く。なぜ入ろうとしたのかは自分でもよく分からなかった。

考えるより先に身体が勝手に動いていたというやつだ。


わたしは言われるがままもうひとりのわたしと一緒に湯船に浸かった。


バスタブの水位が上がる。


わたしとわたし。もうひとりの自分と一緒にお風呂に入る。不思議な体験だ。


「えっと、あなたは?」


「辞めてよ、そんな他人行儀な口調。あなたはわたしで、わたしはあなたなんだから。まぁそうだね強いて言えばあなたの理想、こうなりたいという願望の塊だね」


「そうなんだ………」


不思議な感覚だ。自分自身と喋るなんて。

わたしのなりたい私か。


わたしは一体何になりたかったんだろう………

わたしは目の前にいるわたしのようになりたっかたのか?


このわたしならこの場所について知っているのかな?


「ねぇここってどこなの?バスタブの中なんだよね?」


「うん〜〜ちょっと難しいんだよね。ここはわたしたちの心の中って言えばいいのかな?正確に言うと小さい頃の私たちが想像した世界なんだよ」


小さい頃のわたしか。


小さい頃のわたしは今と違い、好奇心旺盛だが大人しく想像力が豊かな子供だった。


バスタブの外にはクレヨンや黄色のアヒルが散らばっており、壁にはクレヨンで書かれた魚などの絵が隙間なく描かれていた。


「昔、ここでよく遊んだよね。部屋の壁にクレヨンでカラフルなクジラや図鑑で見た昔の生物とか書いてよく母に怒られてたよね」


もうひとりのわたしが懐かしそうに語りだした。


「………だからいろんな色をしたクジラがいたり、絶滅した生物とかいたんだね」


「そうそう、あなたをここに連れて来るのに苦労したよ、みんなが手伝ってくれなかったらどうなってたか」


「なんかごめんね」


「謝らなくていいんだよ」


あの魚たちってわたしをここまで連れてきてくれたんだ。そういえばなんだか見覚えのある魚たちだったな。


「あの頃に戻りたいって思ってるでしょ………」


もう一人のわたしが問いかけてきた。その問はわたしの思ってることを見透かしているようなものだった。


「………うん」


「でも変わりたいとも思ってるでしょ」


わたしは再び頷いた。


「なんで変わりたいの?」


少し考えた後わたしは口を開いた。


「わたしは自分が嫌い。どんなにひどいことを言われても黙ってそれを飲み込んじゃってそしていろんな人に迷惑をかけて困らせて、生きていても何もできない。だから変わりたい」


「じゃあなたはどう変わりたいの?なにになりたいの?」


その問は余りにも難しかった。変わりたいのは本当なんだ。しかしどんな風に変わりたいのかが分からない。


わたしは目を閉じて深く考え込んだ。ここで答えを出そう、そうじゃないと何も変われないような気がした。


「………わたしは、強くなりたい。自分のことを生きてていいよって思えるようなわたしになりたい」


今まで否定されながら生きてきた。自分自身も否定していた。

誰かから認められるようになりたい。


次の瞬間、もうひとりのわたしがわたしに抱きついてきた。


「頑張った。本当に頑張ったね」


「ぇぇぇ……」


「ずっと見てたよ。ひとりでよく頑張ったね」


それは、ずっとわたしが誰かに言われたかった言葉だった。


周りの人達は「頑張れ」や「やればできる」とは言ってくるが、誰も「頑張ったね」とはいってくれなかった。


「変わらないといけないこともときにはある。でも無理して変わらなくても良いんだよ」


今まで抱え込んでたものが全部、心のそこから溢れてきた。


「う…う………うわぁぁぁぁぁ」


わたしは抱きつき返して、もうひとりの私の胸の中で号泣した。

触れたもうひとりのわたしはとても柔らかかった。


「もう大丈夫?」


「うん、ありがとう」


ひとしきり泣いたあと私たちはこれまでのことを話し合った。


誰にも分かってもらえなかった気持ちを思い切りぶちまけることができた。

使ったことのないような言葉が腹の奥底から次から次へと出てきた。

16年という人生の中で一番喋ったような気がする。


自分と話すことってこんなに気楽なことなんだな。今まで気が付かなかった。気づけなかった。自分と向き合うことの大切さを。


「さ、そろそろ時間かな?」


「時間、なんの?」


「私たちがここで話せる時間、あなたがこの世界にいられる時間」


「え………ねぇまた会える?」


「会えるよ、あなたがまた生きたいと思えるようになったらいつでもね。でも、もうここに来ちゃ駄目だからね!」


「分かった、頑張ってみるよ」 


「辛くなったらこれを握りしめてみて、きっと大丈夫だから」


そういうともうひとりのわたしはわたしに貝殻を握らせ、そして再び強く抱きしめてきた。


再びバスタブから無数の魚が現れた。


「またね」


その言葉を皮切りにわたしの身体は再び無数の魚の群れに包まれた。



目が覚めるとわたしはバスタブに戻っていた。お湯はバスタブから漏れ出しており浴室は水浸しになっていた。


周りを見てももうひとりのわたしはいないし、魚たちもいなくなっていた。

壁一面に描かれた絵も黄色いアヒルも全部消えていた。


あれは夢だったのかな?


手を握るとなにが触れる感触がした。手のひらを見ると、そこには中身が透き通ったまるでガラス細工のような貝殻があった。


(………!!)


貝殻をよく見てみると魚の群れや小さな小さなわたしの家がスノードームのようになっていた。


夢じゃなかったんだ。


わたしは貝殻を握り込みただ「ありがとう」と呟いた。


まだ身体は重いけど諦めたくはない。諦めちゃ駄目だ。


頑張って生きてみよう。もうひとりのわたしを心配させないために。


そして自分のために。わたしはわたしのなりたい自分のために生きよう。


そうしてわたしはバスタブを出た。























































































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バスタブに堕ちる 粟野蒼天 @tendarnma

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