バスタブに堕ちる
粟野蒼天
バスタブの中
高1の夏、わたしはうつ病になった。
周りからの過度な期待や罵詈雑言によるものだった。
学校を休学したわたしは一日の大半を自室で寝て過ごした。
起きているのは2時間程度で、起きていても食事をしてトイレに行くのみ。そしてまた寝る。その繰り返し。
今まで普通にできていたこともできなくなり、あらゆることがめんどくさくなり、どうでもよくなった。
死んでいるも同然。
今のわたしは「生きている」とは言えなかった。
◇
ドア越しから母に「そろそろ、お風呂に入ってみない?」と言われた。
そういえばうつになってから、一度も入っていなかったな。
う,,,,,,,臭い。
匂いを嗅ぐと明らかに臭っていた。お風呂に行かなきゃ、でも起き上がれない。身体が重い。だるい。でも臭いのは人として、女として耐えがたかった。
重たい身体を起こして、わたしはお風呂場に向かった。
部屋から風呂までが異様に遠い。こんなに長かったっけ?
体感20分くらいだったかな?わたしはやっとの思いでお風呂場に着いた。
服を脱ぎ、自分の貧相な身体を鏡越しに見る。
ドアを開けて浴室に入る。久しぶりの光景。
見慣れたはずの浴室。だけどどこか懐かしく感じた。
「小さい頃、ここでよく一人で遊んだっけ............」
わたしんちお風呂は日本では珍しい猫足の付いた白い磁器性のバスタブだ。ヨーロッパに多いイメージ。数少ないわたしのお気に入りの場所。
お湯と水の出る蛇口を開けて温度を調節する。
少し熱いくらいの温度にしてわたしは湯船に浸かった。
「...........................ㇵァ」
少し楽になった気がした。入浴にはメンタル回復効果があるとどこかで聞いた記憶がある。
お湯は照明を反射して橙色になっていた。
濡れた髪をくるくる弄る。
10分くらい入浴した頃、突然わたしの目から涙が零れ落ちた。
ポタポタと零れる涙の音。
わたしは耐えきれなくなり、湯船に顔を付けた。自分が泣いていることが嫌で嫌で仕方がなかった。
自然と涙の出る弱い自分が、脆い自分が、情けない自分が嫌で仕方がないのだ。
昔に戻りたい。楽しくお風呂に入っていたあの頃に。
わたしはバスタブの中で小さく丸まった。
◇
「........そろそろ出よっと」
入浴して30分くらい経ったので、わたしはバスタブから出ようとした。
「.........?」
そのとき、わたしの足になにかが触れた。
湯気でよく見えない。目を凝らして見ると.........魚がいた。
「...........ワア!!??」
なんで?なんで魚なんているの?幻覚?
目を擦っても魚は泳いでる。わたしは恐る恐る魚に触れてみる。
触れると魚は溶けるように消えてしまった。
「なんなのこれ?」
次の瞬間、わたしの身体は水中に堕ちた。
「..........ゴボツ⁉」
なにこれ!?なにこれ!?
わたしは息を止め必死になって藻掻いた。けれども水面は遠くなっていく。
しばらくして、わたしはあることに気がついた。
苦しくない。息ができる。どうして?口からは空気が出ている。不思議な感じだ。
感覚的には昔やったスキューバダイビングのようだった。
この奇怪な状況を飲み込めずにフリーズしていると、下の方から魚の大群がやってきた。
うわっ‼
水族館で見かけるイワシがボール状の渦を作っているやつだ。
これはたしかベイトボールという捕食者から身を守るための行動らしい。
嫌な予感がした。
イワシたちがやってきたほうから、でかい何かが近づいてきた。
サメだ。サメはわたしの横を通り過ぎていきイワシの方へ向かった。
(よ、よかった)
食べられるかと思った。わたしはそっと胸を撫でおろした。
我に返ったわたしは辺りを見回した。
ここはどこなんだろう。バスタブの中?なのは確かなんだけどだけど。
夢か幻覚か、それとも現実か?よくわからない。
上を見上げると既に水面の光は消えていて、わたしは謎の場所で迷子になった。
とりあえずわたしは上に向かって泳ぎ始めた。
上に泳げば水面が見えて来るとわたしは考えた。
泳ぐ度にいろんな生き物に遭遇した。
シャチにイルカ、イワシやマグロ。
深海に生息している、シーラカンス、ラブカ、ダイオウイカ。
大昔に絶滅したはずのヘリコプリオン、ダンクルオステウス。
なぜ絶滅したものまでいるのかは分からなかった。
(あぁぁ、ずっとここに居たいな)
......わたしは今何を思ったの???
一刻も早くここから抜け出したいと思っていたはずなのに。
気がつけばわたしは帰ることを忘れて魚たちと一緒になって泳ぎ回っていた。
(楽しい)
不思議だった。ここにいると身体が軽くなっていた。心臓は重りが取れたかのように軽く、楽になった。
ここではわたしも、ちゃんと生きれるような気がした。
魚たちと一緒に泳いで何も気にしないで、誰にも何も言われず自由に生きたい。
..............でもそれって本当に「生きている」って言えるのだろうか?
ふと我に返った。
(あれ、なんでわたし泳いでるんだろう?)
わたしは泳ぐのをやめた。身体はどんどん沈んでいく。
涙が気泡とともに浮かんでいく。
(あぁ.....もう生きていたくない)
このまま沈みたい。そう思うと身体がどんどん重くなっていった。
下を見ると大きな影が近づいてきた。
クォーーーーン‼
次の瞬間、下からクジラの群れ現れ、一匹のクジラがわたしのことを飲み込んだ。
◇
目を開けるとそこには白い家があった。その家は紛れもないわたしの家だった。
クジラの口の中に家?と思ったが今更だよね。もう何があっても驚いたりしないだろう。
わたしは玄関の扉を開けて家の中に入った。
そしてわたしは引き寄せられるように再び浴室へ向かった
不安になりながらもわたしは浴室に入った。
ドアを開けるとそこにはバスタブに入っ少女がいた。
少女はわたしの方をじっと見つめてくる。
わたしは息を呑んだ。なぜなら、その少女はわたし自身だったからだ。
「やっと来た。待ってたんだよ」
飄々とした喋り方で優しい笑みをこちらに向けてくる。
「ほら、一緒に入ろう」
わたしは少し考えて頷く。なぜ入ろうとしたのかは自分でもよく分からなかった。
わたしは言われるがままもうひとりの私と一緒に湯船に浸かった。
もうひとりの自分と一緒にお風呂に入る。不思議な体験だ。
「えっと、あなたは?」
「辞めてよ、そんな他人行儀な口調。あなたはわたしで、わたしはあなたなんだから。まぁ強いて言えばあなたの理想、こうなりたいという願望の塊だね」
「そうなんだ......」
不思議な感覚だ。自分自身と喋るなんて。
わたしのなりたい私か。
この私ならこの場所について知っているのかな?
「ねぇここってどこなの?バスタブの中なんだよね?」
「うん〜〜ちょっと難しいんだよね。ここは私たちの心の中って言えばいいのかな?正確に言うと小さい頃の私たちが想像した世界なんだよ」
「あ、だからいろんな色をしたクジラがいたり、絶滅した生物とかいたんだね」
「そうそう、あなたをここに連れて来るのに苦労したよ、みんなが手伝ってくれなかったらどうなってたか」
「なんかごめんね」
あの魚たちってわたしをここまで連れてきてくれたんだ。
「まぁそれはさておいて、わたしはあなたに言いたいことがあるの」
次の瞬間、もうひとりの私がわたしに抱きついてきた。
「頑張った。本当に頑張ったね」
「ぇぇぇ.......」
「ずっと見てたよ。ひとりでよく頑張ったね」
それは、ずっとわたしが誰かに言われたかった言葉だった。
周りの人達は「頑張れ」とは言ってくるが、誰も「頑張ったね」とはいってくれなかった。
今まで抱え込んでたものが全部、心のそこから溢れてきた。
「う......う........うわぁぁぁぁぁ」
わたしは抱きつき返して、もうひとりの私の胸の中で号泣した。
「もう大丈夫?」
「うん、ありがとう」
ひとしきり泣いたあと私たちはこれまでのことを話し合った。
誰にも分かってもらえなかった気持ちを思い切りぶちまけることができた。
自分と話すことってこんなに気楽なことなんだな。
「さ、そろそろ時間かな?」
「時間、なんの?」
「私たちがここで話せる時間、あなたがこの世界にいられる時間」
「え......ねぇまた会える?」
「会えるよ、あなたがまた生きたいと思えるようになったらいつでもねね。でも、もうここに来ちゃ駄目だからね!」
「分かった、頑張ってみるよ」
「辛くなったらこれを握りしめてみて、きっと大丈夫だから」
そういうともうひとりのわたしはわたしに貝殻を握らせ、そして再び強く抱きしめてきた。
「またね」
その言葉を皮切りにわたしの身体は水に包まれた。
◇
目が覚めるとわたしはバスタブに戻っていた。
周りを見てももうひとりのわたしはいないし、魚たちもいなくなっていた。
あれは夢だったのかな?
ふと手のひらを見ると、そこには水色に透き通った貝殻があった。
(...............!!)
夢じゃなかったんだ!
わたしは貝殻を握り込み「ありがとう」と呟いた。
まだ身体は重いけど諦めたくはない。諦めちゃ駄目だ。
頑張って生きてみよう。もうひとりのわたしを心配させないために。
そして自分のために。
そうしてわたしはバスタブを出た。
バスタブに堕ちる 粟野蒼天 @tendarnma
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