episode.1 忙しない初対面

 

 暖かな春の風が広い廊下を吹き抜けていく。


 澄み渡った空と春らしい陽気が心地よい昼下がりである。しかし、穏やかな風を感じる余裕もなく、小柄な少女はパタパタと足音を立てながら、早足で廊下を歩いていた。彼女の少し前を歩いていた少女が、ちらりと後ろを振り返り声をかける。


「ティアナ! 早く行かないと遅刻するわよ」

「分かってるわ! これでも頑張って急いでいるのよ」


 周りの少女よりも背が低いティアナは歩幅も小さいのだ。学園の敷地と校舎は共に広大である。取っている授業によっては、教室が正反対の場所にあることもある。定められた休み時間の間に移動するのは、ティアナにとってはかなり大変なことなのだ。


 ティアナに合わせて歩いてくれている友人は懐中時計をみるなり、大きな声をあげた。

「あっ! もうすぐ始まっちゃう」

「嘘でしょう? 教室まで、まだあと半分くらいあるじゃない」

 友人は慌ただしく廊下を駆け出した。上で束ねた長い髪を、馬の尾のように左右に揺らす彼女の後ろ姿をティアナは必死で追いかける。



 その時。突然肩が何かに強く当たったのだった。


「あっ!」


 友人の姿だけを追っていたせいで、ティアナは周りに目が届いていなかったのだ。声を上げ、気づいた時には大切に胸に抱いていた本やメモ用紙が大きな音を立てて床に散らばっていた。絶望の表情で呆然と床を眺めるティアナの前に黒い大きな影が立ちはだかる。



「──前を見て歩くことすらできんのか。愚鈍」



 身体の芯まで凍りつかせる冷たい口調と、押しつぶされてしまいそうな程の威圧感がティアナに向けられる。


 恐る恐る顔を上げたティアナはその人物と向き合う。見下ろす薄氷の瞳は肉食の獣のように鋭く、思わず畏怖した。目を合わせてしまえば忽ち首を掻き切られそうな鋭さに、本能が警鐘を鳴らしている。けれども、月の光のように白い長髪と異次元に美しく整った魔性の貌に、目が釘付けになってしまう。鋭利な雰囲気と忘れ難いほどの美貌は一瞬にして、ティアナの脳に色濃く焼き付けられた。


 ぶつかった肩を摩りながら、初めて会った彼の顔を繁々と眺める。身長が非常に高く、強い存在感を放つ青年である。何処かで一度でも視界の端さえいれていれば、見逃すわけもないだろう。しかし、ティアナは今日に至るまで、彼を見かけたことすらもなかったのだった。



 呆けているティアナに慌ただしい足音が接近する。ティアナの姿が見えなくなったことに気が付き引き返してきた友人は、白い青年の姿を見るなり、血相を変える。


「ちょっと……! 何て事してるのよ!」


 瞬く間に顔色を青白くした友人は、彼に向かって深々と頭を下げる。


「ご無礼を働き、誠に申し訳ございませんでした。ティアナには後でよく言い聞かせておきますので、どうか今回だけ、広いお心で見逃しては頂けないでしょうか。こら。突っ立てないで、貴女も早く謝りなさいな!」


 彼女に促されたティアナもおずおずと頭を下げる。授業に遅刻しそうだと焦っていた時とは比せぬほど、彼女が焦燥している理由がティアナには分からない。

「……急いでいたの。ごめんなさい」

 不機嫌極まりない表情の青年をその場に残したまま、友人はティアナの腕を強く掴み、逃げるように教室の方へ向かって駆け出す。友人に引き摺られながら、ティアナは背後を振り返る。

 しかし振り返った時にはもう、青年は忽然と姿を消していたのだった。彼と会ったこと自体が幻覚だったかのようで、ティアナは現実との境界に困惑する。前を向き直してから、自分の頬をむいっと抓ったのだった。



 息絶え絶えに教室に辿り着くと、まもなく授業が始まった。しかしその時間、ティアナの頭の中は夢で会ったかのような青年のことで埋め尽くされ、微塵も講師の話など耳に入ってこなかった。


 授業が終了し講師が教室から出ていくと、一気に教室の中は生徒たちの話し声で賑わい始める。早速ノートを纏め直さんと、隣で意気込んでいる友人の肩をティアナはぽんぽんと叩く。

「ねえ、授業前に私がぶつかった白い男の人って誰だったの? 有名な人?」

 友人は同情の目でティアナを見ている。

「……ティアナ。まさかと思ったけど、本当にあのお方のことを知らないの?」

「知らないわ。だって、会ったことないもの」

 ティアナの返答を受けた友人は呆れ顔で応じる。


「いいこと? よく聞きなさい。あの方はオルクレイル公子様よ」


 目を瞬かせながら、ティアナはぽかんと口を開ける。


「…………誰?」

「…………嘘でしょ?」


 青年は帝国内でその名を知らぬ者はいないほどの有名人であったが、帝国からは離れた場所に位置する公国で育ってきたティアナは彼のことを何も知らなかった。友人から詳しい説明を受け、彼が帝国にたった二つしかない公爵家の令息であったことを知ったティアナが衝撃の悲鳴を轟かせたのは間も無いことであったのだった。

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月華は糸をあえかに紡ぐ 一条 月葵 @tk_icj

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