鬼の怒りは止まるのか?
辺りには摘んだばかりの葉のような、あるいは何かが腐ったような嫌な香りが鼻をツンと刺してくる。俗にいう青臭いとか磯臭い匂いである。この場合は後者の表現がより正しいのであろうと思われる。なぜなら、
「あぁぁきもじ悪い……」
ここに一人ゆらゆらと頭の眩暈と動きを合わせうように揺れる船の甲板の上でぐったりとしている少年……魁がそこにいるからである。絶賛人生で初めての航海兼船酔い中である。
「はぁ、初めてとはいえお主は少しばかり人より酔いやすいらしい。わしが初めて船に乗った時よりも悪酔いじゃのう」
シルクハットに燕尾服を着込んだこの国……というかこの16世紀の時代において存在しないはずの変なファッションをしている初老の男性オリバー・ノアが魁の隣に腰ける。
※シルクハットや燕尾服は17世紀~19世紀にかけて登場したと言われています。
「初めての航海って……師匠がいくつの時ですかそれ?」
「そうじゃな……たしか120年くらい前のことじゃったかな?角狩りとして初めて狩りを経験した時に少し乗せてもらったんじゃよ」
空いた口が塞がらないとはこのことだった。魁はふと気になったことを聞いただけだったのだが魁はそれ以上の不意打ちの疑問になぐられてしまった。さっきから気持ち悪かった眩暈や吐き気が何処かに旅びだってしまったようである。
「へ?……師匠何歳なんですか?」
「ん?つまらんことを聞くなだいたい今年で200歳くらいじゃったかな……なぜそんな怪訝な顔をする?あぁ!忘れとったわい!」
オリバーは手でポンッと乾いた音を立てて重要なことをもいだした。
「魁よ。わしら角狩りというのはな只人とは違うのだ。人は百年生きられれば良い方だが、我らはその五倍は生きられるのだ。お主が角狩りになった時、この指輪と共に真の意味で魔を払う狩人となるだろう」
「えぇ、それ先に言ってほしかったですね」
別に人外になることはそこまで嫌なわけではない。元より人間失格の烙印を押された人殺しなのだし、魔物と戦う職につくのだから普通の人と同じような生活ができるわけもない。
「いい機会じゃもう一つ耳寄りなことを教えてやろう。わしのこの指輪はな、角狩りであることの証明する指輪なんじゃ。魔術……ジャパンでいうところの妖術がかけられていてな、あらゆる国の言語を理解し操ることができるようになるんじゃ」
そういって師匠は小指を立てて根元に着けている刀の刀身のような金属の光を放つ銀色の指輪を見せてくれる。大陸の明へと向かうこの船旅はそれなりに長いそれ故か暇を持て余した師匠は角狩りの組織についてあれこれ時々教えてくれる。今回のように。特段嫌なわけでもない。屋敷の外の世界を知らなかった魁としてはとても興味をそそられる話であるし、師匠の話で興奮している間は船酔いのことも忘れられるから、とても有意義な話であるとすら感じられる。
「ふむ、お主のような若造がそうして年寄りの話をわくわくして聞いてくれるとついつい話し込んでしまう。まるで自分の子を持った気分じゃよ。わしら角狩りはな、人をやめ力を得た代わりに子を残す力を失ってしまったのじゃよ」
オリバーは小指の指輪を反対の手でいじくりながらぽつりとつぶやいた。そこにはどこか寂しさのようなものを抱えていた。オリバーはかつて家庭を持ちたいと思うほど愛した人を思い出しているのかもしれない。
「そうなんですか。じゃあ奥さんや子供を持つ角狩りの人はいないんですか?」
魁はそんな空気を察し話題を逸らそうとする。
「いや、子は成せぬが妻を持つものも養子を取ったりするものは少ないがいることはいる。それらの多くは長い生の中で別れてしまうものじゃ。まぁ、そのような殊勝な奴なんざ片手で数えられるほどじゃし大半の角狩りは子供が出来ないことをいいことに女や男遊びを楽しんでおるわい。かくゆうわしも昔は女を泣かせたもんじゃわい」
「はぁ……」
女遊びの意味が分からないほど魁は純粋ではないが、その楽しさがわかるほど大人でもなかった。
「……まぁ、まだお主は九つじゃしな理解に苦しむのもしかたないかの。他に何か聞きたいことはあるかの?どうせあと半日もすれば明につくんじゃ、何でもよいぞ?」
魁のピンと来ていない顔を見たオリバーは魁が若く女の味を知らない子供であることを思い出して話題を変えようとした。結果として似たもの師弟である。
「そうですね。じゃあ、師匠の服はなんかこだわりのありそうな服装なんですけどどこで手に入れたものなんですか?」
魁はビシッと手を挙げて質問する。魁からすれば南蛮もとい海外の服装は何であれ奇抜であるが、師匠の服は雰囲気から完全にこだわりがうかがえた。普通ではないであろうことを察した魁は師匠が好きそうな話題を選んだ。
「いい質問じゃな!」
オリバーは口角を上げてそれはもう水を得た魚の如く元気な姿を見せた。
「実はの、これはすべてオーダーメイド品。つまりは職人に高い金を払って作らせた特注品なんじゃよ!見よ!このこだわりを――」
魁は師匠に服の質問をしたことを酷く後悔した。二度と服について話題を振ってやるものかと心どころか魂にまで刻ませた。来世があったとしてもきっと忘れないであろう。
後に本人はこう語っている『師匠と話すときに絶対に服について話さないほうがいい。なぜかって?飽きるまで専門用語と早口の応酬がとまらないからだ』――by魁
明の港に到着し、袖の下を渡して乗せてもらった倭寇にお礼を言ってから日本とは違う空気を持った国、明の大地を踏みしめるオリバーと魁の師弟。
「わぁぁすごいですね師匠!人がいっぱいいる!見たことない食べ物や服!言葉も違う!」
「はっはっは、すごい喜びようじゃの。興奮のあまり迷子になるで……」
オリバーがそう言って魁の方へと視線を落とす。そこには誰もいなかった。
「遅かったかぁ……」
オリバーは頭を抱えてうつむいてしまうが、すぐにため息へと変わる。オリバーは魔力を全身から解き放ち周囲に音のように波長として飛ばす。飛ばした波長は自身の耳へと帰って来てその波長の跳ね返りが脳内に空間の立体図として出力される。
「ここからだいたい20ヤードくらい先の物陰か……」
オリバーは少々速いペースで目的地へと足を進めた。
石のように固い拳が腹に突き刺さる。耐えきれずに俺は腹の中に入っていたものを吐しゃ物として吐き出してしまった。こうして吐くのは人生で二回目である。
「ゲッフゲッフ……」
「へっ、これだからガキをいじめるのはやめられねぇぜ。弱い者いじめサイコぉ!」
吐き出した吐しゃ物にも劣るような臭い息を吐きながら男は魁の幼い体を更にいたぶる。男は汚いよだれを垂らしてそれを袖で拭う。
「へっへっへ、どうした?これ?返してほしんだろ?ほらぁ?頑張れよ坊ちゃん?」
男の手には亀甲の簪が握られていた。まぎれもなく魁の姉英姫の形見である。
「返っせ!」
魁が簪を取り返そうと男の手に掴みかかる。
「おっと!」
しかし、ゲスそうな男は横にどいて魁は地面に転んでしまう。
「おやおや~どうしましたかぁ?大切な簪取り返せねぇぜ?外国育ちのクソガキ?」
男の言葉は魁にはわからないが馬鹿にしているということだけはわかった。どこの国にも外道はいるのである。その国が悪いのではない、そいつ個人がどうしようもないほどに悪いのである。だからこそ、魁はその悪人がどうしようもなく許せなかった。
「ぶっ殺してやる……」
そう、父親を殺したあの日のように怒りを解放させたのである。魁はゲスそうな男が反応できないほどの高速で動き男の鼻を口ちぎってしまう。口に鉄の味を感じながら壁に男の無駄に高い鼻を吐き出す。
「ふぇ?」
男は一瞬理解できなかった。しかし、理解できてしまった。自分の鼻が無くなっていることに……
「ぎゃぇぇぇ!?どぼじで?ぼでのがなどごいっだの?」
鼻声でろれつが回らない男は痛みに悶えながら苦しむ。しかし、魁にはそれがとても目障りだった。
「黙れよ、その腐った肉よりくせぇ息でしゃべんなやイキリ野郎。ガキ相手じゃねぇとイキレねぇダセェ奴がいっちょ前に人語しゃべんなや勘違い豚野郎!」
魁は怒りのままに人間だと勘違いしていた豚の頭に回し蹴りを入れた。悲鳴を上げてうずくまる豚にボールをけるがごとく蹴りを入れていく魁、その姿はどっちがいじめているのかわからないほどだった。
「ぐるじで……ぐるじで……」
男は許しをこいていた。しかし、言葉もわからない魁はけっして許しはしなかった。
「そこまでじゃ……」
とつぜん、背後から声をかけられる。それは師匠であった。
「師匠……」
「……場を見るに、男に絡まれ挙句暴行を受けたのであろう?」
「はい」
静かに魁はうなずく
「しかし、お主は反撃し男を完膚なきまでに叩きのめした。一体どちらが子供かわからなくなるほどに……」
「はい」
段々怒りが収まってきた魁だったが、それでも男を許すつもりはなかった。しかるべき罰を……
「であるならば、これ以上辱めることもあるまい。もうすでにこの男はしかるべき罰を受けている。お主が与えた分で十分すぎるであろう」
「ですが!」
魁はなっとくできなかった。男は自分の大切な英の形見を盗み、売ろうとしていた。それが許せなかった。
「そのものは確かに悪いことをしてきた。じゃが、お主はどうだ?正しいことか?これが?」
師匠の言葉に魁はハッとする。自分がしていることは男と何ら変わらないではないか。一方的に暴力をふるっているだけだ。
「今はできなくても罪を悪を許せ、 それがいつかお前の為にもなる」
そう言って師匠は男を地元の自警団に任せてこの場から離れた。
神なんてぶん殴ってやる!(旧題:忌み子伝説)~神々に運命を狂わされた男は反逆する~ 夜野ケイ(@youarenot) @youarenot
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