蝉娘

天川

羽化

 少し長く眠りすぎたようだった。

 年寄り臭いと言われようが、あたしは昼寝が大好きだ。いや必須と言っていいのかもしれない。

 そんなあたしだが、昼寝というのは寝る時間が重要だと思っている。眠りの深度も、慣れが必要となるところである。人によっては、目を閉じているだけで良い、という人もいるし、うつらうつらとなるくらいまでは眠ったほうが良いという人もいる。

 かく言うあたしは、がっつり寝る方。はっきり言って、寝起きの状態はあまり良くない。しかし、この時間に寝ると夢も見ずにぐっすり眠ってしまうのだ。体力回復にはもってこい、いや、休息として身体が欲しているのである。

 肉体労働がメインのあたしは、働き方がじいちゃんばあちゃんと酷似している。生まれてこの方、二人の働き方しか見てこなかったのだからそれも当然だろう。


 うちには「朝飯前」という習慣がある。


 文字通り、朝食の前に行う労働だ。目が覚めると、じいちゃんなどは顔も洗わずにそのまま畑へ出ていく。だいたい、明るくなり始めてから日が昇るまでの短い時間……季節によってまちまちだが、朝5時には活動を始める。そうして1~2時間ほどの軽い畑仕事に付随する農作業、家の周りの環境整備を済ませてしまうのだ。

 何もこんな朝早くからそんな動かんでも……。

 これを聞いた人は、そんな言葉をこぼすのだろうが、我々家族にとって朝のこの時間はとても貴重だ。まず第一に、身体の調子が一番いい。空腹であることは間違いないが、それでも一晩眠って休息を得たばかりの身体はとても良く動く。長年、そういうサイクルで生きてきた人間特有の身体の働きなのかも知れない。そして、気持ち的にこの時間は「空き時間」という心理が働くため、動いた分、得という喜びがあるのだ。毎日、一時間少々だが、一年365日に積み重ねたら結構な時間の捻出である。ちょっとだけやり残した作業なんかを済ませてしまうのには、誠に都合の良い塩梅でもあるのだ。


 解説が長くなってしまったが……。


 そんなふうに朝が早いため、必然的にお昼を食べると眠くなる。これはもう仕方がないことなのだ。そのため、うちではお昼休みが少し長めだ。だいたい一時半くらいまでは、横になって休む。じいちゃんばあちゃんも、居間や土間の部屋に適当にゴロゴロと横になって休んでいるのがいつもの風景だ。

 ちなみにあたしは、自分のベッドで休むことが多い。脂肪の少ないあたしの背中は、床で寝ると痛みを訴えるヤワな背中なのだ……ごめんね。


 時計を見ると、二時少し前……。


 のそのそと起き出して、ぱんつ姿のままズボンをひっつかんで一階へ降りていく。

「あぁ、今起きなさったかい? あれ見てみれ」

 入口で、顔をのぞかせていたばあちゃんが、何か嬉しそうに指を指す。

 その指し示す方を見ると……。網戸に蝉がくっついていた。

「ありゃ、めずらしいね」

 それを見たあたしは、ズボンを履きながら思わずそんな声を発していた。

「最近見なかったもんなぁ……」

 続けて、そんなつぶやきが漏れ出してきた。


 意外に思うだろうが、山の中と言っても過言ではないこの辺りは、なぜか蝉が少ない。夏になっても、蝉の声をとんと聞かなくなったのはいつの頃からだろうか。

 はっきり自覚したのは3年ほど前……。

 珍しく、用事で東京に出る機会があったのだが、その時は真夏だった。品川にある親戚の家へ赴き、所用を済ませる必要があってその役目にあたしが指名されたのだ。田舎の若人にとって、東京に行く用事などは羨ましがられる対象らしいが、あたしには全く理解できなかった。生まれてこの方、田舎育ちの山育ち。それでも、都会に憧れる同年代の娘は多いだろうが、あたしには全くその種の感覚は育たなかった。行きたくない、という程ではないが、何が楽しくてそんな所に行かなければならないんだ、程度の感情は浮かんでしまう。そんな、面倒臭さ──。


 『───まもなく大宮に止まります』


 思わず車内アナウンスが思い出される、それと一緒に高層建築物が乱立する車窓からの風景も……。

 新幹線が東京駅に近づくにつれて、内側に沸き起こる重苦しさ……。あぁ、もう着いちゃうな……。そんな、後ろ向きな気持ちしか湧いてこなかったのを思い出す。

 都会が好きではなくても、電車の乗り換えや移動に関しては、あたしはなんの問題も発生しなかった。こういう事そのものは、多分得意なんだろうと思う。路線図も時刻表もなんの迷いもなく理解できた。アレが苦手だという人がいるのが不思議なくらいだった。

 親戚の家の最寄り駅である、京浜東北線の大井町駅を出ると、ものすごい音が耳に飛び込んできた。

 蝉の声である。

 こんなコンクリートだらけの都会の何処に蝉がいるのだろう、と不思議に思ったのだが、病院の脇の植え込みや街路樹などの少ない緑地に集中しているのだろうか。その姿は見えないが、たぶん近くに何十何百という蝉がいるであろうことは想像できるほどの大合唱だった。


 結局、故郷の地に帰ってくるまで蝉の姿そのものは一度も目にすることがなかったが、それをはっきり自覚したのは二戸駅に戻ってきてからだった。


 駅舎を出て、溢れる緑の景色にほっとする。

 そして深呼吸する……。

 あぁ~……田舎の空気だ。

 緑の匂いがする、マイナスイオンが大量に含まれている。

 やはり、私の肺を満たすのはこういう空気でなくちゃいけない。


 欲を言えばもっと排気ガス成分が少なくてもいいくらいだけれど、まあ東京の空気に比べれば……。いや、子供の頃に行った東京の空気はもっと臭かったような気がするが……、東京の空気もだいぶきれいになったのかな。なんて、そんな自分の「空気ソムリエ」ぶりを自分でツッコミながら、車に向かって歩を進める。


 と、あたしは……そこで少しぞっとしたのだ。


 蝉の声が、ほんの少しも聞こえないのである。

 こんな、あふれる緑に囲まれているのに……、あのうるさかった蝉の声が、ひとつも───。

 田舎って、蝉いないのか………?


 何年かおきに、大量に発生することはあるが、この山の中に住んでいると驚くほど蝉を見かけない。たまに飛んでいるのを見ることもあるが、それらは目で追っていると必ずと言っていいほど鳥に捕食されている。ばあちゃんがかわいそうだからと、逃がしてやった目の前でカラスに捕食されたこともあった。

「こんの畜生がぁー!!!」

 と、大声でカラスに怒鳴りつけていたのが鮮明に思い出されたほどだ。


 何が原因かわからないが、うちの田舎では蝉が少ない。

 あたしが気づいていないだけなら良いのだが、意識して耳を澄ませても蝉の声はほぼ聞こえない。春先や初夏にハルゼミやひぐらしの声はよく聞くが、あのうるさい蝉の声は聞こえないのだ。

 農薬のせいかな、なんて思ってみたこともある。東京は農薬なんか一切使わないだろうから、そういう意味では汚染が少ないのかも知れない。

 あるいは、兄が冗談めかして、

「ばあちゃんが食いすぎたんだろう」

 なんて、言ったこともあった。

 幼少期、食べるものの乏しかったばあちゃんの生家では、蝉は食べ物だったらしい。串に刺して味噌をつけてぱりぱりと焼いて食べるのだそうだが……流石に、あたしにもその経験はなかった。今では、寿命の短い生き物をわざわざ食って可哀想なことをしたものだと言っていた。


 蝉と言えば……私は小学生の頃一度だけ羽化するところを見たことがあった。

 夕方、山道を学校から帰ってきた時に、道端をちょこちょこと歩行する不思議な虫を発見したのだ。それは、普段なら抜け殻として木の枝などにくっついている、あの蝉の幼虫だった。の入った、生きたままの蝉の幼虫など、初めてのことだったので、嬉しくて服のお腹の部分にくっつけて家につれて帰ったのだった。

 それを見たじいちゃんが、家の後ろの栗の木の枝を鎌で一本切ってきて、それを小さく切り整えて……、大きな段ボール箱の中に突き立てて側面を切り開き、即席の観察箱を作ってくれた。

「枝にぶら下げとけ、今晩にもムスケルだろう」(むすける:南部弁で孵化するの意味)

 そう言ってから、あとは絶対に触ってはいけない、触ると水ぶくれみたいになって二度と飛べない蝉になってしまう、と教えてくれた。

 つまり……今思えば、じいちゃんは経験もあったのだろうな、と改めて思った。


 夜が苦手なあたしは、結局すぐに寝てしまって羽化する瞬間は見られなかったが、朝早く起きると……ほんの少し緑がかった真っ白な蝉の成虫が木の枝にぶら下がっているのを目の当たりにした。普段、黒々とした蝉しか見たことがなかったので、とても感動したのを思い出す。

 このまま、放っておけば夕方には飛べるようになるだろう、とじいちゃんが教えてくれたので、そのまま学校に行って……夕方、帰ってから再び観察することにした。

 小学校から帰ってくると、もう蝉は黒々とした姿になっていた。羽の端々に、少しまだ緑色っぽいところが残っていたが、もう……ほとんどいつも見るあの姿になっていた。


 そのあと、夜にじいちゃんと一緒に木の幹へ移してやって外界へ旅立たせた。

「飼うか?」

 外に逃がす前に、そう聞かれたが、蝉が命の短い生き物だということはよく知っていたので、そんな気は起こらなかった。

 

 …………………


 改めて、網戸にくっついていた蝉を手にとって見る。

「お、オスだな」

 腹の部分に、オス特有の鳴き声を出す器官が付いている。

「戻してやりんしゃい、すぐ死ぬ生き物なんだから」

 ばあちゃんが心配して、そんな事をいう。もちろん、邪険にするつもりもないので、また網戸に付けてやった。


 ────すぐ死ぬ、命の短い生き物。


 確かに、間違ってはいないだろうが……厳密には違う。

 子供の頃は、一週間の命。

 そう教わって、実際にすぐ死ぬところも見てきた。

 だが、最近ではもう少し長く生きるという事もわかってきた。


 そして、忘れてはいけないのが……。

 彼らは、土の中でもちゃんと生きているのだ。

 その期間は、2年ほどから最長で17年にもなるという。

 昆虫としては、法外に長生きとも言えるであろう。


 多くの人がそうであるように、彼らは成虫の時期しか生きているとみなされない。

 だが、実際は日の当たらないところでも彼らは命を燃やしているのである。


 目に見えるところしか、生きている存在を認識されない。

 それは、はたして正しいことなのだろうか───。


 その事に気づいた時、あたしは自分の浅はかさを恥じた。

 そして、まさに幼虫の時の蝉のような生き方をしている自分自身に……今は、決して恥じてはいない。

 注目されること、目立つこと、誰かに誉められること。

 人はそう云うものを求めてしまうものらしいが、そうじゃない人だって存在する。目に見えなくても、意識されることがなくても、彼らは今も生きている。

 成虫の時期しか、価値を見出されない……、そんな事があって良いはずがない。


 甘い感傷とともに、網戸をよじ登って空に飛び立っていった蝉を見送って、その大空を舞う姿に……なぜか泣きそうになりながら、せめて陽の下では幸多かれと、自分を重ねて……願わずにはいられなかった。

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蝉娘 天川 @amakawa808

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