第13話
「君のことを、彼女から頼まれた。君の父上は、色々事情があって、君と暮らすことはできないそうだ。お母さんの身内を探したが、見つからない。だから、俺がおまえを引き取る」
母の死後、俺を三年世話してくれた麻子は、俺と知毅に看取られて死んだ。保護者を失い呆然としていた俺の顔を、大きな体を屈めて覗きこみ、知毅はそう言った。
オヤジが俺を捨てた。そう聞いても、驚きはなかった。時々俺のもとに来て交流を持とうとはしていたが、結局母を捨てた男だ。母が死んでも俺を引き取らず、ずっと麻子に任せていた男を頼れるとは、九歳児でも思わない。だけどと、知毅の顔を睨み、俺は自分の境遇を検討した。
母も麻子も、もういない。オヤジは頼りにならない。まだ体も小さい。一人で生きていくためには、知らないことが多すぎる。誰かに頼らなければ、「孤児院」に放り込まれるだろう。本に出てくる孤児院は、たいていろくなところじゃない。飯も不味そうだし、窮屈そうだし、意地悪な奴がえばってる。目の前にいる男の手をとれば、そんなところにいかなくて済む。
麻子は知毅に惚れてた。母亡きあとのマドンナがはにかんで見つめる知毅を、当然俺は嫌っていた。引き取っていただかなく結構。そう言えれば良いのに。そう思った。
でも知毅は俺を助けてくれた。麻子が逝った前日、俺は知らない男に、連れ去られそうになった。当時近隣の村で、良く子供が誘拐されていた。その一味だったのかも。その時俺を探していた知毅が現れ、五人の男を蹴散らして、俺を守ってくれたというわけ。これで知毅への評価が急上昇したところだった。
俺を連れ去ろうとした男たちがまた来ても、こいつなら守ってくれそうだ。生まれ育った土地を離れるのは心細い気もしたが、そこを考えると、当時俺がいた国に残るより、知毅と日本に行く方が、安全にも思えた。
母の故国はぼんやり覚えているだけだったが、戻りたいような気もした。母とも麻子とも日本語で話していたから、みんなが日本語で話す環境に、心が惹かれた。
ほかに頼れそうな奴もいなかった。
「あんたと日本に行く」
迷いはあったが、仕方がないのでそう言った。
俺の髪の毛をくしゃりとかき回して、知毅は笑った。
「急で悪いが、明後日の飛行機で、日本に発つぞ」
この頃の知毅は髪型も服装もまともで、髭もなかった。あんたもそうだが、整いすぎた顔が、一寸威圧的に冷たく見えた。でもあんたも知毅も、笑い顔は温かい。その笑い顔が思いがけなくて、どきりとしたことを覚えてる。
麻子は医者だった。勤めていた病院で死んだ。彼女を慕う患者と同僚が、良く病室を覗いてたな。医者の不養生。倒れた時には、もう覚悟しなければならない状態だった。そう聞いている。
涙ぐんでる看護師に彼女の遺体を任せて、俺と知毅は病院を出た。大きな黒い車が迎えに来ていた。俺と知毅が後部座席に乗り込むと、運転手は静かに発車した。まずは麻子の部屋に、俺の荷物を取りにいった。
「麻子ははどうなるの?」
「もう少しすると、ご両親が日本からくる」
「麻子は親を嫌ってた」
「そうかもしれないが。葬式は身内の特権だ」
「俺たちの部屋も、麻子の親が片付けるんだな」
「部屋にあるものはみんな君のものだと、彼女は言ったが。鍵を渡した後で持ち出すのは、難しいかもしれないな。形見に欲しいものがあれば、今日貰っておけ」
こんな子供と、どう付き合ったら良いのか。知毅はそんな様子で、俺に話しかけてきた。言葉はぶっきら棒で、顔は仏頂面。俺も仏頂面で知毅に話しかけた。
「麻子はあんたが好きだった。あんたは?」
「病状が落ち着いたら、日本に戻りたいと言ってた。銀座の鮨屋に連れていく約束をしてた。約束が果たせなくて残念だ。良い女だった」
そう言った知毅の顔つきと声に思いやりを感じて、思わずじっと見た。
あんたみたいな美人じゃなかったけどさ。体も心も大きくて、頭が切れて、気風が良くて親切で。麻子はほんとに良い女だった。
母の友達で
悪いわね。もうちょっとあんたといたかったけど、だめみたい。でもどっかで見てるから。ちゃんとイカした大人になるのよ。最後に目を開けた時、俺にそう言った。今の俺を、彼女はどう思ってるかねぇ。
形見にもらったのは、トランクケースと腕時計。どっちも、俺の宝物だ。
俺の当時の持ち物はすべて、貰ったトランクに余裕でおさまったけど。まだ子猿の俺が運ぶには、手に余りそうな荷物だった。知毅の手がさっと持ち上げた時には、正直ほっとした。
知毅の目が俺の目を覗きこんだ。もう良いか。そう訊かれた気がした。三年間暮らした部屋をさっと見回して、俺は言った。
「行こうぜ」
しんみり名残を惜しむのは、趣味じゃない。
連れて行かれたのは、知毅が暮らしていた領事館。贅沢で快適な部屋に通された。シャワーを浴びて服を着替えると、それまで食べたことのないようなご馳走を、遅い昼食としてふるまわれた。
デザートのケーキをガツガツ食べているとき、「食いたいだけ食わせてやるから、落ち着いて食え」と言われた。顔を上げると、知毅の目が笑っていた。愛想はないが、こいつは女子供に甘い。九歳の俺は早くもそう看破していたので、遠慮なく言った。
「これもっと食いたい」
新たな保護者は忙しそうで、良く部屋からいなくなったが、知毅がいない時間は、感じの良い日本人のお姉さんが傍にいてくれた。誰にも何も強制されなかった。みんなひどく親切だった。
日本に発つまでの三日間、俺は周囲の様子を伺い、大人しくしていたが、二日目の就寝時間には、もう結構寛いでいた。
時々麻子を思い出しては、喪失感に襲われた。でも新たな保護者には興味津々。知毅が傍にいると、好奇心に哀しみが紛れた。
あの頃知毅は三十一になったばかりか。四十代の知毅が一番イカしてた。今の俺はそう思ってる。うん、あの頃が一番余裕があって、豊かだった。仏頂面も飄々としていて、渋いイロケに満ちていた。そう思わないか。
出会った頃の知毅は、目つきが鋭すぎて、まだ少しばかり貧相だ。でもまぁ、同年代のたいていの男より威風堂々と見えたし、切れるような二枚目ではあった。
麻子が逝くまではその輝かしいルックスも憎らしかったが、俺を助けた強さを思い出すと、ひどくイカした男に見えてきた。
「あんたってすげえ強いよな。なんか習ってるの。ジュードウか」
「柔道は習ってないな。長く師匠についたのは剣道と、沖縄空手、剛柔流拳法だ。あとは合気道を幼馴染から少し習った」
「俺、あんたにみんな習いたい」
「学校帰りに通えそうな道場を探そう」
「あんたに習いたい」
「俺はしばらく忙しい。教えている時間がない」
「あんたのおじさんとおばさんが俺のコセキ上の親になるけど、俺はあんたとくらす。そういっただろ」
「ああ」
「一緒にくらすならさ。休みの時とかに教えてよ」
日本に向かう飛行機のなかで、俺は知毅を、このことで口説き続けた。この時には、知毅は俺のヒーローになってたんだ。
なんでもできる龍の凄さには、日毎に感じ入った。龍は俺をすごく甘やかして、俺は龍に甘やかされることが気に入った。ひと月もしないうちに、俺は龍を追いかけまわす、甘ったれの崇拝者になった。でも俺の最初の
船ではじまった生活に、俺は大満足。龍とあんたと律さんと善さんがいれば安心で、龍と一緒にいればご機嫌だった。でも知毅が船に来るのを、毎日待っていた。
十三歳。肩に置かれた大きな手や、背後に感じる体の厚みにドキリとしたり、腰のラインを見てドギマギしはじめたのも、まずは知毅からだった。知毅とは稽古の時に、結構接近したしね。
一緒に暮らし始めた時には、龍も知毅もあんたも、俺の体の事情を承知していた。知毅はたぶん麻子から、俺の体の事情を聴いていた。あんたたちにも、情報を共有したんだろうな。
知毅も龍も、俺を男の子供として扱った。俺がそう望んでいたからだろう。でも異性の子供に対するときの配慮も、時々感じた。遠慮というか。いたわりというか。
小学校も高学年になると、龍からはそういうものを、いつも感じるようになったけど、知毅は俺を、ほとんど
小学校の俺は、外見も行動も、腕白な男子以外の何物でもなかった。龍は毎日一緒に暮らしていたから、俺の裸を見ないように配慮したりして、日々俺の事情を意識していたけど、知毅はそうじゃなかった。その差もあっただろうな。知毅は俺の体の事情を、一時すっかり忘れていた気がする。
小学生の頃は、俺はそんな知毅の態度が嬉しく、龍の配慮に戸惑いを感じた。俺がセックスを意識しはじめるまで、俺と知毅は遠慮なく取っ組みあっていた。
意識し始めてからは、俺は知毅との接触に緊張しはじめたんだけどさ。知毅は俺が告白するまで、平然と俺を組み敷き、押し倒していた。
最初に告白したのも知毅だった。
「好きなんだ」
畳の上に押し倒して唇を奪い、そう告白した。
この前、その時のことを夢に見た。固まっていた知毅の顔を、妙に鮮やかに思い出した。
ほんとうにそうだったかな。夢の知毅は、毬子さんと遊んでた。俺が知毅に飛びつくや、毬子さんは知毅から離れた。床の間で箱になって、俺たちのラブコメを見ていた。緑色の目がきらきら光ってた。
知毅は声を潜めて、強張った顔で俺に訊いた。
「俺がか?」
十四歳の八月。離の座敷。知毅は律さんが仕立てた、龍とおそろいの、藍色の浴衣を着ていた。俺は登校日で、中学校の夏の制服を着ていた。知毅の浴衣からは、上等な煙草とアラミスの匂いがした。あの二人のせいで、ちゃんとした大人の男はとても良い匂いがすると、俺は今でもそう思い込んでる。
「龍もあんたも!どっちも好きだ!」
俺がそう言うと、知毅は眉間に皺を刻んだ。
「食いたいと言ってたケーキを買ってきたぞ。冷たいコーヒーでもいれてもらおう」
俺を柔らかく押しのけて、素っ気なくそう言った。渾身の告白を交わされた気がして、俺は知毅を睨んだが、立ち上がった知毅は平然とした顔で言った。
「行くぞ」
わかってるよ。二人が好きだと言ったから、俺の告白は、子供の戯言ととられたんだ。そのせいで、何度告白しても、なかなか本気にとってもらえなかった。
薔薇と百合 黒澤 白 @hakusuineko
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