第12話
二人の女になる。そう決めたとき、目的への道が険しいことは覚悟した。
龍はあんたに惚れこむ、あんたの良き夫だった。知毅の気持ちも、もうわかっていた。龍とあんたを張り合う気はなさそうだったが、いつもあんたを見ていた。あんたへの気持ちを、あの頃はさすがに自覚していたはずだ。
そして俺はあんたを、こう思ってた。男として生きるなら、ああいう女と結婚したい。
俺の思いをあんたに黙っているのは嫌だった。あんたへの宣戦布告は、二人に告白する前にした。
「俺、二人が好きなんだ」
俺よりまだ大きかったあんたを見上げて、俺はそう言った。
あんたは居間で本を選んでいた。肩には毬子さんが乗っていた。いきなり近づいてきた俺に戸惑っていたけど、あっさりと言った。
「知ってる」
俺はムッとして、胸をはった。
「俺は二人の女になる」
肩の上の毬子さんが、尻尾を揺らした。あんたは目を見開いて、そして笑った。
女の笑いには、たいてい媚態か気取りか遠慮が見える。そこが可愛いわけだけど、あんたの笑いには、そのどれもない。どう見られるかなんてまるで気にせず、白い歯を綺麗に見せて笑う。実に晴やかで艶やかで、可愛くない。俺はあんたの笑い声と笑顔が大好きだけど、この時は腹立たしかった。馬鹿にされたような気がしたんだ。
「俺は本気だ!ほんとに女になるぞ」
「まぁ。がんばれ」
あんたは、俺の頭を優しく小突いた。肩から下りたそうな毬子さんを腕に抱いて、居間から去った。俺は手近の本棚から数冊の本をとって、床に叩きつけた。
この日あんたは俺の敵になった。もうあんたに稽古をつけてもらわない。あんたに纏わりつかない。用事がある時しか話しかけない。そう決めた。
睨みつける俺を、あんたは面白そうに見ていた。顔を顰めることもなく、俺に冷たい態度をとるなんてことはなかった。俺のことで、龍と言い争う様子もなかった。
当時を思い出すと、あんたの寛大さに感心する。でもまぁ、俺が子供すぎて、恋敵とは思えなかったんだろ。それにあんたはあの二人同様、ええかっこしいだからな。天涯孤独の孤児をいじめるなんて無様はしたくないよな。
龍と知毅に思われている状態が、この頃はもう、面倒になってきていた。そんな時期でもあった。
二人が俺のような子供を相手にするとは思えなかったが、俺が暴れれば、二人の気が、あんたからそれるかもしれない。そんな期待も、あったんじゃないか。
三年後の春、あんたは龍と離婚して、船を出て行った。
あんたが船を出た翌年の二月。龍も知毅もいない。船にいるのは善さんと律さんと、あんたと俺。そんな夜は、あの時がはじめてだった。
あんたはあの夜食堂で、なんだか残念そうに呟いた。
「おまえはずっと、二人が好きだって言ってたけど。リューチンに決めたんだな」
どんな顔をしていたかは覚えていない。下を向いて、膝の上の毬子さんを見ていた気がする。
俺は少し声を荒げた。
「知毅は俺と婚約したのに。婚約して三ヶ月も経たないうちに、あんたに惚れてるって、そう告白してきたんだぞ」
暖炉の前で俺たちを見守っていたスフィンクスの公爵が、俺に注目した。
あんたは動じず、ブランデーを飲んだ。穏やかに言った。
「おまえが婚約を解消しなきゃ、おまえと結婚した」
「そんなことわかってる」
「おまえと結婚すれば、おまえの良い夫になろうと努力したと思うぞ」
「でもきっと。あんたのことを一生思ってる」
そんなのは嫌だった。だから婚約を解消した。
公爵が立ち上がり、あんたの足元に落ち着いた。あんたは公爵の首筋を撫ぜた。
「どうかな」
あんたたちの親密な様子が気に障って、俺は言った
「それがあんたの希望だったのか」
「希望?」
「俺が知毅と結婚して、あんたは知毅の永遠の思い人で、龍とも別れない」
「離婚を言い出したのはリューチンで、言われたときには俺も騒いだが。リューチンが言い出さなくても、俺は去年、この家を出たな」
「龍のこともこの家も、あんた今でも好きだろ」
「さっきも言った。俺はもうどっちとも友達でいい。だいぶ前からそう思ってた」
「俺は。俺のほうこそ、あんたが羨ましい。どっちにも思われて」
「二人の女になりたい。おまえにそう言われたときは、そう来たかと驚いたな。二人にもそう言ったと聞いた時は、かなり感心した」
「あんたあの時、笑ったよな。俺なんか、どっちも相手にしない。あんた、そう思ってるんだろ」
「あの時はあんまり驚いて、それで笑ったんだ」
「あんただって、二人とも好きじゃないか」
「ああ。でも二人と付き合うなんて、俺には思いつかなかった」
「二人とも好きなら、そうするしかないじゃないか」
「俺には無理だが。おまえならいけるかもって、ちょっと期待してた。でもリューチンに決めちゃったんだな」
からかわれてる。そう思って、俺は唸った。
「あんたも俺のこと、子供だと思ってる。あの二人と同じだ」
あんたは微笑んだ。
「もう子供には見えない。成長期だな。半年くらい会わなかっただけなのに。見違えた。背も随分伸びた」
「もうあんたとそう変わらない」
「本格的に、女になる気みたいだ」
「女になる。ずっとそう言ってるだろ。手術もさっさと終わらせたいんだけど。龍も知毅も、良い顔をしないんだ」
「おまえは結構良い男になると思うけど」
「俺は女になるんだよ」
「面白い美人ができあがりそうだ」
たぶん知毅が買ってきたチョコレートケーキを、口いっぱいに頬張って、俺はあんたの顔を睨んだ。
俺って女としてもイケてるかも。そう思い始めていたけど、目の前にあんたがいると、自分が女になれるとは思えなかった。カッコ良すぎて綺麗すぎて。あんたはどう見ても、俺が適う相手じゃなかった。
あの頃あんたは三十代後半か。写真でしか知らない十代のあんたよりも、あの頃のあんたのほうが艶やかだったな。そんなあんたを見ていて、あの時ふと思った。
龍は知毅が大事で、あんたが信乃みたいに逃げだしそうだから、あんたと別れた。でもあんたと知毅の仲が落ち着かないうちは、再婚しないんじゃないかってね。
翌朝は日曜日で、授業もない。朝食を食べてあんたが帰ると、船中ぐるぐる歩きながら、俺は考えた。
(俺と結婚するつもりはあるか。その気がないなら、俺と付き合うのは諦めろ)
知毅の
俺と付き合う気になったら、龍は同じことを言うだろう。どっちも俺に保護者の責任を感じている。龍の女になるにも、結婚するしかない。俺はそう予測していいた。
でも知毅とあんたがまとまらないかぎり、龍は再婚しないかもしれない。検討するほど、そう思えてきた。
となれば、あんたと知毅がまとまらないかぎり、俺と龍の関係は変わらないかもしれない。
俺はあんたと知毅の仲を後押しするしかないのか。そう考えた時、善さんの声が聴こえた。
「どうかなさいましたか」
俺が家の中を歩き回りながら考え事をするのは、よくあることだ。あの時の俺の形相が、気になったのかな。
「どうもしないよ。なんで?」
すれ違った善さんを振り返り、そう答えると、階段を駆け下りて食堂に向かった。
食堂の入り口で、もやもやする思いを解消したくなって、思わず拳を握りしめたが、ここでは律さんの声に止められた。
「いかがなさいました?」
律さんはいつの間にか俺の後ろにいた。その鋭い目は、俺にこう訊ねていた。今何をなさるおつもりでしたか。
「どうもしないよ。なんで?」
逃げるように小走りに階段を上がって自分の部屋に戻り、コートを掴んでまた階段を下りて、玄関を出た。
玄関先のポーチでは、公爵が龍を待っていた。街を歩きながら考え事をするつもりだったけど、俺は思わずしゃがんで、公爵に言った。
「龍はまだ当分戻らない。待つなら中で待てよ」
公爵は礼儀正しく俺を見たが、門から玄関に続く道へと、すぐにまた顔を向けた。
俺も公爵の隣に腰を下ろして、公爵を抱き寄せ、龍を求めてその道を見つめた。
知毅が誰かの手をとるのは、許せない気がした。そんな自分の気持ちが厭わしかった。
龍がいないことが淋しく、恨めしかった。龍が傍にいれば、龍を落とすことで頭がいっぱいになる。あんたと知毅のことも、あっさり応援する気になったかもしれない。そんな気もした。
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