第11話

 知毅、龍、そしてあんた。あんたたち三人の印象は、それぞれかなり強烈だった。

「彼女は俺の配偶者で、この家の女主おんなあるじだ」

 龍に船に連れてこられた日。あんたは船にいて、玄関で俺を迎えてくれた。

「つまり、あんたの奥さん?」

 俺の目線に降りてきた、あんたの顔にどきりとした。俺の母親はナッチに似てる。小さく均整がとれた、ミツバチみたいな体。濡れて輝く黒髪に、黒曜石の瞳。冷たく甘い、豪華な顔立ち。そんな母親を見ていた俺は、並の美人には動じない。でもあんたには感心した。

「宗形一凛だ。よろしく。怜於」 

 低く掠れた声が、懐かしい母の声を思い出させた。

 俺はあんたの右手に、思わず触ってしまった。あんたはにこりとして、俺の手を両手で握ってくれた。

 力強くて、しなやかで、堅い。九歳の俺が知る、男の手じゃない。でも女の手でもない。

 俺はあんたの顔を、まじまじと見た。華やかで綺麗で、男の顔には見えない。でも猛々しすぎて、俺が知っていた女たちの顔とは、質が違う。

 立ち上がったあんたは、龍よりは小さかったけど、女にしては、やけに大きく見えた。でも二月の寒い日で、厚手のセーターを着ていたのに、あまり膨らんで見えない。長い脚にジーンズが決まっていて、実に颯爽としていた。

 良い女だ。でもこんな女ははじめて見る。

 これがあんたの第一印象だ。新種の薔薇を発見した気分だった。

 はじめて成田空港を見たあの日。俺はもう、知毅は師匠と決めていた。日本では、師匠にへばりつくつもりだった。なのに着いたらすぐに、師匠は俺を、龍に預けた。俺は仕方なく龍に連れられ、船を訪れた。その道中では、ずっと不貞腐れていた。だけどあの門をくぐり、庭を見て、船を見た。そしてあんたに会った。あんたを見たときには、一気に気分が浮上した。

 知毅に出会うまで、俺を守ってくれたのは女ばかり。最初の女、俺の母親は豪華な薔薇だった。俺は女の傍にいると、安心する。薔薇を眺めていると、幸福を感じるんだ。


 龍は俺を、いつ引きとる気になったのかねぇ。あの日船にはもう、俺の部屋が用意されていた。

「ここが君の部屋だ」

 俺を迎えるべく、ストーブで温められていた部屋の広さは、三日前までの俺の部屋の、四倍はあった。上等なペルシアの絨毯。上等な深い緑のカーテン。大きな窓。壁一面の大きな本棚。大きなベッド。一枚板の大きな学習机と、カーテンと色を揃えた椅子。窓の外には、窓から飛び移って降りていけそうな、樫の大木。俺は自分の部屋が、一目で気に入った。

「オレの?オレがここに来たときの部屋?」

「気に入ったか」

 龍は俺を抱き上げた。知毅に紹介された時も、あいつは俺をいきなり抱き上げた。その時は、思い切り蹴飛ばしてやった。見ず知らずの野郎に抱き上げられるなんて冗談じゃない。でもこの時は暴れなかった。

 半日程度の付き合いで。こいつは信用して良い。なんとなくそう感じていた。師匠の弟に乱暴なことはすべきじゃない。そう思った。でもそんなことをする龍を、少しばかり気味悪く感じていた。あんたに見られているのが恥ずかしかったから、顔を顰めて言った。

「おろせよ」 

 足が床に着くや、龍の腕から逃げるように、俺はあんたに駆け寄った。

 あんたは正装をするときじゃなきゃ、本格的な化粧をしない。ふだんは口紅をひくくらいだ。でも香水はいつもつけてる。俺が一番懐かしいのは、ロード・トゥ・イッセイだけど。あの頃はまだ発売されてない。あの頃はラルフ・ローレンの、男もののコロンをつけてた。あれも好きだったな。

「君が日本に来るのを、あいつはずっと待ってた。あの男は子供好きなのに、身内には今子供が一人しかいなくて、なかなか一緒に遊べないんだ。今日は遊んでやってくれ」

 あんたの言葉に、俺は龍を見上げた。

 少し離れても、大きさに圧倒された。この男も、凄く強いかも。そう感じた。でも俺を見る目が、深く優しかった。その肌からは不思議な匂いがした。良い匂いだが、あんたや母がつけていた香水とは少し違う。

 ヘンな奴。声を出さずにそう呟いて、俺は龍に言った。 

「あんた、子供が好きなヘンタイなのか」

「子供好きはヘンタイか」

「マークはそう言ってた」

 龍は考え込み、あんたはケラケラ笑っていた。


 あんたと龍が用意してくれた部屋が、俺は気に入った。でもあの日、風呂をすませてパジャマに着替え、自分の部屋に連れて行かれたときには、あの部屋の広さに怖気づいた。窓の外は暗くて、静かすぎるように感じた。

 俺をベッドに落ち着かせると、龍と公爵は俺から離れた。電気のスイッチに手をかけて、龍は言った。

「お休み」

 俺はベッドから飛び出して走り寄った。

 龍は俺を抱き上げ、いたずらな目で言った。

「今日は広い畳の部屋で、みんなで寝ようか」

 あんたの部屋の扉を、二人で叩いた。扉を開けたあんたの腕のなかには、毬子さんがいた。ついてこようとする善さんと律さんを、龍が止めた。

「時間外労働はだめだ。俺、そう言いましたよね」

 三人と二匹で、離に移った。三人で布団を敷いて、あんたと龍の間に丸まった。足元には公爵がいて。龍に寄り添う毬子さんに、触ることもできた。

 猫とも犬とも、お近づきになりたいと、ずっとそう思っていた。念願叶った嬉しさに、毬子さんに触れば、毬子さんは俺をちらりと見て、嫌そうに体をよじった。その柔らかい拒否さえ嬉しくて、俺はぐふふと笑った。

 居心地が良い家だ。そう思った。俺は人見知りの烈しい子供だったから、会ったばかりのあんたたちの間で、ひどく安心している自分を、不思議に思った。不思議に思いながら、いつの間にか眠りこんだ。

 起きた時はまだ、あんたも龍も眠っていた。俺はそっと布団を抜け出して、便所をすませると、庭に出てみた。

 二月の、寒い、よく晴れた朝だった。庭はしんと静かで、木の匂いがして、土の匂いがした。古風で豪華な船のような母屋を見上げたとき、鳥の鳴き声が聞こえてきた。母屋は朝靄のなかで輝いていた。誰かに祝福されたような気分になった。

 いつの間にか俺に近づいてきた龍が、俺にコート着せてくれた。

「パジャマ一枚とサンダルで歩く気温じゃない」

 俺は龍を見上げて言った。

「この家、いいな」

 目を細めて、龍が言った。

「ここで暮らさないか」

 ここで暮らしたい。俺はそう思った。


「あんたは忙しすぎる。この子は俺が預かりたい」

 船の居間で、龍にそう言われたとき、知毅はあんたと龍の顔を見比べた。予想していた提案だが、さてどうしようか。そんな顔だった。

「俺たちに預けるのは不安か」

 龍にそう訊かれると、苦笑した。

「バカ言え。俺の部屋よりここに置いておくほうが、ずっと安心だ」

 あんたが俺を見て言った。

「この子はここが気に入ったみたいだ」

 俺は恐る恐る知毅に言った。

「オレ、ここで暮らしたい」

 知毅は俺と龍を見て、あんたを見た。

 当時の知毅が子供の世話をするには、人を雇うか、誰かに頼むしかなかっただろう。知毅はたぶん、人を雇うつもりだった。だからありがたい提案だったはずだ。

 龍は子供が好きで、俺を手元に置きたいと、本気でそう思っていた。知毅は龍に貢ぐのが好きだった。

 君は拾ったものをみんな龍明に押し付ける。先生は知毅を、そう揶揄っていた。本気でそういうことを言う奴も、結構いたけど。あの動物たちも、知毅の龍への贈り物だった。

 俺を預けることへの気兼ねは、あんたに対するものだったのかな。

 知毅はあんたに言った。

「良いのか」

 あんたは龍と顔を見合せて微笑んだ。知毅にこう答えた。

「この家は、客がいないとき、結構淋しい。家族が増えないかなって、そう思ってたところだ」

 龍は知毅に言った。

「あんたももっと、ここに帰ってくるべきだぞ。兄さん」

 知毅は嬉しそうに、仲睦まじげなあんたたちを見比べた。照れ臭そうな顔で言った。

「こいつを預けたら、そうしないわけにはいかないな」 

 ここで暮らすことを、師匠は許してくれた。俺はそう見てとり、知毅の傍に飛んでいった。その右手を、両手でがっしと掴み、喜色満面で言った。

「オレはここで暮らして!あんたに拳法を習う!」

 知毅はあんたを見て、俺に言った。

「あそこにいるのは、俺の弟子で、剣道仲間で、合気道の師匠だ。ここにいるなら、とりあえずチカに教えてもらえ」

 俺は驚いて、知毅に訴えた。

「女なんてダメだ」

 知毅は俺を無視して、あんたに言った。

「頼むぞ」

「俺はあんたに習う。女じゃだめだ」

 あんたはいつの間に立ちあがり、抗議の声を上げる俺の後ろに来ていた。気づいたときには、俺はあんたの腕のなかで、身動きがとれなくなっていた。俺は口をあんぐり上げて、あんたを見上げた。

 あんたは知毅に言った。

「稽古代は貰うぞ」

 龍が言った。

「教えるのは、その人の方が上手いぞ」

 知毅は笑った。

「まずはチカに基礎を習え。俺も時々教えてやる」

 あんたは俺に言った。

 「習う気になったら、そう言え」

 翌朝、あんたは庭で体をほぐしていた。その様子を見ていて、あんたが相当にやることは、なんとなくわかった。それで俺はとりあえず、あんたに教わることにした。 稽古の初日に軽くあしらわれて、あんたの強さを渋々認めた。合気道と剣道は、あんたに憧れて、道場に通いはじめた。

 俺は苦労した子供だったから、自分の生活に影響を与える大人の様子を、ついつい眺めてしまう。

 あんたと龍は上等なカップル。知毅と龍は、結びつきの強い兄弟。あんたと知毅も、身内かもしれない。知毅があんたに気を遣っている様子と、龍にはやけに甘いことに、不思議を感じた。これがあんたたちの関係の、最初の印象。

 あの頃の知毅には、ガールフレンドがいたよな。あんたへの気持ちは、まだ自覚していなかった気がする。

  

 船に落ち着くことが決まったあの晩は、知毅と龍と俺の、三人で眠った。公爵は一緒だったけど。毬子さんはあんたのところにいた。

「一凛と毬子さんは?」

 物足りない思いで、俺は龍にそう聞いた。

 知毅が俺を見て、龍に言った。

「俺がいる時は、俺がこいつと寝る」

 龍は知毅に言った。

「あんたと寝るのは久しぶりだな」

 知毅が笑った。

「香港以来か」

 俺は驚いた。

「あんたたち男同士のくせに、一緒に寝るのかよ」

「兄弟だからな」と、知毅が俺の頭を押さえつけた。

 龍が声を潜めて、俺に教えた。

「違う世界では、俺たちは夫婦なんだ」

「なにそれ」

 俺はあの晩、興味津々、知毅の夢の話を聞いたっけ。あんたの居ないことを淋しく思いながら、知毅と龍の話を子守歌にして、二人の間で眠りについた。

 あの日までの生活は流転変転。とんでもない目にもあった。あの日から小学校を出るまでの、三年ちょいの生活。あんたと知毅。二人の師匠と龍。三人に守られた子供時代は、俺の黄金時代だった。

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