第10話

 ついさっきまで、俺は十六歳だった。

 船の食堂にいた。向かいあっていたのは、あんたと知毅。知毅はあんたから、少し離れた席にいた。十人でゆったり食事ができる食卓中央に、俺を頂点とした三角形ができあがっていた。

 一月の終わりで、寒い日だった。暖炉のなかでは、ガスストーブが燃えていた。

暖炉の前のラグに鎮座ます毬子さんが、俺たちを眺めて、いたずらにシッポをくるくるさせていた。その傍の床には、スフィンクスの威厳を見せる公爵がいて、俺たちの喜劇を眺めていた。

 あの日龍は、船の主は、海の向こうにいた。


 俺があんたに、映画と食事をご馳走になったのは、たしかこの日の十日前だ。

 知毅と龍の『女』になる。十三歳でそう決めた時、二人に思われるあんたは、俺の強敵になった。俺はあんたの顔と強さに憧れていた。あんたに可愛がってもらえることが嬉しかったけど。あんたという存在を、邪魔に思い始めた。

 十六歳になった四月。知毅とはやっと婚約にこぎつけた。でも三ヶ月も経たないうちに、俺は知毅に告白される。あんたに惚れている。龍と結婚しているから、諦めるつもりだった。だけど龍はあんたと別れるつもりらしい。龍以外の男にあんたを盗られることは、我慢できそうにない。そんな告白だった。

 俺は知毅の告白に怒り、あんたという存在を憎んだけど。でもあの時、申し訳ないような気もした。

 俺が船に乗り込んだ時、龍はもうあんたと結婚していた。それぞれ好き勝手やってたけど、かなり仲の良い夫婦だった。あんたは龍にも惚れていた。

 俺は中二の頃から、知毅と龍を追いかけまわしはじめた。あんたはそんな俺を面白そうに眺めていた。そんなあんたに腹を立てていたから、いつも睨みつけていたし、何度も突っかかった。あんたと龍の離婚の原因は、知毅に思えたけど。いくらかの責任を感じないでもなかった。

 龍にも知毅にも思われて、あんたはずっと困っていたよな。俺はそんなあんたの立場を羨望して、猛烈に焼いていたけど、でもあんたの気持ちが、わからないでもなかった。 

 あんたが船を出たときは、強敵が去ったことを喜んだ。だけど日が経つにつれて、あんたが俺を可愛がってくれた記憶を色々と思い出して、あんたを案じる気持ちのほうが、強くなってきた。

 電話で映画に誘われたときには、あんたが船から去って、半年以上が過ぎていた。あんたが船にいないことを、俺は淋しく感じていた。龍が船に居なかったあの時は、特にね。

 あんたの声を電話で聞いた時は、そんな気持ちが通じたみたいで、どきりとした。待ち合わせた場所で、久し振りに顔を見たときには、胸が高鳴った。俺はやっぱりこの顔が好きだと感じいった。


 あの日は、俺があんたを、船に招いた。他方知毅は、招かざる客だった。 

 龍が俺を置き去りにした三日後。知毅は突然船にやってきた。俺と一緒に夕食をとり、いつも使う部屋に泊まり、俺と一緒に朝食をとって、俺の授業中に去った。夕食の席ではその存在を黙殺したが、朝食の席で、俺は知毅に言った。

「今この家には俺しかいない。あんたがどうして平気でここに来れるのか。俺は理解に苦しむね」

 いつもの偉そうな仏頂面で、知毅は言った。

「龍に留守中のことを頼まれた。あいつが戻るまで、時々寄らせてもらう」

「何しにくるんだよ」

「頼まれた以上、時々無事を確かめないとな」

「龍がいなくても、善さんと律さんはちゃんと働いてる」

「そんなことは心配してない」

「二人がいれば、俺の生活に不自由はない」

龍明たつあきら様のご旅行中は、知毅様がいらして、ご指示をくださるのです。昔からのことで。大変ありがたく思っております」

 善さんに穏やかにそう言われては、俺は口を噤んだ。でも腹立たしさに、知毅の顔を睨みつけた。

 あの日知毅が食堂に現れたときは、思わず舌打ちが出て、あんたを苦笑させた。

 龍が招いた男。善さんと律さんが喜んで迎え入れる、龍の身内。自分に追い返す権利があるとは思えなかった。その訪問を受け入れるしかなかったけど。あんたとの夕食を、邪魔されたような気がした。


 あんたがどんな顔で、知毅を迎えるのか。あんたを見て、知毅がどんな顔をするのか。あんたたちの関係がどんなことになっていたのか。興味はあったけどね。

 知毅はあんたを見て、食堂の入り口で立ち止まった。サングラスと髭に隠されて、その表情は読みがたかった。

 あんたは知毅を見ても驚かなかった。目元で笑って、知毅に言った。

「怜於に招待してもらった」

 俺は言った。

「俺が招待したのは、チカだけだぞ」

 あんたから微妙に距離をおいた席に、善さんは知毅を誘導した。

 知毅とあんたは、龍とは子供の頃からの付き合いだ。善さんと律さんは、あんたたち三人をずっと見ていた。俺はあの時、ふとそのことに思いいたった。

 あんたは知毅に言った。

「リューチンに留守を頼まれたんだろ」

 知毅はあんたを見て、「ああ」とだけ答えた。サングラスを外して、スーツのポケットにしまいこんでから、通された席に腰を下ろした。

 俺はあんたに訊ねた。

「龍が留守のとき、様子を見に来るのは、昔からのことだってね。一凛が一人のときも、この人来たわけ」

 あんたは言った

「リューチンがいないのに、俺がここにいるってことは、一度もなかったからなぁ」

 さてあの日は何を食べたんだっけ。あんたが来ることは、前日に伝えておいた。だからメインは、上等の肉だったはず。

 直火で焼き上げて、ワサビと上等な塩で食べる奴かな。美味い生牡蠣。ジャガイモのグラタン。菊の花と大根おろしとポン酢で合えた、根菜の蒸したもの。締めは赤だしと飯と香の物。そんなところか。

 あんたの好物が並んでいたはずだ。律さんはあんたのファンだった。龍の奥方としては、あんたに不満があったみたいだけどさ。

 そうそう。足元に寄ってきた毬子さんに、あんたは肉を一口やったんだ。毬子さんを抱き上げ、食堂から追い払おうとした善さんを止めて、あんたは言った。

「久しぶりなんだ。みんなの顔をじっくり拝ませてくれ」

 知毅もあんたも平然としていたけど。楽しい会食ではなかったよな。

 俺はあんたたちの様子を観察していた。知毅を無視して、あんたにばかり話しかけた。そんな俺を間に挟んで、あんたも知毅も、口数が少なかった。

 久し振りに会うようだ。あんたたちの様子からそう感じた。

 知毅があんたに振られたことは、薫から聞いていた。そう聞いた時はほっとした。この時もほっとした。あんたへの罪悪感と喜びを感じた。

 許さないと怒りながら、知毅にツンケンしながら、俺のなかには、知毅を慕う気持ち、知毅に思われるあんたを羨む気持ちが、まだたっぷり残っていた。


 知毅は夕食が終わると帰った。泊ることになっていたあんたは、食堂に残った。知毅の車が遠ざかる音が聞こえたとき、あんたは呟いた。

「今から目黒まで戻ったら、到着は夜中になるな」

 批難を感じて、俺は嘯いた。《うそぶいた》

「泊っていけばいいのにな」

 毬子さんがあんたの膝に飛び乗った。具合よく座らせてやると、あんたは言った。

「おまえが止めなきゃ帰るさ」

 俺は苛立ち、少し声を上げた。

「この前来た時も、その前も。勧めなくても、泊っていった。今日は用事があるんだろ」

 ふうんという顔で、あんたは言った。

「リューチンが出発してから、来るのは今日で三度目か」

 善さんが飲み物を運んできた

 あんたのブランデー。俺の紅茶。飲み物と一緒に、見慣れたチョコレートケーキと焼き菓子が数種類出てきた。あの頃、あの家で出される市販の菓子は、みんな手土産だった。俺は聞いた。

「あんたのおみやげ?」

「ケーキは違う。それ、おまえ、好きだよな」

「ウエストも好きだよ」


 食堂に二人と二匹。

 あの晩はじめて、俺はあんたに真っ向から尋ねた。あんたたち三人のことを。あんたは俺のどんな質問にも、淡々と答えた。 

「龍から聞いた。チカはずっと知毅が好きで。でも知毅に振られたから、龍と結婚したんだって」

「ちょっと違う」

「違う?」

「俺はリューチンのことも、子供の頃から好きだった。ただ」

「ただ?」

「俺は将来、トモ兄と結婚する。トモ兄に振られるまで、俺はそう思い込んでいた」

「いつから?」

「いつからかな。小学校高学年の頃には、その気になっていた気がするけど」

「その年で結婚なんて、普通考えるか」

「大人になったら、オレの嫁になるか。小学校三年の正月だったな。あっちにそう言われた。たぶんあれが原因だ」

「アンタが小三なら、知毅は五年か」

「向こうはすっかり忘れてる」

「なのに、あいつ、あんたを振ったのか」

「まだ何もわかってない子供が、思いつきで軽く言ったんだろ。で、子供の俺は、トモ兄なら良いかって、軽く思っちまって。勝手に結婚を約束しているような気になったわけだ」

「龍と会ったのは幾つのときだ」

「小学校四年の夏休み。トモ兄が、うちの道場にあいつを連れてきたんだ。今や恐竜みたいだが。あいつは俺よりチビだった」

「へぇ」

「でももう大人の目をしてた。色々知ってて。礼儀正しいけど、エラそうだった」

「小四。十歳で?」

「ヘンな奴。そう思った。トモ兄にチヤホヤされてて、ムカついた。でも別れ際には。あいつと一緒にいるのは悪くない。そう感じてた。あいつといると、自分が良いもののように思えた」

 

 おかしな気分だった。龍と別れて、あんたが船を出たことを、あんたに申し訳なく感じていた。だけど相変わらず二人に思われてるあんたが、憎らしいことに変わりはなかった。でも二人のことをあんたと話してると、あんたに特別な絆を感じた。

「俺、時々龍のアルバムを見るんだ。十代の知毅って、なんかそのへんの俳優よりきらきらしてるよな」

「おまえと会った頃はまだ警察官だったな。まだ髭をはやしてなかった」

「十代の頃よりは、もうかなりモサっとしてたけど。かなりの男前だった」

「学生時代は、ムカつくくらい女が群がってた」

「今の方が良いよ」

「昔よりリラックスして見える。顔を隠してむさくるしくしてると、落ち着くみたいだ」

「自分のルックスを自慢に思ってるハンサムって、かなり笑える。あの男にはまぁ、そういうカッコ悪さはないよな」

「ないな」

「でも龍の方が、カッコ良いゾ」

「そうか」

「はじめて会ったとき、良い男だなぁって、やっぱりびっくりした。大きくて、なんか特別な感じがして。良い匂いがしてさ」

 二人のことを話していると、あんたの鋭い目元が和らいで、顔つきがどんどん優しくなった。

 その変化に気づいたとき、俺はあんたに言った。

「あんたも、二人とも好きだよな」

 あんたは言った。

「俺はもう、どっちとも友達でいい」

 知毅はあんたを欲しがってる。龍はあんたと別れたけど。あんたが知毅を選ばなきゃ。どうなるかわからない。俺は口の中でそう呟いた。龍に置いて行かれたことも、あんたのせいのように思えてきて、一瞬あんたを、ひどく憎らしく感じた。

 あんたはブランデーを飲んで、ぼそりと言った。

「俺はおまえが羨ましい」

 俺は思わず声を上げた。

「あんたは龍と結婚したし。今は知毅にも思われてるじゃないか」

 あんたは笑った。

「俺も二人の子供になりたかった」

 僕は君が羨ましい。

 先生も俺に、そう言ったことがある。

 阿門と燈をかまう二人を見ていた時、俺も同じように思った。だから今はあんたたちの気持ちが、なんとなくわかる。でもあの時の俺は、猛烈に納得のいかない気分だった。


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