第9話
2008年、一月。宗形薫から蓮實一天へ。
年寄らしく昔話がしたくなったので、あなたにメールを書くことにしました。
1985年、一月の今日。
私と龍くんは、ブライトンの海岸を歩いていた。
怜於が私に、ブーブー言ったあの旅行中のことです。
彼が海を見たいというので、車を借りて、ロンドンからブライトンに出かけたんだ。
私のご夫君は、気にかかることができたようで、私たちに同行せず、ロンドンのホテルの前で、私たちを見送った。
この日も私たちは、いろんな話をした。私が運転する、ブライトンに向かう車のなかで。ブライトンの街を歩いているときにも。
海岸を歩きはじめたとき、ほとんど同時に質問をしました。
「どうしてあなたは、怜於から逃げてるの?」
「君は、タカさんと彼女の婚約について、何を心配してるんだろう」
そして、お互いの顔を見て笑った。
彼はあの水晶の目を、いたずらに輝かせて言った。
「どちらから答える?」
私は言った。
「姉のようにも恋人のようにも思える、大好きな友だちの婚約者が。男の恋人を紹介されたことはあっても、女の恋人を紹介されたことは一度もなく、女と付き合ってる気配を、一度も感じたこともない男。あなたはあの二人のこれからについて、考えることはないわけ?」
「考えること?」
「知毅さんは一天さんを、基本は自分と同じ男だと思ってるみたいだけど。あなたもそうなのかな?」
「あの二人のことで。知毅に手紙を書いたの?」
「それ、彼に聞いたの?」
「昨日、電話で話した」
「昨日お返事が届いた。毛筆じゃなくても凄い達筆」
「知毅の字は綺麗だよね。はじめて巻紙の手紙を貰ったときは、胸が高鳴った」
「見せないわよ。はじめてもらった手紙だし」
「仕方ないね。どんなことが書いてあったの?」
「あの人って野蛮に見せてるけど、根っこは良家のご子息。昔、一天さんがそう言ってたことを思い出した」
「烈しいが堅実でもあり。均整のとれた人格が、折り目正しい字にも出てる」
「あなたの字は大らかすぎるし。一天さんの字は、はっきり言って悪筆」
「味があって、良い字だよ」
「折り目正しく見えて。偏屈で奔放不羈な人柄が、良く伺える字だわ」
「言うね」
「彼は私の友達だけど。大切な人の男として見ると心配」
「タカさんは
「あれは加耶子さんと
「俺は加耶子さんが二股をかけてるのかと思ってた」
「瞳子ちゃんと加耶子様にとって、一天さんは一番信頼できる男友達で、寝室の遊び仲間ってところじゃないかな。彼がシノコと付き合い始めてからは、そういう付き合いはないみたい。加耶子さんにとって彼は、女について色々教えた、可愛い愛弟子ってところもあるかも」
「タカさんが香港に駐在してた頃、マギー・チャンに似たガールフレンドを紹介されたよ」
「へぇ。でもその人も、あなたが思うようなガールフレンドじゃないかも」
「・・・・」
「恋愛に関してはとくに、偏屈で奔放な人だと思う」
「遊び人なのは知ってるけど。偏屈ね。そこが心配?」
「彼女は彼にとってあなた方の一部で、だから彼女を大切に思っている。私にはそんなふうに見えるんだなぁ」
時間ともに、記憶は曖昧になり、消えていく。でもあの頃彼と交わした言葉は、思い出そうと思えば、まだはっきり思い出せるの。ところどころは、私の脳が創りあげた記憶かもしれないけど。
「男同士には、女を共有するって形の、恋があるじゃない?」
「あるね」
「あなたがシノコを好きになったのはどうして?」
「彼女はすてきな人だって、君もそう思ってるだろ」
「チカと知毅さんは幼馴染。昔は彼、チカを女として意識してはいなかったけど。でもあなたと同じくらい、彼女のことも可愛がってた。あなたがチカに惹かれたのは、彼女が知毅さんの一部だから。そうでしょ?」
「俺には子供の頃から、憧れてる美女が二人いる。一人は君。一人は彼女だ」
「チカも私も、子供の頃は可愛かったよね」
「はじめて小さな君を見たときのびっくりも。知毅が彼女を紹介されたときのびっくりも。今でも時々思い出す。目の前で光が弾けた」
「私って、知毅さんが遠巻きになる女だと思うけど。でも彼は私に、いくばくかの愛情と恋心を感じている。なぜか。私があなたの従姉で、あなたが私に、いくらか恋心を持っているからだと思う」
「君は賢くて、デコルテのラインがすばらしい。知毅はそういう美人には、必ずいくらかの恋心を抱く」
「私の意見に反対?」
「彼女が知毅の許婚じゃなかったら、俺は彼女に交際を申し込んでいた。チカちゃんが知毅に恋をしていなかったら、もっと早くに交際を申し込んで、玉砕していたかもしれない」
「人生はやり直しがきかない。仮定を考えるのは無意味だ。あなた昔、そう言った」
「うん。でもこれは感情についての表現なんだ」
「たいていの人は、自分の感情を把握してない。みんな見たいように世界を見る。自分のことなんて追及したくない。でもあなたは見る人。知りたいと思ってしまう人。自分さえ、ついつい観察してしまう因果な人」
「・・・・」
「あなたが子供だった頃、知毅さんはあなたの、若すぎる父親で兄だった。今は永遠の恋人と呼ぶ親友。チカも彼女も彼の一部。だから近づきたい。自分のものにしたい。そういう気持ちはあったでしょ」
「どうかな」
「私はあなたの恋人でも妻でもない。正直に言っても怒らない」
「申し込んだら、君はなってくれたのかな」
「恋人に?」
「君に求婚することを、考えたこともあるよ」
「でも求愛も求婚もなかった。五歳で私を誘惑したのに。だから、答えて。答えてくれたら許してあげる」
「ずっと逃げてたくせに」
「追いかけてこなかったじゃない」
「追いかけたよ」
「ねぇ、教えて。あなたが正直に話してくれるとき。私、あなたの妻にも恋人にも、なれなくて良かったと思えるんだ」
「何だよ。それ」
「誰にも言わないから」
「ほんとに?」
「あなたがいなくなったら、思い出話として話すかもしれないけど」
「そういう気持ちは、あったかもしれない。でも」
「でも?」
「チカちゃんだから結婚を申し込んだ。松本さんのことも、ほんとに好きだった」
「二人とも私の友達。そうじゃなかったら、あなたでも幻滅してた」
「話しても問題がない。君がそう判断する場合は。何でも話しても良いよ」
冬の海岸を歩き飽きたのか。彼が海辺のレストランを指さした。私たちはその店で昼食をとった。二人で焼いた牡蛎とプディングを分け合って、話を続けた。料理は不味くはなかったけど。記憶に残る味でもなかったな。
「あなたはシノコと一天さんの婚約をどう思ってるの?」
「早く結婚してほしいと思ってる」
「あの子今でも、あなたのことも知毅さんのことも好きよ」
「でも俺たちのどちらかが迫ったら、きっとまた逃げてしまう」
「あなたと知毅さんにとって、一天さんは友達の兄弟分で、青春の日のマドンナ。そういう男に、惚れてる女を託したいって、どういう気分?」
「マドンナ?。まぁそういう気持ちがないとは言わないが」
「中学生の頃のあなたたちって、彼に夢中だった」
「あの人は俺たちより、彼女によく寄り添えると思うよ」
「知毅さんも手紙にそう書いてきた。そうかもね。彼はあなたと同じくらい、女の気持ちがよくわかる、おかしな男だし。でもあなたみたいに、女を守ってくれる男かな」
「あなたにもチカちゃんにも、優しくて献身的だろ」
「私もチカも、あなたと知毅さんの一部。ああ、まぁ、そこは彼女もそうか」
「あの人、知毅はともかく、俺にそこまでこだわりを持ってるかなぁ」
「知毅さんは彼のアイドルで、あなたは彼の理想の
「主?」
「女に真実の美人はいない。安部晴明はそう言ったんですって。彼、きっと賛成する。つまり、あの人、男のほうが綺麗に見える、谷崎だと思う」
「タカさんは女性の崇拝者だと思うけどな」
「『美女』の崇拝者ではあるわね。信乃はきれいだけど。あの人の目から見れば、地味で普通の女の子だと思う。あなたたちが彼女を見つけたから、彼も彼女に気づいたのよね」
「あの人は、人を見る目を持ってるよ」
「ええ。でも、あの人、女にうるさいから」
「それはそうだな」
「松本信乃という人の価値を、彼、ほんとにわかっているかな」
「わかってるさ」
「日本の女も随分綺麗になったし。おしゃれな子も増えたけど。あんなに優しくて強くて、人に求めることなく、良く尽くす人。今どき滅多に居ないわ」
「人を見る目のある男なら、彼女が滅多にない宝石だと、すぐに気づく」
「何人かの例外はいるけど。私、男って基本嫌いよ。ああいう尊敬すべき人を、利用する気もなく利用しそうな奴が、多すぎるもの」
「タカさんは、そういう男じゃない」
「彼女のような女にはなりたくない。私はずっとそう思ってきた。でも一緒にいたら、大好きになっちゃった。私は一天さんを友だちだと思ってるけど。あの人を利用していると感じたら、間違いなく嫌いになる」
「大丈夫だよ。酷薄なところもあるが、あの人は宝石を守りたい男だし。守れる男だ」
ロンドンへの帰り道は、彼が運転してくれた。私は助手席で、彼が怜於から逃げる気持ちを追及した。
「怜於は俺と知毅の子供だ」
「あの子はあなたの、恋人になりたがってる」
「あの子は俺の、永遠の恋人だ」
「あの子の望みは、この現実世界で、戯れあう恋人になること」
「俺の相手としては若すぎる」
「あの子は本気」
「我々はみんな、恋に落ちるたびに思うんだ。これがほんとの恋かとね。失恋すれば無論傷つくが。そのうち次の相手に、またほんとの恋をする。あの子もじきに、べつの誰かに目を向ける。現実世界での恋って、そういうもんだろ」
「あなたはあの子が欲しくないの?」
「この世界では、俺はあの子と恋をするより。あの子を守って、育てたいんだ」
「一回寝たら、向こうが冷めるかも。もう追いかけまわされる心配もなくなるかも」
「そんなことはできない」
「どうして」
「俺はあの子の保護者だ」
この日話していて、怜於は彼にとって、思っていたより、魅力的な相手なのかもしれない。そう思った。
この人がチカと離婚したのは、そのことでチカに罪悪感を感じたことも、理由の一つかも。そんな考えも浮かんだ。
でも彼が怜於を愛していることも、ひしひしと感じた。
あの時、ひと月の滞在予定が十五日で終わったのは、龍くんが帰りたがったからなんだ。十日もすると、置いてきた怜於が、気にかかって仕方がない。怜於へのお土産ばかり考えている。彼はそんな様子になった。
その様子を見ていて、私は日本にいる怜於に、心のなかで話しかけた。君の恋が叶うことは、ないかもしれないなって。
恋に落ちた人と、深く愛し合うこともあるけど。恋をする前に深く愛している人と恋をするには、かなりの弾みが必要だもの。
本来意志の強い、腰の重い人が、成熟して、ますます迂闊なことをしなくなっている。あの頃の龍くんは、そんなふうに見えたし。
怜於の行方不明がなければ。あの二人。おかしな親子で終わったかもね。
覚えてる?
空港まで迎えに来ていて怜於を、幼い子供のように、龍くんは天高く抱き上げた。怜於は人目なんて気にせず、頬を染めて、龍くんの目を覗きこんでいた。二人で周囲の注目の的になっていたけど。どちらも全然気にしていなかった。
あの頃の怜於は、龍くんに夢中で、とてもいじらしかった。
結婚してしばらくしたら、龍くんのほうがあの子に夢中になって、怜於はだんだん図に乗って、生意気になってきた。
文句を言いながら、彼の行くところには、どこにでもついて行って、いつも彼に寄り添っていた。意外に良い奥さんだったけど。結婚してから反抗期に突入して、彼を振り回すようになった。
でも龍くんがいなくなった時、あの子はあらためて彼への恋に落ちたみたい。とりつかれたように、ずっと彼を探している。いつまで探すつもりかしらね。
おかしな男だったよね。
愛情深くて、気の多い人たらしで。大悪人も務まる善人。野放図なのに、誰よりまともで。何でもできて、でも時々とても不器用で。誰より大人で、でも子供っぽくて。大きすぎる人で、私には、つかみきれない人だった。
体はハンサムだったけど。顔は、ひょっとしてこの人ブオトコかもって思う時もあったわ。でもとんでもなく色気があった。
誰にでも本当に優しかったから、男にも女にも、とてもモテた。
私たち。龍くんを中心にして、入り組んだ、おかしな人間関係を作っていたよね。彼が中心にいたから、あんなことになった気がする。
男と女。男と男。女と女。 ロマンティックな友情。恋のような友情が乱立していた(何組かは、ほんとに恋もしたのかな)。それで、おかしな三角関係が幾つも出来上がったし。恋敵で友達とか、恋敵で夫婦とか恋人同士とか。色々出来上がった。面白かったなぁ。
八十年代が、この頃特に懐かしいの。
船には龍くんがいつもいて。善さんと律さんがいて。公爵とマリ公がいた。
知毅さんが小さな怜於を連れてきた。
怜於は龍くんと知毅さんを追いかけまわして成長して。龍くんと結婚して、阿門と燈を産んだ。
チカは龍くんと離婚して、知毅さんとすったもんだやっていた。
私が娘を産んだのは、1988年。
あなたの帰国は八十年代中頃。怜於の教師をしながら作家になった。シノコと結婚したのは、怜於が大学に入学した年。1986年?
私の心配は当たらなかった。逝ってしまうまで、信乃はあなたの隣で、いつも楽しそうで、良く笑っていた。
子供には恵まれなかったけど。怜於も、燈と阿門も、私の娘も、彼女を母のように慕った。
彼女がまだ元気だったころ、船にみんなが集まった日。双子を抱いている彼女を遠目に見て、龍くんは私に言ったわ。
「みんなが元気に今この庭いにいたことを、俺はそのうち、奇跡のような幸福の思い出として、懐かしむ。みんなに、世界に、感謝しながら。そんな気がする」
私は今あの頃が、そんなふうに懐かしい。
血で結ばれた身内にも、懐かしい人は数人いるけど。私の本当の一族は、船にいた人たち、あそこに居た人たちなの。時々嫌いになるけど、私たちを結ぶ記憶を思うと、どうしても懐かしくなる。どれほど遠く離れていても、結びついていると思えるのは、あなたたちだな。
あの時彼女はこんなことを言ったんだ。あの時あいつはあんなことを言った。昔話で伝え合ったことも、たくさんあるわね。今日もあなたに、少し伝えた。
あなたには、私に語りたい話はないわけ?
昔話ができる人は、きっとこれから、少しずつ減っていく。できる時にはしておくべきよ。
この頃忙しそうだけど。たまには声を聴かせて。
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