後編


「閉じ込められた? のかしら。いったい何のつもりなのだか」

「……懐かしささえ感じる古典的なやり口ですね」


 普段倉庫代わりに使われている人気のない薄暗い部屋で二人は向き合っていた。ラドクリフは飄々と説明した。こうやって未婚の男女を二人きりで部屋に閉じ込め、頃合いを見計らって証人となる人間を引き連れて扉を開け、不埒だと断罪するのだと。ようはアナスタシアと自分を貶める目的なのだと。

 別々に呼び出された二人は、騒ぐわけでもなく溜め息をついた。アナスタシアがこの部屋に入って間もなくがちゃりと音がして扉が開かなくなったのだ。中からも細工されて開けられないようになっていた。


「馬鹿馬鹿しい。ただ二人で部屋に居るだけで、何が起こるっていうのよ。わたしのことなど興味の欠片もないって顔してる人なのに」

「男と女が一つの部屋に二人きりで居ることだけで、いろんな憶測を生むんですよ。王都では、という条件が付きますけどね。まあ、暫くしたら閉じ込めた犯人自ら鍵を開けに来るので心配いりません」

「犯人自らって、どういうこと?」

「そりゃ、騒ぎ立てる為ですよ」

「はあ? 何なのそれ、くだらないわ」


 顔を思い切り歪めて吐き捨てた。


「ですが、これが王都での貴族社会の常です。この地に居るとそんなことも忘れていました。全く緩みきってしまったな」


 またもや困った顔をして、手を首の後ろに置いた。どうやらこれは無意識の癖らしい、と長らく彼を観察してきたアナスタシアは気づいていた。じっと真っ直ぐに見つめてくる彼女を珍しく真正面から受け止めて、ラドクリフは小さな声で呟いた。


「それはそうと、貴女に興味がないなんて、一言も言ってませんよ」

「……本当に?」


 驚きに目を見開きながらつつと距離を縮めてくるアナスタシアを避けるように、一歩二歩と後ろへ下がりラドクリフは続ける。


「何時だって興味深い観察対象ですよ」

「……だったら、どうして逃げるのよ」


 ラドクリフの背に壁が当たってそれ以上は逃れられなくなった。真っ直ぐにこちらの目を覗き込むように迫るアナスタシアを、やはり困ったような顔をして視線を逸らす。


「こういう距離感では、この辺境の地でもいろいろ憶測を呼びます。困るのは貴女だ」

「そうなの? わたしは別に困らないけれど」


 自分はそろそろ国へ帰らねばならない時期にある。その前にそんなことよりも聞きたいことがあるのだ。


「ちょうどいい機会だから聞いてもいいかしら。どうして貴方はいつも困ったようにわたしを見るの? わたしが何かした?」


 逸らした視線を元に戻してアナスタシアへと向ける。


「そんなふうに見えていたとしたら、それは、……貴女のせいだ」


 わたしのせい? と戸惑うアナスタシアの頬をラドクリフの大きな手がふわりと触れた。温かい感触を覚えていたくて思わず目を瞑ると、添えられた頬とは反対の頬にふわりとした柔らかな何かが押し当てられていた。


 はっと目を開けると至近距離にラドクリフの憂いを帯びた優美な顔があった。こつり、と額を当て、こうなることを心配していたのです、と囁いた。


 思わぬ彼の行動に、どうしていいか分からず突っ立ったままになっていると、頬に当てられた手がそのまま後頭部に滑っていき、頭を強く胸にかかえ込まれた。いつの間にかもう一方の手が背中に回っている。き込まれたのだと分かったが、嫌などころかどきどきして嬉しい気持ちでいっぱいになっていた。


 何か応えねばとそろそろと両腕を上げて彼の背中に回そうとした時、どんどんという扉を叩く音と共に、アナ、ここに居るのか?と問い質す声がした。するとラドクリフはあっさり彼女を解放して、何事も無かったように返事をする。


「閉じ込められました。開けてもらえますか? アナスタシア嬢もいらっしゃいます」


 鍵の回る音がして、開かれた扉がぎいと鳴いた。


「あぁ、アナ、どこへ行ったのかと思ったよ。大丈夫だったかい?」


 そう言ったのはここで待ち合わせをしていた筈のダニエルだった。ラドクリフに向かって厳しい視線を投げる。


「ラドクリフ殿、いったいどういうことなんだ」

「私は団長がお呼びだと聞いてここへ来た。アナスタシア嬢が入ってきて直ぐに鍵を掛けられたんだ。中からは開かないように細工されていて、開けられなかった」

「見え透いたことを言うなっ! 彼女に何をしたんだ!」

「何もありません。鍵が開かないし、どうしたものか話していただけよ」

「未婚の男女が二人きりで部屋に居ただなんて、立派な醜聞だっ!」


 ひとりいきり立つダニエルを呆れたように周囲は白けた雰囲気を漂わせている。


「お前は王都の出身か? そんな事を言うのは王都で暮らした貴族くらいだからな」

「へえー、お貴族様ってたいへんだな。二人で部屋に居るだけでも噂になるのか」


 冷静な口ぶりで話すのはここ辺境育ちの騎士と従僕だった。ダニエルは同調してくれる者が居ないと分かると唇を噛んで俯いている。


「ダニエル、といったか。アナスタシアに懸想していたと聞いているぞ。大方外から鍵を掛けたのもお前じゃないのか? お粗末に過ぎるな。ラドクリフが邪魔だったのか、袖にされてアナスタシアが憎かったのか。どうせならアナスタシアと二人になれば良かったのに。ま、そんな事態になったら我が妹はお前を返り討ちにしていただろうがな」


 にやにやと笑いながら柱の陰からエカテリーナが顔を見せた。途端、ぎょっとして引き攣った顔を見せたダニエルを、顎をつかって護衛を務める二人の騎士に捕らえさせる。


「妃殿下、わ、我が妹と仰ったか?」

「そうさ。私の妹だ。だったら何だ?」

「そんな事、聞いてない! アナ、きみは王女様だったのか」

「それ、今は関係ありませんよね。というよりも、呼び出したのは貴方でしたね? つまらない悪戯はやめてください」


 思いの外冷たい声で応えたアナスタシアは、ダニエルを睨み付けていた。


「――アナが悪いんだ」

「わたし、ですか? 確かにダニエルのお願いには応えられないと言いましたが」

「いくら誘ってもいい顔をしてくれない。こいつには何だかんだと構いに行く癖に俺たちには見向きもしないから」

「……ラドクリフ様にお聞きしたいことがあったからよ。貴方には関係ないわ」

「ダニエル、お前、もしやオーティス家の者か」


 オーティス家は男爵位を持っていた家だ。そしてラドクリフの生家メイヤー家の件で当主が粛清された九家のうちのひとつだった。オーティス家はダニエルの父親が蟄居を求められその弟が後を継いだはずだ。心無いことを言う者もいただろう、確かに辛酸を舐めたに違いない。だからといって人を貶めていいわけではない。


「私は今は半分お忍びだ。――だから暫く頭を冷やすんだな」


 大人しくしていれば不問に処すとエカテリーナは言外に匂わせ、ダニエルをブラッドリーのところへ連れていくよう騎士を促した。


「後始末はまかせておけ。ラドクリフ、アナスタシアを頼んだぞ」

「御意に」


 去っていくエカテリーナを見送ったあと、ラドクリフは何事も無かったようにアナスタシアを部屋まで送りましょうと告げた。並んで歩きながら、先ほどの触れ合いを思い出して、アナスタシアは高鳴る胸の音を何とか抑えようとしていた。



 ◆


 まったく危なかった。アナスタシアを騎士団の鍛錬場へと送ったあと、ラドクリフは一人になってから大きく息を吐いて顔を手で覆う。

 そろそろ自分自身を偽るのも限界だ。あんなに無防備に無邪気に迫られてはこちらが持たない。姉のエカテリーナに言って注意をしてもらった方がいいのか。そこまで考えて、それは無いなと首を振る。あの妃殿下はきっと面白がるだけだ。


 自分の手を見る。彼女の頬に触れた手を。

 次いで唇に指を這わす。思わず頬に口付けてしまった唇を。


 どうしてなのかは分からない。分からないが、どうやら彼女に気にされているようだということは分かる。仲間の騎士たちと仲良くしてはいるが、どこかで線を引いているように感じる。それに対して自分にはやたらと距離を詰めてくるのは明白だ。関わりの無いようにと下手に距離を取ったのが裏目に出たのか。初めてだという夜会でエスコートしたから懐かれたのだろうか。

 思わず抱き込んでしまったあの時、彼女は嫌がらなかった、と思う。己ひとりの自惚れではないだろう。それに、迫ってきたのはあちらのほうだ。

 しかし自分は彼女には相応しくないのは重々分かっている。十も年上だ。加えて罪人の息子だ。爵位も取り上げられ家も潰された。助けていただいた王太子殿下の気持ちに応える為にだけ生きているようなものだ。時折そのまま消えてしまいたくなる思いに駆られる。高いところから飛んでしまえば気持ちが楽になるだろうか。そんなことを考えている自分には、未来にたくさんの可能性を持つ女性を愛する資格などない。ましてや彼女は隣国の高貴なる王女殿下だ。


 胸の奥に燻る想いを大きくしてはならない。あと少しで帰国するだろうアナスタシアを笑顔で見送るのが自分の精一杯の気持ちの表れとなるだろう。



 ◆


 エカテリーナ王太子妃殿下の歓迎剣術大会当日となった。北方辺境騎士団に所属の騎士のみならず、在野の腕自慢も参加できるとあって大いなる賑わいの中、ラドクリフは眺めていた手合わせ一覧表の前で困惑していた。


「おい、ラドクリフ。いつの間に参加表明していたんだ?」

「いいえ、私は申し込んだ覚えはないのですが」


 正騎士部門ではないものの、知らぬ間に自分の名前が騎士見習いたちの手合わせ表に組み込まれていたのだ。


「……団長が人数合わせに入れたのですか?」

「まさか、馬鹿言うなよ。見習いとはいえ騎士だぞ」


 アナスタシアにちょっかいを掛けていたダニエルは、騎士団長から長い説教を喰らい、この大会は出禁となっている。彼と良くつるんでいるジョージの相手にラドクリフは選ばれていた。ジョージの家も粛清された九家のひとつだ。ダニエルの思いを継いでいるとしたら、何か仕掛けてくる可能性がある。その辺りの事情を知っている副団長は、危険性も考えてラドクリフを外そうとしていた。


「……こいつを外せばジョージが不戦勝で楽々と二回戦出場となる。それはそれで悔しいな」

「だったらラドクリフをそのまま出すのか? 文官殿には荷が重い。危険だろう」

「ここに誰か代わりを埋め込むか?」

「正騎士を出す訳にはいかんぞ」

「なら、私が出ようか?」


 へらりと笑いながらエカテリーナが答えた。ぎょっとして皆の視線が集まった。否定の表明でぶんぶん首を横に振る者や、腕を振る者がいる。


「妃殿下は、褒賞のひとつですから、無理です!」


 そう。各部門の優勝者の中から一人の総合優秀者を選び出し、その人物とエカテリーナが戦うことになっていた。彼女と戦えるのは、大いなる誉れなのだ。


「なら、そのままラドクリフが出たらいいだろう」


 曲がりなりにも由緒正しい伯爵家の一員だった彼は、貴族教育の一環として剣術も修めているはずだろう、とエカテリーナは軽い口ぶりで楽しそうに言った。憮然としたラドクリフは勝ち進んだ先の次の相手にアナスタシアが上ってくるだろうことを見越して、いいでしょう、と返事をした。


 ◆


 きいん、という刃の当たる音がする。と同時に一振りの剣が宙を舞った。

 そこに居合わせた者の予想を遥かに超えた健闘を見せて、ラドクリフは嫌がらせで当たった筈のジョージを下していた。負けたジョージは悔しそうな顔を隠そうともせずに、舌打ちして口の中でぶつぶつと何事かを呟いている。


「勝者! ラドクリフ・マルサス!」


 そう宣言する副団長の声が高らかに響いた。汗を手で拭うラドクリフに、一段高いところから観戦していた幾人かの女性たちが手拭いを振り回して黄色い声援を上げる。それには見向きもせずにラドクリフは尻もちをついたままのジョージに手を差し伸べた。だが、彼は口元を歪めて手を振り払うと立ち上がって下がっていった。


「なんだ、あいつ、八つ当たりか。礼をきちんと取らないといつまで経っても見習いのままだぞ」


 会場から出て行こうとするジョージを見送り、ラドクリフは副団長に一礼した。次は先に勝ち上がったアナスタシアと当たることになっている。それまで身体を休めなければ恥ずかしい思いをするのは多分こちらだと分かっていた。アナスタシアは、訓練を厭ってサボりがちだったジョージの様にはいかないだろう。


「ここへ来た頃、早朝訓練に参加していることもあったからな。うちの正騎士たちには敵わないだろうが、見習い相手だったら互角といったところか」


 ラドクリフの試合を見ていた騎士団長のジェイソンがぼそりと呟いた。平民からの叩き上げの副団長は渋い顔をする。


「まったく中央貴族ってのは、大変ですね。いろんな教育に剣術もですか」

「ああ。奴は由緒ある伯爵家の嫡男だったからな。大切に育てられたんだろうな」


 王太子殿下が惜しむ人材であることは間違いない。実際、ブラッドリーもジェイソンも惜しんでいるのだから。


 ラドクリフの手合わせを見ないと決めて控室に籠もっていたアナスタシアに、同期の騎士見習いが結果を知らせに来た。訓練に身が入ってないジョージには、文官とはいえラドクリフは過ぎた相手だったのだろうということは、簡単に推測出来た。次はわたしだ。普段の動きや身体付きからして、まったくの素人ではないのは分かる。油断したら負けるのは自分だろう。

 二回戦で負けては、一人前の騎士として扱ってもらえない。エカテリーナの妹としても、落第したままこの国を去るわけにはいかなかった。


 ◆


「ヴィクトリア、お前はどう見る?」

「エカテリーナ様はお人が悪い。どっちにしろはらはらしています」


 言葉通り、胸の前で手を組んで真剣な面持ちで、ヴィクトリアは鍛錬場を見ていた。相対しているアナスタシアとラドクリフは互いに一礼して距離を取っている。副団長の合図で剣を交わらせ、緊張に満ちた試合が始まった。

エカテリーナはははっと笑い声を上げ、まあ怪我することはないさ、と軽口を叩く。


「ラドクリフは皆が思っているよりも強いぞ。お前の旦那には敵わないが、アナスタシアとは同格と見た」

「そうなのですか?」

「ジェイソンはこの大会をアナスタシアの卒業試験だと言っていたから、我が妹には頑張ってほしいが」


 さてどうなるかな、と面白げに下の鍛錬場に目を遣った。

 二人は様子見のように軽く打ち合っていた。いつもと同じく怯まず真っ直ぐにこちらを見据えてくるアナスタシアに、ラドクリフは感嘆の思いだった。試合の最中だというのに、一つに纏めた髪の先が揺れる様子に、額から流れ落ちる汗の雫に、何より強い意思を感じるアイスブルーの美しい瞳に、見惚れていたのだ。うっかりするとすぐに負けてしまいそうだが、そんなことになれば彼女は烈火の如く怒るに違いない。


「はっ!!!」


 少しの油断も見逃さず、勢いをつけてこちらへ踏み込み遠慮なく突きを放つ。ぎりぎりのタイミングで何とかやり過ごして剣先を掬い上げて腕を捻り、出来た隙間からこちらからも突きを入れた。踊るように彼女が横に逸れて今度は上からだ。


「くっ、!」


 身体全体で叩き込まれると女性とはいえ重い剣に耐えられるかどうかの瀬戸際だった。顔の前で両手で剣を捧げ、渾身の一撃を受け止める。鈍い音が響き渡り、ラドクリフの持つ剣の刃にこぼれが生じた。


「勝者、アナスタシア!」


 間髪を入れず副団長の宣言が入る。これ以上は危険と判断したようだ。お互いにすっと身体を引いた後、健闘を讃えて騎士の礼をする。途端、わっと歓声が上がった。


「大健闘だったじゃないか!」

「アナの最後の一撃は凄かったな!」

「いや、ラドクリフもよく打ち込んだぞ。文官なのに大したものだ」

「いっそ、騎士に転向しろよ!」


 荒い息を吐きながら皆からの激励を背中に受けて、左腕で汗を拭った。さすがは妃殿下の実の妹御だ、剣の素質は十分にあるのだろう。アナスタシアに一言声を掛けるべく身体を捻ったときだった。


 空気を切り裂く音がする。と同時に、ラドクリフ様! とアナスタシアの酷く焦った呼び掛けが聞こえ、気付けば彼女に地面に押し倒された格好になっていた。受け身を取ることも出来ずにひっくり返ったラドクリフは、辛うじて頭を打ちはしなかったが、上半身全体に痛みが走った。一呼吸置いて、空からはらはらと何かが降ってくる。よく見るとそれは、アナスタシアの髪が何かに切られて落ちてきたものだった。少し離れたところに、小ぶりだが鋭い刃先を持った短剣が落ちているのが見えた。

 一瞬だけアナスタシアは覆い被さったあと、すぐに両手を脇に付いて、ラドクリフから距離を取ろうとした。こんなときだが、彼女からはふんわりと何やら良い香りがするな、とラドクリフは場違いなことを思っていた。


「ラドクリフ様! お怪我はありませんか?」

「……打った背中が少々痛みますが、大丈夫です」

「ご、ごめんなさい、わたしが押したものだから……」

「お気になさらずに。……おかげで助かりました」


 そういったものの、背中が圧迫されて話すのが苦しく感じ、身体を起こすのは億劫だ。案じるようにこちらを覗き込むアナスタシアに、心配しないでと笑いかけようとしたが、ただでさえ、試合の後で息が切れた状態だったから、そのまま荒い呼吸を繰り返す。


「大丈夫ですから」


 笑うのを諦め、代わりに彼女を引き寄せ、背中をぽんぽんと軽く叩いてやった。顔に髪が触れてくすぐったい。空は雲ひとつない青一色だった。アナスタシアの瞳の色だ、綺麗だな、と思う。

 二人のすぐそばでは、短剣を投げつけた犯人が捕らえられて後ろ手に縄で括られていた。騎士が皆集まってきて、謹慎していたはずのダニエルを責め立てている。しかしラドクリフの耳にはそんな音は入ってこずに、アナスタシアとこの世で二人きりになってしまったように感じていた。


「ああ、生きてる……。許されるなら、この先も、……ずっと貴女を見ていたい」

「……ラドクリフ、さま?」


 今の空の青さを覚えていたくてそっとまぶたを閉じてみる。身動ぎするアナスタシアの身体の温かさと重みを感じながら、ラドクリフの閉じられた瞳から涙が一雫、零れ落ちていた。



 ◆


 騒ぎが起きたが、剣術大会はその後時間を置いて予定通り行われることになった。

 アナスタシアは順調に勝ち上がり、騎士見習い部門で見事優勝を果たした。正騎士代表にはこてんぱんにやられてしまったが、卒業試験としては堂々合格を手にして、あと僅かだが残りの修行期間を従騎士として過ごす事が許された。

 因みにエカテリーナの誉れあるお相手に選ばれたのは、第一部隊隊長のケイシーで、しかし妃殿下相手に翻弄されてアナスタシアの敵討ちとばかりにすっかり熨されてしまったのだった。


 発端は、やはりジョージが勝手にラドクリフの名を書き加えて、ダニエルの仇を取ってやろうと画策したことと判明した。加えて謹慎中のダニエルは、二人を部屋に閉じ込めたのをエカテリーナに咎められたことに反発して、剣術大会の中、警備が手薄になったところを突いて抜け出し、腹いせに短剣をラドクリフに向かって投げたと供述した。

 これにはエカテリーナが激怒した。ダニエルの脱出を辺境騎士団に有るまじき失態だと騎士団長のジェイソンと領主のブラッドリーをきつく叱責した。万が一ラドクリフが怪我でもしたら、王太子殿下に顔向け出来ない。ましてやアナスタシアが庇って怪我を負ったとなったら国の失態に繋がり、国際問題に発展する可能性もあったのだ。

 エカテリーナの怒りを正面から受け止めて、しゅんと小さく縮こまる二人を見て、アナスタシアとラドクリフはとりなしを試みる。がその日のうちにはどうにもならなかった。

 最終的に怒りを鎮めたのは、城壁へ案内してください、とふうふう息を乱しつつ、一緒に登ったヴィクトリアだった。素敵な眺めですね、と持ってきたスケッチブックにエカテリーナの故郷を望む風景を描いていくのを見て、ようやくにこりと微笑んだのだ。


「ああ、自慢の眺めだ」


 ヴィクトリアの絵を見ながら満足げに頷いて、機嫌を直したのだった。


 ダニエルとジョージは結局家のしがらみから抜け出せないままだった。粛清されたのは直接関わった当主だけとして一族には罪を問わなかったのが裏目に出たともいえる。生きることを許されたラドクリフに逆恨みの気持ちばかりが大きくなって、せっかくブラッドリーたちが受け入れて境遇を問わず騎士見習いとしたのに、恩を仇で返す行動に出た形となってしまったのだ。二人は無期限の謹慎処分とされた。無償の労働活動を課されることになっている。

 これにはラドクリフは大いに悩んだ。ただでさえ、自分は生きていていいのかと重い気持ちを抱えてきたというのに、自分が居るだけで迷惑を掛けてしまうのではないかと。


「俺たちは、親の仕出かした罪のおかげで爵位も領地をも取り上げられた。ここへ来るまで碌な扱いも受けなかったんだ。お前の父親のせいで、俺たちは……っ!」

「それは、ラドクリフのせいじゃなかろう?」

「こいつは……っ! 今のうのうと生きていて、……!! 領主の側近にも取り立てられて、……!!!」

「この地に居るのは、我が夫エドワード殿下の意向だ。王家のやりように意義を唱えるつもりか? こいつも爵位も領地も家族だって失くしているのだぞ。それにブラッドリーの側近になったのは彼の実力だと聞いている。お前たちの全くの逆恨みだな」

「煩い……っ!」

「それ以上喋ると今度は王太子妃殿下に対する不敬罪で捕まえるぞ。今のうちに詰まらぬ主張は、引っ込めるんだな」


 ダニエルとジョージの言い分を何も言わずに静かに聞いていたラドクリフはそっと肩を落とした。


「妃殿下、エカテリーナ様、やはり私はこの国に居ないほうがいいのです。せっかくの貴女様の歓迎の場を騒がせたこと、お詫びのしようもありません。……私を捕らえて罪をお与えください」

「馬鹿言うな。お前のせいじゃないだろう。罪も何もあるかよ」

「しかし、あの手の輩はまた湧いてくるでしょう。私という存在がなければ、彼らも心穏やかに暮らせた筈です」

「いいや、お前一人居るだけで揺るぐような国造りはしてないぞ。そんなふうに考えているとは、エドの、王太子殿下の思いを蔑ろにしているとは思わんか。何故お前に温情をかけたのか、考えたことあるか。お前が生きたがっていたからだ」


 その言葉に虚を突かれたようにラドクリフは目を見開いた。生きたがっていた、私が? 本当だろうか。


「……お姉様。ちょっといいかしら」

「何だ? アナスタシア」

「ラドクリフ様は自分をいらないと、必要ないと仰いました。ならば、わたしが拾って持ち帰ってもいいですか?」

「はっ……?」

「ラドクリフ様、わたしとジミカミエタへ行きませんか? 貴方という人を皆は知りませんから、煩わしい人間関係もありません。それに貴方の行政官としての能力は本物です。是非我が国の為に役立てていただきたいわ」

「こいつは確かに優秀だ、だからここに置いておきたいのだがな」

「だってこの国ではややこしいんでしょう? ラドクリフ様、一緒にいらしてください」


 出来ればその、とアナスタシアは頬に熱を帯びて言い籠る。


「わたしと、け、結婚でもしていただければ、お、王家の、一員となって、貴方の身分は保証されますし、……いえ、手段の一つとしての提案に過ぎません……無理にとは申しません……」


 普段無表情を崩さないラドクリフの目が酷く大きくなった。そばに居るヴィクトリアや護衛騎士も唖然としてアナスタシアを見つめている。エカテリーナだけはにやにやと口元を緩めて事態を見守っていた。


「ええと、……お嫌ですよね、申し訳ありません……」


 言い淀み、顔に赤みが差して羞恥心が上回って頬を両手で覆う。暫く惚けたようになっていたラドクリフは、そんなアナスタシアに揺らぎのない視線を向けたかと思うと、彼女を見つめたまま、優美な仕草で膝を折り右手を取った。


「アナスタシア嬢、聞いていただけますか? 私は伯爵位を持つ家の出でしたが、父が罪を犯して取り潰され、王太子殿下の温情を受けてこの地に落ちてきました。今はただの平民です。本来ならば王家の方と結婚など出来る訳がありません。それでも?」

「わたしの国では貴族と平民にそんなに大きな差はないのです。寒い国ですから、助け合わなければ、長い冬を乗り切ることは出来ません。ですからその、わたしが望めば可能なのです……きっとお父様も許して下さるわ」

「―――拾ってくださると? こんな私を、望んでくださると?」

「ええ、貴方ほどの優秀な方なら、わたしの父も大歓迎するに違いないもの」

「貴女は? 貴女に問うているのです。王の意向ではなく」

「わたしは、貴方を望みます。どうか共に歩んでいただきたいわ」


 ラドクリフは滅多に見せない柔らかな表情で、眩しげにアナスタシアを見つめている。熱を帯びた視線はそのままに、取った手の甲に唇を落とし、手を返して掌にも口付けた。掌に口付けるのは求婚の意味がある。アナスタシアが知らないだろうことはわかっていての、彼なりの小さな誓いだった。


「そこまで仰ってくださるのなら、まずはお国の為にお役に立てることを証明しましょう。私を雇ってくださいますか?」

「……っ! もちろんですっ……!」


 ラドクリフは感極まった様子で涙を堪えるように空を見上げた。次いで取ったままのアナスタシアの手を引き寄せ、すっぽり包み込む。貴女には敵いません、と耳元に囁き、頬にキスを落とした。吐息が掛かり、益々朱に染まるアナスタシアをしっかりと抱き締めた。


 周りではやんやと皆が騒ぎ立てている。妹の幸せは祝いたいが、国の財産である優秀な文官を国外へと出してしまうことになる。王太子に嫌味を言われることを覚悟したエカテリーナだった。渋い顔を見せ、アナスタシアに獲られたな、とヴィクトリアに小声で告げた。


「あら、わたくしがお勧めしたのです。持ち帰っては如何かと」


 一部の人間には〈傾国の微笑み〉と揶揄される澄ました顔で、にこりと微笑んでみせたヴィクトリアだった。


 ◆


 親愛なるカーチャ姉さま


 お返事が遅くなったことお詫び申し上げます。

 ラドクリフ様の施策改革案がたくさんあって、宰相以下こちらの行政官たちも主だった貴族たちも目を白黒させた状態が続いているのです。

 お父様もびっくりされているわ。今まで自分のやってきたことは何だったのか、って反省しきりなのよ。

 彼は本当に優秀で、当たり前のようにこちらの言葉を流暢に話すし、国の財政から領土問題から不平等な貿易条約の見直しやら、それはそれは多岐に渡る改革案を提示してくるのです。他所の国から来た青二才が何を言うか、なんて態度だった人も、彼の人柄に触れるにつれ、協力を申し出てくれるようになりました。

 それにしても、観光を柱としたリゾート開発で税収確保に動くなんて。

 わたしたちには当たり前の風景が、他国の方から見るととても魅力的なんだそうです。目から鱗でしたよ。ただ寒いだけの国ではなかったのです。嬉しいこと。

 そんな訳で帰国してから王家の一員として彼に協力しながら公務も引き受けて忙しくて。

 ラドクリフ様もあちこち飛び回って忙しくされていて、あまり会えないし、もしかするとわたしのことなどお忘れになったかと思っていたのです。

 でも以前のような今にも死に囚われるようなこともなく、活き活きと仕事されているので、それだけでもか十分に報われたと思っていました。

 でも、姉さま、今日、いろいろ目処が付いたからと、とうとう、とうとう求婚してくださったの!

 わたし嬉しくて。声をあげて泣いてしまいました。

 わたしが泣いてしまったので、うろたえたラドクリフ様は見物でしたよ。泣きながら可笑しくなってきて、涙を流して笑い転げるという器用な真似をしてしまいましたわ。

 そんなわたしを落ち着くまでずっと抱き締めて下さったの。本当にお優しい方です。

 お父様に奏上して正式に婚約を認めていただきました。結婚式は来年暖かくなってからになりそうです。

 お式にはお姉さまとお義兄様、それからヴィクトリア様と噂の番犬さんも誘って、是非一緒にいらしてくださいね。


貴女の末の妹 アナスタシア



 ――― ende ―――



最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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元伯爵令息は隣国の王女に拾われる 久遠のるん @kuon0norn

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