中編
親愛なるカーチャ姉さま
お姉さま、お元気ですか。
先日はお手紙ありがとうございました。
王太子妃としてお忙しくされているのに、いろいろご心配おかけして申し訳ありません。
でも、この国では、私にとってはたった一人の肉親であるお姉さまを置いては他に相談できる人もいないんですもの。もう少しお付き合いくださいませね。
先日のお手紙と一緒に入っていた、お姉さまとお義兄さまの絵姿、とっても素敵でした。
ただ鉛筆のみで書かれているのにもかかわらず、黒の濃淡だけで鮮やかな色彩が見えるようでした。
素晴らしい絵師さんですね。
こちらにもこんな素敵な絵を描ける人、いると良いなと思って、ラドクリフ様に聞いてみたのですけどね、このような北の辺境の地にはなかなか居ないですね、って言われてしまいました。
相変わらず素っ気ない方です。
私にだけ冷たいって訳ではないのですけれど、もう少し打ち解けてくださったらどんなに嬉しいか。
上手くいかないものです。
お父様との約束通りだと、私の修行期間はあとひと月ほど。
お姉さまのようには強くなれそうにないのが悩みです。
お姉さま、難しいのは分かっていますが、一度こちらへいらっしゃっていただけませんでしょうか。
私がそちらへ往復する時間はもう、残されておりませんもの。
お会いしたいです。お話を聞いてもらいたい。
貴女の末の妹 アナスタシア
◆
夜会が終わって日常が戻ってきても、アナスタシアはもう彼を知らない時には戻れそうになかった。剣術の訓練に明け暮れて身体は疲れ果てていても、夜寝る前にはあの夜の完璧なエスコートを見せたラドクリフを思い出して、寝付けずにごろごろと寝台の上を転がる羽目に陥っていた。
本人曰くの平の文官として、あちこちの部署に遣い走りをしているラドクリフと時折顔を合わせては挨拶は交わすようになった。が、日々のお天気以上の話題にはならず、どうしてそんなに困った顔ばかり見せるのか、聞けないままになっていた。たまには付き合いなさいと強引にお茶などに誘ってはみても、いつもの通り眉尻を下げて困った顔をしてやんわりと断られるのが常だった。領主夫妻が社交の為に王都に発ってからは、ますます頑なな態度を見せ、付け入る隙が全くないのだった。
どうしてこんなに彼が気になるのか。アナスタシアにも分からない。分からないまま季節は巡る。
彼女の本来の素直な気質のざっくばらんな気安さや、剣術に対するひたむきさ、陽だまりのような温かな笑みに、憧憬を抱く同じ騎士見習いや邸の使用人、地方役人もたくさん居たが、お互いを牽制し協定でも結んでいるのか、直接求愛してくる男性は少なかった。だから彼女はいい意味で皆に護られて、人生でも一番楽しい時期を過ごしていた。その中で、一点の染みのような気がかりがラドクリフの困り顔だった。
彼は、王都でも切れ者だと言われた外交官の息子だったという。ちょっとした事件を起こして家は取り潰され彼自身は平民に堕ちたんだ、なのにどうしてこの辺境の地で働いているのか。驚いたよと、王都からの遣いで来た小役人が話しているのを聞いた。
彼がこの辺境の地にやってきて半年が過ぎる頃に、漸くブラッドリーの懇願を聞き入れて、側近の一人として辺境伯の筆頭行政官という肩書を手にした。ラドクリフ自身は本気でいち文官として忙しく走り回っているほうが性に合っていると思っていたようだったが、周りはそれを許さなかった。それほど彼の優秀さは群を抜いていた。使い走りの様にあちこちの部署に顔を出している間に、不愛想ではあるけれど、蓄えた知識は確かなものだし、仕事に対する姿勢を評価する声が増えていった。都落ちしてきた孤高の貴公子はまやかしの様に消え去って、愚鈍なほどに生真面目さを纏う年相応の若者だと見る眼が変化していったのだ。
彼の評価が高まるにつれ、未婚の女性たちに囲まれることも増えていく。洗練された身だしなみ、見た目の麗しさに加えて、自分のことをほとんど話さないミステリアスな雰囲気や領主に認められた有望な人物として、辺境の地では考えられないほどの好条件なお相手なのだ。だが、女性に対するつれない態度は一向に変わりなく、むしろそのブレなさがいいとうっとりと眺められているほどだった。
自分もそのうちの一人でしかないという自覚はある。身なりに構わず剣を振り回している野蛮な女だ。王都育ちの彼からしたら、自分の相手になんぞ考えられないのだろう。
というよりも、アナスタシアは色恋沙汰抜きにして、彼の孤独を心配していたのだった。観察していて分かったことがある。彼は自分のことはどうなってもいいと思っているふしがあると気付いたのだ。時折遠くをぼんやりと見ている。城壁の上で王都の方向へ虚ろな瞳を向けていることもある。消えてしまいたいと思っているのだろうか。生気に溢れるまだ年若いアナスタシアには信じられないことだった。年齢は確か十ほど上だったか。
そう言えば、婚約者が居たとも聞いた。実家が没落したのなら、婚約は解消されたとみていい。だけど、真実彼女のことを愛していたとしたら? そう思うと心がざわざわした。
◆
休憩だ、という指導官の声が響き渡った。一斉にそこに居た見習い騎士たちの気持ちが緩む。汗を拭う者、水を飲む者、ストレッチをし始める者、愚痴を言い合って笑い合う者もいる。アナスタシアはふううと息をつくと頭から水を被った。冷たくて気持ちがいい。そのまま青い空を振り仰ぐと、城壁の上に見覚えのある人影が見えた。途端、ぞわりと何か良くないものが背中を這い上がった。何だろうか、やたらと不安に駆り立てられる。
気付くと髪を濡らしたまま、走り出していた。綺麗な石組みの壁を伝う階段を駆け登る。一気に登りきるとやはりそこにはラドクリフが立っていた。腰高の石組みに両手をついて、ぼんやりと遠くへ気を遣っているのが分かった。本人の美貌も相まってあまりにも儚げに揺らいだ。
アナスタシアは悟った。この人は、自分のことなどどうでもいいのかもしれないと。下手に声を掛けるとそのままひらりと向こうへ行ってしまうような気がした。
「……っ」
思わず息を飲んだが、どうやらそれだけでバレてしまったらしい。ゆっくりと振り向き茫洋とした瞳をアナスタシアに向けた。それはまるで生気の無いもので、どうしたらいいのか分からないまま彼女は立ち竦んでいた。
その時、風が巻き起こってアナスタシアが緩めてただ肩に掛けていただけのスカーフが舞い上がった。
「あっ!」
騎士団のスカーフだ、失くすわけにいかない。見る間に高く上がり、慌てて掴もうとして壁にと駆け寄る。胸の高さまである石組みに手をやり、乗り出したところで強く腕を引っ張られた。
「危ないっ!」
普段の穏やかな声とは全く違う怒声が身体に響く。気が付くとアナスタシアはラドクリフに抱き込まれていた。
「何をしているのですか! 落ちたらどうします!」
「だって、騎士団のスカーフが……っ」
「そんなもの、貴女の命と引き換えるものではないっ」
「……今にも飛び降りそうだった貴方に言われたくはないわ」
背中と頭をしっかりと抱えられたまま、離そうとしないラドクリフに照れ隠しもあってつんとした。たかが文官だというが、こうして身体に触れてみるときちんと鍛えていることが分かる。男性の力にはどうあっても敵わないとアナスタシアは思った。
「髪が濡れています、どうなさった?」
次に聞こえた声は落ち着きを取り戻したものだった。少し安心したが、微かに震えているのを感じる。
「汗をかいたので水を被ったの。……そろそろ放して貰えません?」
「……っ、申し訳ない」
ラドクリフは惜しむように離れる刹那、きゅっと力を込めた。ハンカチを取り出すと、濡れた髪を手で梳き上げて水滴を押さえてくれた。
「貴女は何故ここへ?」
「下から見えたの。もしかして飛ぶかと思って……」
「そんな簡単には死にませんよ、……死ねません。私には許されないことです」
「――そろそろ貴方のことを話して下さらない? 人の噂話は聞き飽きたわ」
目を眇めて真っ直ぐにこちらを見るアナスタシアがひたすらに眩しい。ふっと息を吐き、いつもの困った顔をした。
「さあ、訓練再開のようです。行かないと叱られますよ」
やはり、話してくれないのか。いい機会だと思ったのに。アナスタシアはがっかりしながら元来た階段を駆け下りた。
◆
北方辺境騎士団団長のジェイソン・カヴァデルは、眉間に皺を寄せた状態で腕を組んで唸っていた。右手にすっくと立って影を落としている男の口から繰り出される、提出書類の不備の指摘にうんざりしていたのだ。
「なあ、こんなにも書き直さなきゃいけないのか?」
「ほら、ここも計算が間違っています。こんなじゃ通る予算も通りません。これは国に申請するのでしたよね。王宮の財政担当官を舐めない方がいいですよ」
「うー、俺の副官は何処へ行ったんだ。アイツにやらせろよ」
「駄目ですね。この書類は団長である貴方のサインが必要なものです。誰にも代わりは出来ません」
王都から来たというこの男は、王宮で文官を、それも外交部門で外交官をしていたそうだが、突然こちらへ地方官として任官してきた。どう考えても何かをやらかしての左遷だと皆が噂していたし、正直ジェイソンもそう思っていた。ほとぼりが冷めたら、いつか王都へ帰るんだろうと。しかし既に一年近くが経とうとしているが、帰る気配は無い。口さがない連中は何処からか仕入れてきた噂を囀っていたが、ジェイソン自身は噂を鵜呑みにはせず、ただ目の前の一人の男としての評価を下していた。こいつは信用に足る男だと。領主様が側に置きたがるのも良く分かると。
ただ、融通が利かないのが玉に瑕だが。
いったい何をやらかしたんだろうな。気にはなるが、本人が言いたがらないのだから仕方がない。いつか懐いて打ち明けてくれたらいいなと思っていた。誰に対しても一定の距離を取り、決して踏み込まないし踏み込ませない一線を引いていた。柔らかな顔つきだが、その様は誰にも懐かない孤高の猫のようだった。領主の側近になったことをやっかみ、一部の人間には嫌味を込めて『孤高の貴公子』と揶揄されている。
ペンを押し付けられて、渋々手直ししていく。なんだかんだ言いつつ親切な奴だ。こうして付き合ってくれているのだから。
そんな時、ばたんと大きな音をたてて団長室の扉が開いた。
「ジェイソンのおじさま? ちょっと聞いてくださるかしら。訓練日程について相談があります」
入ってきたのは、騎士服姿のアナスタシアだった。薄い金髪を後ろで一括りにし、きりりとしたアイスブルーの瞳が涼し気だ。男物の騎士服がちょっと大きいようで、あちこちつまんである。今まで新人騎士と一緒に鍛錬を受けていたのだろう。
「何だ? ここでは団長と呼べと言ってるだろう」
「ごめんなさい、つい癖で」
ぺろりと舌を出して笑った顔が何とも小悪魔的だ。きっと本人は計算ずくで分かってやっていると、ジェイソンは思っている。
「――あら、ラドクリフ様。こんにちは」
「……アナスタシア嬢、ごきげんよう」
「やあね。いつまで経っても固い固い。もっと愛想良くしないと貴族社会で上手くやってけないわよ」
「私は平民ですから」
大きなお世話だと言いたげな表情を見せたが、すっと表情を消した。
「まあいいわ。あのね、今度お姉さまが来て下さることになったの」
お姉さま。
アナスタシアのお姉さまとはこの国の高貴なお方だ。こんな辺境に何をしに来る? ラドクリフは怪訝な顔をした。自分の発言が彼の表情を動かしたことが妙に嬉しく感じるアナスタシアだった。
「わたしに会いに来てくださるのよ。ついでに視察もするんじゃないのかしら」
「視察のついでに貴女に会うの間違いでは」
「どっちでもいいじゃないの。それでね、貴方にも見せたことがあるじゃない? ほら、お姉さまとお義兄さまの絵姿。あれを描いた人も一緒にきてくださるんですって。もう嬉しくて」
「まさか、本当に?」
ラドクリフは表面的には少し目を瞠ったのみだったが、内心は酷く驚いていた。あれはアン・トレイシー嬢、もといシュバルツバルト侯爵令息夫人ヴィクトリア・アンの描いた絵だった。あのジークフリード・フォン・シュバルツバルトが、例え少しの間だけだったとしても、一人でこちらへ来させるとは思えなかったからだ。
「そうなの。私を描いてくださるんですって。もう楽しみで。……でも、どうしてそんなに驚いてるのかしら。珍しいわね」
「彼女のことを知っているからです。また会えるとは思いもしませんでしたので」
もう王都へ戻ることは無いとラドクリフは考えている。自分の家族が国と王家に多大な迷惑をかけたのだ。何も知らなかったとはいえ本来ならば嫡男であった自分も処罰されて当然だったのに、王太子であるエドワード殿下が名を変え、地方官として任官出来るよう計らってくれた。それには一生をかけて報いたいと思っていた。
「彼女って、えっ、女性なの? てっきり男の人かと思っていたわ。……もしかして、貴方の想い人だったとか?」
「とんでもない。冗談でもそんなことを言わないで下さい」
夫であるジークフリードの近衛騎士に匹敵する剣の強さを思い出しながら、ラドクリフは冷や汗をかく思いだった。こちらへ旅立つときに見送ってくれたのはシュバルツバルト夫妻だ。別れの挨拶を交わす自分とヴィクトリアを、まるで番犬の如く目を眇めて見張っていたのを思い出す。それはともかくヴィクトリア夫人は聡明で優しい方だった。もう一度会えるとは思わなかったが、会えるとしたら嬉しく思う。
「彼女は既婚者ですよ」
「あら、そうなの。残念ね」
「だから、冗談にならないんですよ、あの方の場合は」
「冗談の通じない人なの? 貴方みたいにお固いってことかしら。でもあのお姉さまがとても頼りにしているようだったから、きっといい人よね」
冗談の通じないのは、彼女の夫のほうだ。詳しく語るつもりはないが。
「良き方ですよ。優しい方です」
そう言いつつ、ラドクリフ自身も目元を和ませたのを見て、アナスタシアはかなり驚いていた。こんな優しい顔をするなんて、珍しい。やっぱり想い人ではないのかしら、と胸の奥がつきりと痛む。
そんな二人の会話にジェイソンが野太い声で割り込んだ。
「本当にエカテリーナ妃殿下がいらっしゃるなら早急に警備計画を立てねばならん。この書類は後回しでいいか? ラドクリフ殿」
「構いませんが、その予算が降りるのが来年度になっても宜しいのですか」
「……それは困るな。うーん、困った」
「警備計画など特にいらないでしょう。あの方自身が最強の騎士ですからね。とはいえこの国の大切な方ですから、今から辺境伯の処へ行って相談してきます。その間に手直ししておいてください」
「―――――わかった」
ほんの少しだけ頬を緩め、ラドクリフはアナスタシアには軽く会釈して出て行ってしまった。
そうしてアナスタシアは、エカテリーナの歓迎会を剣術大会にしようとジェイソンに提案した。なるほどあの方なら舞踏会を開くよりも興味を持っていただけるのは自明の理だ。それにそろそろ帰国するアナスタシアの卒業試験も兼ねるといいだろう。
ブラッドリーも賛成してくれたので、ジェイソンは騎士団のトップとして剣術大会の準備を始めたのだった。
◆
王家と何度か文のやり取りをして、視察日程が決まった。エカテリーナと彼女専属の護衛騎士が五名、そして侍女を二人連れてくるという。半分私的な訪問ということもあり、一国の王太子妃がそんな人数でいいのかと言いたくなるような少人数での訪いとなった。
アナスタシアは期待していた。王都での知り合いに会えば、ラドクリフの態度も軟化するのではないかと考えていた。エカテリーナが来ることを知らせた後、何度も話をしようと手を変え品を変えお誘いを掛けてみたが、全敗していたのだ。噂の真相が分かるだろうとも期待していた。どちらかと言うと、彼の記憶を暴くのには躊躇いがあったのだが、なりふり構っていられな時期に来ていた。そう。彼女の帰国が迫っていたからだ。
結果は分かっていても今日も今日とて声を掛けてみる。
「こんにちは、ラドクリフ様」
「こんにちは、アナスタシア嬢」
「ところで今日の政務が終わったら、最近人気の城下のティールームへ行きませんか?」
「店の開いている時間には政務は終わりません。仲良くしている騎士の皆さんと行ってきては如何か?」
「彼らとは普段から語り合ってますから、もうこれ以上の触れ合いは不要です。それよりも貴方のお話が聞きたいわ」
「ですから、仕事は終わりませんから」
「お茶する時間も取れないなんて、ブラッドリーのおじさまは随分横暴なのね」
「領主様は関係ありません。前任者からのこれまでの積み残しの業務が溜まりに溜まっているのですよ。では失礼して仕事を片付けてきます」
ああ、まただ。逃げられた。もう諦めた方がいいのかしら。去っていくラドクリフの背中を見ながらふうと溜め息をついた。
◆
「変わらないな、この眺めは」
エカテリーナは独り言ちた。辺境の石造りの領館に着いた途端、そこに出揃った使用人や騎士団を一瞥して、とりあえず上へ行くと勝手知ったる何とやらで、一人さっさと城壁の上に登って来たのだ。後ろからふうふう言いつつ騎士三人と、続いてアナスタシア、それから領主であるブラッドリーと騎士団長のジェイソンが着いてきていた。
「あの森越しに故国を見るのが好きだった。変わらなくて何よりだ」
目の前には豊かな森が広がり、その向こうに薄っすらと湖が見えていた。エカテリーナの故郷は湖の対岸にある。見る限り荒らされた形跡はない。父たる王の統治が上手くいっている証拠だとエカテリーナは満足げに笑う。
「先に皆からの挨拶を受けて欲しかったのですがね」
「そんなもの後でいい。ところでヴィクトリアはどうした、ついて来なかったのか」
「ヴィクトリア様は、荷物を片付けておくからと仰ってましたよ」
「あいつにこの景色を見せてやりたかったのにな。後で連れてくるか。――アナスタシア、元気そうだな、嬉しいよ」
「カーチャ姉さまこそお元気ですね。いきなりここまで登るなんて」
アナスタシアは手を広げるエカテリーナに遠慮なく飛び込んだ。ここは王城じゃない、堅苦しい礼儀も手続きもいらないのだ。
「満足されたらどうか妃殿下、下に降りて挨拶を」
「分かった分かった、ブラッドリー、相変わらずの仏頂面だな」
エカテリーナはご満悦だった。日が暮れていく様子を堪能した後、ゆっくりと階段を降りて今度こそ挨拶の口上を述べた。待たされた騎士団と使用人の面々はそれでもエカテリーナをにっこり笑って受け入れる。何といっても彼女はここで数年を過ごし、騎士中の騎士と誉れを受けていたのだから。
「ヴィクトリア! どうして一緒に来ないのだ」
「エカテリーナ様、ご勘弁ください。わたくしは馬車の移動で疲れております」
「そんなことじゃダメだな。ここにいる間に鍛えてやる」
「や、やめて下さいまし。妃殿下についていくのは、わたくしには無理です……」
じゃれつくように二人は親し気に笑い合う。隣国へ一人嫁いだ姉を心配していたが、杞憂だったようだと胸を撫で下ろした。
「カーチャ姉さま、紹介して下さいな」
甘えた口ぶりで姉にヴィクトリアの紹介を促した。なんて可愛らしいお方だろうと思う。
「初めてだな。ヴィクトリア、我が妹アナスタシアだ。可愛がってやってくれ」
「ヴィクトリア・アン・シュバルツバルトです。お初にお目にかかります、アナスタシア様。よろしくお願いしますね」
「アナスタシアです。いつもお姉さまがお世話になってます。あの、送っていただいた絵を描かれた方ですよね? お会い出来て嬉しい……っ」
にこにこと笑うヴィクトリアとその手をがっつり捕まえてぶんぶん振り回すアナスタシアを見て、静かに控えていたラドクリフが口を開いた。
「妃殿下、トレイシー嬢も、お久しぶりです。アナスタシア嬢、見習いとは言え騎士の力ではそんなに振り回したら痛いですよ」
「ラドクリフ、元気だったか? ブラッドリーとは上手くやっているようだな」
「おかげ様で、いろいろ仕事を押し付けられて大変です」
「ラドクリフ様、お久しぶりです。もうトレイシーの名は使ってないのです。どうか、ヴィクトリアとお呼びください」
「そうですね、申し訳ありません。では、……ヴィクトリア様、今日は貴女の番犬は留守番ですか?」
「あら、ヴィクトリア様は犬を飼ってらっしゃるの?」
「え、いえ、シュバルツバルト本邸には居ますけれど、住まいにしている離れには犬はいません」
その言葉にラドクリフとエカテリーナは思わずといった体で、顔を見合わせ肩を震わせた。
「いや、あの番犬は我が夫と共にブランデンブルグ皇国を訪問中だ。私が代わりの番犬役だな」
そう言ってエカテリーナは豪快に笑い、ヴィクトリアは目を瞬かせ、アナスタシアは首を傾げたのだった。声に出して笑うラドクリフを珍しいと凝視しながら。
◆
その夜は、領主のブラッドリー・ケント伯主催の晩餐会となった。辺境の地はざっくばらんでいいな、とエカテリーナは終始ご機嫌だった。侍女という形でこちらへ赴いたヴィクトリアも共に席に着き、楽しそうにしている。アナスタシアといえば、ヴィクトリアをすっかり気に入って、ここが初めてだという彼女を自ら案内して回っていた。
ヴィクトリアはそこかしこでじっと立ち止まり、目の前の景色を焼き付けるように見つめていた。時間がある時にスケッチブックに書き留めるのだという。騎士団の鍛錬場でのアナスタシアを穴の開くほど見たあと、さらりと絵にしていった。
「カーチャ姉さま、見て下さい。ヴィクトリア様がわたしを書いてくださいました」
「良かったな。さすがだ、ヴィクトリア。見事なものだ」
「エカテリーナ様、動かないで下さいね。ちょっと描かせてください」
するすると手を動かしてエカテリーナの横顔を描いて、アナスタシアをその横手に並べて描いていく。ふわりと笑い合う仲の良い姉妹の絵姿があっという間に仕上がった。
「色を入れるともっと良くなると思いますけれど、とりあえずこちらをどうぞ」
アナスタシアは飛び上がって喜んだ。その様子を目を細めて姉のエカテリーナも満足げに見ている。兄はいるが、姉妹はいないヴィクトリアは少し羨ましく思った。
「ヴィクトリア様、お願いがあります。描いていただきたいものがあるの」
「それは何ですか」
アナスタシアが小声で囁くように言うものだから、ヴィクトリアも囁き声で返した。すると、みるみる頬を染めて俯き加減になった。
「ラドクリフ様の絵姿が欲しいの」
ヴィクトリアは目を瞬かせた。色恋事に疎い自分にもこれははっきりと分かった。なるほど、そういうことなのね。
「……アナスタシア様、もうすぐ帰国されるのではなかったですか」
「ですから、どうしても描いてほしいの。だって、連れて帰るわけにいかないでしょう?」
ふむ、と可愛らしく首を傾げてからヴィクトリアは思い切ったことを言ってのける。
「エカテリーナ様にお願いして、連れて帰っても宜しいのでは? この国では、その、ラドクリフ様は、……辛い思いをされているかもしれませんから」
アナスタシアは目を極限まで見開いた。愛らしい顔をしてとんでもないことをさらりと言うヴィクトリアを驚きを持って見つめていた。
「――王太子殿下のお言葉が枷になっていなければ宜しいのですけれど」
そう言いつつ、大きな目をしたアナスタシアの横顔をさらさらと紙に写し取っていったのだった。
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