元伯爵令息は隣国の王女に拾われる
久遠のるん
前編
親愛なるカーチャ姉さま
お姉さま、お元気でお過ごしでしょうか。
王都はここよりもずっと暖かいとお聞きしました。
そう、先日こちらでは今年初めての雪が降りました。
ちらつく程度でしたが、とうとう来たかとここの人たちは戦々恐々としている姿が可笑しくてなりません。
故国ジマカミエタの寒さに慣れたわたしにとっては何でもない寒さだからです。
本格的な雪が降る頃、この国では貴族たちは皆王都に集まり、議会が開かれ、社交シーズンが始まるそうですね。
ブラッドリーのおじさまが王都へ向かう前にと、わたしの歓迎会を開いてくださったのです。
田舎で申し訳ないが、とおじさまは恐縮しておられましたが、わたしにとっては初めての本格的な夜会でした。
国ではこうした夜会は偶にしか開かないので、物珍しさいっぱいで、とても楽しいものとなりました。
お姉さま、聞いてください。
とても素敵な方にエスコートしていただいたのです。
多分わたしは
あれきりその方の笑顔を見せてはもらえないのですから。
こちらの冬のような方だと、皆が言うのです。
わたしは、あの方の笑顔をもう一度見たい。
これは、恋なのでしょうか?
ねえお姉さま、どう思われますか?
貴女の末の妹 アナスタシア
◆
「君の歓迎パーティーを開こうと思うんだが、どうだろうか」
「まあ、嬉しいことです。ありがとうございます」
アナスタシアは心を弾ませた。ここと国境を接した自分の国ではこちらと考え方が違い、舞踏会などというものはさほど重要視されていない為、あまり開かれることは無い。だがあちらでも娘たちは夢見るのだ。書物で読むような華やかな舞踏会を。見目麗しい素敵な男性との出会いを。
自分は騎士に憧れて、騎士の修行をしに来ているのだということは重々承知だった。それでも十七になったばかりの未婚の乙女なのだから、少しくらい夢を見てもバチは当たらないんじゃないかと思う。
「それでだな、私は領主として、息子も同じくだが、妻をエスコートせねばならん。周辺の貴族令息に頼んでも良いのだが、いろいろしがらみやらがややこしくてな」
「はあ、……?」
アナスタシアには、遠縁にあたるブラッドリー・ケント辺境伯が何を言いたいのかが良く分からない。
「後腐れの無い適当な相手が思い当たらんのだ。だから、今回は、……」
扉を叩く音がした。おお来たか、とブラッドリーが一人の青年を招き入れた。
「何か御用とお聞きしましたが」
「ああ、ラドクリフ、紹介しよう。こちら、北の国ジマカミエタから来られたアナスタシア嬢だ」
「存じ上げております、アナスタシア王女殿下。王太子妃殿下の妹御ですね。ラドクリフ・マルサスと申します」
必要最低限の言葉を口にして、それは優雅な一礼をしてみせたその青年に、アナスタシアは目を瞠った。こんな辺境の地に(失礼)まったくそぐわない人物だと思ったのだ。佇まいや仕草を見れば分かる。どう見ても中央貴族のそれだ。
「アナスタシアです。こちらには剣の修行に来ています。……王女ってどうして分かったのかしら? こちらでは、その、隠していたのに」
「……簡単なことです。私は貴女を見たことがあるのですよ」
アナスタシアは、ここと国境を接している北の国ジマカミエタ王国の第五王女だった。同母姉の第二王女エカテリーナがこの辺境の地で騎士の修行をしている時に、グリーンヒル王国の王太子に見初められ、紆余曲折あった末に王太子妃となっている。グリーンヒル王国とジマカミエタ王国とは昔から交流が盛んで、両国の関係も良好だ。血の交わりも良くあることで、ブラッドリーの祖母はジマカミエタの公爵家の出だったことから、アナスタシアとケント伯は割と近い血筋だったりする。
だが、領主の親戚というだけでなく、隣国の王女となれば、どうしたって剣術の指導に忖度が出てしまう。同じ騎士見習いたちと同等に扱って貰いたくて、王女の身分についてはケント伯とその奥方、側近たち、辺境騎士団団長だけが知ることで、他には黙っていてほしいとお願いしていた。
なのに、こんなにあっさりとバレてしまうなんて!
「――これは失礼を。言ってはいけなかったようですね。誰にも言いません。お約束します」
あわあわと慌てているアナスタシアを見ると、困ったように目尻を下げて、首の後ろに手を当てた。長身のラドクリフが身を縮こませていると、まるで子犬がしゅんとなったようで滑稽に映った。
「面倒ですが、お願いします」
「うん、すまんが頼むよ、ラドクリフ。ここでは私の遠縁ってことで済ましているから」
アナスタシアは改めてラドクリフに向かって頭を下げた。王族が頭を下げるという行為にぎょっとしたように一歩下がりかけたが、思い直して笑顔を取り繕うのみに留める。アナスタシアには、取り落とした仮面を被り直したように見えた。
「それにしても、どこでわたしを見たことがあると?」
「――失言ですので、忘れて下さい」
薄い笑みを湛えたまま、やんわりと拒否されたのには少々不服だが、致し方ない。
「まあ、なんだ。アナもここへ来てひと月経つ。ちょっとした歓迎のパーティーを開いてやりたいんだ」
目を和ませてブラッドリーが笑う。それでな、とラドクリフの腕を取って、逃すものかと畳み掛ける。
「ラドクリフ、お前、その夜会で彼女の相手をしてやってくれ」
「はい? 私がですか。……いや、無理ですよ」
「何だ、約束した相手がいるのか」
「そんな相手はいません。だいたい私は平民で、ただの平の文官ですよ。王女殿下のお相手は難しいでしょう」
「適当な奴がいないんだよ、お前なら卒無くこなせるだろうと思って」
「ですが、……」
「頼むよ、ラドクリフ」
アナスタシアは二人の様子を見ていてだんだん腹が立ってきた。押し付け合われては、まったく以って嬉しくない。そんなに嫌なら無理してエスコートして貰う必要は無い。
「ブラッドリーのおじさま、わたしは一人で構いません。マルサス様にはご迷惑のようですし」
「だがな、アナ、この国ではエスコートは、特に夜会では必須なのだよ。デビュー前なら家族や親戚が務めるし、婚約者が居れば婚約者が、別に友人知人でも構わんのだが、とにかく二人で参加が当たり前なのだ」
「でも、……」
「……ブラッドリー様、それは命令ですか」
ラドクリフが目を眇めてブラッドリーを見据えた。いつものことだが冷気を感じる視線だ。そうだ、と返答してやる。
「命令とあらば、お受けいたしましょう。余所者同志、仲良くペアを組みますよ」
そんな言い捨てられたような誘われ方をされても、と不愉快だった。アナスタシアもラドクリフを見据えて言い放つ。
「嫌なら嫌だと言ってください。ちっとも嬉しくないわ。せっかくの初めての夜会なのに、こんな人と行かなくてはいけないの?」
「アナ、落ち着けって」
ふうと溜め息をついたラドクリフは、やはりちょっと困ったように首に手を当てて、視線を泳がせている。
「申し訳ない。言い方が拙かったようだ。もう一度やり直しても?」
そう言いつつ、流れるような自然さでアナスタシアの前に回り込み、左手を胸に置いて軽く膝を折って右手で彼女の手を取った。様子を伺っていたブラッドリーが息を飲むほど柔らかな笑顔を見せ、ラドクリフは誘いの言葉を口にする。アナスタシアは目を瞠った。
「アナスタシア王女殿下。今度の夜会のエスコートを是非、私にお任せください」
「よ、よろしくてよ、マルサス様」
「殿下、どうぞラドクリフとお呼び棄てくださいませ」
「……ラドクリフ様、許します。エスコート、お願いします」
取り上げた手の甲に触れない程度に唇を寄せ、これで体裁は整ったとばかりにラドクリフは綺麗な一礼を残してさっさと部屋から出て行ってしまった。ブラッドリーとアナスタシアの二人は、それを呆然と見送ることになった。
「うーん、悪い奴ではないんだがな……」
「中身はどうあれ、見目の良い方ですし、外見が整っていればいいですわ。楽しみにしています」
「そんな言い方、……。ここへ来て三ヵ月になるが、あんな笑顔を見たのは初めてだな」
「本当ですか? ですが、……作りものみたいな顔でしたよ」
「まあ、彼もいろいろあったんだ」
いろいろとは何だ。自分を見たことがあることといい、何だか良く分からない。アナスタシアは引っ掛かりをおぼえたものの、もう気にしないことにして、初めての夜会をとにかく楽しもうと決めた。
◆
ラドクリフは執務室を出ると、音を立てないように静かに扉を閉めた。周りに人がいないのを確かめてから大きく息を吐く。まったく、面倒なことになった。
ここへ流されてきてから、なるべく人付き合いを避け、領主の求めに応じて仕事を、それも遣い走りのような仕事を淡々と熟す毎日だ。初めのひと月ほどは自分を遠巻きに見ていた同僚も、だんだんと慣れて親しく付き合おうとしてくれる人もいる。一方で思っていたよりも自分は知られていたようで、王都で起こった事件のあらましを吹聴して彼を貶めようとする人間もいた。どうしてここで働いている、お前は罪人の子だろう、そう言ってあからさまにラドクリフを爪弾きにしようとする輩もいる。それに対しては納得するところもあるので、反論もせずに受け入れてしまっている自分が居る。そうすることが償いの一つになるのだと思い込もうとしているのかもしれない。
辺境騎士団には、貴族の次男三男が含まれており、ラドクリフの状況を詳しく知るものもいた。文官の自分とは直接関わり合いがないとはいえ、何やら厳しい視線を向けてくる存在にも気が付いていた。もしや、関係者がいるのだろうか。
だからと言ってどうする訳でもないのだが。受け入れてくれた領主に応える為に、より良い施策を領土に届けようと思っている。それが王家、特に温情を掛けていただいた王太子殿下の為になると信じている。
しかし、王女殿下のエスコートは正直言って気が重い。
事在る毎に交際を迫ってくる女性もいて、それに辟易していたのだ。だから極力社交はしないように避けていたのに。一度受け入れて夜会に出ると、次は私を、と勘違いされるかもしれない。
面倒なことになったと、再度溜め息をついていた。
◆
アナスタシアが次にラドクリフを見かけたのは、領主館の図書室の前だった。資料を抱えた彼は、女官や侍女と思しき女性たちにすっかり取り囲まれていた。しかし、聞きしに勝る不愛想、というか全くの無表情だ。取り巻く女性たちに対して、今にも凍りそうな視線を遠慮なく向けている。それに気付いているのか気付いていないのか。彼の気を引こうと懸命に秋波を送る様が、どう見ても同じ女性としてみっともなく思えた。気付くとアナスタシアは、わざとつんと不機嫌そうに声を掛けていた。
「あら、ラドクリフ様。ごきげんよう」
「アナスタシア嬢、ご機嫌麗しく」
「皆さま、ラドクリフ様をお借りしてもよろしいかしら。今度の夜会の打ち合わせをしたいのです」
領主の親族とは言え、たかが騎士見習いの小娘に高飛車な態度を取られて、そこに居た女たちは一斉に不愉快だと言わんばかりの顔をした。
「どうして来たばかりのあんたが」
「いやね、図々しい」
「お子様の出る幕は無いわよ」
「あら、聞いてなかったのかしら。ケント伯様直々のご指名なのよ。わたしのエスコートはラドクリフ様にお願いすることになったから」
「まさか。……ラドクリフ様、本当なのですか?」
「ご領主様からのご命令とあらば致し方あるまい。そういう訳だから」
諦めてくれと言外に匂わせて、ラドクリフは女性たちの輪から抜け出すと、見せつけるようにわざとアナスタシアの腰に手を回した。声にならない悲鳴が聞こえたような気がしたアナスタシアもまた、ぴくりと身体が緊張する。
「ラドクリフ様、あの」
「声を掛けてくださって助かりました。滅多に参加しないから物珍しさで誘ってくるんですよ。王都と違って、こちらはなかなか積極的な女性が多くて困っていたんです」
「……もう、随分来ましたから、手を離していただけませんか」
「不愉快な思いをさせて申し訳ない。アナスタシア殿下」
「殿下はよして頂戴。どうか、アナと」
そう言うと、またラドクリフは困ったような顔を見せた。
「さすがに愛称ではお呼び出来ません。勘弁してください」
「でも約束したから殿下はやめて。ここではただの騎士見習いなのですから、名前でお願い」
「では、……アナスタシア嬢、ところで打ち合わせとは?」
「別にないわ。あの人たちが気に食わなかっただけ」
その言葉を聞くと、珍しく頬を緩めてふっと笑みを零した。
「助けてくださって、ありがとうございました。では、ここで失礼します」
またもや平民とは思えぬ見事な一礼を見せて、そのまま領主の執務室へと入っていくのを見送った。どうしてこんなに気になるのかしら。アナスタシアは自分の心の中に答えを探してみたが、何も見つからなかった。
◆
数日後、今度は自分が相手のいない騎士たちに囲まれて、さあパートナーを選べと迫られていた。アナスタシアは、ここでラドクリフの名を出すのはあまり得策ではないと感じ取っていた。彼もまだここへ来てからまだ間がない。どうやらあまり良く思われていないことは肌で感じていたからだ。しかしあまりに執拗な勧誘にいい加減にしてくれと叫びたくなっていた。
「もうっ、ですから! わたしにはエスコートしてくれる相手は決まっているんですって」
「誰ですか、それは。俺たちよりも適任だと思えません」
「何も知らないくせに、どうしてそんなことを」
「騎士見習いのアナの相手には、同じく騎士である俺たちが相応しい筈です。俺たちの中から選んでくださいよ」
何だ、ただの我儘じゃないのか。むっとしてこのまま剣で薙ぎ倒してやろうかと身構えた時だった。
「寄って集って皆で何をやっているんだ」
いつもよりも冷え切った視線をこちらへ向けるラドクリフがそこに立っていた。
「一人の女性相手に失礼だろう」
「何だ、お前。口出しするな」
「そうだ、部外者は出て行け」
ここまで来ると言い掛かりでしかない。後で団長に密告してやる。とアナスタシアは心の中で息巻いた。
「関係はある。私が彼女のエスコートを承ったのだから」
「はああ?」
「だから悪いが今回は諦めてくれ」
「何を言うか! こ、こいつ……っ 嘘だろ? アナ」
「本当です。カンテ伯様から言いつかりましたから」
さすがに領主へ文句を言う奴はいなかった。渋々覚えとけと言わんばかりの顔でラドクリフを睨み付け、アナスタシアを解放した。
「ラドクリフ様、助かりましたわ。ありがとうございます」
「私は声を掛けただけで何もしていませんよ。貴女も大変ですね」
「皆、それぞれに夜会に夢を見ているのですよ」
「そんないいものではありません。夜会というのは戦場です」
アナスタシアは妙に悲しくなった。戦場って何よ。夢を見させてくれてもいいじゃないの。
押し黙ってしまったアナスタシアを、またもや困ったように見遣ったあと、いつもの綺麗な礼をして騎士団の鍛錬場から去って行ってしまった。
どうしてだか、彼はわたしの前で困った顔しか見せてくれない。そう気づいていたが、アナスタシアにはどうすることも出来ないでいた。何より彼のことを何も知らないのだ。
◆
領主の執務室に戻り、必要な書類を机に置くと、資料を抱えて隣に与えられたラドクリフ専用の机に向かう。人柄を表すかのように整頓された執務机に銀の盆が置かれていて、そこには数通の文が束ねてあった。
手に取ると一通づつ陽の光に翳して見る。念の為だ。怪しげなものは入っていないようだが、身に覚えのある紋章が押されていたものがあった。またか、と呟くと開封せずにそのまま暖炉に放り込んだ。
この辺境の地に来て直ぐに届いた文にも同じ紋章が押してあった。それは亡きメイヤー家のものだった。
誰にも知らせることなくここへ落ちてきたつもりだったが、隔絶された地というわけではない。むしろ王家との連絡は辺境の地だからこそ他の領地よりも密に取っているし、王都から来た役人も何名か働いている。見る人が見れば、姓を変えたとはいえ、彼の出自は分かるだろう。
母が亡くなってから父は明らかに精神のバランスを崩した。どこでああいった思想に陥ったのか、ラドクリフにはまるで検討もつかなかった。同じ王宮で、しかも同じ部署で働いていた筈なのに、ちっとも気付かなかったことが、胸の奥の苦しみを完全に取り去ることは決してないだろう。
二人の弟たちは父のやっていることにかなり関わっていたようだが、もうこの世にいないので真相を確かめようも無い。
父親のやっていたことは、麻薬の密輸と国家反逆罪である。行方不明のまま裁かれ、家は取り潰された。一応婚約者もいたが、事件が明るみになるとさっさと離れていった。所詮はその程度の間柄だったから後悔も何も無い。弟たちは遠くで強制労働についたと聞いたが、どうやら早い段階で処刑されたらしい。
二人がいつも手に嵌めていたメイヤー家の紋章の入った指輪が王太子経由で形見として届けられた時、ラドクリフは静かに涙を流した。
西の辺境に嫁いた姉は、いったん離縁されたものの、そのまま自主的に軟禁状態の元夫の世話を引き受けているという。あの気位の高い姉がメイドまがいのことを、と驚いたが何か思うところがあったのだろう。しかし慣れない家事に苦労しているのではないかと不安になった。なんと言ってももう二人きりの姉弟なのだ。一度だけ、こちらで一緒に暮らさないかと文を送ったことがある。だが緩やかに拒絶されてしまった。
あなたはあなたに出来ることをして王家に償いなさい。私は辺境伯夫人であった時よりも今の生活に満足しているのですから、と。
姉はどうやら幸せらしい。そのことに安堵すると共に、こうして馬鹿げた企みを唆す文を送ってくる連中に対しては、怒りを感じるのだった。
今の王家は正しくない。王統を正さねばならない。銀の髪を持つものこそ王に相応しい。あなたには父伯爵様の想いを継いでほしい。
馬鹿か。一笑に付すしかない。
中心となったメンバーは捉えられて処刑されたというのに、何を言う。
そんな主張がまかり通ることが許される今は、平和なのかもしれない。そしてその平和は銀髪ではない今の王家のおかげなのが分からないのか。
こちらへと来るときに、ラドクリフを見送ってくれた美しい銀の髪を持つ男を思い出す。彼は王太子に忠誠を誓った側近のひとりだ。あの男は王の座には興味がない、興味があるのは妻の意向だけだろう。彼女が望めば王座を乗っ取るかもしれないが、そんな愚かな方ではない。万に一つもあり得ない。
だから余計に取るに足らない馬鹿げた主張でしかないと思うのだ。
中身を確かめた最初の一通以降、封を切ること無く全て処分している。完全に燃え尽きたことを見届けて、別の陳情書と思われる封筒を手にした。
◆
あっという間に夜会の当日になった。ブラッドリーの奥方付きの侍女やメイドに磨き上げられて、アナスタシアは久しぶりのドレス姿になっていた。普段鍛えているのでしっかりと筋肉の付いた身体は、王国で好まれるという華奢なイメージとはかけ離れている。しかし身支度を手伝ってくれたメイドたちはうっとりとした笑みを見せて揃って褒め上げた。
「お上品で気品があってとても素敵ですよ。さすがに王女様ですね」
「ありがとう。でもこんな筋肉質の身体じゃ、殿方には嫌がられるわね」
「大丈夫ですよ。あの孤高の文官殿だって堕ちてきますよ、きっと」
きゃあと揃って黄色い悲鳴を上げる。おちる、とは? アナスタシアは首を捻った。王国の言葉は時折難しい。
失礼します、と声が聞こえた。部屋に入ってきたのは今日のお相手ラドクリフだった。彼はアナスタシアを見ると、一瞬ふわりと笑んだ。だがすぐにいつもの無表情に戻ってしまった。
「支度は整いましたでしょうか?」
「はい。皆さんのおかげで」
「ではまいりましょうか」
すっと手を差し出され、自然に手を取られる。一応口角を上げて微笑んでいるように見えるが、心からの笑みでないのはこちらだって同じことだ。社交用の顔が出来るということは、そういう立場に居たということだ。
アナスタシアのエスコートをラドクリフが担うと皆に知れ渡ると、彼の今の立場や王都で何があったのか、いろんな噂話をアナスタシアの耳に寄って集って入れようと館中が浮足立った。でもそれはやっかみだということが分かっていたから、彼を何とかして貶めようとする噂は信じていない。アナスタシアは自分で見たもの聞いたことを大事に考えていた。どうにかして彼女と組みたい男たちは、悔しげに地団駄を踏む羽目になったのだ。
それにしても全てが完璧だった。薄く笑んだ顔は、見栄え良く目鼻立ちが整っている。すらりとした立ち姿、すっきりとした琥珀の眼差し、緩やかにうねるライトブラウンの柔らかな髪、洗練されたグレーの正装姿はどう見ても都会の仕上がりだ。加えてダンスのステップも軽やかで、ダンスには自信のあったアナスタシアも驚くほど踊り易かった。これまでのところ、文句をつけるところは一つもない。周りの人たちも吃驚しているのが分かる。さすがは王都仕込みの社交術か。
噂ではラドクリフは伯爵家嫡男だったという。それも王宮で文官として任官していて、外交を担当していたとも聞いた。若手の中では群を抜いて優秀だったとも。こうした、いやもっと煌びやかな夜会は彼にとっては慣れ親しんだものなのだろう。
実際ラドクリフとアナスタシアだけがこの辺境の地にあって洗練され過ぎて妙に浮き上がって見えていた。領主夫妻やその令息夫妻よりも、目立つ存在になっていた。アナスタシアを歓迎するパーティーだといえ、二人だけに光が当たっているようだった。
アナスタシアは確かに楽しんでいた。今日のラドクリフは嫌味の感じられるところがない。初めての夜会、申し分のないエスコート、軽やかなダンス。すべての面でラドクリフに満足していた。これで彼に会う度見え隠れする困った顔が何とかなれば、だが。
「ラドクリフ様」
「何ですか? アナスタシア嬢」
「貴方はどうしてそんなお顔を」
「気に入りませんか? 顔は変えられません、今晩だけですから我慢して下さいね」
牽制するように言われてしまうとそれ以上何も聞けなくなった。仕方がない。本人がいつか話してくれるのを待つしかない。
そうしてアナスタシアはかなり長く待たされることになる。
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