杣人の男

@ninomaehajime

杣人の男


 杣人そまびとの男は迷信が嫌いだった。

 山で木を伐っていると、遠くから大音響が聞こえてきた。天狗倒しだと恐れ、慌てふためく仲間を白けた心地で見ていた。

 音がした場所へ行っても何もない。これ即ち天狗の仕業なりと、人は言った。はっきりとした原因がわからずとも、男にはある程度の見当がついていた。閉じられた山中では思いがけず音が伝わるものだ。家鳴りという現象があり、材木は湿気で軋む。同じことが山の木々で起きても不思議ではない。

 少し頭を働かせれば思い至ることなのに、天狗や狐狸こりのせいだと騒ぎ立てるのにはほとほと嫌気が差していた。挙句、妙な噂まで立つ始末だ。

 この山には山男が棲むという。何らかの生き物の血を顔に塗りたくり、手には赤く錆びついた斧を握り締めているそうだ。

 実に馬鹿げている。自分はこの杣山そまやまで長年木を伐っており、話に聞く山男を目撃したことは一度もない。大方流れ者か、異人でも住みついたのだろう。

 この土地は海と接しており、しばしば海上に竜巻が発生する。近海を通りかかった異国の船が沈没し、その乗員が漂着することがあった。彼らはいずれも大柄で異様な風体をしており、赤ら顔だった。

 天狗や鬼の正体も異人に違いない。マレビトを目の当たりにして空想上の存在を作り上げたのだろう。

 何と度し難いことか。この世に奇々怪々など起こらないものだ。

 杣人の男は商家の生まれだった。算術を習い、ゆくゆくは商売を継ぐのだと信じていた。ところが両親が怪しげな宗教に入信し、お布施と称して家の財産を引き渡した。経営が立ち行かなくなり、あっという間に一家離散へと追いこまれた。

 今の杣人集団の親方に拾われなければ、自分は野垂れ死んでいただろう。

 日々木を伐りながら、男は考えた。神も仏もおらぬ。ならばこの世には妖怪変化の類も存在してはならぬのだ。

 よく晴れた日だった。杣人の男は斧を担ぎ、杣山へ向かっていた。その足元に、何かが落ちてきた。

 死んだオコゼだった。しばしば山の神に捧げられる、醜い外見をした海の魚だ。男は呆気に取られ、空を見上げた。

 何もない空にも関わらず、次々と魚が降ってきた。アカエイ、トビウオ、河豚ふぐ、蛸まで混じっていた。周囲に降り注ぐ異物の雨に杣人の男はしばし立ち尽くし、やがて頭の中である仮説を立てた。

 降ってくるのはいずれも海の生き物ばかりだ。竜巻は渦中にあるものを空へと巻き上げる。舞い上がった魚は空を漂い、いずれ地へと叩きつけられるだろう。自分は、今まさにその瞬間を目の当たりにしているのだ。

 異様な光景に取り巻かれながら、杣人の男は腑が落ちた。やはり、この世に怪異などありはせぬ。

 その男の眼前に、一際重い音を立てて何かが落下してきた。瞳が下りる。その正体を目撃して、目を見開いた。

 女だった。上半身裸で、濡れた黒髪を垂らしている。そしてあろうことか、下半身は人間の足ではなかった。ひれを有する、魚の尾だった。

 その女はまだ生きていた。息も絶え絶えに、男に向かって手を伸ばす。指のあいだには、水かきが張られていた。

 杣人の男はまばたきもせず、ただ斧の柄を握り締めた。魚の下半身を持つ女の横に回り、斧を振り上げた。無骨な刃が、人間と魚の境目に振り下ろされる。

 人にあらざる絶叫が響いた。一度では切断には至らず、何度も斧を振った。顔面に返り血を浴びても、男は手を止めなかった。

 杣人の男は消息を絶った。彼が通ったであろう道にはおびただしい魚の死骸と、下半身のない女性の死体、頭部を失った魚の尾が残されていたという。奇怪な状況に誰もが祟りだと恐れた。

 山男の噂は絶えない。

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