神保町自転車駐輪所
犀川 よう
🚲
詩と批評ジャンルの雑誌という、当時エロ同人のシナリオ書きであるわたしには無関係な出版社に何故か縁ができ、神保町のとある出版社に通うことになった。まだ競馬やパチスロに狂っていた二十代中盤で、平日はその出版社に自転車を置かせてもらい、土日はその自転車で後楽園や秋葉原に行くという、非常にお気楽で女とは思えぬ振る舞いをしていた頃の事だ。
その出版社のビルの横にある金網に自転車をチェーンでロックしてから三階に上がり、編集部に入ると一人の中年男性がいた。わたしに競馬研究という新聞を勧めた人だった。中年男性は冒頭で説明した雑誌の編集者で、わたしの書いていたエロ同人のサークルがお気に入りであった。当時のわたしはGという謎深い人物を中心に、十名くらいのサークルで二次創作のシナリオ書きをしていた。趣味ではなくあくまでも小遣い稼ぎであった。
彼はその同人サークルのファンで、わたしのサークル仲間の誰かを経由してわたしに声を掛けてきた。それが縁となり交流が始まるのだが、ある日突然、「批評を書いてみないか」と言ってきた。
聞けば、ある作家の批評について書くはずだったとある先生が穴を開け、何とか埋め合わせしないといけないらしかった。運悪くバイトや飼っている代筆の人間も手が回せず、困っていた彼は「頼むよ。自転車ここに置きたいだろ?」と少しばかり脅迫めいたことまで言ってきたので、「適当でいいなら」と引き受けた。対象はとある有名な女性作家であったが、まだ文芸のブの字も知らないわたしには全く未知の世界であったので、まずはもらった小説をただフラットに読んでいった。――それがまさかわたしが今日まで書いている一次小説の「型」になるとは知る由もなく。
一応の「読書感想文」を書き、そこからその作家の特徴をいくつか抜き出し、捨象して、ありきたりな文言を盛り込み、さも批評っぽくした。サークルのオタクどもと一緒に活動していたので、批評するスキルだけは鍛えられてきた。オタクの謎の知識過多と現状把握の弱い理想論で蘊蓄を語る技術が、まさか文芸誌の役に立つとは思わなかった。出来は当然イマイチらしいが、締切までの時間もないことから、数回の全体リテイクと穴開けた作家の書き方に変更して誌面に載る事になった。二千字程度とはいえ、初の一次作家としての誌面デビュー作でもあった。(まあ、ただのゴーストなのだが)。
お礼に自転車永久駐輪権とご飯を奢ってくれた。わたしとしては自転車は神田・お茶の水・秋葉原周辺を回るのに必要だったので、ありがたかった。お金にならない文芸を書くのはコリゴリであったが、神保町という街が好きなわたしには良い待遇であった。わたしは遠慮なく土日に自転車を使って後楽園と秋葉原を徘徊した。勝ったときには自転車の籠にお菓子や弁当を山盛り入れて、休日出勤の編集者たち振舞ったりしていた。呑気で楽しい時代だった。
和やかな特別待遇というのは周囲の僻みを産むということを、若いわたしはまだ理解していなかった。ある日の週末の夜、自分の仕事が早く終わったので、編集部に入ろう思ってビルの前まで来ると、自転車のブレーキが切られていた。それも両手で切断する大きなニッパーのようなもので切断されていた。わたしは慌てて編集部に駆け込み、「ブレーキが切られている!」と叫ぶと、とある若い事務員の女性が少しだけ肩をビクッと動かした。女の敵はなんとやらで、わたしが来ると彼を独占していた事に腹を立てて犯行に及んだのだろうと、肌で理解できた。後に歳の差結婚するのだが、当時のわたしにはそんな事は関係なく、ただ自転車が乗れなくなったことに怒りと悲しみを覚えた。翌日お茶の水だったか小川町だったか忘れてしまったが、自転車屋に持ち込んだが、結局買い直すことになった。一レースの掛け金程度とはいえ、ギャンブルと男以外にお金を使うのが嫌だったわたしには結構ショッキングな出来事だった。
それからは彼との接触は最低限にしつつ、自転車だけは置かせてもらった。彼女もそれ以来露骨に敵意を表すことはなかった。女の機微には疎いわたしであったが、最大限の気を使って過ごした。
そんな彼女なのだが、奇跡を起こした事があった。わたしが編集部で競馬研究を見ていたら、「この馬、絶対に来る」と突然言ってきたのだ。わたしも彼もまさかと思いながらも、あまりにも真剣にかつ確信的に言うので、面白くて試しに大金を賭けてみた。結果はまさかの大当たりで、わたしは自転車何台分もの利益を得た。
後日、菓子折り持って彼女にお礼を言うと、彼女は机の下から大きなニッパーを出して、笑顔のまま、「彼とは結婚するつもりなの」と言ってきた。わたしは、「まさかそんな縁切り道具と手切れ金の渡し方があるのかい」と思いながら、静かに編集部を去った。その日を最後として、わたしは自転車をとめることをやめたのであった。
神保町自転車駐輪所 犀川 よう @eowpihrfoiw
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