第5話 大団円

 信二は知らなかったのが、いつの間にか、向井お菓子屋が店を畳んで、そそくさと引越していった。

 要するに、

「夜逃げ状態」

 だったのだ。

 最初は何が起こったのか分からなかったが、話を聴くと、どうやら、

「詐欺師に騙された」

 のだという。

「お菓子を大いにプロモーションし、全国で、あらゆる手段を使って販売すれば、相当な金が儲かる」

 ということを言われ、最初はさすがに、

「大丈夫なのか?」

 と考えたそうだが、どこに相談するということもせず、結局、その口車に乗ったのだという。

 しかし、怪しいと思えば、契約書くらいちゃんと読めばいいものを、どうしても、自分たちのやり方で来ていたものを、

「もちろん、主導権はあなた方で、私はあくまでも、裏方でお手伝いさせていただくだけです」

 と言って、彼らがいくらの報酬になるのかということも、ちゃんと契約書に書かれているところを指差す形で、確認させた。

 そもそも。どのページに、そのことが乗っているかというのが分かっていて、一発で開くようにできていたことで、店側は、却って、

「ああ、それだけ、こちらの不安を吸い上げてくれるのだ」

 と思ったようだ。

 普通だったら、

「よくある質問」

 ということで、

「絶対に質問があるに違いない」

 ということで、あらかじめ、どこに紹介する時もそれを強調しているということであり、今回は、そこまで集中もしているわけでもないのに、いきなりページを開いたということで、怪しく思えば思えないわけではない。

 それを怪しく思わなかったのは、それだけ、

「こういうことには慣れていない」

 ということだ。

 だから、彼らも、

「老舗で、商売っ気のない人たち」

 を狙うのだろう。

 お金が絡むことで怖いと思えば、弁護士くらいは立てようと思うだろう。しかしやつらは、それも分かっていて、交渉の弁護士も、紹介くらいはするという、

「念には念を入れた」

 と言ってもいい、やり方だったのだ。

 彼らの手法としては、確かに、表の収入は契約書通りなのだが、この契約には、何と、著作権譲渡というものが含まれていた。

 つまりは、著作権を自分たちにも与えられ、そこで商売ができるというものだ。もちろん、元の著作権はそのままだが、

「登録商標の使用」

 を詐欺グループに認めさせるというものだ。

 彼らには、工場のようなところがあるので、製造方法などのレシピさえあれば、いくらでも大量生産できるというものだ。

 元々のお菓子会社とすれば、大量生産をされて、簡単に売りさばかれたら、こちらの利上げが徐々に減る。いや、それよりも、

「こんな大量生産などされたら、今までのブランドが台無しだ。皆手で作っていたものを何だと思っているんだ」

 ということになるのだ。

 それが一番の問題であり、果たして、そうなると、

「一種のダブルパンチを食らった」

 ということになるのである。

 さすがに、家族自体が、何も言わずにどこかに行ってしまったのだから、気にはなるが、それ以上、気にかけても仕方がないことだった。

 自分もかつて苛めに遭って、どうしていいのか分からない状態になっていたので、果たして、どう対応していいのか分からないということになり、それが、自分の生活リズムを狂わせるようなことになっているとは、自分でも、思っていなかった。

 だが、

「今の自分は、勉強などでは、自分が持てるようになったことで、自分は、何でもできるというくらいの思いを持てるようになった」

 ということで、

「まさか、自分が精神疾患を患っているなどと、思ってもみなかった」

 ということである。

 しかし、実際には、躁鬱のような感じであった。

「何でもできる」

 という躁状態になってしまったことで、

「自分が、病気などというわけではない」

 と思うのだ。

 そもそも、

「躁鬱というのは、誰にでもあることで、それを表に出すか出さないか?」

 というだけの問題だと思っていた。

 しかも、その躁鬱は、

「大人の病気」

 と思うようになったので、

「その感情が、大人になれば、皆出てくることで、一種のはしかのようなもので、

「罹っている期間は長いが、一時的な、誰もが通る道」

 であるかのように思っていた。

「だから、躁鬱状態が、長いか短いかどうかということであり、長い人は、下手をすると、長期化してしまい、一種の慢性化ではないか?」

 と考えるようになった。

 それを、

「精神疾患だ」

 というように思っていたので、もちろん、病院に行く気もないし、

「一時的な気の迷いものだ」

 ということになると、

 必要以上に。余計なことを考えないようにしようと思った。

 実際に、この時も、数回の躁鬱状態を繰り返したことで、期間とすれが、半年もなかっただろう。

 自然と、躁鬱が引いていったような気がしたが、結局は、

「治ったんだ」

 としか思わないようになった。

「治ったわけではない。慣れてきたのか、慢性化したのかというどちらかなのではないだろうか?」

 と考えるようになったのだ。

 だが、実際の躁鬱は、少し収まったとはいえ、自分から消えたわけではない。

 だから、治ったと自分で思ってみても、

「勘違いなのかも知れないな」

 と感じる。

 確かに勘違いのようなのだが、

「自分で自分を納得させることができない」

 と感じると、本当に、どこまでが、自分にとっての感情なのか分からない。

 そう思うと、

「病気なのかな?」

 と思う。

 それは今までの自分が自分に対して自信を持っていたからで、それが、持てなくなると、そして、

「それが、自分のせいではない」

 と感じると、それは、

「本当に病気なのではないか?」

 と感じるのだった。

 どうしても、躁状態から鬱に入ると、今度は、

「俺って、どうしたんだろう?」

 と感じるようになる。

 悪い方にばかり気がいってしまい、

「これ、本当に病気なんじゃないか?」

 と思うと、

「あの時病院に行っとけばよかった」

 と思った。

 だから、余計に、

「病院に行こう」

 と思っても、

「いまさら行っても、自分が病気だということを、自分から公表しているものだ」

 と思い、とてもではないが、自分から病院に行こうなどと思わない。

 しかも、鬱になると、身体が動かなくなる。表に出ようとしても、まわりが皆敵に見えてくるような気がして、身動きができなくなってしまうのだ。

 部屋の掃除すらできなくなり、食事も作れない。そうなると、すべてを悪い方に考えてしまい、

「俺は、寝るところもないほどのところにいて、何から手を付ければいいんだ?」

 ということになると、今までは分かっていたと思っている、

「優先順位」

 というものが分からなくなってくるのだ。

 というのは、自覚の中にあったのだ。

 ただ、前から、このような症状があったわけでもないので、

「これからすべてが、未知数」

 ということで、

「余計に、鬱状態が侵攻していくのではないか?」

 と考えるようになると、その感覚が、

「何をどうしていいのか分からない」

 ということにしてしまうのだった。

 そんな中において、最近気づいたことであるが、

「俺って、二重人格なんじゃないかな?」

 と思うようになった。

 二重人格というのは、そもそも、

「正反対」

 である必要もないし、

「紙一重」

 である必要もない。

 なぜなら、

「バカと天才は紙一重」

 という言葉があるが、まさにその通り、紙一重というのは、

「どちらとも取れる」

 ということであり、それは、他人の感じ方であったり、もちろん、自覚ということもあるだろう。

 それを考えると、躁鬱症というものが、見た目は、

「まったく正反対」

 のように見えるが、躁と鬱を、

「正反対のもの」

 といって、決めつける必要もないだろう。

 それを考えることで、余計な考えを抱く必要はさらさらないわけで、

「自分が分からないのであれば、分かるように説明してもらうか、分かるように環境を自分から変えるようにすればいいだろう」

 と言えるのだが、

「実際にそこまでできるという人がどれだけいるか?」

 というだけのことであり、

 それを考えると、本当の意味での、

「バカと天才」

 というものの関係性を考えてみたくなるのだった。

 その結界というのを見てみたい気がするのだった。

 大学生になると、高校時代までの反動からか、勉強よりも、遊びの方に集中するようになった。

 その遊びというのは、それまでしたことがなかった風俗であったり、ギャンブル関係であった。

 特に風俗は、

「今までの俺には関係のないところだ」

 というようになっていた。

 特にソープのようなところは、

「高いし、そう何度お行ける場所ではない」

 と思っていたので、

「じゃあ、一回くらい」

 ということで行ってみると、嵌ったのだ。

 相手が、

「こちらが童貞だ」

 と思うと喜んでくれる。

 そこが嬉しく思ったので、童貞でもないのに、

「僕、初めてなんです」

 などといって、相手を欺いているというよりも、

「まるでゲームをしているような感覚だった」

 といってもいいだろう。

 そんなこともあって、再度の本指名という形はとらなかった。

 相手が憶えていれば、どうしようもない。

 だから、用心のつもりで、店も変えるようにしていた。

 さすがに、そう何度も、高級店で遊べるわけではないので、大衆店の利用で、ほとんどが、60分コースだった。そんなにしょっちゅういけるわけではないということで、月に行けて、1回くらいだった。

 そのうちに、入った店で、どこかで見たことがあると思った女性がいた。

 彼女は、最初はなるべく顔を合せないようにしていたので、気になって見ていると、何と彼女は、なるみだったではないか。店では、

「源氏名」

を使っているので、分からなかったのだが、それよりも、

「お久しぶりね、信二君」

 というではないか。

 明らかに、こちらのことを知っている口ぶりだ。

 しかも、

「信二君」

 などと呼ぶのは、後にも先にも、大人に呼ばれる以外は、なるみだけからだったのだ。

「ここにいたんだね?」

 と聞くと、

「ええ」

 という。

 一生懸命に働いて、借金を返そうとしているのは、見ていればよく分かる。しかし、

「イヤイヤ働いている」

 という雰囲気はまったく感じさせないのだった。

 その証拠に、

「私、昼間は大学にも行っているのよ」

 というではないか。

「借金を返しながら、大学にも通う」

 というのは、それだけ、後が見えてきたということだろうか?

「あと、2年くらいで、めどがつきそうなの」

 というではないか。

 だったら、信二も、なるみに対して考えることはない。

「それにね。私、お客さんが信二くんだって分かっていたの。それでも話をしたかったから、NGにはしなかったの」

 というではないか。

 向こうからマジックミラーで見れば、簡単に相手が誰か分かるというもの、なるみが、自分と、

「話したい」

 と思ってくれたとすれば嬉しいし、なるみが

「客とキャストの関係」

 でいたいということであるから、信二も、そのつもりでいるのだった。

 なるみの話を聴いていると、

「私、将来の夢を持って、それに向かってやってるので、このお仕事も好きなのよ。今まで知らなかった人たちとも知り合えるし、誤解もないしね」

 というのだった。

 信二は、自分が二重人格であるのを理解し、その理解が覚悟を感じさせるのを分かっていたので、この関係性を、

「三すくみ」

 のようだ。

 と思うようになった。

 きっと、まわりの皆は、なるみが、

「自己犠牲」

 という言葉の下に、仕事をしているように思っているようだが、それは大間違いだった。

 その三すくみの中に、一つは、

「自己犠牲」

 というものがある。

 それを感じさせず仕事をしている、なるみに、感動すら覚えていた。

 信二は、自分の苛められていた原因が、この二重人格性にあると思っていたので、それが、前と違って、なるみがいることでの、

「三すくみ」

 となることを感じていた。

「いずれは、お菓子屋の再興と、それによっての、酒屋とのこれからを考えると、まだまだ頑張れる」

 ということであり、ひょっとすると、昔からの悪しき伝統を、

「自分たちの代で、打開できる」

 と感じている信二だったのだ。


                 (  完  )

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「三すくみ」と「自己犠牲」 森本 晃次 @kakku

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