第4話 虫の知らせ
そんな形で苛めに遭っていた中学時代を過ごしていた信二だったが、それが一段落してきたのが、高校生になってからだった。
高校生になれば、
「学力の違い」
というものがそのまま、進学する学校に変わってくるので、自ずとそんな連中とは、
「行く高校が違う」
ということになるのだ。
中学三年生の頃になると、
「このままだとあいつらと同じ学校にいくことになる」
ということが分かっていたので、
「少しでも、あいつらよりもいい学校に行かないと気が済まない」
と思ったこともあって、積極的に勉強をした。
家族にしても、学校の先生にしても、それまで勉強というののに、興味を示さなかった信二に対して、
「少し気を病んでいた」
と言ってもいいだろう。
「さすがにあの連中よりも、いい学校に行きたい」
という思いが強かった。
それは、今までの
「苛め」
に対しての、
「ささやかな抵抗」
と言ってもいいかも知れない。
いい学校にいく必要はないのだが、実際に勉強をしてみると、
「思ったよりも、勉強をすることって面白い」
と思ったのだ。
勉強をすることが楽しいというのは、まったく想像もしていなかったことであり、それだけ、
「集中している」
ということが楽しい。
と言っておいいだろう。
さらに、勉強をすると、結果がすぐに出るということも嬉しかったし、
「どうして、こんな楽しいことに、今まで気づかなかったのだろう?」
と感じるほどだった。
結果がすぐに出て、その結果がいい方向であれば、それまで、まったく無関心だった自分に対して、
「気に掛けてくれる」
という人が増えてくれるのも嬉しかった。
今までは、変に構わられると、
「鬱陶しいだけだ」
と思っていたが、
「すごいじゃないか?」
だったり、
「見直した」
などと言われると、当然のごとく、有頂天いなってしまうのも、当たり前というものであった。
しかも、最初の目的である、
「苛めている連中と離れる」
ということも、達成できそうだし、まわりからは、
「一目置かれる」
ということも、嬉しかったのだ。
そんなことを考えていると、
「勉強が好きになっている自分が楽しくて仕方がなくなっていた」
勉強も、
「やればやるほどできる」
というようになり、学校の先生も、
「最初に計画を立てた通りに、順調に進んでいるので、合格にかなり近づいてきた」
と言ってくれたことで、またしても自信が出てきた。
人によっては、
「おだてが、プレッシャーになる」
という人もいる。
しかし、信二に限ってはそんなことはなかった。おだてがプレッシャーになるというよりも、
「一生懸命にやったことが、形になる」
と考えることが、嬉しくて仕方がないと思えるようになったのだった。
そんな風に、余裕を持って考えられるようになると、事は結構うまく運ぶもので、
「試験当日の一発なので、何があるか分からない」
というように思っている人も多いだろうが、それよりも何よりも、
「信二というのは、余裕があれば、たいていのことは思ったようになる」
という意識をまわりも持っていて、実際にその通りになってきた。
「天性の何かがあるのかも知れないな」
とすら言われるようになったもので、その頃は、その
「片鱗」
というものが見えていた。
と言ってもよかったのではないだろうか?
そんなことを考えていると、実際に試験前は若干の不安が無きにしも非ずであったが、実際に当日になると、不安は消えていて、本番に強く。当然、合格できたというものだった。
それが、彼にとっての、
「開き直りだ」
というものであっただろう。
開き直ることが、自分をいかに、引き揚げてくれるかということに気付かなかったことが、
「実にもったいない」
と言えるのではないだろうか?
まずは、人生の最初の関門と言ってもいい、
「高校受験」
というものを、
「目標高校への合格」
という形で叶えたのであった。
そのおかげで、中学時代の連中とは離れることができた。
しかも、
「目標を上げて合格した学校だから、今までのように、低レベルではなく、皆同等か、それ以上なので、自分が今どこにいるか? ということを見臼なうと、厄介なことになるのではないか?」
ということを言われているが、まさにその通りであったのだ。
だが、それは、信二に限っては言えなかった。
信二の中に、最初からその思いがあったからだ。
「本当であれば、当たり前のことだ」
と言われるのだろうが、実際に信二のその気持ちは、そういうわけではなかったのだった。
実際に、勉強ができたことだけではなく、
「冷静に、まわりをしっかりと見ることができた」
ということが、信二を、
「間違った道に進ませないことだ」
と言えるのではないだろうか?
「なんといっても、冷静になれること」
というのが、一番大切なことであり、
「そのことが分かっていなければ、自分に将来はない」
と考えさせたのは、
「元々、自分を虐めていたやつだ」
というのは、
「実に皮肉なことではないか?」
と言えるのではないだろうか?
確かに、中学三年生の頃は、ほとんどが、トップクラスの成績で、先生が舌を巻くほどの成長ぶりに、
「これだと、二段階ランクを上げても大丈夫だ」
という、
「お墨付き」
というのももらっていたのだ。
実は彼は最初から、
「二段階上の成績」
というものを目指していた。
それは、
「目標があくまでも一ランクが上の学校ということだった」
ということだからだ。
「どんなに成績が上がっても、一ランク上よりも上の学校を受験しない」
ということだったのだ。
だから、二段階上を目指したというのも、そのためであり、それを考えると、最初から、
「確信犯だった」
と言ってもいいだろう。
それを考えると、
「今までに関わっていた連中が陥りがちなことに、自分の身を置くのも嫌だ」
と思ったからだ。
どんなに成績がいいからと言って、ランクが上の学校に入れば、
「自分と同等、さらには、それ以上の連中ばかりがいるわけなので、うまくいっても、中くらいの成績しか取れないんだろう」
と思ったのだ。
「下手をすれば、劣等生」
と思うと、
「ランクを一つ下げた学校に行くのは、当然のことだ」
と思っていた。
学校側からは、
「せっかく、合格圏内と思えるのに、もったいないな」
と言われることだろう。
それも、
「学校側の思惑」
ということであり、
「学校の格と品があがることを唯一の目的とする」
というような、中学校に合わせていれば、子供が潰される。
「自分がそんな仲間に入りたくはない」
というのが当然の目的になるということである。
だから、信二は、そんな
「一ランク下げた学校が、目指している学校だ」
ということで、うまい具合の、最初からの計算ということになったのである。
中学で自分を虐めていた連中は、普通に、
「誰でも入れる」
というような学校に入学したが、当然のことながら、
「今までの劣等生が、這い上がれるわけもなく、劣等生のままだ」
ということになるのだ。
何と言っても、
「あいつらは、努力などしてないから、この結果は当然だ」
と思っていた。
自分を虐めた報いを受けるのは、当然であり、
「人に災いを振りかけると、それは、ブーメランとなって、自分に戻ってくることになるのだ」
ということを知らなかったのだろう。
そして、
「何で、俺は劣等生のままなんだ?」
ということになり、
「その理由が永遠に分かるわけはない」
と思うことで、
「やっぱりな」
と、さらに、自分の考え、ビジョン、そして間違っていないということが、
「やつらによっても、証明を得られた」
と考えることが、自分の中での、
「冷静さ」
につながるということで、有頂天になるのも分からなくもないということであった。
高校に入学すると、自分の方は、どんどん、まわりの雰囲気も、自分のこともが、すべてにおいて好転していった。
「一つのことがうまくいき始めると、次第に、すべてがいい方にいくんだな」
とは、思ったが、そもそも、
「石橋を叩いてでも渡らない」
というほどの、用心深い信二は、どうしても、そこまで来ても、
「順風満帆だ」
というようなほどに、うまく言っているとは思えなかった。
というのも、
「好事魔多し」
という言葉があるように、うまくいっていると思っていても、すべてにおいて、
「そんなにうまくいくはずなどない」
と思っているのだった。
それがどういうことなのか?
ということになると、
「どんなに、うまくいっている時でも、ちょっとしたことで、暗転してしまうことになりかねない」
ということであり、
「何かが好転する時だって、うまくいく時が連鎖的に起こるではないか?」
ということで、ロクでもないことが起きる時も、何かのきっかけが、連鎖することもあるといえるのであろう。
特に、これは、精神的なことが多く、
「うまくいかなくなるということは往々にしてあるもので、そのあたりが自分でも感じられるようになると、その予感が、ウソではないと思えると、悪い方に向かうと思えてならなくなってしまう」
ということであった。
そんな状態において、
「一度精神的に、まずくなると考えると、もう自分では、どうしようもできなくなってしまう」
ということになりかねないのだった。
それを考えた時、どうしても、自分の目線が表に向いてくるということが分かってくる」
と言えるだろう。
内に向くよりも、外の方に見えてきてしまうというのは、やはり、かつて感じた、
「トラウマ」
というものが大きく影響してくるのではないかという思いであった。
トラウマというと、どうしても拭い去ることのできない感情ということで、そこには、中学時代の苛めが関わっているのも、仕方のないことであろう。
「トラウマというものは、自分で解消した」
と思っていることだろう。
しかし、確かに自分で解消はしたのだが、それも、原因が分かっていて、自分にも非があるというようなことを感じたからこそ、自分では、
「トラウマとしては、残っていない」
と思っていたのだ。
だが、その思いを自分で感じていたとすれば、それは、
「何かの矛盾が自分の中に残っている」
ということであり。
「苛めの中にトラウマと化すようなものがあったということか?」
と考えるのであった。
苛められている時は、自分が、
「なぜ苛められるのか?」
ということが分かっていたような気がした。
しかし、それは間違いであり、
「最初から分からなかったから、考えようとしたのであって、分かっていたかのように感じたのは、後になってから分かったことを、さかのぼって分かったかのように感じたからに違いない」
と言えるだろう。
そう思うということは、
「分かっていたのではなく、分かろうとしたことが、後で分かったことと結びついて、そのように感じたに違いない」
ということなのであろう
その日は学校からの帰り道のこと、
「下駄の鼻緒が切れると、不吉な知らせ」
などというものがあった。
さすがに、今は下駄を履く人や、下駄を使う人の風習は残っていないので、
「鼻緒が切れる」
などということはない。
それに、今までの信二であれば、
「そんな迷信のような話を、信じるようなことはしない」
という感覚であったが、この時は何か、不気味なものが頭を巡っていて、
「何やら、予感めいたものがあった」
と感じたとしても、おかしなことではなかった。
その日、学校からの帰り道、何やら歩きにくいと思い、足元を見たら、靴紐がほどけていたのだ。
それくらいのことは今に始まったことではなく、いつものこととして、
「ああ、面倒臭い」
と思いながら、靴紐が結べるところまで行ってから、紐を結ぼうと考えていた。
そして、ちょうど、脚を載せられそうな高さのガードレールを見つけた時、急いで、その場所まで向かって、軽く足を引っかけて、
「靴紐を結ぼう」
と見つけたものだった。
そして、少し早歩きをしたからか、少しつんのめるような形になり、慌てて、脚をガードレールに描けた時、
「あれ、思ったよりも、高いようだ」
と思い、慌てて、バランスを取るようにして、脚を必死に引っ掛けたのだった。
すると、バランスを崩して、背中がの削るようにして、身体が傾いたのだが、その時、無意識にバランスを崩そうとするところを、後ろにひっくり返りそうなところを、必死でこらえているのを感じたのだ。
「大丈夫ですか?」
と言って、ふいに声を掛けられた時、思わず、後ろに体重が掛かったのだった。
後ろを振り向きそうになり、身体をひねって、堪えようとした時、バランスを崩して、後ろにひっくり返った。
「あいたた」
と、腰をひねって立ち上がろうとした時、もう一度、後ろによろめいて、そのまま、歩道側に倒れこんだ。
そこに、一台の車が、飛び出してきたのだ。
まったく予期していなかったが、どうも、声を掛けた人は、その危ない様子も見ていたようで、急いで駆け寄ってくれた。
「本当に大丈夫ですか?」
というのを聞いて、さすがに自分の置かれた状況に、信二は気づいたようだった。
「えっ、僕は」
と言って、車が通りすぎて行ったところを、ゾッとするように感じたまま見送っていた。
「本当に恐ろしい目に遭ったのか?」
と、恐ろしさを感じていると、声をかけた人には、すべてが見えたようで、
「あなたが、思っているよりも、さらにひどい状況でいた」
というではないか。
その人も、その時に見た一部始終を話してくれた。
その内容というものが、どれほどのものなのかを聞いてみると、
「どうやら、危険な状況にあったのは、一度ではなく、最終的に自覚があったのは、最後の一瞬だった」
という。
その場面場面で、危機を乗り越えるには理由があったようなのだが、乗り越えられた理由よりも、
「どうして、そんなに何度も危機が襲ってくるのか?」
という方が、見ていた人には驚きだったようで、だから声を掛けたというのだが、
声を掛けたことが、本来なら、
「よかった;
と思えることなのだろうが、その時は、
「ここまで何度も危機が襲ってくることにだけ目がいってしまう」
ということから、恐ろしさがこみあげてくるのだということであった。
それが、虫の知らせなのかどうなのか、そんなことがあってから、この時のことを、
「虫の知らせ」
ということで、見ていたのだったが、自分でも、後になって考えてみると、
「これが虫の知らせだったんだ」
と思ったのだが、そんなことを最初から分かっていたわけではない。
学校では、
「何かが起こる」
ということは、別になかった。
勉強もついていけないわけでもないし、成績も悪くなかった。
「一ランク下げた学校にしてよかった」
と思ったのは、中学時代に同級生だった友達がいた。
やつは、中学二年生まえは、自分よりも成績もよく、
「順調に勉強もでき、成績も、普通によく、まんべんなく、優秀グループの中に絶えずいた」
という生徒だったが、順調にそのまま、レベル通りに、同じ高校に入学できたのだ。
彼は、学校が示したレベルをそのままに、無難に合格し、この学校に通うようになった。
つまりは、
「彼は、見事に自分の敷いたレールの上を、無難に渡ってきただけだ」
と言えるだろう。
成績も悪いわけではなく、無難な高校生活を続けていたと思ったが、夏休みを過ぎたあたりから、どうも成績が落ちていくようだった。
二学期、三学期と、明らかに成績が落ちてきて、勉強にもついてこれなくなっていた。
「それまで、いかにうまく行っていたのか?」
ということで、
「何かのきっかけ」
があったのだろうが、そのことが影響し、それまで、キチンと進んでいたものが、音を立てて崩れていったのではないだろうか?
ということであった。
つまり、
「前提を覆すかのような何かがあった」
ということであろうが、それが何だったのかということは、簡単に分かるものではないだろう。
ハッキリ言えることは、
「夏休みに何かがあったのだろう」
ということであるが、その何かを知る由もない。
彼は、夏休みが終わって学校に出てきた時、明らかに今までとは違っていた。
「勉強に向き合える」
というような感じではなかったようだ。
ただ、ひとつ気になるのは、
「本当に夏休みに何かがあった」
ということだけが、原因なのだろうか?
と思っていたということだ。
何といっても、中学時代から一緒にいて、中学三年生くらいになると、
「同じ学校を目指す仲間」
いや、というよりも、
「ライバル」
だった。
だから、彼の性格というものも分かっているつもりで、
「学校にいる間の彼の様子はよくわかっている」
とすら思っていた。
その彼と、
「同じ学校に進むことになるだろう」
という感覚は、ずっと感じていた。
だから、入学式の時に、彼を見て、
「俺も同じような態度なんだろうな」
と思うと、嬉しさがこみあげてきた。
それだけ、彼が素朴に、この学校に入学したかったのかということが分かるようだ、
「この学校というものがよかったのか?」
あるいは、
「このレベルの学校に入学できたことが、ひとまずの喜びとして出てきたのか?」
ということであった。
そんな彼が、夏休み以降、
「何かがあった」
というのは分かったのだ。
成績が一学期、悪かったわけではない。
むしろ、
「無難な成績だった」
と言ってもいいだろう。
だが、よく考えてみれば、それがまずかったのかも知れない。
ずっと、この道を無難に進んできた。
まわりから見ていると、
「それが一番のことなんだ」
と思えるのだったが、
そもそも、その、
「無難」
というのが、本人を苦しめるのかも知れない。
特に、神経質な人は、無難な成績であることに、必要以上の不安を感じるのかも知れない。
そんなことを考えていると、
「本当に自分は、このままでいいのだろうか?」
ということを考えてしまう。
しかし、
「少しでも動いて、自分で自分を狂わせてしまう」
ということが怖く感じられるのだった。
だから、夏休みの最中、ずっと一人で苦しんでいたのだろう、
「夏休みくらい、羽根を延ばせばいい」
と思っている人もいるだろうが、順風満帆だったことに、自分が怖くなってしまい、次第に自分が今まで持っていた自信を持てなくなってしまったのだろうか?」
と感じるようになったのだ。
あくまでも、これは、信二の中の想像にすぎないのだが、どうも、ただの想像で済まされることではないようだ。
最初は知らなかったが、彼がどうおかしくなってきたのは、その夏や進み中に、
「万引きをした」
というウワサがあったからである、
最初は、
「そんなバカな」
と思い、
「まさか、そんなことが」
と、ウワサの主を恨んだほどだった。
しかし、
「火もないところに、煙もたたない」
と言われるが、まさにその通りだった。
学校側は必至に隠そうとするが、隠そうとすればするほど、表に出るものだ、
「やつがそんなことするはずがない」
というのが、大方の理由で、下手をすれば、
「彼が万引きをするくらいなら、他の人だったら、万引きをしたといっても、誰も疑わないレベルではないだろうか?」
ということであった。
だから、
「この事実があるから、二学期以降の成績下落の納得がいくともいえるのだが、その原因が、よりによって、万引き疑惑だったとは」
というものであった。
「学校の成績下落だけが、万引きに繋がっているわけではない」
と思えたが、
「それ以外のところでは考えられない」
というものだった。
家族にしても、まわりの環境にしても、何かが変わったというわけではなく、
「学校生活が、成績だけによるものではない」
ということを、一番知っているはずの信二に、
「その時どうして、すぐにピンとこなかったのだろうか?」
ということを感じさせないとは思わなかった。
そう、信二は中学時代に、苛めを受けていたのではないか。
それが高校生になると、
「さらなる苦悩を呼び寄せるのではないだろうか?」
ということを考えさせるのであった。
中学時代とは違い、高校生による苛めというのは、どういうものなのだろうか?
中学時代で苛めが終わった立場とすれば、
「これ以上の年齢での苛めというのは、ないに違いない」
と考えていた。
実際に、中学時代までであれば、もし、苛めがあったとしても、その生徒や苛めっ子たちを見ていれば、
「それも仕方がないことだ」
と思えるだろう。
しかし、彼を苛めていた連中の影が見えてこない。
「本当に苛めなどが、あったのだろうか?」
と考えさせられるといってもいいだろう。
「苛めというものは、苛められる側に苛める側の怒りに触れる何かがあってこそ、苛める行為に走るのだ」
ということであろうが、どうも、苛められる側に、苛められる理由というのが見えてこないのだった。
つまり、高校生になってからの苛めは、
「理由がないこともある」
ということなのかも知れない。
ただそれは、
「高校生になって苛めが始まったという際においてのことで、中学時代から続いていたとすれば、それはそれで悪質で、分かり切った理由であるがいえに、なかなか、抜けられないということになるのだろう」
ということになるのだった、
ハッキリとした、いわゆる、
「不良化」
ということなのであろうが、その原因というものが、ハッキリとしているわけではないが、どうも、その理由が万引きにあるようだ
「万引きをするような子なので、不良化したり、成績が極端に落ちてしまうことになる」
というのが、理由なのだろうが、
問題は、
「なぜ、万引きなどという行為に至ったのか?」
ということなのであり、結果としてついてきた、
「万引きという行為」
を、
「不良化への一歩手前」
として捉えたとすれば、
「それが間違っていた」
ということではないだろうか?
「物事は、一点だけを切り取って報道されたり」
あるいは、「
一人を悪者にして」
それが、
「問題への解決方法だ」
ということになる場合が多い。
そうなると、これほど楽な解決法はない。
ということになる。
だから、問題の本質に触れようとせず。問題の解決の優先順位を考えた時点で、
「原因と思えるものが発生した時点からの問題」
として、捉えられがちになってしまうことだろう。
それを思うと、
「夏休みだけを切り取ると、
「悪い仲間にでも誘い込まれたのではないか?」
という結論になるのだが、確かに、こう考えれば、解決方法は楽であった。
だが、それは、
「答えを導き出す」
というのは、そこから解決右方をさらに練らなければいけないのに、そこから策を考えようとせずに、
「腐ったミカンの方程式」
のように、
「悪かったところだけを切除して、組みなおす」
と考えればいいものを。
「腐った部分だけではなく、ミカンそのものを捨ててしまえば、これほど楽なことはない」
と言えるだろう。
要するに、
「楽をしたい」
ということなのだ。
何でもかんでも、
「楽になる」
ということに特化して考えると、まわりを見なくなる。
下手して、
「まわりを見たくない」
あるいは。
「まわりが、自分をどう見ているか?」
ということを考え、何も問題がなければ、
「ああ、楽すりゃいいんだ」
と考えるだけで、
「全体を見ることがなく、何か起こっても、自分はただの外野から見ているだけの人間だった」
と言えるだろう。
そのせいで、根本の理由を突き止めることができなくなってしまう。
それなら、最初から、
「楽をすることしか考えていない人に、その原因究明をさせることが間違いだ」
と言えるのではないだろうか?
それを考えたのが、自分本人だということが分かれば、逆に、自分を反面教師にしてしまうというのも、一つの作戦だ。
「間違っていると思うことを、事実だとして考えてみる」
つまりは、
「逆の逆は正」
だということであり、
「一周回って、戻ってきたのだ」
と言えるだろう。
その友達も、
「一周回るだけの心に余裕があれば、夏休みに入る前に解決できたかも知れない」
ということになり、
「夏休み前であれば、余裕絵解決できたことなのかも知れない」
と思うと、
最初に気付くはずの自分が分からなかったことからのこの状態なので、
「夏休みになるまでに分からなかった時点で、まわりの敗北」
ということになるだろう。
しかし、
「こんなに一生懸命になって、対応できる人がまわりにいると思えば、もう少しいろいろな発想が出てくるというものだ」
ということで、
「現状の苦しみから逃れるだけではなく、先に進んだ問題の解決方法にもつながる」
と言えるのではないだろうか?
「じゃあ、一体いつからおかしかったのだろう?」
と考えようとするほど考えられない。
一つだけハッキリと言えることは、
「どんなに考えても、出発点においてを解明することは不可能だ」
と考える。
というのは、
「夏休みに万引きをした時点で、いくら過去に戻っても、その理由を解明することは不可能ではないだろうか?」
そもそも、
「時すでに遅し」
というわけだが、
「じゃあ、万引きという行為を止めていればよかったということだろうか?」
と聞かれるが、
「いや、そんなことではない」
と答えるだろう。
「万引きをした時点で、踏み入ってはいけない一つの壁を開いてしまったわけで、その悪行から逃れることはできない」
というものである。
万引きというのは、
「踏み入れてはいけない、悪にとっての、聖なる場所だったのかも知れない」
と言えるだろう。
「万引きというのは、罪の中では、案外に、軽い罪である」
しかも、金額によって度合いも違う。
「例えば、金持ちのところから数千万円を盗んできた」
というのも、
「お賽銭のこぼれた100円玉をネコババした」
というのでは、金銭的な理由から、
「前者が重たい」
と思われがちだが、もし、盗まれたのが、その人にとっては、さほど痛くもない腹だったとして、さらに、お賽銭を盗むということが、
「神を冒涜している」
ということになり、
「神の領域」
という意味で、
「これほど罪深いことはない」
ということになり、立場は逆転する、
ということになってしまうのかも知れない。
つまりは、
「盗まれた金」
で、罪の重さがきいてくるもので。
「そのお金がなかったら、被害を受けた人にとって、その人によって、いや、知恵を出してくれる人がいるのだから、分かりそうなものだが、それなら、一律に、金銭に関わりなく、悪いことは悪い」
と言った風に、それこそ、
「勧善懲悪」
という意味を考えれば、自ずと道も開けるというものであった。
「友達が、万引きをする前に、いかにしてなら止められるかのか?」
と考えると、
「本当の原因の解消どころか、その時、何を考えていたのか?」
ということが分かるのかも知れない。
こうなると、
「見つけることのできない。元々の元というものを追いかけるよりも、やはり、時系列的に見えていることを整理して、それをいかに、理解できる形に落とし、まわりにも周知徹底さをつけるようにできないとなると、結果は、過去を追い求めるだけ、無駄だということになってしまうだろう」
というものではないだろうか?
結局、見つからない原因を分からなくしているのは、前からの、
「古き悪しき時代の考え方だ」
ということになるのだろう。
しかし、
「原因が見つからなくとも、その原因を探した」
ということに意義があるのではないか。
つまり、
「理由が見つからない」
ということのせいにして、
「見つけようと試みた気持ちが、いかに大切なのではないだろうか?」
と考える方が、実に、
「分かりやすい考え方」
ということになるのだろう。
結局、答えが見つからなくとも、少し考え方を柔軟にして、理解できるところまでくることが大切だ。
ということになるのだろう。
そんな、本当なら人に言えないような状態を見ながら心を痛めていたが、そのうちに、今度は別のことがのしかかってくる。
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