第3話 三すくみの関係
「行ってきます」
と、いつもであれば、かなり遠くにまで聞こえるような大きな声を出して、通りに出る川上信二は、いつの頃からだろうか? 出かける時、家の誰にも声を掛けることなく出かけるようになった。
そのことを誰も気付いていなかった。もちろん、当の本人である。信二は。分かっているのだろうが、家族も気付かない。
「家の仕事が忙しい」
というのは分かるが、数年前までであれば、声を掛けずにでかけようものなら、
「ちゃんと出かけるなら、声を掛けなさい」
と言われていた。
そういって声を掛けられることが当たり前ということになり、子供の方も、
「それは当然のこと」
として、考えていることだろう。
だが、いつ、どこでどうなったのか、親が声も掛けてくれなくなった。
それどころか、夫婦間でも、信二が知っているところでは、ほぼ会話などない。
以前は、会話というほどのものではなかったが、声を掛けるのは当たり前のこと、
「何しろ、自営業で、声を掛け合うことも仕事の一環だ」
と言っていたのは、当の父親だったのだ。
この家は、城下町にある老舗の酒屋の方。
昔からの有名老舗で、例の、
「幕府に献上する酒を収めている」
というお店だったのだ。
信二は、この時、中学三年生であった。親にちゃんと挨拶をして出かける時は、学校に行くのが好きだったのだが、今では、学校に行くのが怖くて仕方がない。
そう、信二は、学校で一部の人間から苛めに遭ってきたのだ。
信二は、
「別に苛められることなど何もしていないはずなのに」
と思っていたが、苛めを行っている連中は離してくれない。
しかも、理由に関しても、
「お前の自己犠牲で、俺たちが満足できればそれでいいんだ」
というではないか?
信二とすれば、
「自己犠牲? なんだそれ」
としか思っていない。
要するに、
「理不尽な理由しか、やつらは言わないんだ」
としか思っていない。
確かに、自己犠牲などという漠然とした言葉で苛めを受けているなど、まったくの理不尽である。
本当に、
「自己犠牲」
というのは何なのか?
まず考えたのが、
「カミカゼ特攻隊」
であった。
歴史が好きな信二は、
「歴史というものが、塩犠牲のもとに成り立っている」
ということが分かっているような気がした。
確かに、見ていると美学であるし、
「耽美」
でもある。
「耽美主義」
という言葉がある。
これは、
「道徳であったり、モラルなどというものよりも、最優先されるものが、美というものである」
という世界の考え方である。
芸術作品などにおいても、いえることで、
「自己犠牲というのも、この耽美主義という考え方に照らし合わせてみると、納得がいくのではないか?」
とも考えられる。
「自己犠牲」
というものを、優先順位をすべてここにしてしまえば、この言葉だって、
「美」
というものの象徴であるかのように置き換えられる。
それは、
「カミカゼ」
というもの。あるいは、
「ハラキリ」
というものを、自己犠牲だと捉えたとすれば、それを優先させて、自分たちに都合よく操れるとでも思っている人間にとっては、それこそ、
「洗脳」
ということになるのではないだろうか?
人から洗脳されることで、
「いかに自分を肯定できるか?」
と考えると、
「自己犠牲」
というものが、
「これほど素晴らしいものはない」
という結論に結びつけないと、自分を納得もさせられず、それが相手にとっても、
「これ以上の都合のいいことではない」
ということにさせるのであった。
そんな、
「自己犠牲」
を強要する世の中ではない、今の
「民主主義」
という世界であっても、真の意味dの民主主義などありえない。
実際に、社会というと、最近実しやかに言われることとして、
「ブラック企業」
というものがある。
労働基準局が決めている、基本カリキュラムにまったくそぐわない労働条件で働かせる会社。
「セクハラ」
「モラハラ」
「パワハラ」
などが、横行している会社が、本当に多かったりする。
要するに、昭和の頃のような根性論であったり、今の字だ相にそぐわないことをしていては、いけないということを分かっていない人がいまだにいるということであろう。
きっと、昭和の頃の上司に鍛えられた人が、今上司になっていて、
「自分もやらされたんだから、部下もできる」
という発想の元なのかも知れないが、
「基本的に、自分と育ってきた環境が違う」
ということを理解できない人が、部下にも、
「自分と同じはずだ」
という決めつけを行い、自分ができてきたことができないのは、
「その人が悪い」
と決めつけることが、最大の過ちなのではないだろうか?
いわゆる、
「ハラスメント違反」
「コンプライアンス違反」
と呼ばれるものは、今の時代の、最大の社会問題であり、
「悪の中の悪」
と言っていいのではないだろうか?
実際に、それで追い詰められ、脅迫観念に駆られることで、そのことが、一番の問題であるということに気付かない、
あるいは、
「気づいているのかも知れないが、見てみぬふりをする」
という、救いようのない、人間のクズのようなやつも絶対数いるのは、嘆かわしいことであった。
そんな連中の、自分の中での正当性、それがどれだけあるのか分からないが、少なくともあるとすれば、
「自己犠牲」
という考え方はあると思う。
自分に爆弾を抱かせて、戦闘機のまま突っ込んだり、爆弾の匣を持って、戦車の下に潜り込んで爆死する
などという戦法は、本当にバカげているというものだ。
「過激派による、自爆テロ」
も同じような、
「自己犠牲」
である。
たぶん、宗教が絡んでいると、
「死んだら、極楽のようなところに行ける」
などと言われて、死んでいくんだろうが、だったら、なぜ、
「命令する人が、自分からやろうとしないんだ?」
ということである。
もっといえば、基本的に、宗教のほとんどは、
「人を殺めてはいけない」
という教えではないか。
細川ガラシャだって、石田三成の、
「人質作戦」
の間に、
「人質になるくらいだったら、自ら命を」
ということであったが、
「自殺は許されない」
ということで、家臣に殺させるということをしているではないか?
これもおかしな発想で、
「自殺を許さない」
ということで、家臣に殺されるとあるが、
「じゃあ、家臣の自分を殺す罪は、ないとでもいうのか?」
あのキリスト教の教えは、キリスト教徒だけのものだとすれば、おかしなことになる。
それこそ、
「切る外今日の信者でなければ、救われない」
とでもいうのだろうか?
何と言っても、あの戒律にしても、自殺もダメだということで、他人に殺させるというのは、欺瞞ではないか。
「切腹における介錯」
とは違うのだ。
介錯の場合は、切腹だけでは苦しむ時間が長いので、苦しまないように、首を切ってあえるという、一種の、
「人助け」
なのだ。
そうではなく、ガラシャは、家臣に、
「殺させた」
のである。
いわゆる、殺人教唆。この場合は、自殺なので、
「自殺教唆」
と言ってもいいだろう。
法律であれば、
「教唆は、殺人と同等の罪」
ということになっているのだ。
まさにその通りである。
自分が、どのようなことになろうとも、周りの人を助けることで、
「死んでから、極楽にいける」
というものだ。
これではまるで、
「自分が極楽にいくためには、家臣を地獄に叩き落してもいい」
ということになるのではないか?
細川ガラシャの物語は、
「夫忠興の足手まといになりたくない」
という思いと、
「キリスト教の戒律」
に悩んだうえでの、切実なる選択という意味での、
「同情物語」
のようになっているが、よく考えれば、この場合は、実際には、
「ツッコミどころ満載だ」
と言ってもいいだろう。
確かに、
「夫忠興への忠誠心から出た、自己犠牲」
というのはあるだろうが、それ以外は、とても容認できる内容ではない。
相手はすでに迫っていたので、考えている時間はなかったのかも知れないが、何も死ぬことはないではないか?
もし、人質になったとしても、生きてさえいれば、夫とまた幸せになれることだってあるはずだ、
死んでしまえばそれまでなのだ、これでは、まるで、大東亜戦争の時にあった、
「戦陣訓」
と同じではないか。
「生きて虜囚の辱めを受けず」
という言葉の下、玉砕を重ねた日本軍と民間人、フィリピン、グアム、サイパン、沖縄などの犠牲は、まるで、細川ガラシャと同じではないか。
まさかとは思うが、この戦陣訓の教育の教材として、このガラシャの物語が使われていたのだとすれば、これ以上の罪はないと言っていいかも知れない。
そういう意味での自己犠牲というものを、当時の戦争が、
「過去の教訓:
として教え込んだ位時代があった頃から、いくら敗戦によって、連合国から、
「みんしゅしゅぎ」
を押し付けられたとしても、すべての人間が、
「押しつけの民主主義」
というものを、本当に理解しているのかというのも難しいものだ。
当時は、何といっても、
「日本を、軍国主義にしてはいけない」
ということが命題であっただろう。
「日本人は死を恐れずに戦う」
ということを身をもって知ったはずである。
「カミカゼ特攻隊」
など、その代表であり、
「玉砕:
なども、そうである。
武器弾薬もほとんど尽きてしまった軍隊における軍人、さらには、一緒に敗走していた民間人の日本人、それらの、島に残った、
「生き残っている島に残った日本人全員が、決定した時間、避難している場所から一斉医出てきて、アメリカ軍に向かって、ただ歩くだけである」
腕や頭など、至るところに包帯を巻いた人たちが、見絞らしい治療痕を見せながら、まるで、ゾンビのように、ただ近づいてくるのだった。
「何だ、これは?」
とアメリカ兵もビックリしたことだろう。
自分たちも逃げるわけにはいかない。突っ込んでくる日本人に向かて、弾薬の雨あられである。
前の方の人から当然弾丸に当たって倒れていく。後ろからの人は、その死体を踏まないようにと下を向きながら歩こうとすると、次の瞬間、弾丸に当たって、自分が倒れることになる、
玉砕が、夜間に行われるとすると、
アメリカ軍は、まず、照明弾を打ち、まわりを明るくすることだろう。
すると、ゾンビが、明るさの下に映し出されることだろう。放心状態で、見上げる彼らは、もう死ぬということに果たして恐怖があったのだろうか??
というのも、すでに、日本軍は、とっくの昔に組織的な戦闘が行えるほどではなくなっていて、とにかく、上陸してきた米軍を避けながら、どんどん、ジャングルの奥地に逃げ込んでいく。
それでも、最初は、ジャングルを使ったゲリラ戦を展開できたかも知れないが、米軍の空襲であったり、火炎放射器のような、
「圧倒的な火力の前には、食料だけではなく、武器弾薬の尽きた日本軍に抵抗などできるわけもない。
元々、海に囲まれていて、その海を埋め尽くす、アメリカ軍の艦隊に対して、補給船団が、入り込めるわけがない。
いや、それ以前に、日本から、輸送船団が送られてくるわけもなかった。
もし、送られてきているとしても、途中で米軍の攻撃に遭い、護衛の戦闘機や艦隊すらほとんど残っていない日本軍に、援助物資を運ぶことなどできるはずもなかった。
戦争もこの頃になると、国内も、物資不足が、究極の状態だった。
食料や、生活必需品なども、そのほとんどが、配給制で、しかも、その配給も、
「いつ来るか分からない」
というような状態だったではないか。
さらに、そんな状態において、
「金属回収令」
なるものが出された。
当時は、戦闘員の不足によって、それまでは、免除されていた。大学生などの徴兵が、行われるようになり、いよいよ、国民も、
「何かおかしい」
と思ったかも知れない。
さらに、それどころか、
「今度は、兵器を作るための、金属が足りない」
ということで。家庭用品の鍋なども、国から回収されるというようなことになっていたのだ。
しかも、何と罰当たりなことに、
「寺の鐘まで、供出しんあいといけない」
ということになり、
「どれだけ付属しているのか?」
ということを考えれば、
「この戦争の先行き」
というものが怪しいということは、国民も分かってきていることだろう。
何といっても、最初は、
「日本は、資源を求めて、満州を電撃的に平定し、そこに、満州国が建国された」
ということから始まった。
本来なら、そこを植民地とすればいいものを、日本は、そこに、満州民族の国家をつくらせ、さらに、
「五族共存」
という。、
「満州、朝鮮、モンゴル、漢民族、そして日本人」
による、共和の国を建設し、さらに
「王道楽土」
というスローガンを打ち立てたのだ。
アジア的な理想国家を、西洋による武力による統治ではなく、徳を持っての統治をおこなうという、
「つまり、植民地ではない」
ということでの、満州開拓に乗り出した。
当時の日本には、
「満州を手に入れなければいけない理由」
が存在したのだ。
「中国政府による、反日運動によっての、暗殺事件などの、治安の悪化」
さらに、
「満州鉄道に並行する形で、中国側は鉄道会社を設立」
それによって、日本の経済は赤字に転じる。
さらに、もっと大きな切実な問題は、
「日本本土における、食糧問題の悪化」
だったのだ。
当時の日本は、東北地帯の不作であったり、人口の球速な増加によって、日本人は、深刻な食糧危機を目の前に迎えていた。
「娘を売らないと、その日の食料が手に入らない」
ということで、
「人身売買」
というものが公然と横行した時代だった。
そこで、考えられるのが、
「どこか外国への移住と、その土地を開拓することでm新たな資源の獲得」
というものを画策するしかなかったのだ。
その白羽の矢が、満州に当たったのだ。
満州、モンゴル関係の、中国側からの問題として、
「満蒙問題」
の解決が急務とされていた。
何しろ、
「満蒙は日本の生命線」
と呼ばれていたのだから、ここの解決は最優先であった。
それと、日本国内の食糧問題という、切実なる、すでに起こっていた問題を一気に解決するものとして、画策されたのが、
「満州事変」
であった。
中国側が提訴したことで、満州国の是非のために、
「リットン調査団」
が組織されたが、彼らは、戦闘の事実だけを調査し、その歴史的背景については、見ていなかったからか、
「満州国は、関東軍の自作自演」
という、形だけの報告を行い、国連決議で、大敗を喫した日本は、それを不服として、
「国際連盟」
からの脱退を決定したのだった。
これによる、日本の世界的孤立は決定的になったのだ。
何と言っても、植民地を世界に持っているそれぞれの国が、よく反対できたものと言えるが、やはり、
「王道楽土」
という考え方が、植民地を持つ先進国からは、容認できるものではなかったということであろう。
その言葉が、大東亜戦争においての、
「戦争に突入した理由としてのスローガン」
となった言葉である、
「大東亜共栄圏の建設」
ということに繋がっていくという意味での、
「一貫した流れ」
となり、本来なら、歓迎されて、アジアの国々から奨励されるべきのような感じがあるが、実際のスローガンと、やっていることに、大きな開きがあり、さらに。それが、
「誤解を生む」
ということになるのか、それとも、その開きを、
「野心」
と見抜かれて、
「日本は信用できない」
ということで、アジア諸国からも、
「日本は侵略者」
とみられてしまったのかも知れない。
しかし、時代は煤で閉まって、その当時、何が真実だったのかということは、もう分かりかねることはあるだろう。
だが、そんな中、今は当時の日本を、
「アジアを侵略した国」
というレッテルを貼られ、
「愛国心」
というものを口にしたり、政治家などが、
「靖国神社」
と訪問したというだけで、アジア諸国から、総スカンを食らってしまうという、
「歪な社会」
となっている。
少なくとも、あの世界各国が、列強の植民地となっている状況で、
「大日本帝国」
において、
「国を守ったといってもいい」
という人たちが祀られている慰霊碑に参拝することの何がいけないというのだろうか?
確かに、
「勝てば官軍」
で、
「勝者の理論」
として押し付けられた民主主義によっては、
「靖国参拝」
というのは、容認できるものではないだろう。
少なくとも、アジア諸国には許せないことであろうが、日本がやろうとしたことは、かなり強引だったかも知れないが、そこまで悪いことだったのかどうか、結果としては、すべてが、
「勝者の理論」
で片付けられているので、無理もないことなのだろう。
そんな、
「勝者の理論」
というものを、うまく利用しないと、当時の、
「東西冷戦」
へと結びつかないだろう。
特に日本の場合は、他の国と違った特殊な事情があった。
というのが、
「天皇制」
というものであった。
これは、同じ、
「枢軸国」
の中にあって、ドイツ、イタリアとは、まったく違った国家体制であった。
連合国に攻めこまれ、当時の政府に反旗を翻し、最終的に、独裁者であったムッソリーニを処刑したイタリア人であったり、独裁者が自殺したことで、首都が解放されたとして、占領軍を歓迎したりというドイツと違い、日本の場合は、どんなに本土が爆撃され、原爆が落とされようとも、
「天皇陛下に対しては、忠誠を誓う」
という態度に変わりはなかったといえるのだ。
そうなると、戦後の軍事裁判では、
「ドイツと日本」
において、まったく違った様相を呈するのは、当たり前のことではないだろうか?
ドイツの場合は、元凶であった、アドルフヒトラーが自害して、裁かれることはないので、下手をすれば、
「すべてヒトラーのせい」
という形での、被告側の言い分となるだろう。
しかし、日本の場合は、法廷に上がった被告というのは、一律に、
「天皇に戦争責任はない」
と言って、
「責任は自分たちにある」
という、言い訳はほとんどしないという潔さがあった。
もっとも、内大臣などは、
「天皇に責任はない」
ということを徹底させたいということで、責任を政府に押し付けようという趣旨はあっただろう。
これを軍にしてしまうとややこしい。
なぜなら、大日本帝国下において、
「軍というのは、天皇直轄の、統帥権の下にある」
ということなので、
「軍の責任は、そのまま天皇の責任にされかねないからだ」
そうなると、政府を悪者にして、天皇を救おうとするのは当たり前のことだろう。
今でも、
「天皇の戦争責任について」
という議論があってもおかしくないほどに、実に難しい問題であることには違いないのであった。
アジア諸国を、
「西洋列強から切り離し、アジアの新秩序を建設する」
というスローガンは、実に立派なものだ。
しかし、そのためには、まずは、欧米列強の勢力をアジアから一掃する必要がある。
そのために、日本は、欧米列強を相手に、
「無謀な戦争」
に突っ込んだのだ。
最初は、政府も軍も、
「叶うわけはない」
と、誰もが思っていて、それでも、
「石油輸出の全面禁止」
であったり、
「ABCD包囲網」
などという、明らかな経済制裁を受けていたわけで、しかも、その解除の条件として、
「中国大陸からの全面撤退」
つまりは、
「満州国も未承認」
ということに合意しないといけないということだった。
これが、併合済みである、朝鮮半島に対してもであれば、
「日本は、明治維新の状態に戻ることになる」
ということになるのだ。
こうなってしまうと、前述の、満州事変を起こさなければいけなくなった理由が大きくのしかかってきて、とてもではないが、容認できるものではない。
昭和の頃に、大東亜戦争前夜の話を、映画化した作品が結構あったが、
「史実に則った」
と言ってもいい内容の話であるが、なぜか、
「経済制裁」
において、それを解消するために、
「明治維新の状態に戻ってしまう」
という会話はあるのだが、
「明治維新の状態に戻ると、日本がどうなるのか?」
ということを説明することは一切ない。
「映画の尺の問題だ」
といわれてしまうと、その通りなのかも知れないが、だからと言って、明治維新の状態になることで、日本がどのように追い詰められるのか? ということを説明しないと、
「なぜ、戦争に突入しなければいけなかったのか?」
ということの問題に入り込めない。
だから、日本は、
「勝ち目のない無謀な戦争に、どうして突入したのか?」
ということになり。
「政府や軍がアメリカの国力をまったく知らないような、お花畑にいたということなのだろうか?」
ということになって、
「日本政府が悪い」
ということで、
「亡国の原因は、すべて、政府と軍」
ということになるだろう。
だから、
「そんな連中が祀られている靖国神社への政府によるお参りは、許されない」
ということになるのだろう。
当然、アジア諸国からは、総ブーイングとなることは分かっている。
そんな状態で、どの政治家が参拝にいくというのだろう?
ただ、当時の世界情勢の中で、
「戦争に突入しなければいけないのは、分かり切ったことだった」
と言えるだろう、
日本が、世界を無視して、自国だけで運営できないことは分かり切っていた。
せっかく手に入れた満州国であったが、最初は、石油などの天然資源も、食糧確保と一緒に見込んだはずだったが、あまりにも劣化したものであり、
「満州だけでは賄えない」
ということになった。
だから、東南アジアへの進出は不可欠で、
「どうせ戦争になるのであれば」
ということで、一番の目的としては、
「インドネシアの油田」
だったのだ。
だから、日本は、英米だけではなく、インドネシアの宗主国である、オランダまでも敵に回さなければならなかった。
さらに、当時戦争状態だった中国まで宣戦布告してくることになる。
当時の、
「シナ事変」
というのは、
「宣戦布告なき、戦闘状態」
だった。
元々が、
「突発的な小競り合い」
から起こった戦争であったということもあったが、
最初の戦争状態になってから、両国とも、宣戦布告をしないことを、
「よし」
としていたのだ。
というのも、そもそも、宣戦布告というのは、
「諸外国に戦闘状態を知らせて、その対応を国家としてあからさまにする必要がある」
ということであった。
つまりは、
「どちらかの国に加担する」
あるいは、
「中立を宣言する」
ということで、対応が違ってくるからだ。
「どちらかに加担すると、当然、相手国に対して、宣戦布告に近い形になる」
ということであるし、
「経済的にも政治的にも、戦争に加担する必要性がない時は、中立を宣言することになる」
中立を宣言すると、戦争をしている国が手を出すことができない。
間違っても中立国を攻撃して、被害を与えてしまうと、国際的批判が大いに集まることだろう。
しかも、中立宣言をした国は、今度は、
「どちらかの国に、優位になるようなことをしてはいけない」
ということになる。
つまり、金銭や武器の供与などがそうであり、そういう意味でいけば、今の日本は、この中立という状態を軽視しているところがあるのだ。
「中央アジアからヨーロッパに掛けての国が、超大国から攻め込まれた」
という名目で始まった戦争があるが、
「憲法9条」
を有し、
「専守防衛しかできない」
という我が国において、片方の国には、
「金銭の譲渡」
であったり、あってはいけないはずの、
「武器供与」
までしているではないか。
しかも、相手国に対しては、他の国にならって、何と、
「経済制裁」
をしている。
これでは、とても、
「中立を宣言している」
とは言えないだろう。
完全にどちらかの国に加担していると同じことであり、いまだに相手国から攻撃されないだけ、相手国が紳士的だということで、感謝しなければいけないだろう。
何しろ、今のソーリは、
「自分が、外国にいい顔をしたい」
というそれだけの理由で、
「世界的なパンデミック」
の影響で、いまだに苦しんでいる国民を放っておいて、その国民の血税っで成り立っている、
「国家予算」
というものを、平気で、戦争をする国に譲渡しているのだから、
「なぜ、国民も怒りをあらわにしないのか?」
と思えて仕方がない。
「やられている国が可愛そう」
という偽善の心に騙されているのか。
そもそも、武器をあたえているということは、
「それで戦争継続を促しているわけであり、和平を唱えながらも、やっていることは、正反対だ」
ということになるのだ。
そんな状態で、それでも、ソーリができているあの男、放っておけば、大東亜戦争における、いわゆる、
「戦争犯罪人」
とされた方々よりも、最悪のソーリだと言えないだろうか?
「本当に、日本の政治家は、国際法というものを理解できているのか?」
と思い、それよりも、国民の血税で成立している、
「国家予算」
というものを、今現在困っている人に使わず、
「かわいそう」
という理由で、何ら見返りもない贈与という形で、金を外国にばらまかれなければいけないというのか。
それを考えれば、今のソーリこそ、
「国家反逆罪」
で、極刑にされるべきではないだろうか?
隣の、某国のように、
「大統領になると、その末路は間違いなく悲惨な運命しか待っていない」
ということも、この国にあっても不思議はない。
考えてみれば、今のような、スタグフレーションを巻き起こした、
「自分の党をぶっ潰す」
といって、当時は人気絶頂だったソーリ。
さらに、
「世界的なパンデミック」
の時、何もできず、しかも、数々の疑惑から、自殺者が出るほどの社会問題を引き起こしたにも関わらず。二度までも、最後は病気を理由に、病院に逃げ込んだという、あの、
最終的には。暗雑されたあのソーリなど、極悪な政治家しか、今は出てこないではないか。
ただ、そんな連中は、
「愛国心」
ということで、靖国参拝をしたというのは、どういうことなのだろう?
それだけ、
「日本という国は、わけのわからない国」
と言って、一刀両断に片付けてもいいのだろうか?
実に不思議で仕方がない。
そんな時代をもし、
「民主主義」
というのであれば、今の日本は、
「民主主義」
という言葉で片付けられるというのであれば、
「民主主義という言葉が欺瞞に満ちているか、その言葉を隠れ蓑にして、今の腐敗した政府が存在する」
と言っても過言ではない気がするのだ。
そう、昔からいわれてきた、
「自己犠牲」
というもののない政治体制。
あるとすれば、
「政府が、自分たちが苦しんでいるのに、他国に金を贈与したことで、正しいことをしたということを言い聞かせなければ、たまったものではない」
ということが、自己犠牲ということに結びついているとすれば、
それこそ、戦時中に行った、
「情報統制」
のようなものだと言ってもいいだろう。
当時の、
「治安維持法」
などというものを、民主主義では作ることはできないが、それでも、何とか、政府の、
「やりたい放題という法律」
をどうにかして作ろうとしているように思えてならない。
「国民にとって決めなければならないこと」
というものは、後回しにして、
「自分たちに都合のいい法律は、秒で決まる」
ということだけでも、
「政府が、どれだけのものか?」
ということが分かるというものだ。
そんな時代において、
「自己犠牲」
というものが、
「教育上の自己犠牲」
と、
「本当の政府がもくろむ自己犠牲」
とでは、
「天と地ほどの差がある」
と言ってもいいだろう。
それを考えると、世の中というものが、いかに理不尽で、
「縦割り社会だ」
と言えるのではないだろうか?
政府がこれでは、本当に、
「亡国の一途」
と言っても無理のないことに違いない。
そんな自己犠牲の時代において、中学生になった酒屋の息子である信二が、
「引きこもり」
になってしまった。
その原因が、
「学校での苛め」
というものにあったからだという。
その理由の一番が、やはり、家が老舗ということで、他の人と育ってきた環境がまったく違っていたり、それによって、
「お前だけ、見ている目線が違う」
という認識で見られていたりすることが、まわりを不快にさせたりする。
しかし、それは、本人のまったく予期せぬことであり、しかも、
「意に介するところではない」
ということにもなるというものだ。
さらに、もう一つあり、
「こっちの方が実は大きい」
ともいえ、
「信二にそのことを自覚させたい」
と思っているにも関わらず、まったく分かっていないということが、苛めている連中には、許せないところであるのかも知れない。
というのも、
「お菓子屋さんのなるみと仲がいいところだ」
ということである。
もちろん、二人は幼馴染なのだから、仲がいいのは当たり前のことであり、それをいまさら何だと言っても、変わるものではない。
しかし、なるみという女の子には、
「どこか人を引き付ける魅力がある」
と言えるのだ。
それは、
「引き付ける」
ということが、
「女性の魅力」
ということでもあり、
「人間性、特に、どこか高貴なところを感じさせるところ」
というものがあるからであり、さらに、それに比べて、信二の場合は、
「高貴な雰囲気をまったく感じさせず、酒屋の老舗の息子としては、バカ息子」
と言ってもよく、どちらかというと、
「自慢したいだけ」
というような、むしろ、どこにでもいる、
「常識のない男」
という雰囲気になっているのではないかと思うのだった。
そんな状態において、
「信二を見ていると、どうにも、なるみと似合うようには思えないのに、なぜか、なるみが信二を贔屓しているように見えて腹がたつようだ」
ということであった。
それを、
「なるみにぶつける」
ようなことはできるはずもなく、皆は、
「信二が悪い」
ということになるのは、それが、
「嫉妬から来ているものだ」
ということに気付いていないから、余計な迷走を繰り返しているのかも知れない。
と感じているに違いない。
「嫉妬」
というのは、信二に直接抱いているものもあるが、なるみに対して抱く嫉妬とは、
「似て非なる者」
と言えるのではないだろうか?
というのも、
「男と女の間にある、一般的な嫉妬」
あるいは、その人の技量を、例えば、
「羨ましい」
と思う、相手が隠し持っていたり、備えていたりするものが、
「嫉妬」
という形で現れる。
それが、もちろんのことのように、
「社会を、どの方向から見るか?」
ということで決まってくる発想であったり、自分のモットーだったりする。
だから、嫉妬というのも、そのひところで決まってくるものもあれば、そうではないものもある。
ここでお互いに
「三すくみ」
のようになることで、必要以上な嫉妬心が大きくなるということはないと言ってしまえば、それに越したことはないであろう。
そういう意味で、
「三すくみ」
というのは、暴走を防ぐという意味では必要不可欠であろう。
「三すくみ」
というと、
「紙、石、はさみ」
というものであったり、
「大蛇丸、綱手姫、地雷也:
と呼ばれる、
「ヘビは、カエルを飲み込み、カエルは、ナメクジを食べる、ナメクジは、ヘビを溶かしてしまう」
というような、いわゆる、
「力の均衡」
というものが、三すくみにはあるのだ。
これは、三すくみでなくとも、
「力の均衡」
を保てるだろうが、それでも、
「三すくみが存在する」
ということは、
「三すくみであれば、それだけ強力だということだが、裏を返せば、それよりも弱ければ、不安極まりない状態だ」
と言ってもいいのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「世の中というのは、いかに、さらなる抑えがあるかということが大切か?」
ということで、
「三すくみ」
というものが、いかに、この世で大切かということを戒めているような気がする。
それだけ、三すくみということになると、
「まったく身動きができなくなり。これ以上強固なものではない」
と言えるに違いないのだった。
そんな今の世の中で、本当に、
「三すくみ」
ということがあるのだろうか?
仕事などでは、
「二重チェック」
と言われているが、これこそが、
「三すくみに匹敵するものなのかも知れない」
と言える。
しかし、実際の社会では、
「人手不足」
というものが、激しくのしかかり、分かっていても、そこから先、三すくみにまで至ることは難しいのだ。
と言えるのではないだろうか?
それを考えると、
「世の中における三すくみというのが、効力や抑止を与えるだけのものなのか?」
と思えてならなかったのだ。
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