母に包丁を持たせると

kou

母に包丁を持たせると

 夕方の気だるい時間。

 中学生・木村風樹かざきは、誰も居るハズのない家に帰ると、台所から物音がすることに気づいた。

(母さんが、帰ってるのか?)

 そう思いながら、風樹は台所を覗いた。

 キッチンの明かりが微かに揺らめく。

 その下で、女が包丁を手にして立っていた。

 瞳は深みのある暗闇を映し出し、包丁を握る手はしっかりとした力強さを感じさせる。女の姿はまるで闇の中から現れたようであり、その存在だけで空間が圧倒されるような重みを帯びていた。

 包丁の刃が光を反射し、その輝きが女の顔に不気味な輝きを与ている。それはまさに人外の存在のようでもあった。

 そんな存在に睨まれたかのように、風樹は思わず硬直する。足が竦んで動けなくなったのだ。声を出すことさえできないでいると、女はゆっくりと振り返った。

 長い黒髪の隙間から覗く双眸には深い闇があった。

 それがじっとこちらを見据えてくる。

 女の口が僅かに動いた。

 だが声は発せられていない。

 それでも唇の動きを見て取ったのか、あるいは直接心に語りかけられたのかもしれない。


 ――おかえり

 

 そう聞こえた気がした。

 だから、風樹も返した。

「た、だいま。母さん」

 恐る恐る言うと、目の前の母は嬉しそうに微笑んだ。

 するとそこに、父親が帰宅して来た。風樹は慌てて、父を呼びに玄関に走る。

「父さん大変だ。母さんがを持ってる!」

 そう言うと、父親は怪訝な顔をした。

「な、何だって。いつもは仕事で遅くなるのになぜだ!」

 父は鞄を放り出して台所に飛び込み、包丁を手にした妻の姿を認めた。

 まな板2つを並べた上に、カツオがまるごと一匹置かれている。母親はそれを捌こうとしていたようだった。

「お帰り、あなた。今日は、お刺身にするわ」

 母は微笑む。狂気に満ちた笑みが顔を覆い、その笑みからは何か邪悪なものが滲み出ているようだった。

 母は包丁を天井高く振り上げる。

 次の瞬間、包丁はカツオの首を一発で切断し、その首は風樹の足元に転がった。血のシャワーが降り注ぐ中、風樹と父親は恐怖のあまりその場に立ち尽くした。

「風樹。それ、兜焼きにするから……」

 母は、みだれ髪の向こうから、息子に笑いかけた。

 それから母は愉悦に浸った顔で、カツオに向き直るとこう言った。

「――さあ、解体ショーの始まりよ! 内蔵を全部引きずり出してあげるわ!!」

 母は包丁をカツオの腹に当てて一気に引き裂いた。内臓が溢れ出て血飛沫が上がる。それを見て興奮したように笑い声を上げる。

 引き裂いたカツオの腹に荒々しく手を突っ込み、臓物を抉り出す母の顔は恍惚としていた。

 その光景を見ながら、父と息子の二人はガタガタ震えるしかなかった。


 ◆


 30分後。

 食卓の上には、カツオの刺し身が広がっていた。

 深みのある臙脂えんじ色は夕焼けを凝縮したような輝きを放つ。その身は透き通るような美しい赤みを帯び、切り口からは鮮やかな脂が潤っている。

 繊細な切れ目は、まるで風に揺れる桜の花びらのように柔らかな美しく、盛り付けられたカツオの刺し身は、まるで芸術作品のように繊細であった。

「さあ。みんなで食べましょ♥」

 母は包丁を握っていた時とは人が変わったような優しい笑顔で言った。温厚に細まった目の奥にある瞳は慈愛に満ちていて、見る者を安心させる。

 しかし、今のこの状態こそが、母の本当の姿なのだ。

 世に、車のハンドルを持つと性格が変わる人間がいると言う。

 それと同様に、風樹の母は包丁を手にすると人格が変わるのだ。

 普段は大人しくて心優しく、夫や子供に暴力を振るうことなど決してない女性なのだが、包丁を握り料理をしている間だけは豹変してしまうのだ。

 いや、もしかしたら本人も気づいていないかもしれない。

 彼女は、ただ純粋に自分の作ったものを食べて欲しいだけなのだ。

「食べて食べて」

 母に勧められて、風樹はカツオの刺し身を箸で取り、しょうがと醤油をつけて口にする。

 手際よく調理したためか、魚の生臭さはほとんど感じられない。

 代わりに新鮮な匂いを漂わせている。一口食べると口の中でとろけて、旨味が広がると同時にほのかな甘味を感じさせてくれる。噛む度に濃厚なうま味が口の中に広がり、舌の上で踊るようだ。

 そして最後に喉の奥へと消えていく感触もまた心地よい。

「おいしい?」

 母の問に、風樹は戸惑いつつ肯定する。

 すると母は少女のように無邪気に笑った。そんな笑顔を見ていると、こちらまで幸せな気分になれるような気がした。

 それは父の顔を見ても同じことらしい。彼は妻の手料理を食べることに幸せを感じているらしく、その表情は穏やかだ。

 だが、この裏には母が包丁を握るという行為がつきまとう。またあの狂気に満ちた笑みを浮かべるかと思うと恐ろしくなる。

「母さん。明日は俺が料理するから」

「それは良いことだ。料理の一つもできないで、今の男はつとまらんぞ!」

 父は乾いた笑いをする。

 風樹も同様に乾いた笑いをするしかなかった。

 そんな二人を見て、母は嬉しそうに微笑んでいた。

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