第20話 陰陽寮にて

 曇っているが、底冷えはいつにも増して厳しい。天変をうかがおうにも、空が白く見えるほど雲に覆われていては成す術もない。眠い目をこすりつつ、幸親は宿直とのい所に戻る。

「寝不足のようですね」雑色ぞうしき双六すごろくに興じる史性ししょうが笑う。

「昨夜は野暮用で、今朝は御偉方の機嫌伺いだ。お陰で、ほとんど寝ておらぬ」欠伸あくびを噛み殺しつつ答える。

「どうせ仕事にはならない空模様です。眠れる時に寝て下さい」史生は笑う。

「そうだな。で、どちらが勝っている」笑い返して机上の盤をのぞく。

 三と一、そして二と五、思うたびにその通りの目が出る。これは何かの役に立つのか、少しばかり開き直った幸親は考える。呼び起こした鬼神らは、昨夜の内に戻橋もどりばしの下に収めた。これが祖父の言う、越えねばならぬ一線かと思うのは、あまりに情けなく低俗だ。

 そろそろ飽きたので、眠らせてもらうかと思ったところに、源隆国みなもとのたかくにが訪ねて来る。品の良い初雪襲はつゆきがさね直衣のうしを着こみ、今から酒宴にでも行きそうな出で立ちをしている。

「これで何日目になりますか、内裏だいりに泊まられるのは」

 取りあえずは余所よそ行きの言葉で聞き、追従した様子を見せるため、火鉢の傍の席を譲る。こうして上位者に媚びる姿を晒しておけば、周囲は適当に評価を下げて安心してくれる。

「ざっと、五日目か」そして隆国は、屈託なく笑みを見せ、自慢げに答えてくれる。

「朝から騒いでいる、三条の事件のせいですか」

「ああ。殺された女房の身元が分かり、太政官も大騒ぎだ」

「その様な事を、ここで話しても大丈夫なのですか」つい、わざとらしく声を潜める。

「構わぬ。緘口令かんこうれいなど敷く前に漏れて、あちこちに飛び火しておるよ」

 案外、御主が漏らしたのではないのか。思ったが口にはしない。

「そうなのですか。太政官が騒ぐとは、どのような方なのです、その女房とは」

「太皇太后様に仕えておられる御方だそうだ」

「では、土御門殿つちみかどどのに住まわれていた……大宮川で亡うなられたのでしょう。随分、離れた場所ですが」

 双六から興味を移した二人が、聞き耳を立てる姿が目の端に映る。こちらとしても、初めて聞くふりをしなければならない。

「それがだな、昨夜、三条にある下野守しもつけのかみの屋敷に盗賊が入ったそうだ」

「ああ、その話も聞いています」何とはなしに、慣れ合った言葉遣いになる。

「そこが姉の嫁ぎ先とかで、宿下がりをしていたらしい。そこで賊に人質にさらわれ、殺されて川に落とされたとか。検非違使けびいしすけより、そのように聞いた」

「何とも運の悪い……」

「屋敷の方の被害は、それ程でもなかったようだが、屋敷にいた何とかいう坊主の行方が知れぬ。その者が事件に絡んでおると、検非違使庁も睨んでおる」

「何故、坊主が屋敷にいたのでしょう」

「女房の宿下がりの訳が、気鬱きうつの病と聞いた。その治療に呼んだのであろう」

「そうだとしたら、あまりに気の毒だ」

「ああ。病をいやすはずの坊主が、賊を引き入れたとなれば、家の者も責任を感じておろう」

 あの勇猛な北の方も、共に育った義妹の死を悲しんでいるのだろうか。

「まさかと思いますが、事件の現場を見られたのですか」

「見ている訳がなかろう。そのような事になれば、今頃は家で物忌ものいみだ。聞くだけでも恐ろしい、見のうて幸いだ」

「そうも凄惨せいさんな状況だったのですか」

 死穢しえにまみれたはずの左中将は、物忌みもせず、平然と屋敷の者や幸親の前に出ていた。その汚れを引きずってきた俺は、家でも寮でもそれを振り撒いている事になる。ようやく幸親は気づく。だが、式神などを連れ歩く事と死穢とに、どれ程の差があるのか。平素よりこの類に鈍くなっている身は、この度も開き直る事とする。

「路上に血の跡があった故、殺されて川に投げ込まれたようだ。血の量からして、川に落ちた後も暫くは生きていたやも知れぬと言う者もいる。何にせよ、その後に野犬に喰われたというのだからな」

「野犬に……」

 幸親は口元を押さえて眉根を寄せる。双六を打つ二人の手元は既に疎かになり、露骨にこちらに顔を向けて話を聞いている。

 あの夜、鬼の目は川へと落ちた女がむくろになるのを見ていた。耳には犬の遠吠えが聞こえた。重なり合う吠え声に交じり、うめき声とも叫びともつかぬ別の声が近寄ってきた。

 師走の辰の日の夜、鬼が夜行するとこよみは言う。庚申明こうしんあけの深夜、寝静まった京中には、夜行日やこうびでなくとも鬼はたむろする。

 黒い犬が川へと飛び降りる。淀む川の水には薄氷がはる。それを踏み割って死んだ女に近づくと、まだ喉笛から流れる血を舐め始める。道の上からは、更に数頭の犬が見下ろしている。その更に後ろには、犬とは見えぬ二本足で立つ影が集まり始めている。

「降ってきたようだな、とうとう」

 隆国の声に現実に戻る。まだ下ろされていない半蔀はじとみから外を見れば、白いものが宙に舞う。

「これでは、空を見るのも適うまい。少し外を歩かぬか、この冬初めての雪だ」立ち上がった隆国が誘う。


 中庭に立てば、絶える事のない雪が衣に舞い落ちる。かがりの赤い日に照らされても、白い色は変わらずに玉砂利の上に落ちて溶ける。

 共に死ねたら良いのにと、あの女は言った。もしかしたら、愛した男が殺してくれると知っていたのだろうか。奇妙な妄想に、幸親はおもむろにかぶりを振る。

御主おぬしは、現場を見たのか」隆国が何気ない口調で聞く。

「直接にではないが」少しだけ顔を向けて、呟くように答える。

「そうか……」一瞬だけ目を合わせ、小さくうなずく。

 女房を殺したのは誰かとも、誰が命じたのかとも、隆国は聞かない。案外、分かっているのかもしれない。

 右京八条の屋敷で会った左中将の傍らに、當子とうこ内親王はいなかった。気配はある。どこかで泣いている姿が、頭の後ろに浮かぶ。この方は凱子ときこのために泣いているのだろうか。それとも、左中将を憐れんで泣くのか。この後、左中将がどうなろうと、もはや俺の知った事ではない。再び幸親は頭を振る。

「積もるであろうか、この雪」隆国は周囲を見回す。

「まだ無理だ。だが、寒うなりそうだ」幸親は空を仰ぐ。

 降る雪を舞わせるのは、小鬼に走舞わしりまいを舞わせるよりも容易かろう。懐中に手を入れたが、龍笛りゅうてきは持っていない。がくなどなくとも、風があれば雪は舞うか。

「恋はみな に落つる」守護神のやしろに向いて、隆国が呟く。

「たまかぎる はろかに見えて にし子ゆえに……」後を続けた幸親が小さく笑う。

 子供の頃に乳母めのとから聞かされた昔話に出て来る歌だ。いにしえの東国で、男は一目ぼれした女を妻にした。子が生まれた後、妻は男の許を去る。妻の正体は狐だったと物語は言う。恋しく思うなら、いつでも来いと男は言った。そして去り行く妻に向けて歌を詠む。

「あの女に惚れていたのだろう」

「どうであろうな」

「まあ、無理をするな」

 何の無理だ、思うがこの度も口にはしない。

 凱子は今、何処にいるのだろう。再び空を見上げて幸親は思う。まだ三条大宮の辺りにいるのか。当分の間、上位者はあの場所には近づかないだろう。代わりに物見高い者らが、うろついているかもしれない。そういう者に交じって、訪ねてみようか。そして、行く当てがないのなら、俺の所に来いとでも言うのか。

 またも、ため息が漏れる。隆国は少しばかり目だけを向けて、知らぬふりを装う。

 鬼は元々、人であった。恨みを抱いて死んだ者は悪霊になる。手に負えぬ程に強力ならば、神に祀り上げられもする。そこまで行かずとも、彷徨う者はいくらでもいる。祖父らは、そのような者を見つけて命じたのか、我のしもべとなれと。そして鬼を従えた者に公卿らは命じる、我の僕となれ。

「なあ、隆国、関白様にお願い申し上げて、どこか雪の降らぬ温かい国のすけじょうになれないだろうか」

 溜息をついた後、幸親は本気ともなく言う。

「何の寝言だ。御主が受領ずりょうになるのか。御主が徐目じもくを願うなど、陰陽おんよう寮では考えも及ばぬ。中務なかつかさ省も首を縦には振らぬぞ」幼馴染は言葉を一蹴する。

「釣れない事を言うな。太宰府は良いと親父殿が言うていた。遠江とおとうみでも良い、伊予いよでも良い」

「どれも、親父殿の任国だな」隆国は笑う。

「そうだな、戯言ざれごとだ。俺はせめて、目立たぬように過ごしたい、祖父おおじ殿のようにだ」

「それも無理ではないのか。今でも充分に目立っておる故」

「ああ、まったくだ。いずれは参議になる蔵人少将くらうどのしょうしょうに張り付いて、上達部かんだちめの屋敷にも出入りする。名を売って、顔を売って、望まれれば身も売るやも知れぬ」

「上達部の子飼いになるのか、やめて置け。御主はいずれ、安倍吉平あべのよしひらにも勝る陰陽師おんようしになる。それ故、俺が張り付いておる。その辺りを自覚しておけ」 

 隆国は一つうなずくと、声に出して笑った。この男には敵わない、幸親も共に笑う。

 ああ、風が来るな。気配に気づいて、守護神のやしろの上に視線を投げる。黒い龍か、冬空の主だ。白く見える程曇った空に影を見た時、降る雪を巻いて風が通り抜けた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

蘇莫者 吉田なた @shima_nata_tamu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ