第19話 右京八条第にて
午後も遅い時刻に、
「
表情を変えずに付き合う話は、
「
「効果は
「容体は楽になるようですが、症状を回復させるまでは行かぬようです。この頃では、御目が殆どお見えにならないとも聞いています」
「そうか。叔父の
「飲水病による目の病は治らぬと聞きました」
「治らぬか、気の毒な事よ。入道様もたいそう、御痩せになられたそうだな」
「私も
幸親は一旦、言葉を切って目を伏せる。合わせた袖の下では、今日も何やら指が動いている。何かの
「時に、左中将様は、昨夜お出掛けになられましたか」目を上げて幸親は問う。
「昨夜とな、
「鬼が見たと申しております」瞬きもせずに答える。
「鬼がか」道雅は小さく笑う。
「昨夜、三条
「ほお、被害は
「下働きの者が何人か殺され、
「それが騒ぎの原因か。して、賊は捕えられたか」
「捕えられた賊は二人のみ、数人は逃げられたと。そして屋敷に出入りしていた、
「その法師は屋敷の関係者なのか」今更に知らぬふりをして話を続ける。
「よう分かりませぬ。近頃、名が売れているとかで、祈祷でも頼うでいたのでしょう」同様に幸親も話を合わせる。
「ありそうな話よな」
「恐れながら、法師は
「ほお」
道雅は再び笑いを作り、真っ直ぐに向けられた相手の視線を避けるように、
「御身様に鬼の夜行を見せたのは、おそらく隆範法師なのでしょう。しかし、法師を雇うたのは
「御身は、凱子が我に恨みを抱いていると、言うたのではないか」
「そうです。
「あの女の恨みつらみは、幾度も聞かされた故、決して勘違いではなかろう。枕辺に立ちては、何故、会いに来ぬのかと」
「凱子様の恨みとはその程度、鬼などで脅す程の事ではなかったのでしょう。あの夜の私の大袈裟な忠告が、誰かを介して法師に伝わった。そして鬼の夜行などという、呪師の悪趣味を反映した見世物になった」
「何故、そう思うか」
「凱子様は法師のした事を知らないようでした。それは御身様も御存じでしょう。法師に命じた者がいるはずです」
「それは
「凱子様が法師を雇い入れたと、私に告げた御方です」
「御身もあやつに
「凱子様の許に通われていたのは、関白ではのうて権大納言ですか」
「いいや。
「凱子様が御身様に惹かれた、それを心変わりと捉えた、とでも」
「まあ、そういう事だ。女に袖にされた、頼通以上に自らの名も立てとうない。あやつの
「些細な見栄にございますか」抑揚なく応える幸親の肩先から、青白い
目を疑う道雅は何度か瞬く。膝に置く合わせた袖の下で、何の印を組んでいるのか。指は既に動いていない。
「賊を雇うたのは御見様にございますか」
「それも頼宗の差し金だ。御身は我の依頼に、違わず応えてくれた。女を屋敷の外に引きずり出したのだからな。そして我のした事は、賊の上前を撥ねただけだ」
少し饒舌になっている、道雅は思う。幸親から立ち上る陽炎は、先程よりも鮮明に見える。當子内親王を取り巻く気に似ている。にわかに思うが、慌てて否定する。
「法師の失踪は、御身の仕業か」
「あれの放つ式鬼が、私のものより弱かっただけです。払えなければ、そのまま鬼に操られましょうな」若い
「今現在の噂は、夜盗にさらわれた女房が、大宮川に落ちて凍死した。発見された時には、野犬に遺体を荒らされていた。それだけでも充分に無残な事件です。しかし、女房の素性が知れた後は、更に衝撃的になりましょう」
「そうなろうな。この様な事を言うは
「御身には分からなかろう。だが、我には忘れねばならぬ事が多すぎた。祖父母の死から立て続いた家の没落、父や叔父の失脚、後宮におられた叔母御らも相次いで世を去った。頼りの父も早うに
幸親にとっては生まれる前の話だ。それでも、
「この後、子供らが、父の望むような誇りを持ちて生きるなど適わぬ。男子を寺に入れたのも、そのためだ。姫らは、御身のような
幾度か瞬きをする幸親の背後で、炎光がゆっくりと動きながら色を失って行く。道雅への同情なのか、自らの怒りを鎮めようとしているのかは分からない。無表情を取り繕いながらも、若い優しさは残しているのか、道雅はうらやむ。
「忘れよ、抱えていても、生きるのが辛うなるだけだ」
道雅に真っ直ぐ向けられた、古い仏のような目がおもむろに閉じる。しばらく瞑目した後、幸親は小さく息を吐く。
「この後、御身様は
「何もせぬ。御身の名は表には立つまい。小うるさい右大臣辺りが、何かを嗅ぎ付けたにしても、御堂家の力で公にはさせまい」
「有りがたき事にございます」
合わせていた袖から出した手を床につき、表情を変えぬまま、幸親は深々と頭を下げる。わずかに動いた袖から、あの奇妙は菊花の香りがした。
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