第19話 右京八条第にて

 午後も遅い時刻に、安倍幸親あべのゆきちかは右京八条の屋敷にやって来た。藤原道雅ふじわらのみちまさは面会に躊躇ためらい、年嵩としかさの女房に暫く相手をさせる事とする。それでも重い腰を何とか上げて、身支度をすると主殿に向かう。

 ひさしでは女房が一方的に話をしている。若い頃に夫の赴任先について行ったたぐいの、この女房の得意な話題だ。幸親はと見れば、愛想笑いを浮かべてうなずき、大人しく話を聞いている。別に嫌がっている訳ではなさそうだ。

 あるじに気付いた女房は、愛想の良い笑みを見せて、名残惜しそうにその場を退出する。道雅は廂に置かれた円座わらうだに座り、若い客人と対面する。在り来たりの挨拶を述べた後、何となく世間話を始める。

吉平よしひらの申すところでは、飲水病いんすいびょうより胸の病、目の病を併発されている御様子との事です」

 表情を変えずに付き合う話は、御堂入道みどうのにゅうどう藤原道長ふじわらのみちながの病気の様子だ。

薬師くすしも八方に手を尽くし、国内外の様々な薬を試されているそうです」

「効果は如何いかがなものか」

「容体は楽になるようですが、症状を回復させるまでは行かぬようです。この頃では、御目が殆どお見えにならないとも聞いています」

「そうか。叔父の隆家たかいえが目をわずらうた時は、筑紫に下り、良い医者を訪ねたそうだ。入道様には、そのような医者はつかれぬのか」

「飲水病による目の病は治らぬと聞きました」

「治らぬか、気の毒な事よ。入道様もたいそう、御痩せになられたそうだな」

「私も然様さように伺うております」

 幸親は一旦、言葉を切って目を伏せる。合わせた袖の下では、今日も何やら指が動いている。何かのまじないなのか、興味は引かれるが問うのもはばかられる。

「時に、左中将様は、昨夜お出掛けになられましたか」目を上げて幸親は問う。

「昨夜とな、たれわれを見たのか」意識して目元に笑いを浮かべ、問い返す。

「鬼が見たと申しております」瞬きもせずに答える。

「鬼がか」道雅は小さく笑う。

「昨夜、三条西洞院にしのとういん下野しもつけのかみ守の屋敷に賊が押し入ったと、朝から騒ぎになっております」

「ほお、被害は如何いかほどか」

「下働きの者が何人か殺され、くりやを焼いた程度で、屋敷への被害は少ない方だったようです。しかし、そちらに宿下がりしていた女房が一人さらわれ、殺されて発見されたそうです」

「それが騒ぎの原因か。して、賊は捕えられたか」

「捕えられた賊は二人のみ、数人は逃げられたと。そして屋敷に出入りしていた、隆範りゅうはんという怪しげな法師が姿を消したとの事。その者の手引きの可能性が高い、検非違使けびいしはそのように言うているようです」相変わらず、祝詞のりとでも読むように淀みなく言う。

「その法師は屋敷の関係者なのか」今更に知らぬふりをして話を続ける。

「よう分かりませぬ。近頃、名が売れているとかで、祈祷でも頼うでいたのでしょう」同様に幸親も話を合わせる。

「ありそうな話よな」

「恐れながら、法師はたれそに頼まれて、屋敷に入り込んだのでは、私にはそのように思えます」幸親の口調は変わらない。

「ほお」

 道雅は再び笑いを作り、真っ直ぐに向けられた相手の視線を避けるように、狩衣かりぎぬの肩のあたりに目を置く。枯野襲かれのがさねか。相変わらず地味な装いだと、強いて無関係の事を思う。

「御身様に鬼の夜行を見せたのは、おそらく隆範法師なのでしょう。しかし、法師を雇うたのは凱子ときこ様ではない」

「御身は、凱子が我に恨みを抱いていると、言うたのではないか」

 かさねは地味だが、裏に使った青が上品に映る。衣香えこう菊花きくかは、やはり賞賛に値する。内心をごまかす様に幸親の狩衣に目をやり、あらぬ事を考える。

「そうです。高陽院かやのいんうたげの夜、私の勘違いから始まったのやも知れませぬ」

「あの女の恨みつらみは、幾度も聞かされた故、決して勘違いではなかろう。枕辺に立ちては、何故、会いに来ぬのかと」

「凱子様の恨みとはその程度、鬼などで脅す程の事ではなかったのでしょう。あの夜の私の大袈裟な忠告が、誰かを介して法師に伝わった。そして鬼の夜行などという、呪師の悪趣味を反映した見世物になった」

「何故、そう思うか」

「凱子様は法師のした事を知らないようでした。それは御身様も御存じでしょう。法師に命じた者がいるはずです」

「それはたれか」

「凱子様が法師を雇い入れたと、私に告げた御方です」

「御身もあやつにたぶらかされた一人か」道雅は笑う。

「凱子様の許に通われていたのは、関白ではのうて権大納言ですか」

「いいや。頼道よりみちも我と同様、頼宗に誘われて土御門殿つちみかどどのに行った類だ。そこで凱子に興味をひかれた。だが、あの女に最も執着していたのは頼宗だ。女にしてみれば、多くの男の一人であろうが」

「凱子様が御身様に惹かれた、それを心変わりと捉えた、とでも」

「まあ、そういう事だ。女に袖にされた、頼通以上に自らの名も立てとうない。あやつの些細ささいな見栄が、この様な結果になった」

「些細な見栄にございますか」抑揚なく応える幸親の肩先から、青白い陽炎かげろうが揺らめく。

 目を疑う道雅は何度か瞬く。膝に置く合わせた袖の下で、何の印を組んでいるのか。指は既に動いていない。

「賊を雇うたのは御見様にございますか」

「それも頼宗の差し金だ。御身は我の依頼に、違わず応えてくれた。女を屋敷の外に引きずり出したのだからな。そして我のした事は、賊の上前を撥ねただけだ」

 少し饒舌になっている、道雅は思う。幸親から立ち上る陽炎は、先程よりも鮮明に見える。當子内親王を取り巻く気に似ている。にわかに思うが、慌てて否定する。

「法師の失踪は、御身の仕業か」

「あれの放つ式鬼が、私のものより弱かっただけです。払えなければ、そのまま鬼に操られましょうな」若い天文生てんもんしょうは、平然とした顔で言う。

 隆国たかくにの少将を始めとする親交のある者らは、この男の正体をどこまで承知しているのだろう。道雅は人離れした若者から、今更のように目を背ける。

「今現在の噂は、夜盗にさらわれた女房が、大宮川に落ちて凍死した。発見された時には、野犬に遺体を荒らされていた。それだけでも充分に無残な事件です。しかし、女房の素性が知れた後は、更に衝撃的になりましょう」

「そうなろうな。この様な事を言うは烏滸おこがましいと思われようが、御身の気に病むべき事ではない。忘れるよう努めよ」

 つぶやく程の声で言い、再び目を客人に戻す。青白い炎光が明王の光背のように渦を巻く。怒りの炎とは本当に在るものなのだな。それにしても、ひどく嫌われたものだ。何故か道雅は、微かな安堵を覚える。

「御身には分からなかろう。だが、我には忘れねばならぬ事が多すぎた。祖父母の死から立て続いた家の没落、父や叔父の失脚、後宮におられた叔母御らも相次いで世を去った。頼りの父も早うにうなられた。名簿みょうぶうちなどして人の下に置かれるのなら、一層の事、出家でもせよなどと、勝手な遺言まで残されて」

 幸親にとっては生まれる前の話だ。それでも、中関白なかのかんぱく家と呼ばれた家の零落は知っているだろう。

「この後、子供らが、父の望むような誇りを持ちて生きるなど適わぬ。男子を寺に入れたのも、そのためだ。姫らは、御身のような受領ずりょうの息子らが面倒を見てくれようが」

 幾度か瞬きをする幸親の背後で、炎光がゆっくりと動きながら色を失って行く。道雅への同情なのか、自らの怒りを鎮めようとしているのかは分からない。無表情を取り繕いながらも、若い優しさは残しているのか、道雅はうらやむ。

「忘れよ、抱えていても、生きるのが辛うなるだけだ」

 道雅に真っ直ぐ向けられた、古い仏のような目がおもむろに閉じる。しばらく瞑目した後、幸親は小さく息を吐く。

「この後、御身様は如何いかがなさいます」

「何もせぬ。御身の名は表には立つまい。小うるさい右大臣辺りが、何かを嗅ぎ付けたにしても、御堂家の力で公にはさせまい」

「有りがたき事にございます」

 合わせていた袖から出した手を床につき、表情を変えぬまま、幸親は深々と頭を下げる。わずかに動いた袖から、あの奇妙は菊花の香りがした。

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