第18話 三条大宮にて

 微かに高く風を切る音がした。素早く飲み込んだ息が喉で鳴る。馬上の姿が傾いたと見るや、深沓ふかぐついた片足をあぶみにかけたまま、体はどうと路上に落ちる。

 検非違使けびいしが追い付いて来たのか。だが、矢は前から射られた。待ち伏せをしていたのか。馬のくら前輪まえわに乗った鬼の目が、先程まで鞍の上にいた者を見下ろす。喉を矢が貫いているが、まだ絶命しきっていない。口からは隙間風すきまかぜに似た細い息が漏れている。

 屋敷から逃げ失せた者は四人いたが、頭目とうもくが射られて三人になった。馬は二頭、片方にはまだ、獲物の女房が乗せられている。

 複数のひづめの音が近づいて来る前方へ、鬼に目を向けさせる。一騎だけが前に出て蹄の音が止む。大きな青毛の鞍にまたがる人影は弓に矢をつがえ、雁股かりまたやじりを賊に向ける。四つ立てのくろは、頭目を射た矢と同じだ。鬼の目は、既に馬上の者の顔を確認している。

 篠青襲しののあおかさね狩衣かりぎぬの片袖を脱ぎ、弓弦ゆづるを右耳の辺りまで引き絞り、音もなく手を離す。矢は風を切る音を引いて、太刀を構える賊の右肩に突き立つ。賊の目が訝しげに肩の矢柄やがらを見る。鈍い音を立てて太刀が路上に落ちるのに続き、短い悲鳴が上がる。肩を貫いた鏃を伝って落ちる血が、道の上に染みを作る。あとの二人は逃げ出そうと、手にした松明を放り投げ、馬のくつわを取って右往左往する。

「うぬらに用はない。その女を置いてね」低く柔らかいが、良く通る声が有無を言わさず命じる。

 三位さんみ左近衛中将さこんえちゅうじょう藤原道雅ふじわらのみちまさは、既に次の矢をつがえて狙いをつける。その背後に並ぶ二騎の上からも矢が狙う。賊の片割れは馬の背から、意識のない女の体を引きずり落とす。

「良かろう。代わりに怪我人と死体を持って去ねよ」

 弓を構えたままの左中将は、見ほれるほどの笑みを浮かべる。だが、見ているのは鬼の目だけで、路上に落ちた松明の火は届いていない。

 これ程に冴え冴えと笑む顔を見たのは初めてか。額の辺りに男の美貌を見ながら、幸親は明らかな嫌悪を覚える。

 賊らの足音が遠ざかり聞こえなくなると、道雅は弓を下ろす。背後の者が馬を降りて弓と矢を受け取る。自らも下馬して馬を預けると、二人の従者に下がれと命じるように、手首を肩越しに返す。

 道の上に横たわる凱子ときこは、浅沓を履いた足がすぐ傍らに来た時、ようやく顔を上げる。ひとえの小袖にはかまだけの裸姿はだかすがたを恥じらうように、おもむろに身を起こす。

頼宗よりむねが言うていた、敵意を向ける者に情けなど掛けるのは愚かしいと」見下ろす男は、睦言むつごとささやくかのように柔らかく言う。

「敵意とは……私が……」女は男を見上げて細く問う。

「何故、呪師ずしの法師など雇うた。呪師を使うて、われを脅そうなど、何を望んでいた」

「呪師とは……あの者が言うていた貴布禰きぶねの神への……そのような事は、私は知りませぬ」

 囁くような二人の言葉を聞き、幸親の胸中に疑問が沸き上がる。下野守しもつけのかみの屋敷で会った時、何の事なのか分からないと言っていたのを思い出す。

 凱子は呪詛ずそなど依頼していないのではないか。法師の独断で行われた、いや、更に別の者が依頼したのか。誰が道雅に鬼の夜行やこうなど見せて脅そうとしたのか。

「人を雇うて危害を加えようとするのなら、こちらも報復に出るべきだ」

「私ではありませぬ。御身おみ様に危害など、どうして私が致しましょう」

「憶えがない……そうか、そうやも知れぬな」

 何かに思い当たったのか、道雅はあらぬ方を見て苦笑する。

 では、隆範法師を雇入れたのは、本当に凱子なのか。そもそも、太皇太后の許にいた女房が、いつ、どのような経緯で、よそ者の法師と知り合ったのか。誰か仲介する者がいたのではないのか。あの時、俺と凱子の会話を妨害するように、法師は敵意を向けて来た。知られてはまずい事があったのか。

其方そちは鬼の夜行を見た事があるか」

 凱子は意味が分からぬと言いたげな顔で首を振る。

「我は一度、遭うた事がある。それを陰陽師おんようしに話せば、目暗ましに過ぎぬと言われた。呪師ずしはそのような脅しで、人を害そうとする」

「野の呪師と隆範法師ですか。法師が何故なにゆえに御身様を」

「やはり、其方は知らぬのだな。我も法師も、あやつに良い様にたぶらかされたやも知れぬな」

 道雅は困惑顔で笑み、手を差し伸べる。その手を取った凱子は、引かれるままに立ち上がる。

何処どこ當子とうこに似ていた。其方に引かれた理由はそれだけだ。頼宗の言い分は知らぬが、あれらの気にするのは家の名を汚す事であろう」

 何故、再三に権中納言の名が出て来るのか。名を汚したくない筆頭は関白ではないようだ。幸親もようやく気付く。

「頼宗は再三に言うた、後々、障りになる者は除くべきだと。其方が我を呪うのなら、我が手で片をつけても良いと思うた。だがどうやら、見当違いのようだ。さて、如何いかが致そう」 

 低く忍ばせた道雅の笑い声が耳に届く。鬼神も同じように笑う。あの鬼どもも、元は人だったのか。

「凱子、其方は如何したい」

「御見様のしたいよう……」

「そうか。では、終わりにしよう」

 凱子の手を振り払い、懐中より扇を取り出す。刹那、その手を振りかぶったと見る間に、女の喉をはらう。

 乱声らんじょう止めのように高く、短い悲鳴が凱子の喉より上がる。扇に見えたのは、大きさの似た小刀だった。刃の動きを追うように噴き出す血が小袖に散り、道雅の白い狩衣の袖も濡らす。鉄錆に似た臭いが鼻をついたように思えた。人の目では見る事のない、夜の闇での出来事を幸親は声もなく見ていた。

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