第31話 カイエ帝国に事も無し

 所変わって後宮。

 ミカエラの裸の胸の上に、イネスが、生まれたばかりの男の赤ん坊をそっと乗せた。

 赤ん坊は目を閉じ、顔を横に向けている。

 ミカエラは赤ん坊の手を、親指と人さし指でそっとつまむ。爪が伸びている。おなかの中で伸びたのかと思うと、ミカエラは驚くと同時に感心してしまう。

 医師はお産の後片づけを済ませて退出した。

 長年皇室の子供をとりあげてきた女官アザンがミカエラに笑顔で言った。

「ゆっくりお子が下りたものだから長引きましたけれど、無事に生まれてようございました」

「ありがとう、アザン」

 アザンが赤ん坊の抱き方や乳のふくませ方をミカエラに教える。赤ん坊の目はまだ開かないが、小さな手や口をもぞもぞと動かしている。

 一方、イネスとエメルは、窓の外を見ていた。

 海岸に迫る高波が止まっている。暗い海の中で光が明滅する。

 二人は聞いていた。ニコマコスの優しい声を。

「さようなら」

 声がしたとたん、エメルとイネスの前にあったろうそくの火がひとつ、ふっとかき消えたのだ。

 エメルがイネスを見る。

「波が止まっている。それにあの海の光から、殿下の声が聞こえます」

「私にも聞こえる。ニコマコスの声も。海の底にもぐって、波を抑えているようだね」

「イネスさん、なんだかほっとしているみたい」

「見て」

 イネスは揺れるろうそくの火に手をかざした。何も起こらない。

「アルテを使えた時は、こうするだけで火が燃え上がった。きっとニコマコスが私の体を通してアルテを使っていたのだと思う。あの子は陛下を助けに行った。もう私たちのもとへは戻って来ない。だからほっとしているのかもしれない」

「寂しくないのですか」

「子供は親元からいずれ離れていく。ニコマコスはダラマ神のもとで一度死んだ。でもそれからずっと私と一緒にいてくれた。そして今はカイエを守る大仕事をしてくれている。カイエを守ることは姫様を守ること。あの子にとって悔いはないはず。だから私も悔いはないのだよ」

 それより、と、イネスはエメルの背中を優しく叩く。

「殿下のもとへ行かなくていいの」

 エメルが頬を紅に染める。

「で、でも、ミカエラ様と赤ちゃんを放っておけないし」

「アザンどのやギュナナ、私がいるよ。だから大丈夫」

 エメルはミカエラを振り返る。赤ん坊が乳を飲み始めた。

 イネスがほほえむ。

 エメルも笑い、ろうそくの火に手をかざした。



 海の底と海岸では、高波を必死に押さえつけている。

 その甲斐あって、波は、海岸の手前で止まっている。しかしまだ勢いは強い。

 海の底の底、熱い火の川は、まだ大きく波打っている。

 ニコマコスが力一杯それを押さえつけていると、隣に力が加わった。

 ミカエラのそばにいた、かつて自分と戦ったカイエ人の女の子だ。確かエメルといった。

 エメルがニコマコスに笑った。

「助けに来たよ」

 ――ミカエラ様は、お産はどうだった。

「無事に生まれたよ。男の子だよ」

 ――そうか。……よかった。

「お母さんがね、悔いはないって。きっとあなたにも悔いはないだろうからって」

 もし自分が人の姿のままだったらきっと涙をこぼしているだろう、とニコマコスは笑う。

 ――さあ、あと少しだ。頑張ろう。

「うん!」

 セリムもエメルに気づいた。

 ――エメル!

 エメルは笑顔で答えた。

「殿下!遅れて申し訳ございません。火の勢いはあたしがニコマコスと止めております」

 ――ありがとう。ザガノスも必死で祈ってくれている。マヒヌルも、ケナンも、ハルドゥンもジハンギルもだ。それが俺たちの力になっている。

 セリムの言葉にかぶせるようにジャムスがエメルに聞く。

 ――ミカエラは。赤子は。無事なのか?

「ええ、元気な男の子をお産みになりました」

 ――やった!

 ジャムスが二十五歳らしく喜びを弾けさせた。

 ケマルの声も加わる。

「陛下!イスハクやメティンが、逃げてきた民たちを守っております。ムサ、ヤクブ、ヌール、トゥグルク、ネディムも必死で祈っております!」

 ――祈りはここまで届いている。感謝する。

 ケマルは続けてセリムに言った。

「セリム!あともう少しだからな!あともう少しで終わる。だから頑張れ!母上も見ているぞ!」

 セリムが吹き出した。

「何がおかしい?」

 セリムは確信した。だが、ここでは黙っていることにする。地上に戻ったらすることを、伝える言葉を、セリムは決めた。

 雨が止む。

 風がゆるやかに吹き渡る。

 海の底の底で火の川が穏やかに流れる。

 海底が動きを止める。

 波が引いていく。

 東の空が桃色に、青色に、橙色に染まる。

 日の光が明るく一筋、現れた。

 ジャムスとセリムを包む光が、ニコマコスとエメルを包む火が、海岸に降り立つ。

 現れたセリムに、トゥグルクが駆け寄る。しかし、一発殴ることはしなかった。代わりに、固く抱きしめる。

「馬鹿野郎。心配させやがって」

 セリムも抱き返す。そこへムサ、ハリル、ヤクブ、ヌールそしてネディムの腕が伸び、セリムを幾重にも包む。

「ありがとう。ごめんな」

 ジャムスに、小さな炎となったニコマコスが言う。

 ――陛下。お子さまご誕生、お祝い申し上げます。どうぞこれからも、お幸せにお過ごしくださいませ。

 ジャムスは複雑な笑みを作った。

「ああ。感謝している。そなたの分までミカエラを支えることを約束いたす」

 ニコマコスは少しだけ肩の荷が下りた思いがした。この男と共にいるなら、ミカエラ様はのびのびと生きてゆけるだろう。

 ――エメル。母さんを頼む。

 エメルは涙を浮かべてほほえみ、何度もうなずいた。そして伝えた。

「ミカエラ様は、今でも、お髪を短くなさっているよ」

 ニコマコスが息を呑む。人の姿をしていたらきっと、涙が止まらなかっただろう。ああ、これで俺は、心置きなく消えることができる。

 ――ありがとう。

 ニコマコスは、消えた。

 朝日が昇る。

 セリムはケマルに向き直り、呼んだ。

 レイハーネが死んだ時、彼の髪とひげは真っ白になった。しかし今は、目の前にいるセリムが自分を呼んだ言葉で、頭の中が真っ白だ。

 もう一度呼ばれた。

 ケマルは声を上げて泣き、そして笑った。

 セリムとケマルは互いを胸にしっかりと抱いた。



 以上は、カイエ帝国暦二百五十三年の出来事である。

 史官は記す。

 高波が都イスティンを襲おうとした時、謎の星が現れたこと。その星が波に沈み、また上がり、波が引いたこと。

 皇帝ジャムス一世は弟セリムに、『地の母』の神官の配置や育成、神殿の修復について、『地の母』の神官たちと協力して実態調査及び対策立案に当たるよう命じたこと。

 カイエ帝国暦二百五十三年の記録の最後を、史官はこのように終えている。


「カイエ帝国に事も無し」

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カイエ帝国に事も無し 亜咲加奈 @zhulushu0318

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