第7話

 アルスーンとシャオティエンが伴侶となってからふた月が経とうとしている。新婚だからと周囲に言われ屋敷で執務を続けていたアルスーンだが、そろそろ通常任務に戻ろうかと考えていた。先日その旨を軍部に伝えたものの、上層部はあまりいい顔をしていない。「いよいよ厄介払いでもされるかな」と思いつつ、この先の身の振り方を考えてからだと将軍職を辞することは押し留めていた。


(伴侶ができるということは勝手はできないということだ)


 それに相手は元王子という身分だ。特別大切に育てられてきた高貴なΩに不自由を味わわせることはできない。中流貴族でしかないアルスーンが将軍職を辞すれば懐具合は一気に厳しくなってしまう。


(まさか俺がこの先の食い扶持を心配していることなど想像すらしていないだろうな)


 書類から視線を上げ、ソファで本を読んでいるシャオティエンを見た。今日は個人的な書き物をしているだけで執務でないと伝えたからか、本を持ったシャオティエンがやって来たのは少し前のことだ。

 高貴さが漂う後ろ姿に「さて、どうしたものか」と相変わらずの言葉が脳裏に浮かぶ。「最上のα」というものになったのならこのような悩みはないはずだと思い、それが逆にアルスーンを安堵させた。何か恐ろしいことが起きるのではと危惧していたのが馬鹿らしくなるくらい平穏な毎日を送っている。


「ふふっ、そんなにうなじが気になりますか?」


 笑い声にハッとした。気がつけば後ろ姿をじっと見つめていたようで、そのことに気づいたシャオティエンが笑みを浮かべながら振り向いている。


「そういうわけではありませんが」

「触れたいのであれば、どうぞ」

「いえ、結構です」


 そう言いながらもアルスーンの視線はうなじに注がれたままだった。一度視界に入ると白い肌に浮かぶ赤い花模様が気になって仕方がなくなる。


(段々と薔薇に見えるようになってきたな)


 鬱血痕が重なる花びらのように見えるからか、この国で好まれている薔薇の形に見えなくもない。


(そういえば神華の国には薔薇によく似た花が咲いていたか)


 あれはたしか桃、いや牡丹と言っただろうか。一度目に噛んだときには小さな花びらが連なっているような形をしていたが、何度も噛むうちに花びらが重なるような形になってきた。

 気になるなら噛まなければいいのに、気がつくと誘われるままうなじに唇を寄せてしまう。そうするとα性が目覚めるのか、どうしても歯を立てずにはいられなかった。牙でないからまだいいものの、それでも白い肌に鬱血痕が残り続けるのを見るたびに「何をやっているんだ」と呆れてしまうばかりだ。


「もしや、こうした噛み痕は初めてですか?」


 アルスーンを嘲笑うかのようにシャオティエンが笑みを浮かべる。そうして細い指が誘うようにうなじの噛み痕をするりと撫でた。


「これまでΩの噛み痕を見る機会はほとんどなかったので」

「そうでしたか。噛み痕は人それぞれと言われますが、このように美しい噛み痕は滅多にないと思いますよ?」


 シャオティエンの言葉に「なるほど、見せつけていたのか」と合点がいった。

 以前は緩く結ぶことが多かったシャオティエンだが、アルスーンにうなじを噛まれてからは高い位置で結い上げるようになった。彼の国では伴侶ができるとそうするのかと思っていたが、いまの言葉で髪型の意図がはっきりした。


「まだ何か企んでおいでか?」

「企むなど、人聞きの悪い」

「さて、俺にはそう思えて仕方ありませんが」


 アルスーンの言葉にシャオティエンがふわりと笑う。「おかしなことを」と言いながら立ち上がると、本をテーブルに置きゆっくりと執務机に近づいた。


「何も企んでなどいませんよ。そもそもわたしが何を企むと言うのです? 滅んでしまった我が国の再興ですか? それともこの国を滅ぼし罪をあがなわせるとでも?」


 どちらも前々からアルスーンが考えていたことだ。だが、どちらもシャオティエンがやりたがっているとは思えない。もしその気があるならとっくに行動を起こしているだろう。アルスーンの元に来て三月みつき以上が経つのだから、そうしたことを本気で考えているのなら何かしらの兆候があってもよい頃合いだ。


「そんな企みなど抱いていませんよ」


 女神のような微笑みを浮かべながら細い指で執務机をするりと撫でたシャオティエンが、執務椅子に座るアルスーンの傍らに立った。


「それに、どちらも大した利益にはなりません」


 逞しい肩に手を載せ、見下ろしながら睦言のようにそう囁く。その涼やかな声にぞくりとしたものを感じたアルスーンは、ゆっくりと美しい顔に視線を向けた。見つめ合う形になったものの、微笑んでいるのはシャオティエンだけでアルスーンの表情は変わらない。


「最初に言ったではありませんか。わたしはあなたを最上のαにするのだと」

「それが運命とやらでしたね」

「黒真珠であるわたしの運命はあなた。わたしのαはあなただけ。だから、わたしはあなたを最上のαにするのです」


 いまだに最上のαが何なのかわからない。これまで何度か訊ねたものの、そのたびに「あなたのことですよ」と微笑まれるだけだった。どうせ今回もはぐらかされるのだろうと考えたアルスーンは別のことを問うことにした。


「俺を最上のαとやらにして、それからどうするおつもりですか?」


 問いかけに、身を屈め耳元に口を寄せたシャオティエンがくすりと笑う。


「あなたには王になってもらいます」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。くすくすと笑う涼やかな声に思考が止まる。


「この国の王に、いずれはもっと大きな王に」

「……何を、」

「最上のαとなったあなたには造作もないこと。誰もがあなたにひれ伏し、大勢の民が王として敬うでしょう。それがわたしだけのαであるあなたのすべきこと」


 顔を離し背筋を伸ばしたシャオティエンが「さぁ、こちらを向いて」と囁いた。まるで操られるかのように椅子ごとシャオティエンに向くと、アルスーンの足の間に華奢な左足が入り込む。そうして膝を座面に載せたところでわずかに椅子がギシッときしみ、その音でアルスーンはハッと我に返った。


「わたしを噛んだあなたは、もうわたしから逃れることはできません。逃そうとも思いません」


 逞しい両肩に手を載せたシャオティエンが、美しい顔を近づけるように再び身を屈める。そうして耳に唇を近づけ甘く涼やかな声で囁いた。


「あなたはわたしだけのα。どうかあなただけのΩの願いを叶えてください。そうすればこの体も魂もあなたに捧げましょう。あなたの好きなようにしてよいのですよ?」


 耳から入る言葉はまるで芳醇な酒のようだった。声を聞くだけで酩酊したようになり、その声に従わなくてはと思わせる。


「……なるほど、運命とはあなたの身の安全を図るための存在でしたか。Ωであるあなたは、それをαである俺に役目として与えようとしている」

「たしかにそれもあります。ですが、わたしはただあなたと添い遂げたいだけなのです。そのためには二人が安心して過ごせる場所が必要です。わたしはその場所を手に入れたいだけ」


 そう告げたシャオティエンが小さく笑った。フッと吐き出された吐息が耳に触れるだけで意識が奪われそうになる。


「昔からΩは巣作りをすると言われています。そう考えれば安全な場所に巣を作りたいと思うのも当然かもしれません。ふふっ、二人の愛の巣というわけですね」

「さて、本当に愛情などというものが存在するのかはなはだ疑問ですが」

「わたしの想いを疑うのですか?」


 熱く甘いシャオティエンの声がアルスーンを侵食するように響いた。


「わたしはあなたを愛しています。この身を傷つけられてもいいと思うほどに。あなたになら体のどこを噛まれても愛しいと思いますし、どれほど深い場所を暴かれても悦楽と多幸感しか感じません。そう、わたしはあなたさえいればいい。わたしたちが添い遂げるのを邪魔する存在を排除したいだけなのです」

「……そのために王になれと?」

「王はあなたを疎ましく思っています。いずれ首をはねようとも考えている。わたしにとってもあなたにとっても邪魔な存在でしかないでしょう?」


 シャオティエンの囁きに全身が粟立った。以前から感じていた得体の知れないものが、ようやく顔を覗かせ始めたのだとはっきり感じた。


(女神の姿をした……こういう存在を何と呼ぶのだろうか)


 少なくとも傾国と呼ぶにはあまりある存在だ。もちろんただのΩでもない。これまで相対してきた他国の将軍や貴族、それに王に連なる高貴なαたちとも違う。αに庇護されるべきΩだというのに、シャオティエンからは底知れないものが漂っていた。


(このお方は危険だ。わかっている、これ以上呑み込まれるわけにはいかない……わかっているが……)


 おそらく抗えないだろうことも理解していた。それがうなじを噛んだ代償なのだろう。もしくは「運命」であることからは決して逃れられないということかもしれない。

 そこまで考えたアルスーンは、ふと「そういえば畏怖のようなものは感じなくなったな」ということに気がついた。戦慄にも似たものをたびたび感じていたが、うなじを噛んでからはそうしたものを感じなくなっている。


(俺も変わってきているということか)


 それが最上のαになるということなのかもしれない。そして美しくも恐ろしい至高のΩに近づくということだ。

 不意に神華の国で対面したときのことを思い出した。まるで花が咲いたような表情を浮かべたシャオティエンだったが、黒眼の奥で炎のようなものが揺れていたことを思い出す。

 アルスーンは小さく息を吐くと、口づけるようにシャオティエンの耳に唇を近づけた。


「神華の国が我が国に滅ぼされたのは偶然ですか?」


 問いかけに返事はなかった。代わりに細腕がするりと首に絡みつき、悪戯を仕掛けるように耳たぶをかぷりと噛む。途端に白いうなじから匂い立つようなΩの香りが漂い始めた。

 頭をわずかに動かしたアルスーンは、横目で薔薇の花のような噛み痕を見た。わずかながら先ほどよりも色が濃くなっている。もしかすると香りの濃度によって色合いが変わるのかもしれない。


(香りも噛み痕も、どこもかしこも普通のΩとは違うということか)


 そして自分も普通のαとは違う道を歩むことになるのだろう。

 アルスーンは「まさに黒真珠だな」と思いながらシャオティエンを抱き寄せた。そうして己の覚悟を刻みつけるように噛み痕に口づけを落とした。

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