第6話

 乱暴な足取りのままベッドに近づいたアルスーンは、まるで荷物のようにシャオティエンを放り投げた。


「以外と乱暴なのですね」

「どの口がおっしゃる」


 横たわったまま小さく笑うシャオティエンに緑眼がわずかに細くなる。

 先に挑発したのはシャオティエンだ。いまさら紳士ぶるつもりはない。相手もそれを望んでいるのだとしながらも、それだけではない沸々とした感情がわき上がるのをアルスーンは感じていた。


「ようやくあなたをわたしのαにできる」


 真っ白なシーツに艶やかな黒髪を乱しながら微笑む姿に目眩がした。うるさいくらい血が全身を勢いよく巡るのを感じながら、痩身をベッドに抑えつけるように口づける。

 乱暴に組み伏せられている状態でもなお、シャオティエンは喉の奥で小さく笑っていた。そうしてからかうようにアルスーンのうなじを指先で撫で回す。そのまま茶色の髪を掻き混ぜ、もう片方の手で広い背中を掻き抱いた。


「んふ、ふふっ、ふ……っ」


 甘噛みより強く唇を噛むアルスーンに、シャオティエンは笑うように鼻を鳴らした。主導権は自分にあるのだと言わんばかりの様子にαとしての本能が牙を剥く。


「ん……んっ、んぅ!」


 アルスーンは乱暴に手を動かし、引きちぎる勢いで美しい衣装を剥ぎ取り始めた。布地が肌を擦る痛みに眉をひそめながらもシャオティエンが口づけをやめることはない。それどころかアルスーンの口内に舌を差し入れ「もっと」とねだるように両腕で逞しい体を掻き抱いた。


「……なるほど、乱暴にされるのがお好きでしたか」

「ふふっ。そうしたいのなら、お好きに。わたしは、あなたのΩ、なのだから」


 口づけだけで息が上がっているというのに、シャオティエンはますます妖艶な笑みを浮かべてアルスーンを挑発する。


「殿下のお許しは頂戴しました。となれば、この先は何をされても文句は言えますまい」

「文句など、言うはずがありません。ただ一つ、うなじを噛むことさえ、忘れなければ」

「……あなたという人は」


 呑み込まれては駄目だとわかっていながら、美しい肢体を抱きしめた。ためらうことなく発情したΩの香りを思う存分吸い込む。まるで酒精に酔ったかのような酩酊を感じつつ、「このΩを自分のものにするのだ」というαの本能のまま牙を剥いた。

 この日、アルスーンはかつてないほどα性に従順に動いた。どんなΩを前にしても理性を失わなかったのが嘘のように、目の前で美しく乱れるΩに何度も手を伸ばす。溺れるように互いを貪り尽くしたものの、本格的に発情したαとΩの本能はそのくらいでは落ち着いたりしない。

 アルスーンは承知のうえでシャオティエンの相手をし続けた。駄目だと訴える自分から目を逸らすように自らの欲と香りをぶつけ続けた。そうしてすっかり力を失ったシャオティエンを抱き起こし、膝の上に座らせるように載せて再び抱きしめる。


「さぁ殿下、休んでいる時間はありませんよ。うなじを噛んでほしいのでしょう?」

「は、はっ、」


 わずかに上にある顔を覗き込むと、黒眼はうつろで頬や目元は赤く染まっていた。息は荒いものの声は聞こえているようで、「噛んで」と甘く掠れた声が返ってくる。

 直後、うつろだった黒眼がゆらりとアルスーンを見た。濡れた瞳は妖しく光り、あらゆる者の欲を刺激するような色香を放つ。その奥で得体の知れない炎のようなものが揺らめいているのが見えた。

 それでもアルスーンに噛まないという選択肢はなかった。駄目だとわかっていてもα性を抑えることができない。いや、抑える気など最初からないようなものだった。


(いますぐうなじを噛みたい)


 これまで関係を持ったどのΩにも感じなかった強烈な欲がわき上がる。


(このΩは俺のものだ。そして俺はこのΩのためのαだ)


 生まれて初めてそんなことを思った。頭で理解しているというより魂自体に刻み込まれたもののように感じる。同時に焦燥感のようなものがわき上がり、早くこのΩを手に入れなければと強迫観念にも似た気持ちになった。

 全身を巡る強烈な感情や感覚に目眩がした。発情とは違う、もっと深いところで恐ろしい何かが肉体や精神を侵食していく。これがシャオティエンの言う「運命」のせいだとすれば、抗うことはあまりに難しかった。アルスーンは一度奥歯を噛み締め、それからゆっくりと口を開いた。


「うなじを噛めば殿下は正真正銘、俺のΩとなります。いいですね?」


 別に許可を得ようと思って口にしたわけではない。覚悟を決めるため、自分に言い聞かせるように言葉をつむいだ。深く息を吐きながら目を閉じ、暴れ出しそうな気持ちを何とか手懐けながらゆっくりと目を開く。開いた緑眼はハッとするほど鮮やかに光り、まるで燃え上がる大地のような色をしていた。


「あぁ……わたしの、わたしだけのαが、ようやく……」


 アルスーンの燃えたぎる瞳にシャオティエンの黒眼が見開かれていく。


「シャオティエン殿下」

「あぁっ」


 名を口にした瞬間、シャオティエンの体から濃厚な香りが一気に放たれた。一度目の発情よりも濃く甘い香りがアルスーンの体を包み込み、それでもなお広がる香りが寝室を覆っていく。


「陛下の前で発情しなかったとは思えないですね。これほど妖しく美しく、そして恐ろしいほど濃い香りを放つ発情は初めて見ます」


 アルスーンの大きな手が黒髪にかかる。長い髪を優しく掴むと、うなじをあらわにするように右肩へと押しのけた。そのまま背中を撫で、クッと抱き寄せてから背骨をたどるように動いてうなじを撫でる。


「あぁ!」


 指先で触れただけでシャオティエンが甘い声を漏らした。抱きしめた体はぶるりと震え、ますます発情の香りが強くなる。


「この間の発情とはまったく違う。なるほど、これが運命とやらの発情というわけですか」


 絡みつくようなシャオティエンの香りがますます濃くなった。部屋全体に広がっていた香りが、今度は濃縮されるかのように二人を覆っていく。それに呼応するかのように新緑にも似た香りが広がり始めた。


(αとしてここまで発情するのは久しぶりだ)


 己の香りに気がつくほどアルスーンが発情したのは初めてのとき以来だった。その後は何度発情したΩを相手にしても己の香りが強まることがなかった。若いうちは「もしやαとして欠陥があるのではないだろうか」と悩んだほどだ。


(そうではなく相手が違ったということか)


 シャオティエンが相手でなければ発情できない体なのだろう。それが「運命」ということに違いない、アルスーンはそう思い納得した。むしろそれが当然だと本能が語っていた。


「殿下のお望みどおり、噛んで差し上げます」


 耳元で囁くアルスーンにシャオティエンが喜ぶように体を震わせる。それに歓喜するαの本能を感じながら、香しくも甘いうなじにαの牙を突き立てた。


「あ・あ……!」


 悲鳴にも似た声がシャオティエンの口から漏れた。くたりとしていた体はブルブルと震え、力の抜けていた下半身もガクガクと小刻みに震えている。それでもアルスーンは噛むのをやめなかった。このΩは自分のものだという感情のままに肌を食い破り、絶対に逃がすものかと牙で押さえつける。

 どのくらい噛み続けただろうか。気がつけば腕の中のシャオティエンは動かなくなっていた。全身をアルスーンに預けながら小さく荒い息をくり返している。


(やり過ぎたか)


 シャオティエンの様子に、アルスーンはようやくうなじから唇を離した。たったそれだけでも感じるのか「んっ」と甘く掠れた声が漏れる。

 まるで気を飛ばしたかのようなシャオティエンを膝から下ろし、ゆっくりとベッドに横たえた。白い肢体は長い黒髪にところどころ覆われ、それが逆に淫靡に見える。発情しきったこの姿を見ればどんなαも我を見失うに違いない。


(こういうお方を傾国と呼ぶのだろう)


 シャオティエンを手に入れるために国同士が争っても不思議ではない妖艶さだった。「陛下の前で発情しなかったのは幸いか」と冷静に考えるのとは別に、体は再び発情の熱に呑み込まれそうになる。それをグッとこらえたところで噛んだばかりのうなじに目が留まった。


「噛み痕……というより模様か?」


 αの噛み痕は文字通り“噛んだ痕”としてうなじに残る。ところがシャオティエンのうなじには噛み痕とは言いがたい模様のようなものが浮かんでいた。


(鬱血痕にしては色が違うような……花のようにも見えるな)


 よく見れば白い肌に咲く花のような形をしている。血が滲んでいるせいかと指を伸ばしたところで、なぜか「そうじゃない」と感じた。その気持ちのまま身を屈め、花のような模様を舌でぺろりと舐める。


「ん……なめ、ないで」


 ため息のような囁きが聞こえて来た。


「殿下?」

「ひどく、感じて、しまうから」


 うわごとのような言葉だが、わずかに開いた黒眼がとろりと熱っぽくアルスーンを見ていた。匂うような色香に、アルスーンは年甲斐もなく喉が鳴るのがわかった。


「殿下は存外、感じやすい体質のようですね」

「ん……意地悪、な、ことを、」


 そう言いながらも嫌がる素振りは見せない。


(一回り以上も若い殿下に翻弄されるわけにはいかないが)


 それでもひと言申し上げておくべきか、そう考え口を開いた。


「これで殿下は正真正銘の伴侶となりました。これからは不用意なことはなさらないように」

「ふふ、どうでしょう」

「もはや俺の嫉妬を煽る必要はないはずですが?」

「わたしを満足させてくれるのなら。そうでなければ、さてどうでしょう?」


 内心からかわれているのだとわかっていても、発情で気が立っているからかアルスーンの中に腹立たしい気持ちが広がる。「それならば」とシャオティエンに覆い被さり、花にも見える噛み痕に吸いつくような口づけを落とした。


「ひぁっ。やめ、感じるから、やめて」


 身悶えるのを抑えつけ、ついでだと言わんばかりにさらに甘く噛む。途端にシャオティエンが悲鳴のような高い声を上げて全身を震わせた。


「俺を煽るということはこういうことだと覚えておいてください」


 シャオティエンの返事はなかった。よく見れば顔も首も真っ赤にし、シーツを引っ掻くように指先で掴んでいる。うなじからも再び濃い香りが漂い始めたことで、発情が完全には収まっていないのだということに気がついた。


(あと一日、いや二日といったところか)


 それが終われば名実ともに正式な伴侶となる。アルスーンがシャオティエンのうなじを噛んだという話は時間をおかずして貴族たちの間に広がるだろう。

 ふと、これで自分は最上のαとやらになったのだろうかという疑問が湧いた。それが何を指すのかわからないが、「この国の王などよりもずっと優れたαに」という言葉が引っかかる。


(まるで本物の傾国のような言葉だな)


 何気なく思ったことに背筋が冷たくなった。「いや、まさか」と思いながらしどけない姿のシャオティエンを見つめる。


(殿下が本物の傾国として……いや、それでも……)


 再び漂い始めた発情の香りにアルスーンの思考がゆっくりと停止した。残ったのは目の前のΩを貪りたいというαの本能だけだ。

 アルスーンは遠くで「呑み込まれるな」と叫ぶもう一人の自分を感じながら、甘く香る美しいΩを再び抱きしめた。

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