第5話

 シャオティエンの様子が変化して半月ほどが経とうとしていた。新婚だからと任務から少し離れていたアルスーンも、そろそろ通常業務に戻る日が近づいている。「こうして屋敷で執務をするのもあと少しか」と思いながら凝り固まった首を回し、愛馬の様子を見に行くかと執務室を出た。

 いつもは客人を迎える広間の前を通ってから居間に立ち寄り、そこでくつろぐシャオティエンの様子を確認する。執務中のシャオティエンはほとんど居間で過ごしているようで、様子を見に来るアルスーンを見ては「終わりですか?」と顔をほころばせるのが常だった。

 しかしこの日のアルスーンは広間のほうには行かず中庭のほうへと向かった。執務室の窓から中庭のほうへ行くシャオティエンが見えたからで、念のため様子を見ておこうと考えたからだ。


(侍女を付けずに歩き回るのはやめさせるべきか)


 そんなことを考えていたアルスーンの耳に、かすかながら人の声のようなものが聞こえた。「なんだ?」と耳を澄ますと、中庭の奥のほうから「や……」というかすかな声が聞こえてくる。


(いまのは、)


 間違いなくシャオティエンの声だった。アルスーンはすぐさま渡り廊下から中庭へと出た。奥にある東屋に向かいながら、Ωの香りが漂っていることに眉をひそめる。


(この香りは……)


 訝しみながらも手前にある立派な東屋を足早に通り過ぎ、さらに奥にある小振りな東屋へと向かった。そこは以前シャオティエンが「あの辺りは懐かしく感じます」と感想を述べたところで、周囲に神華の国でも見かけた植物が多く植えられている場所だった。


「やめ、」


 目の前に現れた東屋には二人分の人影があった。一人は長い黒髪のシャオティエンで、もう一人は軍服を着ている。


「何をしている」


 声を掛けながら近づくと、白く細い手首を掴んでいた軍服の男がハッとしたように振り返った。


「か、閣下!」


 男が慌てふためきながら敬礼する。シャオティエンは力が抜けたのか、そばにあった椅子にくたりと腰掛けた。その様子を見たアルスーンはわずかに眉を寄せ、それから軍服の男に視線を向ける。


「こ、これは」

「書類を拾い、仕事に戻れ」

「は、はいっ!」


 地面に落ちていた書類を慌てて拾い上げた男は、もう一度敬礼し大慌てで走り去った。それを無言で見送ったアルスーンは、改めてシャオティエンに視線を向ける。

 ゆるやかに背中のあたりで結ばれている黒髪はわずかに乱れ、彼の国の衣装は胸元が少しばかり乱れていた。その姿を見れば先ほどの男がシャオティエンに何をしようとしていたのか一目瞭然だ。

 軍服の男はアルスーンに書類を届けに来た部下だった。執務室で書類を受け取り、処理が終わった別の書類を渡した際に二言三言言葉も交わしている。下級貴族出身だというその男は、終始尊敬の念を隠さない眼差しでアルスーンを見ていた。

 そのことを思い返しながら、アルスーンはわずかに細めた緑眼でじっとシャオティエンを見た。


「殿下から発情したときのΩの香りが漂っていますが」


 アルスーンの言葉にシャオティエンの返事はない。くたりと椅子に座る姿はまさに妖艶という様子で、その姿とΩの香りを嗅げばどんなαも我を見失うだろう。


(αどころかそうではない一般人も引き寄せられるだろうな)


 現にあの軍人はαではなかった。それでも手を伸ばさずにはいられないほどの気配をシャオティエンは放っている。


「しかし、今朝食事をともにしたときは発情の兆候は見られませんでした」


 だから眉を寄せた。もし発情の兆候があればアルスーンが気づかないはずがない。ほんの数時間前には一切感じなかった発情の香りが漂っている。


(αでないあの男が原因ではないだろう)


 αなら強制的に発情を促すこともできるが、そうでない人間にΩの発情を誘発することは難しい。そもそもαの上官がすぐそばにいる状況で、そういった薬を上官の伴侶相手に使うというのは考えにくかった。

 αはΩへの執着が激しい生き物だ。とくに伴侶のΩを囲うほど執着するのは有名な話で、少しでもほかのαが近づけば即決闘になることもある。そんなαのそばで伴侶に何かするのは自殺行為にも等しい行いだ。


「何が目的ですか?」


 だからこそアルスーンはそう問いかけた。静かに問いかける声に黒眼がスッと上がる。


「わたしの心配はしないのですか?」

「発情を促す薬を使い、あなたから仕掛けた。それなら自分に害が及ぶような真似はしないでしょう」


 アルスーンの返事にシャオティエンの口角がわずかに上がった。


「どこまでを害と考えるかは人それぞれですよ?」


 そう言って立ち上がったシャオティエンの首に、ほんのわずか赤い痕が見えた。胸元が乱れている原因がそれだとわかり、アルスーンの緑眼がわずかに細くなる。


「王に散々なぶりものにされたこの身、もはやどこまでが害かなどわからぬものです」

「……何が目的ですか」

「目的は最初からただ一つだけ」


 立ち上がったシャオティエンがゆっくりと両手を伸ばした。神華の国の衣装は袖口がゆるやかな作りだからか、斜め上に伸ばした細腕を柔らかな布がすべり落ちていく。そうしてあらわになった白い腕がアルスーンの首に絡みついた。


「わたしはあなたがほしい。わたしだけのαにしたい。それなのにうなじを噛んでもらえないまま。それならばと、少しばかり強引なことを考えました」

「あの男を利用しましたか」

「αでなくともわたしの香りからは逃れられません。それに、Ωに初心な者ほど香りに流されやすいもの。あなたに謝りながらも手を伸ばす姿は憐れと思いましたが、あなたが噛んでくれないのが悪いのですよ?」


 小さく笑うシャオティエンは、女神とも悪魔とも言いがたい美しさを放っていた。清純ながら蠱惑的で、あらゆる欲を刺激するような恐ろしい気配も漂っている。


(そういう自分をよく知っている者の姿だ)


 自分がどう動けば相手を惑わすことができるか理解している姿でもあった。相手がαだろうとそうでなかろうと、シャオティエンに惑わされない者はいないだろう。

 細腕を引きはがしたアルスーンは、黒髪が乱れるのも構わず後頭部を掴み噛みつくように口づけた。頭一つ分ほど背丈が違うシャオティエンは、それに応えるように軍服の胸元を握り締めながら爪先立ちになる。

 まるで縋るような仕草にアルスーンは腹の底がカッと熱くなるのを感じた。ほかの男が触れることを簡単に許しながら、こうして「あなただけだ」と身を任せる。まるで悪女のようだと思いながら、漂っているΩの香りを吸い込むたびに沸々とした思いがわき上がってくる。


「俺の嫉妬心を煽ろうとは」


 唇を離し、触れそうな距離のまま低い声でそうつぶやいた。


「そうでもしなければ、あなたは本気になってくれません」

「嫉妬しないかもしれないとは思わなかったのですか?」

「あなたから強いαの香りが漂い始めていましたから、αの本能を剥き出しにするのはわかっていました」

「……なるほど」


 ここのところ、やけに鼻についていた香りはどうやら自分の香りだったらしい。これまで自分の香りを感じるほど発情したことがなかったせいで気づかなかった。


(そして、それを誘発したのは殿下だ)


 そのためにそばにいたのだろう。己の香りを何度も嗅がせαの本能を刺激し、とどめに自ら発情を促す薬を飲んで一気に引き寄せようとした。


(Ωがαの発情を誘うとはな)


 αがΩの発情を促すことはあれど、Ωが意識してαを発情に導くなど聞いたことがない。

 美しくも妖しげに微笑むシャオティエンを肩に担ぎ上げたアルスーンは、やや乱暴な足取りで屋敷の中へと戻った。驚く侍女たちに「しばらく部屋に人を近づけるな」と告げ、寝室のドアをぴしゃりと閉じた。

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