第4話
「黒真珠はとても貴重なものです」
まるで歌うように涼やかな声が響く。それを見つめながらアルスーンは本能がわずかに警鐘を鳴らすのを感じていた。
何かよくないことを聞かされそうな気がする。おそらく聞かないほうがいい類いのものだろう。そう思ったものの、馬乗りになっている痩身を押しのけることはできなかった。
「真珠が豊富に採れる我が国でも、黒真珠は滅多に見ることが叶わないものでした」
「……我が国ではさらに貴重だと言われている宝石です」
「そんな黒真珠に例えられるほど、わたしは貴重なΩなのです」
「貴重なΩ……?」
たしかに貴重なΩと呼びたくなるほどの美しさをしている。真珠が普通のΩだとしたら、シャオティエンは滅多に出会うことがない黒真珠と言っても過言ではないだろう。しかし王族のΩは総じて美しく生まれるものだ。シャオティエンはそうしたΩの中でもより美しいというだけだしかない。
「黒真珠を持つ者には富と祝福が与えられる、そういう言い伝えがあることは知っていますか?」
「いいえ、聞いたことがありません」
「この言い伝えも我が国では有名でした。そのことも含め、わたしは黒真珠だと言われていたのです」
つまり「手にすれば富と祝福が与えられるΩ」ということだろうか。
(しかし王族のΩであれば誰もがそう言われるものだ)
シャオティエンは彼の国でとくにそういう扱いを受けていたのだろう。挨拶のときに集まっていた貴族たちが「他国の将軍ごときに顔をお見せになられるとは」と驚いていたことを思い出す。しかしほかの王族Ωを娶っても富や地位を得られるのは同じことで、だからこそ多くの貴族は王族Ωを娶りたいと望む。
(それとも、そういう意味ではないということか)
訝しむように細められたアルスーンの緑眼にシャオティエンが小さく笑った。
「わたしを手に入れたαは、この世でもっとも強いαとなる」
「……はい?」
「我が国ではそう言われていました。しかし実際は少し違います。わたしだけのαを、わたしが最上のαにするのです」
「最上のα……?」
「そう。誰よりも強く、どのαよりも優れた最上のαです。もちろん、この国の王などよりもずっと優れたαに」
まるで天啓を告げるかのように赤い唇がニィと笑みを深めた。
「あなたはわたしのαです。わたしはあなたを最上のαにすることができる、ということです」
シャオティエンの表情に、アルスーンは戦慄にも似たものを感じた。戦場では真っ先に敵軍へと突っ込んできたというのに、それすら嘲笑うかのような得体の知れない恐ろしさを感じる。いや、これはただの恐怖ではない。まるで神を前にしたときのような畏怖にも似たものを感じていた。
「あなたは最上のαになるのです」
わずかに肌を粟立たせるアルスーンの頬を細い指がするりと撫でた。指先は慈愛に満ち、微笑みもこの国で広く敬われている母神のように見える。しかしアルスーンの背筋を震わせる冷たい感覚が消えることはない。
「わたしにはその力があります。だからこそ黒真珠と呼ばれ大事に育てられてきました。いずれは王族αの伴侶にし、我が国を栄えさせるのだと育てられてきた。けれど我が国にわたしのαはいなかった。そのことにどれだけ絶望したか想像できますか? 求めるものを得られない現実に何度も気が触れそうになりました」
黒眼が輝きを増しながらじっとアルスーンを見つめる。その目から視線を外すことができず、アルスーンはただシャオティエンの言葉を聞き続けた。
「そんなときやって来たのがあなたです。あの日、わたしは予感めいた気持ちを抱きながら城に入るあなたを見ていました。遠目だったにも関わらず、わたしにはあなたが運命だとすぐにわかった。あぁ、いま思い出してもあのときの歓喜を思い出すほどです」
再びニィと笑ったシャオティエンがゆっくりと上半身をかがめる。
「ようやくわたしだけのαを見つけた」
黒髪がさらりと華奢な肩を滑り落ち、美しい顔がゆっくりとアルスーンに近づいた。鼻先が触れてもなお、二人の目は開いたまま互いを見つめ続ける。
「わたしは運命のαにしか発情しません。それこそが黒真珠の証。だから王にも発情せず、それを王は愚弄されたと思ったのでしょう。何度もわたしを発情させようとしましたが、あのようなαに発情することなどあり得ない」
「そうして陛下の怒りを買い、わたしに下賜されるように仕向けましたか」
それには答えず小さく笑ったシャオティエンは、触れるだけの口づけをアルスーンの唇に落とした。
この日を境に、シャオティエンの様子は明らかに変化した。表情を変えることなく口を開くこともなかったのが嘘のように笑顔を見せ、さらに侍女らにねぎらいの言葉さえもかける。もっとも大きく変わったのはアルスーンへの態度で、まるで自分こそがアルスーンの伴侶だと周囲に見せつけるように執務のとき以外かたときもそばを離れようとしなかった。
(さて、どうしたものか)
アルスーンはシャオティエンを屋敷に迎え入れたときと同じことを思い、それよりも厄介なことになったなとため息を漏らした。
(うなじを噛み、正真正銘の伴侶となるのはかまわないが……)
噛もうがどうしようがシャオティエンが正式な伴侶であることに代わりはない。十年前に一方的に婚約破棄されて以来、婚約者を作ることもなく許嫁すらいないアルスーンにとって伴侶ができるのは幸いなことだ。問題は子宝だが、シャオティエンとの間に子ができないのであれば親戚の誰かに家督を譲る準備を始めればいい。
(だが、あの「最上のα」という言葉がどうしても引っかかる)
わざわざ「この国の王などよりも」と口にしたことも気になった。この国の将軍である自分に、なぜ敢えてそんなふうを告げたのだろうか。王に疎まれている将軍だとわかっていたとしても、何か企てているのではと疑われるようなことを口にするのは危うすぎる。
(俺を挑発しているとも考えられるが、そんなことをしたところで俺が何かするわけもない)
もう少し若ければ多少の野望は抱いたかもしれない。しかし自分は四十を目前にした年齢で、若く美しいΩにそそのかされるには年を取りすぎている。それ以前に生真面目なアルスーンが王に反旗を翻すことはあり得なかった。
(俺の性格は殿下もご存知のはず。それでも敢えて口にする殿下の狙いは……)
アルスーンは二つのことを考えた。
一つは、将軍であるアルスーンを取り込んでこの国から逃れることだ。大勢の民や軍人に慕われているアルスーンが力を貸せば国外へ脱出することは可能だろう。だが、この国を出たところで神華の国はもうない。彼の国があった場所に戻り国を興そうにも容易でないことはシャオティエンもわかっているはずだ。
二つ目は国家転覆だ。王より優れたαがいれば、この国を内側から崩壊させることができる。崩壊すれば祖国の恨みを晴らすことになるだろうが、滅ぼしたところでシャオティエンが得るものは何もない。
「アルスーン殿」
涼やかな声にどきりとし、眺めるだけになっていた文書から視線を上げた。開いたドアのそばには神華の国の衣装を身に纏ったシャオティエンと、後ろにカートを押す侍女の姿が見える。
「いかがしましたか?」
「何やら難しそうな顔ばかりしているのが気になって、息抜きにとお茶を用意しました」
そう言って微笑む姿はアルスーンが望んたとおりのものだった。彼の国で挨拶したときのシャオティエンを思い起こさせるような笑顔が戻ったことは喜ばしいが、アルスーンの心はなぜかざわつき落ち着かない。
(一体何を企んでいるのだ?)
疑いが拭えないせいでどうしても警戒してしまう。ところがシャオティエンを見た途端に警戒心が薄れていくのもまた事実だった。なぜ警戒しているのかぼんやりとし、目の前にいる美しいΩのために力を尽くさねばという気持ちがわき上がってくる。慌てて視線を逸らしても、今度は香りが気になってますます胸がざわついた。
(そういえば殿下とは違う香りがしているような……)
最近、ほんのりと別の香りが漂うようになった。どことなくΩの香りに似ているものの、それよりもすっきりとした力強さを感じる。甘いというより初夏の若葉を感じさせる香りで、嫌ではないがずっと嗅いでいたいという類いのものでもなかった。
「どうかしましたか?」
涼やかな声にハッと我に返った。「いえ、何でも」と答えながら執務用の椅子から立ち上がる。途端に若葉のような香りが強まったような気がしたアルスーンは、「そういえば殿下が近くにいるときによく匂うな」と思わず眉を寄せた。
「もしや執務の邪魔をしましたか」
「大丈夫です、問題ありません」
「それならよかった」
そう言って微笑むシャオティエンは、まるで相思相愛の伴侶を前にしているような雰囲気だ。そんなシャオティエンの様子に屋敷で働く者たちは皆「ようやく主人が心を通い合う伴侶を迎えられたのだ」と安堵の表情を浮かべている。少し前までは表情がなく口を開かないシャオティエンを遠巻きにしていた侍従や侍女たちも、いまではすっかりシャオティエンの虜になっていた。
(それは悪いことではない。伴侶である殿下は屋敷の主でもあるのだから、仕える者たちには慕われるほうがいい)
そう思うのとは裏腹に、アルスーンの胸はざわつく一方だった。これも軍人としての本能かと考えたもののよくわからない。それにシャオティエンが口にした「最上のα」という言葉の意味もわからないままだ。はたしてこのままでいいのかと考えながらソファに座る。
「あと少しといったところでしょうか」
何かを囁いた声にハッと視線を向けた。テーブルを挟んだ向かい側には、すっかり見慣れた美しい姿がある。カップを傾ける仕草も美しく、まさに極上のΩといった雰囲気だ。そんな姿さえもアルスーンにはよからぬ何かを企んでいるように思えた。
「何かおっしゃいましたか?」
「いいえ。ただ、こうしてあなたのそばにいられる喜びを噛み締めていたところです」
給仕をしていた侍女の頬がサッと赤らんだ。そのままうっとりするような眼差しで二人の主人を見つめる。
これが幸せな日常だろうことはアルスーンにもわかっている。それでも得体の知れない感覚は日々強くなっていた。何か恐ろしいことが起きそうな予兆を感じながらも、それを振り払うように熱いお茶を一気にあおった。
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