第3話

 気がつけば、アルスーンの逞しい両腕は美しきΩ王子を力一杯抱きしめていた。腕を引っ張り無理やり起こした体が折れるのではないかというくらい力強く抱きしめ、濃密な香りを放つ首筋に顔を埋める。


「なんと甘く……いい香りなんだ……」

「んっ」


 囁くだけでシャオティエンが甘い吐息を漏らした。たったそれだけの反応でアルスーンの体がカッと熱くなる。

 このままではΩの発情に呑み込まれてしまう。そうなってはうなじを噛んでしまうかもしれない。「それだけは駄目だ」と腹の底に力を込めたアルスーンは、渾身の気力で腕の力をゆるめた。


「殿下、いくつか張り型をお持ちしました。俺は隣の部屋で待機していますので張り型をお使いください」

「嫌だ」

「殿下、」

「あなたは、わたしのαだ。あなたが、いるのに、なぜ張り型を……?」


 話し方は覚束ないものの涼やかな声はしっかりしている。わずかに体が離れたのさえ嫌がるようにシャオティエンの細い腕がアルスーンの背中に回った。


「あなたは、わたしのα。あぁ、やっとこうして、触れることが、できた」


 耳元で笑うようにシャオティエンが囁いた。甘く蠱惑的な声がアルスーンの神経を少しずつ冒し始める。


「あなたは、わたしの運命。わたしだけの、α」


 背中に回っていた腕が離れ、細い指がアルスーンの頬をひと撫でした。そのまま両方の頬を包み込むように手が添えられる。


「そしてわたしは、あなたのΩ」


 甘く魅惑的な告白にアルスーンの首筋がぞくりと粟立った。同時に冷水にも似たものが背筋を流れ落ちる。戦場ですら感じたことがない恐怖にも似た感覚に全身の肌が粟立った。


「さぁ、わたしをあなたの、ものに」


 頬を包み込んでいたシャオティエンの手が逞しい首筋を撫でる。そのまま肩先まで撫で、最後に細腕を首に絡みつけた。


「わたしを、あなただけのものに」


 鼻先を触れ合わせながら、シャオティエンが美しくも淫らにそう囁いた。あと少しで触れ合う唇がゆっくりと笑みの形に変わる。

 アルスーンは「ぐぅ」と低く唸ると、流れる黒髪を乱すように後頭部を右手で掴んだ。そのままグッと引き寄せ淫らに誘う唇を塞ぐ。

 シャオティエンはそんな乱暴な仕草を嫌がることなく、自ら唇を押しつけるように両手でアルスーンの頭を掻き抱いた。そのまま茶色の髪を指先で掻き乱し、それでも足りないのだと言わんばかりに胸をぴたりとくっつける。

 気がつけば互いに貪るような口づけを交わしていた。何度も角度を変えながら上唇を甘噛みし、下唇を舐め、互いの口内で舌を絡めあう。そうするたびにシャオティエンの香りは濃密さを増していき、それに呼応するかのようにアルスーンからも新緑のような香りが漂い始めた。


(駄目だ……呑み込まれてはいけない……)


 アルスーンは稀に見る強靱な心の持ち主だった。貴族や富豪らの甘い言葉や金銭に惑わされることはなく、どこかの派閥に力を貸し立身出世を望むこともない。発情したΩの色仕掛けに落ちることもなく、アルスーン自身「俺はたいしたαじゃないのだろう」と思うほどだった。しかしそうした人物だからこそ軍人に慕われ民たちの信頼も厚かった。

 ところが清廉潔白で生真面目なアルスーンを一部の貴族は疎ましく思っていた。自分たちのためにも排除すべきだと考え、そうした歪んだ諫言を吹き込まれた王も己の玉座を危うくする人物だと考えるようになった。

 自らの立場を危うくするほどの胆力ではあったが、発情したシャオティエンを前にすればそれさえも揺らぎそうになった。それでもありったけの精神力を振り絞り、なおも口づけを続けようとするシャオティエンの肩を掴んで引きはがす。


「なぜ……?」


 とろけた黒眼で見つめるシャオティエンの表情に、危うくアルスーンの理性が途切れそうになった。それでもグッと奥歯を噛み締め、さらに距離を取る。


「わたしを、あなたのものにしても、よいのですよ……?」

「……いいえ」

「そんなことを言わず、うなじを噛んで」

「駄目です」

「なぜ……?」


 逞しい胸に手を添えるシャオティエンの体からより一層濃い香りが放たれる。それにグゥッと眉を寄せながらも、アルスーンは「駄目です」と頑なに拒絶した。


「どうして……わたしだけのαなのに……」


 なおもすり寄る美しい顔がアルスーンの首筋に口づけた。同時に長い黒髪を自ら掻き分け、傷一つない真っ白なうなじを見せつけるようにさらす。

 発情したΩの香りは、うなじからもっとも濃く放たれる。経験したことがないほど濃密な香りがアルスーンの鼻孔をこれでもかと刺激したが、それでもアルスーンはシャオティエンの望みを叶えようとはしなかった。


(このまま噛んでは、何かが起きる)


 これはαとして、軍人として感じる危機感だった。噛めば何かが起きる。噛んだ自分に何が起きるかわからない。得体の知れない予感めいたものが発情に引きずられるのをかろうじて防ぎ、噛みたいというαの本能を押し留めた。


「噛んで、そしてわたしを、あなただけのものに」

「駄目です」

「なぜ、んぅ……っ」


 首筋で甘く訴えるのを邪魔するように、アルスーンは再びシャオティエンの唇を塞いだ。そのままベッドに押し倒し息ができないほど口内を蹂躙する。そうして半分意識を飛ばすまで口づけたところで、アルスーンは己の腕に噛みついた。

 シャオティエンの香りに促され、α特有の牙が出ているとわかっていながら思い切り歯を立てた。激しい痛みに一瞬顔が歪んだものの、おかげでアルスーンの意識も再びはっきりしてきた。


(理性が残っている間に殿下には気を飛ばしてもらおう)


 危なくなれば、また腕を噛めばいい。痛みを感じたところでこの香りの中では牙が引っ込むこともない。そう算段したアルスーンは覚悟を決めて発情の相手をすることにした。 発情中のシャオティエンは何度も「うなじを噛んで」と口にした。そのたびに放たれる濃く甘い香りに抗いながら、アルスーンはただ体を慰めることにだけ集中した。うなじに触れることなく体しか求めないアルスーンに、シャオティエンは何度も首を振っては「うなじを」と訴える。しかし最後には声を出す体力もなくなったのか、気がつけば目を閉じくたりと体を投げ出していた。

 三日三晩続いた発情では四度腕を噛み、そうしてΩの香りに呑み込まれることなくシャオティエンの体を慰め続けた。

 そうして発情が終わった四日目の午後、シャオティエンは仰向けに寝ているアルスーンに馬乗りになっていた。普通のΩなら発情の疲労から丸一日眠っていてもおかしくないはずが、発情明けにも関わらず細腰はしっかりしている。


「殿下、無理をされないほうがよいのでは」

「うるさい」


 発情が終わってもなお妖艶な顔が怒りの色を滲ませた。


「お相手したことを怒っておいでか」

「その逆です」

「逆とは?」

「とぼけないでください。なぜ噛まなかったのですか?」


 涼やかな声に棘が混じる。夜着の裾から白い太ももが見えていることを気にすることなく、シャオティエンは逃がさないとばかりに腰に跨がり続けた。


「噛めば名実ともに殿下はわたしの伴侶になります」

「わかっています。そもそも、わたしはすでにあなたの伴侶。それなのになぜ噛まなかったのかと問うているのです」


 黒眼がアルスーンをきつく睨みつける。


「それとも、王から下げ渡されたわたしには噛む価値もないと思っているのですか」


 自分を侮蔑するような言葉に、アルスーンは咎めるように見つめ返しながら口を開いた。


「そうではありません。が、安易に噛むという選択はできません」

「わたしを噛むことを安易な選択と言うのですか」

「わずかでも疑いの芽がある限りは噛めないと申し上げているのです」

「……わたしを疑っているのですね」

「あなたはこの国を憎んでおられる。それなのに、なぜ俺に噛まれたがるのか理解できません」

「噛まれたわたしが何かすると思っているのですか? Ωのわたしが、αであり将軍でもあるあなたに何ができると言うのです?」

「何かできるから噛ませたがっておいでなのでしょう?」


 アルスーンの言葉にシャオティエンの赤い唇がスッと閉じた。そうして華奢な手がゆっくりとアルスーンの首にかかる。


「こんな力のない手しか持たぬわたしに何ができると?」

「力でΩがαに勝つことは無理でしょう。しかし、殿下はわたしをどうにかできる何を持っていらっしゃる。それを示すのが“運命”という言葉なのではありませんか?」


 アルスーンが話している間、シャオティエンの指は戯れるように逞しい首を撫でていた。まるで愛撫のように軽やかに触れる感触に、もしやはぐらかすつもりなのかとアルスーンの眉が寄る。


「運命とは互いに唯一であるαとΩを指す言葉です。我が国では神が与えたもう最上の強き絆と言われていました」


 細い人差し指が立派なのど仏をするりと撫でた。


「本来、運命は互いに感じ合うものだと言われています。しかし、あなたはそう感じていないようだった。あの日、わたしはあなたこそが運命だと感じたというのに」


 シャオティエンがいう「あの日」とは、親善のため王の代理として挨拶したときのことを言っているのだろう。何かあっただろうかと思い返したものの、アルスーンには特別気になる記憶はない。


「もしや勘違いかと思ったときもありました。でも、そうではなかった。そもそもわたしが運命を間違えるはずがありません。そして再びあなたに会い確信しました。あなたはわたしの運命、わたしだけのαです」

「だから殿下は俺のΩというわけですか」

「そのとおりです」

「だが、それだけじゃないはずだ。何を隠しておいでですか?」


 のど仏を撫でていた指が顎を伝い、唇の端に触れた。そうして下唇を撫で始めたシャオティエンの黒眼は愛おしむような雰囲気を漂わせている。しかしアルスーンはそれだけではない何かを感じ取っていた。


「わたしが黒真珠と呼ばれていたことは?」


 一瞬、何を問われたのかわからなかった。突然何を言い出すのかと思いながら「存じています」と答える。

 彼の国の貴族は口を揃えてシャオティエンのことを黒真珠だと褒め称えていた。たしかに目の前の姿は黒真珠のように美しい。黒い瞳はもちろんのこと、流れるような黒髪もまさに黒真珠からできているような姿だ。


「そう呼ばれる理由がわたしにはあるのです」


 アルスーンの唇から指を離したシャオティエンは、そう言いながら極上の笑みを浮かべた。

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