第2話
シャオティエンがアルスーンに下賜されてひと月と少しが経った。相変わらず伴侶らしい関係を築けないまま今日も夜を迎える。
「シャオティエン殿下、そろそろ休みましょうか」
もはや恒例となりつつある言葉をかけ就寝を促した。いつもなら返事も頷くこともなく横になるところが、シャオティエンはベッドに腰掛けたまま身動き一つしない。
「殿下?」
どうしたのだろうかともう一度声をかけた。すると、黒髪をさらりと揺らしながら小振りな頭がゆっくりと上を向いた。
これほど間近で、しかも正面からしっかりと顔を見るのは初めてだった。他国の将軍でしかないアルスーンが王子であるシャオティエンの顔をじっと見るのは非礼極まりなく、親善のときもやや視線を落としてしか顔を合わせていない。下賜されてからもその態度は変わることなく、これが初めて間近で見る機会だった。
(なんと美しい人なのだ)
あまりの美しさにアルスーンは言葉を失ってしまった。
(この国では見慣れない髪型だが、それもまた美しいな)
前髪は眉を少し隠すくらいに切り揃えられ、両頬に触れている横髪は顎くらいの長さに整えられている。先日、神華の国で貴族に仕えていたという女性を新たに雇い入れた。身元もしっかりしているからとシャオティエン専属の侍女にしたが、彼女が彼の国の王族らしくと整え直したのだろう。
侍女にはシャオティエンが心休まるように身の回りを整えてほしいと頼んでおいた。おかげで東方の衣装や装飾品を購入する金銭が膨らんではいるものの、それで以前のように穏やかに暮らしてもらえるなら安いものだ。それが彼の国を滅ぼす一端を担うことになった自分の務めだとアルスーンは考えていた。そんなアルスーンの耳に「なぜ」という声が聞こえてくる。
「なぜ、わたしに触れないのですか?」
涼やかな声はシャオティエンのものだった。「声も美しいのだな」と思いながら冷静に理由を告げる。
「殿下がそれを望んでおられるとは思えませんが」
「Ωの感情などαにとっては取るに足らぬこと。この国ではそうではないのですか?」
アルスーンはなるほどと思った。王はシャオティエンの気持ちなどお構いなしに手折ったのだろう。王族として生まれ高貴なΩとして育てられたシャオティエンにとっては屈辱だったに違いない。
「俺は一介の将軍でしかありません。殿下が望まれぬことをするつもりはありません」
生真面目に答える様子をシャオティエンの美しい黒眼がじっと見つめる。
「一介の将軍などと謙遜を。この国では王よりも人心を集めていると聞いています」
「さて、いずれの噂でしょうか」
「我が国でも、この国に連れて来られてからも耳にしました。賞賛する声は王へのものをも上回るとか」
淡々と告げるシャオティエンの言葉に アルスーンは少しずつ警戒心を抱き始めていた。なぜそんなことを口にするのかと緑眼をスッと細める。
アルスーン自身も軍人や民たちに慕われている自覚はあった。中流貴族から将軍になるという立身出世は民からすれば夢のような話で、軍人たちにとっても希望に見えるからだろう。
しかし、滅んだ国の王子がそのことを口にする理由はない。侮辱したいのなら「おまえもαなら抱きたいのではないか」と言えば済む話だ。本当に行為を望んでいるなら挑発なり媚びるなりすればいいだけで、触れたら触れたで「おまえもどうせ王と同じなのだろう」と侮蔑することもできる。
(それなのに、なぜ人心などと口にする)
囚われの亡国王子が気にしたところで何の益もない。帰る国があるなら反乱を画策する一端とも考えられるが、すでに祖国は滅んでいる。そもそも将軍とはいえアルスーンは王に疎まれている存在だということは広間での一件でわかったはず。そんな男を誑かしたところで得られるものは何もない。
(憎いこの国をどうにかしたいのであれば陛下を誑かせばよかったのだ)
しかし王はシャオティエンを手放した。しかもアルスーンを嘲笑うための道具にし、大勢の前で子を孕むことができないΩだと蔑んだ。そのことから、この一年で二人の間に深い溝ができたのだろうことは容易に想像できる。
「あなたはわたしの運命です。初めて会ったときにそう感じ、このひと月で確信しました」
「運命……?」
聞いたことのない表現に、アルスーンはますます緑眼を細くした。おそらくαやΩの関係性について話しているのだろうが、そういった言葉は耳にしたことがない。まさか年若い乙女のように「運命の恋人だ」と言いたいわけではないだろうし、そうなるとますます理解できなかった。
警戒しながらも美しい顔をじっと見つめる。そんなアルスーンの顔をシャオティエンもじっと見つめ返した。
「間違いなくあなたは運命のαです」
涼やかな声が確信を持っているかのように再びそう告げる。
「あの穢らわしい男に身を委ねるのは反吐が出そうでしたが、耐え抜いてよかった。あなたこそ運命のαだと感じたのも間違いではなかった。そのことを、このひと月でさらに確信しました」
「何をおっしゃっているのか俺にはわかりません」
アルスーンの言葉に美しい王子がほんのわずか笑みを浮かべる。
「あなたもすぐにわかるでしょう。わたしは間もなく発情を迎えます。それこそがあなたが運命のαだという証。ようやく、ようやくそのときを迎えることができるのです。これまでどんなαを前にしても呼吸すら乱れなかったわたしの体が、ようやく運命を見つけたと歓喜している……発情を迎えたとき、あなたもわたしが運命だとわかるはずです」
淡い紅色の唇がゆっくりと口角を上げた。あまりにも美しいその表情に、アルスーンは息を呑むことしかできなかった。それを見透かすように「その日が楽しみです」と口にしたシャオティエンが、アルスーンに背を向けいつもどおり左端で横になる。
(いまのはどういう話なんだ?)
呼吸が寝息に変わったのを確認したアルスーンは、シャオティエンに言われたことを反芻した。もちろん発情は知っているものの「運命」という言葉には聞き覚えがない。
(これまでそんな言葉を口にしたΩはいなかったが……)
三十九歳のアルスーンは、これまでに発情したΩの相手をしたことが何度かあった。相手は貴族令嬢や令息、それに商家の息子や高級娼館の蝶もいる。しかし、どんな身分のΩも「運命のαだ」と口にした者はいない。
(もしかして神華の国にはそういうαとΩの関係があるのだろうか)
残念ながら神華の国に詳しくないため考えたところで何もわからなかった。わからないことに延々と考えを巡らせたところで意味がない。そう判断したアルスーンは「警戒だけはしておくか」と改めて思いながら、いつもどおりベッドの右端に横たわり目を閉じた。
それから三日の間、シャオティエンに変わったところはなかった。侍女にもよく様子を見るように伝えてはいるが、問題がありそうな報告は届いていない。
(しかし何かが引っかかる)
そう感じる自分の勘をアルスーンは大事にしていた。αとしてもそうだが、軍人としていくつもの困難を乗り越えてきた経験から「何かあるかもしれない」という感覚は侮れないと経験もしてきている。
(やはり調べておくか)
仕事の傍ら、シャオティエンが口にした「運命」とやらを調べることにした。ところが国一番の蔵書を誇る王宮の書庫にも神華の国の本はほとんどなく、彼の国のαやΩについて書かれているものも見つからない。親交はあったものの東方への関心が低かったため、わざわざ書物を保管しようという貴族や文官たちはいなかったのだろう。
それからさらに五日経った頃、侍女からシャオティエンの食欲がなくなってきたとの報告が届いた。少し熱っぽいようだからΩの発情ではないかという内容も添えられている。
(殿下の言うとおりになっているようだが……さて、どうしたものかな)
アルスーンにはシャオティエンと発情をともにする考えはない。伴侶になったとはいえ相手は元王子だ。将軍職をいただいてはいるものの中流貴族でしかない自分が肌を合わせるのはふさわしくない。それに孕めないΩと大勢の前で蔑まされたのだから、そういう行為は不快に感じるだろう。
(申し訳ないが張り型で我慢してもらうことにするか)
アルスーンはさっそくΩ用の張り型を数種類用意させた。さすがに侍女に持っていかせるのはどうかと思い、自ら寝室に持っていくことにした。それに伴侶がいるのに張り型を贈られるなど、周囲に知られればシャオティエンに恥をかかせることになる。
(今夜からは別の部屋で寝ることにしなくては)
さすがに発情間近のΩと同じベッドで寝る勇気はない。これまでΩの発情に呑み込まれたことはなかったが、王族のΩがどこまで強い発情を迎えるのかアルスーンは知らなかった。となれば自衛としてもそばにいないほうがいい。
今夜この張り型を運んだあとは寝室をシャオティエンに譲り、自分は隣の部屋で寝ることにしよう。それならシャオティエンに恥をかかせることもなく、伴侶としての建前も保てる。食事や水は頃合いを見計らって自ら運ぶことにし、その際は発情の香りをできるだけ吸わないように布で口と鼻を覆えばいい。
そんなことを考えながら寝室のドアを開けたところで足が止まった。
(これは……)
慌てて袖口で鼻を覆ったものの時すでに遅く、濃密な香りが鼻を突き抜けていく。
(なんという濃さだ。それに目眩がするほど甘い)
これほど甘く濃い香りは嗅いだことがなかった。これまで相手にしてきたΩは本当は発情していなかったのではと思うほどすべてが違っている。
(早く道具を置いて出て行かねば)
アルスーンは鼻を覆ったままゆっくりとベッドに近づいた。そうして傍らに張り型を入れた箱を置いたところで、ついベッドに視線を向けてしまった。すぐさま後悔したものの、一度向いた視線は吸い寄せられるばかりで外すことができない。
そこにはあまりにも美しいΩが横たわっていた。白い夜着の裾は乱れ、右の太ももがあらわになっている。黒く長い髪は真っ白なシーツの上に大きく広がり、濡れた黒眼は覚束ない様子で天井を見ていた。
「殿下、」
気がつけば声をかけていた。このままでは危険だと本能が訴えているのに、どうしても視線を外せずベッドから離れることもできない。
「殿下」
これほど
(駄目だ、この方に触れては
それは戦場を前にしたときに近い感覚だった。しかし武者震いのようなものがわき上がることはなく、ただ離れなければという危機感だけが強くなっていく。早く離れろともう一人の自分が叫んでいるのにアルスーンの足は一歩たりとも動かなかった。
思わずギリッと奥歯を噛み締めたところで、夜空のように光る黒眼がちろりと動きアルスーンを見た。
「やっと、わたしのαが来た」
涼やかで甘い声が聞こえた瞬間、アルスーンの右手はシャオティエンに伸びていた。
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