第22話
玲子から連絡はなかった。先日、立ち去るときに振り返って見た、テーブルの上の瓦礫のような陶器のカップが、俺と玲子との短い関係の収束を物語っているようにも思えた。
お互いのことなど何も知らないのに急速度で俺たちは一体化し、そして激しく求め合った。
大切な人を失ったことによる深い悔恨と、失くした人のもとで跪き、すべての罪を懺悔したいという共通の念だけがふたりのつながりだった。
そのつながりの要素は決して脆弱なものではないと俺は思ったし、玲子の決意は俺よりもずっと強固だった。
明香はふたりのつながり引き裂くために、俺を幻覚に導いたに違いないと、自然と思えるようになった。
「まだ来てはだめ、いつまでも待っているから、頼られている人を大切にしなさい」
明香は俺を諭すように言っていた。
しかし俺はもう、あの夜、幻影を見ていたのか、或いは玲子の虚言であったのかなど、今となってはもうどちらでもよくなっていた。
玲子を道ずれにしなくても明香と会えたではないか。
そして俺をいつまでも待っている、懺悔の気持ちは分かったと彼女は言ってくれた。
ところで玲子はこれからどうするのだ?
食べ物の好き嫌いが多いリヨウ君が待っているのじゃないのか?
俺はもう海には飛び込まない。
海の底がどれだけ綺麗で神秘的か知らないが、もう真っ平ごめんだ。
玲子に俺の意思をはっきりと伝えなければいけないと思うが、チャイの陶器のカップのあの夜以降、玲子から電話がないことが、彼女の決意も揺らいでいるのではないだろうかと俺は思い始めた。
一度決意し気持ちが高揚しても、タイミングを失ってしまうと仕切りなおしは難しい。
いずれにしても俺はもうこれまでのように玲子と会って、一体化することなどできるはずもない。
玉ちゃんとの関係が続いてゆくだろうし、天空の明香も望んでいることなのだから、玲子とつながることは不可能だ。
不思議なことに、あの伊勢湾ジャンピングの日以来、彼女への肉体的な欲望は沸き起こっては来なかった。
だが、やはりけじめとしてもう一度会っておくべきだろう。
俺は十一月も終わろうとしている日の夜九時を過ぎてから、彼女の自宅へ電話をかけてみた。だが電話はつながらなかった。
「残念だけど使われていないわよ」と、テープの女性が冷たい声で繰り返し述べていた。
携帯電話へもかけてみたが同様だった。
翌日、玲子のマンションを訪ねた。
だがインターフォンを何度鳴らしても応答がなく、よく見ると電気メーターに細い針金で札が巻きつけられていた。
彼女は引っ越してしまったのだ。
俺はしばらく玲子の部屋の前に立ち尽くした。
この部屋に「玲子」という女性が本当に住んでいたのだろうかとさえ思うくらい、忽然と姿を消してしまった感があった。
俺はマンションの管理会社に問い合わせる気力さえ生まれなかった。
あれだけ身体をつなぎ合い求め合い、事故死した息子の遺影の前で堰を切ったように号泣した玲子が、忽然といなくなってしまった。
俺はマンションの入り口から出て、中国自動車道と中央環状線が並行する横の歩道を新御堂筋方向へ戻り、さらに新千里南町の住宅街の坂道を下りながら、七月に梅田地下街で遭遇してから今日までのことを思い起こした。
街路樹に覆われた道を、私立高校のグラウンドと公立中学校の校舎が挟んでいた。木々の隙間から陽光が差して身体を少しだけ暖めてくれるが、冬が目の前に迫ったこの時期は昼間でも肌寒い。
玲子はいったいどこに消えたのか、そしてリヨウ君の元へ行ってやれるのか、俺は玲子のことを様々考えながら緩やかな坂道を下り、千里南町公園に足を踏み入れ、花壇の近くのベンチに腰をおろした。
だが、一体化した玲子との身体の感触の名残よりも、最初に梅田地下街で見たモスグリーンのスーツに身を包んだ彼女の姿のほうが、俺には鮮烈に脳裏に焼きついていて、シャネルのバッグを振り回しながらさ迷うように歩いていた玲子を懐かしく思うのだった。
そのとき携帯電話が鳴った。
ディスプレイの電話番号は全く覚えのないものだったが、俺は何かを感じて電話に出た。
「さっき、私の部屋に来てくれたのでしょ?」
「は?」
「なぜインターフォンを鳴らしてくれなかったの?私、中にいたのに」
「・・・・・」
「ところで、海の底は、どう?」
まるで本当に海の底から届いているかのように、絞り出すようなくぐもった声で玲子は言った。
俺は恐ろしさのあまり、顔から血の気が失せていくのが分かった。
「いつにするの?海の底は・・・」
「あああっ」
俺は無意識に声を上げながら、突然震え始めた指先で携帯電話のボタンをプッシュし、玲子の声を遮断した。
震えは指先から全身に広がり、しばらく治まらなかった。
- 了 -
海の底へ 藤井弘司 @pero1107
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