第21話


 「今日は絶対に約束を果たしてね」


 玲子と会った数日後、俺は玉ちゃんと新阪急ホテルの地下のレストランにいた。

 退院祝いと海からの脱出祝いをしてやると彼女が提案してきたから、それに素直に甘えたのだ。


「玉ちゃん、そんな約束はずっと憶えていなくてもいいんだよ。君はまだ若いから、これから素敵な男性がきっと次々と現れる。俺なんか冴えないつまらない奴だったって、きっとそのうち思うって」


 俺は正直な気持ちで言った。


「粂井さん、いい加減に約束は守って。手形だって約束を守らなければトラブルになるんでしょ」


 玉ちゃんは強い口調で言うのだった。


 約束手形を例に持ち出すのはおかしいと思ったが、俺は彼女の強い口調に、「分かったよ」と返事をしてしまった。


 食事を終えてから、俺は玉ちゃんに腕を取られて福島のマンションへ帰った。


 玉ちゃんは処女だった。

 俺が彼女の中にゆっくり入ると苦しそうな表情でしがみついてきた。


「玉ちゃん、もしかして初めて?」


「当たり前だよ、前にも言ったじゃない。何も知らないんだからって」


「それは駄目だ。俺が君の最初の男なんて、そんなことあり得るか?」


「バカなこと言わないで。それにもう粂井さんのおちんちん、入ってるよ」


 俺は玉ちゃんとひとつになっていた。

 俺の胸の下で彼女の豊かな胸がつぶれていた。


「本当にこれでよかったんだな?」


「どういうこと?」


「だから俺とこうなることがだよ」


「もう聞かないで。玉子はおとななんだから」


 俺はこれでよかったのかどうか、よく分からなかった。

 二十歳近くも年下の玉ちゃんとひとつになったことが不思議だった。


 明香の元へ行こうと車をジャンプさせたあと森の中に俺は佇んでいた。

 明香が現れて、まだここには来るなと俺を叱った。


「アンタはせなアカンことがまだまだいっぱい残ってるやないの。アンタを頼りにしてる人もいるみたいやから戻ったげな」


 明香は困ったような表情でまだ来るのは早いと俺を嗜め、いつまでも待っているから安心しろと言った。

 そういえば明香は「もうこんなことはやめてな。一回しか私も助けてあげられへんのやから、絶対にやめてな」と言っていた。


 海からの救出を助けてくれたのか、或いはもしかして、この世との決別を決行に踏み切る前に、明香は俺を幻覚に導いて、すべてをコーディネートしたのかも知れない。


 玲子と約束の日の夜に会う前に、未然にすべてを手配したのではないか?

 それが彼女の「一回しか助けてあげられへん」という言葉の意味だったのではないか?


「明香、君は本当にこれでよかったんだな。俺は玉ちゃんとこれから先、三十年も四十年も生きるかもしれないぞ。それでも待っていてくれるんだな?」


 俺は腕の中の玉ちゃんを抱き締めながら、こころの中で明香に問いかけた。


「どうしたの、粂井さん」


「うん?ああ、何でもないよ」


「ときどき辛そうな顔をするのね。何か嫌なことがあったら、これからは玉子に言ってね」


 俺は玉ちゃんの身体をさらに強く抱きしめ、唇を合わせながらゆっくりと動いた。

 彼女は唇を離して俺の腕を噛んだ。今夜はひとりじゃなく玉ちゃんとふたりなのだ。

 これからは彼女を守り続けよう。それがきっと明香が俺に望んでいることなのだろうと思った。


「玉ちゃん、俺、すごく愛しているよ」


 玉ちゃんはしがみついたまま頷いた。


放つ瞬間、彼女は一瞬小さく喘いだあとぐったりとして動かなくなった。

 荒い息が寝息のような呼吸になるまでにずいぶん時間がかかった。


「すごかった。でもコンドームをつけていないから、赤ちゃんできたらどうしよう」


 ようやく目を開けて玉ちゃんは呟くように言った。


「産んだらいいに決まってる」


 玉ちゃんは俺の身体にもう一度しがみついてきた。目尻から涙の粒が流れ落ちた。


「玉ちゃん、この前俺に相談してきた件だけど、相手の会社に一度交渉してみるよ」


「うん、嬉しい。でも無理しなくてもいいよ」


「ともかくこんな俺だけど、これからよろしく頼むよ」


「分かった、頼まれてあげる」


 玉ちゃんは勝ち誇ったように言って、そして俺の胸に顔を埋めた。


 玉ちゃんと結ばれてから、あらためて伊勢湾へジャンプしたあの夜のことを思い起こしてみた。


 漁港へ辿り着くまでの経緯や、天空の森の中で再会した明香のことや、海に落ちる直前の目の前の漆黒などを・・・。


 だが不思議なことに、俺の記憶のディスクの中にあるファイルが一部分だけ欠損してしまったかのように、それらのことを鮮明には思い出せないのだった。

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