第20話

 俺は伊勢湾に向かって車を走らせたことや、発電所の巨大なボイラー、夜空を焼いていたいくつもの煙突の恐ろしい光景、工場に巻きついた蛇のような太い配管、そしてそれほど大きくない漁港に着いて、睡眠薬を飲み、一気に車をジャンプさせたことなどを細かく玲子に伝えた。


 だが彼女は「行ったこともない場所の情景を言われたって分からない」と答えるだけだった。


 俺と玲子との会話は堂々巡りをしているようで、このまま何時間話をしても、彼女は俺のことを幻覚に襲われた末の単独行為だと言い張って譲らず、俺は玲子とともに海に飛び込む前の深く長いキスや、軽く握り返してきた彼女の手の感触が今もなおはっきりと残っていて、彼女の主張を素直に肯定できるはずもなかった。


「あなた、私に付き合うプレッシャーでおかしくなってしまったのよ」


「違う、俺は確かに車を海にジャンプさせたんだ。新聞にも小さく載った。ほら、これがその日の夕刊に小さく載った記事なんだ」


 記事の部分だけを小さく折りたたんだ新聞を、玲子は俺の手から奪い取るようにしてじっと見た。彼女の目が次第に険しくなり、そして俺の顔を正面から見た。


「あなた、夢を見ながらこんなことしてしまったんだわ。なんてことなの、可哀相に。そんなに奥さんのところに行きたかったのね」


「夢なんか見ていない、本当のことを言ってくれないか。君はあの夜、どうやって脱出したんだ?」


 玲子は首を横に何度か振って、そして下を向いて涙ぐんだ。


「私は本当にあなたの車には乗っていないのよ。何度も電話したの、一度や二度じゃなく、何度も何度も三十回も四十回もかけたのよ。でもあなたの電話は通じなかったわ。 ね、信じて、あなたはあの夜誰も乗せずに海に向かって、そして飛び込んでしまったんだわ。でもいったいどういうことなのかしら?あなた、何かに追い詰められて、精神的におかしくなっていたのよ。きっとまぼろしを見て・・・」


「やめてくれ!」


 俺は伊勢湾に車をジャンピングさせた。

 だが車が沈む前に漁港の人たちによって助けられた。

 助手席にいた玲子は消えた。


 だが、助けてくれた人たちの証言や警察の調べでも、助手席には誰もいなかった。

 そして玲子は車には乗っていない。

 俺の携帯に何度かけても通じなかったと言い張っている。

 玲子の言葉に嘘はないとしたら、俺はいったい何にとりつかれて、何を見て、何を追って海に向かったのだろう。


 もう考えないことにした。

 明香と会ったあの森、この世に絶対に存在しないあの劇的に明るく永遠の海のような池、あの場所こそが本当は現実の世界であるかのような感覚に陥った。


 俺は複雑な気持ちではあったが、明香に会えて本当によかったと思った。

 明香と会ったあの時間は幻覚ではないと確信をもてた。


「帰るよ」


 目の前の玲子は変わらず魅力的ではあったが、今夜は抱きたい欲望やキスさえしようとも思わなかった。

 あれだけ異常ともいえる性欲で俺と玲子は求め合い、お互いの共通の念がある種の絆に思えて、この世との終わりにしようとふたりで決めたのに、今俺が玲子に抱く気持ちの中に、共通の念は存在しなかった。


「仕切り直さないの?」


「分からない」


 俺は立ち上がり、靴を履いてから振り返った。

 だがそこには玲子の姿はなく、リビングの平テーブルの上に置き去りにされたようなふたつのカップが、まるでレンガ造りの建造物が崩れ落ちたあとの瓦礫のように映った。

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