第19話
退院して自分のマンションに帰った。
わずか数日部屋を空けていただけだったが、もう何ヶ月も帰っていなかったような感覚になり、まるで浦島太郎みたいだなと思った。
何人かのスポンサーに電話をかけてお詫びをした。
俺のことは新聞記事にも小さく載っていたので、気づいたスポンサーは「大丈夫なの?」と心配したが「あれは事故だったのです」と説明した。
そうでないと事態は収まらない。数件の親しい顧客にも一応連絡を取った。
「どないしやはりましたんや?びっくりしましたがな」
気遣いの言葉をかけてくれる客もいたが、記事を知らない客のほうが多かった。
長い付き合いの鉄工所の大将などは、「釣りが趣味とは知りませんでしたな。今度一緒に船を出して、大物を釣りに行きまひょ」と、大いなる勘違いをしていたが無理もない。
彼らの本心は分からないが、翌日から業務に戻ることを伝えて電話を切った。
落ち着いてから、俺はようやく玲子の自宅へ電話をかけてみた。
玲子は数回のコールのあと、何事もなかったかのように電話に出た。
「久しぶりじゃない、どうしていたの?」
「は?」
俺は言葉も出なかった。彼女は何を言っているのだ。
茫然自失の一歩手前の状態とは、このときの俺を指していた。
「何度電話しても電源が入っていないか圏外ってアナウンスが流れるし、十一月の最初の日曜日って約束していたのに、やっぱり怖気づいたのでしょ。で、どうするの、仕切り直し?」
玲子は言葉のあと「フッ」とため息を吐いた。
それくらい彼女は俺に呆れている様子が窺えた。
「ちょっと待ってくれ。この前の日曜日の夜、確か九時半か十時前だったと思うけど、俺、確かにあんたのマンションの前で乗せただろ?」
「誰を?」
「誰をって、あんたに決まってるじゃないか。何言ってるんだよ」
「それ、ジョークよね?それともバツが悪いから演技しているの?ともかくどうするの、やめるのか仕切りなおすのか?抜けたいのなら抜けてもいいのよ、気遣い不要だから」
「ともかく会いたい」
「いいわよ、待ってるから」
俺はタクシーを飛ばして玲子のマンションへ向かった。
伊勢湾にジャンピングさせた車は使い物にならず、新車を購入しなければならないが、先ずはこのミステリアスな事態を解明してからだ。
玲子は普段と変わらず、昼間なのにカーテンを閉めきって、エスニックなフロアランプだけに灯されたリビングの真ん中でファッション雑誌を読んでいた。
「無理に私に付き合わなくてもいいのよ」
俺を部屋に招き入れると、玲子は最初に言った。
その言葉に答えず黙って座ると、しばらくして彼女はチャイというインドの熱い飲み物を、複雑な形をした茶の陶器のカップに入れてテーブルに出した。
「あの夜、確かに新御堂筋を飛ばしたんだ。途中であんたに電話を入れてマンションに着いたら、入り口まで出てきてくれていた。白く長いワンピースを着て、黒真珠の大きなネックレスをしていた」
「ふーん、幻想的な女性ね」
「からかわないでちゃんと話してくれ。警察や助けてくれた漁港の人たちもあんたの姿など最初からなかったと言っていたが、車が海に落ちてからどうやって脱出したんだ?
しかも誰にも気づかれずにその場から消えて、ここに戻って来られた手段と経緯を説明してくれ。俺は警察や助けてくれた人たちから、さんざん馬鹿にされたんだからな」
「だから、私は行ってないって。あなた幻覚を見ていたのよ。でも幻覚だけで大阪から、その・・・どこの海だった?」
「伊勢湾じゃないか」
「私は行っていないし知らないんだから、そんな言い方しないで。ともかく幻覚に襲われただけでそんな遠くまで車を走らせて、それから海に車を飛び込ませるなんて、そんなことあり得るかしら?」
「知らないよ。あり得るも何も、実際俺は自殺未遂をやってしまったんだ。助手席にあんたを乗せてな。
さあ、もうこれくらいでいいだろ。事実を話してくれ。飛び込んだ瞬間から俺が助けられるまでの間、どうやって車から出たんだ?」
俺はあの夜のことを、おさらいでもするかのように玲子に順を追って話をした。
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