看護師伊織の心霊日記 2
虹
第1話
「あ〜、やっと終わった。」
伊織は作成した報告書を感染対策委員会のフォルダへ保存すると大きく伸びをした。今日は日勤業務が終わってから委員会へ出席し、その後話し合いの内容をまとめるため残業していた。病院では運営上、様々な委員会が発足されている。各部署、各病棟などから担当者が選ばれ役一年間活動に参加する。一人で2つ掛け持ちする事も珍しくない。ナースステーション内の壁掛け時計を見ると19時を過ぎていた。
「もうこんな時間。そろそろ帰ろっかな。」
明日は休みだからゆっくり寝ていられる。何をして過ごそうかとニヤニヤしながら手を洗っていた。
「今から帰るとこ?」
先輩看護師の翠が声をかけてきた。ちょうどナースステーションに入ってきた所のようだ。脇にファイルを抱えている。
「翠さんも委員会ですか?」
「そ。業務改善委員。耳鼻科の佐藤先生と内科病棟の看護師が言い合いになっちゃって。こんな時間になっちゃったのよ。」
「うわ〜。それは大変でしたね。」
院内で耳鼻科の佐藤先生は有名だった。40代半ばの男性医師で、気に入らないとすぐに大声をあげたり物に当たったりする。スタッフにはもちろん、患者にも酷い対応をするので問題になっていた。
その時、ナースステーション内の固定電話が鳴った。近くにいた翠が電話に出る。
「はい。外科病棟中村です。はい、はい。わかりました。病棟に残っているスタッフに声をかけます。」
電話を切ると、翠は緊迫した様子で告げた。
「近くの高速で多重事故があったみたい。負傷者が搬送されてくるから救急外来へ応援に来てほしいって。」
伊織は緊張した面持ちで頷いた。
救急外来へつくと、すでに数人の患者が運び込まれていた。各部署から応援が来ているが足りないようだ。この時間では日勤のスタッフはとうに帰宅してしまっている。夜勤のスタッフは業務があるので来れない。となると応援に来れるスタッフは限られていた。
「この患者、至急CTへ連れて行って!」
「こっち!縫合セット持ってきて。」
「オペ室に連絡!早く!」
カーテンで軽く仕切られてはいるが、緊迫した雰囲気が伝わってくる。
「誰か末梢ルート取って!」
すぐ隣のブースから黒田の声がした。カーテンの隙間から覗くと、黒田が聴診器で患者の呼吸音を確認している所だった。他のスタッフはいないようだ。よく知った黒田がいるなら心強い。伊織と翠は黒田を手伝うことにした。
「ありがとう!スタッフが足りなくて困ってたんだ。助かる〜。」
黒田は泣きそうな顔で笑った。伊織は点滴ルートの確保、翠は黒田の介助で血液ガスをとることとなった。右腕の上腕に駆血帯を巻き、前腕を観察する。血圧が低いのだろうか、あまり血管は浮いてこなかった。
「大丈夫。焦らなくていいぞ。」
黒田が鼠径部から採血をしながら声を掛けた。すると体の強張りがわずかに緩んだ気がした。知らないうちに力が入っていたのだろう。細いが張りのある血管を見つけてルートを確保した。
「腹部CTとった方がいいな。空いてるかな。」
黒田は携帯を取り出すと放射線課へ連絡を始めた。電話が途切れてしまうのだろうか。大きな声で相手と話していたが、ブースから出て行ってしまった。黒田が開けたカーテンの隙間に、黒い影がよぎった。黒い服を着たの男性のようだ。患者の家族ならここではなく待機室がある。間違えてしまったのだろう。伊織は影を追いかけようとカーテンに手を掛けた。
「だめよ。伊織ちゃん。」
その手を翠が掴んだ。
「あれは良くない物。」
「えっ?」
翠は伊織をブースへ引き戻すと、自分の唇に人差し指を当てた。掴まれた手がじんわりと汗ばんでいる。伊織は訳もわからず固まる。すると、隣のブースから切迫した声がした。
「先生!血圧が下がってきてます!」
「すぐに循環器の先生とオペ室に連絡して!」
「急いで!」
バタバタとスタッフが行き来した後、患者を乗せたストレッチャーが隣のブースから出てきた。通り過ぎる一瞬だったが、それはいた。ストレッチャーに寝かされた患者を覗きこむように黒い影が重なっていた。覗き込みながらニイッと笑っている。人ではない、伊織は瞬時に認識した。どっと全身から冷や汗が出る。ストレッチャーが出て行き、入れ違いで携帯を片手に黒田が戻ってきた。
「CTすぐに撮れそうだって。移動しよう。」
黒田は青ざめ固まる二人を見て、
「え、何、どうしたの?」
激しく動揺した。
負傷者の対応もひと段落し、3人は病院を後にした。時刻は21時過ぎ。伊織は救急外来で見た黒い影が頭を離れず、まっすぐ帰る気になれなかった。それは翠も同様だった。かといってお酒を飲む気にもなれず、連れ立って遅めの夕食を摂ることにした。
「そんな事があったの!?俺気づかなかったよ。」
黒田はハンバーグを口に入れようとして固まった。
「すごく怖かった。この間の当直室の幽霊と全然違う。」
伊織は思い出し身震いした。
「あれは何ですか?」
翠は紅茶を一口飲むとカップを机に置き、
「正直、私もよくわからないの。以前見たのはずっと前で、当時配属されてた病棟の師長に教えてもらったの。」
翠が看護師になって2年目の夏の頃だった。その日は夜勤で、出勤してから一通り情報収集を終えると病棟の様子を見て回った。日勤と夜勤の入れ替わりの時間帯で多くのスタッフが忙しなく動いている。
ナースステーションまで戻ってくると、すぐ隣にある4人部屋の前で立ち止まった。その部屋は容体の安定しない患者を優先的に看る部屋で、今は年配の男性が一人で使っていた。患者のいる窓側のベッドに目をやると、患者の頭側に誰かいるのが目に入った。よく見ると小柄な和装の老女がこちらに背を向けて立っている。患者をじっと見ており、微動だにしない。家族の面会にしては雰囲気がどこか異様だった。ふと老女の背中に黒い陽炎が揺らめいた。
声をかけようと一歩踏み出すと、後ろから腕を掴まれた。
「だめよ。」
振り返ると師長が立っていた。そのままナースステーションまで腕を引いて連れて行かれる。
「翠さん、あれが見えるのね。」
ナースステーションの椅子に座ると師長は小声でいった。
「え?どういう意味でしょうか。」
翠は師長の言葉の意味がわからず動揺する。
「あれは人ではないのよ。それにとても良くないものなの。見てはだめ、声を掛けてもだめ。興味を引いてしまうから。あれを見つけたら去るのを待つのよ。」
師長は複雑な表情で翠を見上げた。
「その夜、その患者は亡くなったわ。元々状態は良くなかったけど、急に亡くなるようではなかった。急変の対応をしている時、それは患者の顔をニヤニヤしながら眺めていたわ。」
ふいに黒い影の顔を思い出し、伊織は二の腕をさすった。
「そういえば、隣のブースの患者ってどうなったんです?」
「亡くなったみたいだ。帰りに医局に顔を出した時に循環器の先生たちが話してた。」
黒田は腕組みをし、眉を寄せた。各々で考えを巡らせ押し黙る。深夜のレストランのざわめきだけが響いた。しばらくして翠が口を開いた。
「あれは人の死や不幸を喜んで、そして増長させるんじゃないかしら。でも私たちには何もできる事はないわ。師長のいってたように過ぎ去るのをじっと待つしかないようね。」
救急外来での一件から2週間ほど過ぎた日の朝、伊織は夜勤を終え帰宅するところだった。一階の外来ブースの近くを通りかかると、何やら様子がおかしい。言い争っているような声がするのだ。すでに外来診療開始の時間は過ぎている。総合待合室には患者が数人、診察を待っていた。突然、診察室のドアが開くと、中から60代位の男性が出てきた。酷く怒っている様だ。
「なんて失礼な先生だ!もう二度と来ない!」
大きな声で診察室の中にいた医師へ言い捨て、足早に去っていった。開いたままの扉から、診察室の中が見える。男性医師が椅子に座ってこちらに体を向けていた。焦る様子も無く、ただ悠然と足を組んで座っている。伊織はその医師の顔の顔を見て固まった。笑っているのだ。目は焦点が定まっておらず宙を見つめており、とても異様な雰囲気だ。ふと医師の背後に黒い陽炎がら揺らめいた。影は形を成すと、黒い服を着た男性の姿になった。思わず伊織は声を上げそうになり、なんとか堪えた。それは救急外来で見た影の男だった。
外来看護師が診察室の扉を乱暴に閉めた。
「部長と事務長呼んできて!早く!」
慌ただしく走る音がする。伊織は逃げるようにその場を去った。
後日、外来で騒ぎを起こしたのは耳鼻科の佐藤先生だと知った。以前からスタッフへのパワハラで苦情が上がっていた所に今回の騒ぎだ。病院側は佐藤先生の解雇を決めたらしい。
翠に外来での一件を話すと、
「まだ院内にいたのね。次のターゲットを探していたのよ。そして佐藤先生の負の感情に吸い寄せられたんじゃないかしら。」
といった。
「あれが院内をウロウロ。こ、怖すぎる」
できればもう遭遇したくないと願う伊織だった。
日勤が終わり、その日一緒の勤務だった翠と帰りが一緒になった。駅までの道を他愛のない会話で盛り上がる。
「そういえば、私、幽霊とか見える方じゃなかったのに、当直室の件以来見えるんですけど・・・。」
あれから病院以外でも時折見かけるのだ。電信柱の影とかに立っていられると驚いて腰を抜かしそうになる。
「あら、おめでとう。私たちの仲間入りね。」
そういって翠はふふっと笑った。そしてふと、以前師長の見せた顔を思い出した。心配と嬉しさの混じった複雑な表情。若いあの時はわからなかったけれど、
「仲間ができて嬉しかったんだわ・・・。」
「え?何かいいました?」
「ううん、何でもない。」
翠は隣の後輩に柔らかく微笑んだ。
看護師伊織の心霊日記 2 虹 @koh44
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